温もった水田は、温熱帯原産の稲か゛同時につれてきたなかまたちの住み処!
ハナグワイ、、
かわいい、、、名前も花姿も、、、。
クサネム!これも、、、
けれど種が米の中に交じると、等級が落ち価格もさがるのだそうです。お百姓にはをA級の悩みの種草。
伊根の旧家で拝見したもので、もう一つ興味深かった地図。
丹後与謝海天橋立の図。
伊根を与謝海の入り口して奥の宮津までを描いたものです。
上世屋へは下世屋から松尾をへてのぼったんだなと見ているとのそのよこにりっは゜な滝。銚子の滝なんでしょう。その側にお堂。そしてその命名は「成相奥院」。

奥院とは、「 1 寺社の本堂・本殿より奥にあって、開山祖師の 霊像や神霊などを祭った所。」と、人間の世界ではない結界でしきられた聖地とされています。
ひとつふたつた谷を隔てて左に成相寺。
世屋の観音堂は成相寺の奥の院、眞名井神社が籠神社の奥宮、養老三年(719年)以前には本宮だったとされていますが、世屋と成相寺は一体と認識されていた、
重い事実をこの図絵は語っています。
江戸へ行軍する「一路」一行。
諏訪路付近という設定の背景の松、はて、見覚えが、、松並木のロケ地は天橋立ではないですか!。
ちなみに、第四回のストーリー。

「諏訪に近づく一路(永山絢斗)たち。行軍のような珍しい行列の噂を聞きつけた領主の娘・乙姫(すみれ)が、堂々と行列を指揮する一路の姿に一目ぼれする。その気持ちを伝えるため、乙姫は櫛を一路に手渡そうとするが、一路はそれを頑なに断ってしまう。乙姫は、断られた腹いせに父の諏訪因幡守(石丸謙二郎)に、一路が自分に無礼を働いたと嘘をつく。そして、その嘘を信じた諏訪守は激怒し、一路を成敗しようと…。」※BS時代劇「一路」|次回予告とこれまでのあらすじ – NHKオンライン。再放送は日曜日・午後6時45分から。次回も見逃せません。
また、この天橋立、最近では 2009/3/9 水戸黄門39 踊り子の想いを繋ぐ天の橋立のロケ地になっていたそうです。※時代劇ロケ地資料
今秋の初尾花!

「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」 (万葉集)と山上憶良さん。
秋の野に 咲きたる花を 数ふれば、七種(ななくさ)の花、ですが、七種がすべてが眼前に広がっている野原に同時に見える!という解釈ではなく、7,8,9月の3ヶ月にわたる「秋」。その間に咲くのを見ていると、と解釈すべきだと思います。
順番で言えば、一番早いのが7月はじめの撫子、次に女郎花、さらにキキョウ(朝貌)、そのつぎに葛、萩。そして尾花は八月下旬、最終が藤袴という感じをもっています。
尾花という呼び方が標準かと思いましたが、「ススキ」も古いことばで、並行して用いられていたようです。
刈っても刈っても伸びる、成長点が葉の根元にあるためなのですが、大切な家畜の餌、という意味で人の生活にもっとも密接に結びついた草、無限の命の泉をもった草としても神聖視された草です。
指さして説明してくださっているのは、丹後の古地図。
発行年はなんと明治12年。
明治維新で古い幕藩体制を廃し廃藩置県を断行、国会開設を目指す自由民権運動が盛り上がって殖産興業を旨とした近代的な国作りの基礎固めが行われていた時期です。
江戸時代から櫨蝋の製造販売をされていたという伊根町の旧家で見せて頂きました。
伊勢神宮でもちいられていたというすだれ。えらいものを伝えられます。
それはともかく、と゛こからしいれるのか、どこへ売りに行くのか、手広い通商には正しい地図が欠かせません。この地図も大切に保存されていたのでしょう。
このあと、鉄道や自動車道が開通していきます。地形や地名も変わってきました。さらに京都縦貫自動車道の全通はこの地図の138年後。それらによって変わる以前の丹後の姿、人と物の動いた道をかたるものとして、貴重です。これからもかわっていくでしょう、ですので、出来れば、ハンカチ等にプリントして地域興しに生かして頂けることを願います。
ふだんには見られないものをたくさん見せて頂きました。ちなみにこの企画「伊根町わが町歩き」。グレート感謝。
丹後観光の窓口駅・天橋立
広さ、oK
明るさok
利用者にうれしいゆったり感
車と人の流れにもゆとりが。
こんな利用者目線の改装が評価されたのて゛しょう。
海外からのお客さんのうけいれも万全。
お孫さんに読んであげていらっしゃるおばあちゃん。
ふとおもいました、これにも韓国語中国語英語の訳をつけておくのがいいのではないでしょうか。
「なにがかいてあるの!どんな意味?」
ちなみに、「Petals and Moon – 英語で百人一首petals-and-moon.blogspot.com」では、
「日本語とは違った和歌の世界をお楽しみください」と以下のように紹介されています。
【歌】
By Oe Mountain
The road to Ikuno
Is far away,
And neither have I beheld
Nor crossed its bridge of heaven.
(Lady Koshikibu)
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
(小式部内侍)
【ひとこと】この歌の理解には背景の解説が必要です。小式部内侍は和泉式部(56. あらざらむ)の娘にあたります。ともに中宮に仕えていたので、母と区別するために彼女は「小式部」と呼ばれていました。小式部はそのとき既に歌人として注目されていましたが、母が歌を代作しているとの心ない噂も立っていました。当時彼女の母は夫の任地である丹後にいました。そこである男が小式部に「お母様に代作を頼む手紙はもう送りましたか」と意地悪で尋ねたところ、その場で作って返したのがこの歌であるとのことです。
「大江山を越え、生野を通って(母のいる丹後へ)向かう道は(とても)遠いですから、まだ(丹後にあるという)天の橋立を踏んだことはありませんし、(母からの)手紙も見てはいません。」元の歌はこのような意味です。
元の歌では、第2句の「いく野」が「行く」と「生野」(丹後の地名)の掛詞、第4句の「ふみもみず」が「(天の橋立を)踏みもみず」と「(母からの)文も見ず」という掛詞になっています。大江山と生野は、京から丹後へ向かう途中にあります。天の橋立はその丹後にあります。英訳からは手紙の件が消えています。訳文の限られた語数に掛詞の意味を押し込めるのが難しかったものと思われます。英語の「beheld」は、「眺める」の意味の「behold」の過去分詞です。