下世屋で、ふるさと会議世屋企画の、細川ガラシャさんに関する紙芝居と講演の会が催されました。、、、、、
いきなりですが、おたまさん、「 繊細な才能と天ぴんの才による知識において超人的」であったと伝えられているそうですね。 イエズス会宣教師フロイスさんも 「彼女は多くの質問を修道士に持ち出し、さらに霊魂の不滅性、その他の問題について禅宗の幾多の権威をふりかざして反論を試みたが、修道士は彼女の頭脳の敏活さに驚いて、後ほど、自分は過去十八年の間、あらゆる宗派についてこれほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった、と漏らしたくらいであった」と高い評価を与えています。
お玉さんの賢さ、聡明さはマリア・キュリーさんレベルだった(^.^),、そんなことでふと思いました。 明智たまさんは、1563年うまれ。その二十年前に 地動説を残してニコラウス・コペルニクスさんが没っしてらっしゃるのです。その当時日本人は月がなぜ満ち欠けするかについて「月には三十人の羽衣を着た天女がおり、十五人は白衣、十五人は黒衣を着て、毎日入れ替わり制で月に立っているのだ」、と信じていたといいます。 お玉さんもおそらくその域にあったのでしょう。そんなレベルのお玉さんに、修道士たちは、「宇宙の中心は太陽、そのまわりを地球をはじめとした惑星が回転している」という宇宙の姿を説いたのです。 お玉さんはそれをどう受け止めたのだろうかと、、、、、 敏活な頭脳の持ち主にとってそれは[正しいこと]と衝撃的に理解できたのではないでしょうか。 関白秀吉さんも、その限りにおいては海外事情に耳を傾け大坂教会にも通ったということです。
(↑ 宮津市役所横広場)
しかし、宣教師のあとに西洋人が大軍を連れて支配しに来るという話から、キリスト教布教は拒否されることになります。 一方、お玉さんには、政略政争に振り回され、親も夫も神も仏も救ってはくれない不信と不安の日々を過ごさなければならなかったという特別な事情がありました。繊細な感受性の持ち主だったとも伝えられます。絶対的な安住を求める気持ちに傾いていったことは容易に理解できます、、、
会場が下世屋で、というのは、逃避行が下世屋経由であったと語り伝えられているからです。 下世屋を中心にある前野姓は,かって美濃地方からやって来た一族だということです。明智光秀さんも美濃は土岐氏の流れといいます。お玉さん輿入れのさいの付き人たちの一族なのかなと想像します。なら、危急の時、前野一族の皆さんが守護にあたるのは当然などと思いました。
※ 前野氏入世屋の経過、細川家との関係、本能寺の変後の動き方などに関しては、『私たちの小さな宮津 松尾史』(小谷信一郎氏編)に納められた「丹後前野氏簡易年表」での前野勝志氏の論究が興味深く一読をお奨めします。
細川ガラシャさんの話、想像の余地の多い話なので、海外文化との出会い方の一つとして、つい想像の世界に引き込まれました。
「細川ガラシャ 日本の歴史 雑学の世界」 www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den110.htm が詳しくておもしろいです。