宮津エコツアー · 2月 2013

2月 2013

2013/02/07

間人宮津京都各地点の気象記録を気象庁HPで見ました。
興味深いのは冬の平均気温。
1月から2月にかけての旬間平均気温。
.   A   B   C
1月  5.6       5.0       4.3
.  5.0       4.8      3.8.
。  4.3       4.1      3.1
2月  4.5       4.3      3.2
。   5.3       5.3     4.0
.  5.6       5.9     4.6
3月     6.4        6.8      5.4

間人・宮津・京都 は、さて、 A B Cのどれになるかというと、

間人 A ・宮津 C ・京都 B。

冬の間、最も寒いのが宮津、逆に温かいのは強い北西の風を強くうける間人。
今日の丹後町海岸。

am8;40


同  pm1;15

けれども、湯たんぽのような暖流。スイセンを、咲かせ始めました。

2013/02/07

昭和19年大火のかたりのなかで「軍部には、兵隊が40人ほどおって、」とおさよおばさん。軍部とは兵隊が駐留するところです。人数40人。ちなみに現在の伊根町の場合一般行政職員さん47人、一般管理職員32人ということ。40人は、決して少なくない人数です。相当な重要部隊です。

(↑ 24日11月 ※ 許可を得て撮影しています。)

どのような任務を担ったのか?

世屋高原で訓練をした × 理由、それは、これです。


この写真は、軍港舞鶴湾をまともに写しています。海軍出撃基地であった舞鶴は米軍の艦船、航空機の一大攻撃目標。上世屋駐屯部隊の任務は最重要施設防衛の監視任務であったはずです。

実際に米艦載機により舞鶴海軍工廠、宮津湾などに停泊していた艦艇などが攻撃されたのは敗戦直前の昭和20年7月29・30日の両日。29日の攻撃は午前8時頃から始まりました。工場で働く一万人のうえに500kg爆弾が落とされたといいます。学徒動員で工場作業をしていた学生も含め多数の犠牲者を出しました。
大混乱の中でその様子を目撃していたであろう「軍部」の場所は、駒倉分かれと木子別れの中間山手。コンクリートの構造物がそれです。

伊根湾に避難していた艦船「長鯨」も攻撃を受けました。

伊根のガイドさんは、その様子をしっかり語られます。

「世屋」からみた戦争も、平和の時代だからこそ、かたることが大事かなと思います。

(↑ 12/3 煙を上げているのは舞鶴湾口の舞鶴火力発電所)

美しい絶景を自由に探勝できるように。

 

美しくあって欲しい天橋立。

漂着ゴミ・放置ゴミ 誰もが心を痛める厄介物。

定例の天橋立ガイド研修はゴミ拾いをしました。

 

2/7 11時頃の天橋立 大天橋の浜 小天橋 宮津湾側でのゴミ拾い大天橋 阿蘇海側 どこから流れ着いたものでしょうかごみ袋はすぐに満杯阿蘇海側 清掃前清掃後

2013/02/07

地名に潜む歴史の探検家を挙げれば、澤潔先生!時空を自由に越えるヒストリーガイドは実におもしろいです。
例えば、こまくら・駒倉と、くんだ栗田、聖徳太子。このみっつは、つながりがあるとおっしゃいます。

どこが?といえば、「くり」だと。

聖徳太子はこうくり・高句麗の文化とのつながりがが密接でした。くり・くら・くん・は言葉の旅の元へ遡れば同一の可能性がある。大陸から渡ってきた高句麗系の民族の内、飛鳥へ至った人たちが聖徳太子になったが、丹後周辺に上陸し、山に木や鉄を求め分け入ったり、海の漁りを生業にして暮らしを築いていった人たちもいる、

(↑ 中央の半島が栗田半島)

その痕跡が「くり」だ、と。

そうおっしゃられても、とおもっても「じゃなぜ、こまくら?くんだ?とといかえされると、ムムムム。

こちゃごちゃ思うよりも、時代に取り残された寒村、「こまくら」といつもお世話になっている「聖徳太子」とが親戚かもしれないと思うほうが、雪暮れの滅び村がよほど美しく輝きを放って蘇るではありませんか(^.^)。
ちなみにスノーシューウオーキングでは、西に向いて右の谷こまくら駒倉谷、左の若狭湾にくんだ栗田半島を見ることができます。

 

2013/02/07

春めいた日差しが、野に山に美しい雪解け模様をつくります。

うっとりします。(^.^)

しかし、17日には、大仕事・スノーシューガイドウオーク。京都市内の方からも問い合わせがあります。

里の雪は解けてくれ、

、山の雪は解けてくれるな!

しばらく複雑微妙な気持ちで天気とにらめっこです。

2013/02/06
冠島沖に白山(2702m)。はるか200km離れた山が夕陽で鴇色に見えました!

冠島と白山の間の山は、越前海岸。越前水仙は1月中旬から下旬にかけてといいます。

沓島の沖には、さらに山影。

医王山939m、宝達山637m、石動山564m、さらに河内岳399mと続く能登のやまなみでしょうか。。

古代、この海が大陸とつながる「表日本」。北からも、南からも人と物が行き来したのです。

渡来した人たちはこの地にも住みつき、私たちの祖となりました。

夕陽は阿蘇海も染めました。

ある古代人が、この光景を見て、「あーそー」と叫んだ、それが阿蘇の語源の一つとおっしゃるのは澤先生。

新羅系の言葉では「おーわがうみよ」という意味になる。

日本海から若狭湾をへて宮津湾に入った渡来人が刻んだ言葉ではないかと。

奈良も「ういーならー」私の国よという朝鮮語。
わたしは「浅き海」説なのですが、まあ、奥の深さがちがいますけど、ひっこめませんよ(^.^)

2013/02/06

大火からの復興に尽力された初おっさんは、話しの上手な人でした。「自転車」の思い出を語ったくださいました。
~自転車~
17の歳に私が自転車を買ったときの値は、20円じゃった。だしてもろうたが、高いもんだと思った。
そもそも、その自転車は、木子の大松きへいという人のもちもんじゃった。この人はまあ器量もええ、三味線もバンバンで、近郷には珍しい文化人でもあったわけじゃったが、金縁めがねをかけとるような人じゃった。
この人が自転車にこってしまって、冬には外では乗れんで、わがげの敷居をぶち上げてその中で乗ったり、田が凍てると、今の集会所の下に大町があるが、そこで乗り回したりしとったんだ。牛も飼うとったが、餌もやらんもんだで、飢えてまやごえをくいあげとったいうほどの惚けぶりじゃったそうな。そうして道楽したあげく、自転車を上世屋に嫁にきとった妹の亭主にやったんだが、よう乗らんいうもんで、それをわしがこうたんだ。

(1975 世屋上小中学校 育友会誌)

・・・・「凍った田で乗り回しなったというのは、このソバ畑のあたりだなあ!」と大松さん。

木子には「七お七たに七へらい」を有した大地主がおられたとか、また、男女ともに目鼻立ちの整った美男美女のおおいのも事実で、伝えられる貴種流離譚もあながち架空ではないと思われる(^.^)

ちなみに、初衛さんは、このあと、収入役、助役、村長になられます。下世屋の村役場へはもちろん、宮津での町村長会議もこの自転車で通われたということですが、その苦労がバス路線の上世屋延伸の運動につながったということです。

 

2013/02/06
世屋の里は藤織りの里。この藤織りは衣類に、生活用具に、役立ち、現金収入として暮らしを支えてくれました。この重宝な藤織りを伝えてくれたのはだれか、語り伝えられていることがあります
「おためさん」こと光野ためさんが語ります。


・・・・・

冬は、男衆は青年団に、女は村中藤織りをしましただが。女は、ぶげんしゃのもん以外は、年中ちりめん屋やグンゼ製糸へ出稼ぎに行くか、のこっとったら百姓だでなああ。ほれで、一冬に五反から一〇反、小幅もんを織って、税金払えるほどだった。

それを宮津の畳屋が買いにきて、たたみ野縁に使ったんだ。強いもんで、いっぺんしといたら、一代きれんもんだった。
藤織りをどうで上世屋でやるようになったゆうのは、昔の大シデの跡がありますが、そこに坊屋敷があった。そこに灯りがさしとるでいってみたら、坊さんがおんなって、木の皮をむいて、反にして着とんなった。

(↑ 1980年ころ 撮影 川北亮司さん)

何にも着るもんがのうてこまっとったら、観音さんが夢見せとくれて、藤を反にして着ることを教えてくれた、ゆうことだで。

(1975 世屋上小学校 育友会誌から)

・・・・・・・・・

合力の家の藤織りのれんにほほえんでいるお婆ちゃんがおためさん。

藤布を着る人には、世屋観音様のご加護があります(^.^)

 

2013/02/06
語ってくださった吉岡初衛さんは、昭和29年の町村合併時の村長を務められたかた。当時区長。9月2日には区長所にて用務をされていました。
・・・・・・・・

焼けたとき、私は区長をしとりました。9月の2日、とうじは弁当もちで堆肥をこしらえるために柴刈りにいっとりました。日の内だて煙がようみえなんで、なんだ激しく煙があがっとるなゆうことにやっと気がついてとんでかえってきなっただけど、焼けとる最中だったり遠くの山へいっとったもんはかえって初めて知ったという状態でした。
私は当時、今の農協出張所前の堰堤工事の主任をやっとりましたで、上世屋に残っておったんです。その時、五、六人の人たちが人夫で出とっとくれました。火災の時は、その人たちが、牛をださなあかんゆうて、あっちもこっちもだしてくれた、

(↑ 1985年ころ 撮影 川北亮司さん)

それでも及ばず三、四頭は焼けてしまいました。
私は、書類を全部持ち出しました。区長所には、だからいま全部残っております。その代わり、うちのものは全部丸焼けでした。

(↑ 2013,2 京丹後市の火災現場)
それからは、蔵のあった一部の人は蔵へ、そのほかの者は学校に三日間泊まったんです。皆、たれもかれもほおっとして、(びっくりしてあほうになる)、焼け跡の片付けもなにもせず暮らしておったのです。
私は、こんなことをしておっても刈り取りはせんならん、冬も来る、掘っ立て小屋なりとも建てようと申したンですが、区長はそういいなるが、鉈もがんども何一つないんだ、どうして木を切るかと途方にくれておったんです。そういい暮らしている内に、親戚のもんが見舞いに来てくれるして道具も集まり、建てられる状態にはなったんです。
ところが、戦時のことで、法律は自分のものでも木を切ってはならんということであったんです。しかし、刈り取りもせんならんし、冬も来るなことはゆうとれんいうことで、10日ほど後に、京都の府庁にいって許可を求めたんです。そこで、地元の木を千石切って小屋を建ててもよい、という許可をもらってきたんです。
こうゆう訳で、遠慮なしに木を切って掘っ立て小屋を建て冬越しができるようになったんです。


その後、本建築に移るにしても相当かかるし、そんな金はなかつたんだ。正直ゆうたら、その当時は闇米がはやった。供出が厳しかったで、保有米ゆうたらわずかしかのこらんのだが、を始末して闇米にしたり、それもできん人は、公然とはなかったのだが、村の方で、村長が、供出にださんならんやつを、建築したらなえすゆうて、供出の米を借りられるよう世話してくれたりしたんで、それを闇米を買いにきた人に売って、それで金をつくったんだ。
上世屋の家は、ジンネゴで建てた、ともいえるし、※始めのうちは一俵の闇米で建った。

(↑ 1985年ころ 撮影川北亮司さん)
しかし、戦時戦後で大工も木挽きも不足していて、なかなかたてられん状態でした。全部たちおわったのは、10年もかかったでしょうなあ。焼けてから、上世屋のもんは、精神的にも仕事の面でも、ほんまに努力したもんだで、、、。

※「始めのうちは一俵の闇米で建った」について

この古民家を解体調査した研究者によると栗、アカマツ、ケヤキ、コナラ、ブナ、竹、笹などで用材は全部近辺の山から調達したもの、民家は「里山そのもの」だと報告されている。手間替えの習慣があり、「一俵の闇米」で建てることは充分可能だったと思われます。

  2月2日  上世屋雪かき応援隊
今年は雪が少ないとはいえ 北側はこの通り

皆さんがんばる姿
は 自然に融け込み里山に、春を呼ぶ掛け声がさえずっていました。 

雪かき 終了後の スナップ
嬉し(^0_0^)のしずかさんを囲んで、また応援に来ますからと。

« Older entries § Newer entries »