朝四時半 自宅出発。玄関前で散歩中の同級生にバッタリ。まだ薄暗い、これが彼女の健康の秘訣なのか。
こんな時刻に動き出すのは、旅行以外にはめったにない。小天橋の浜に着くと辺りは明るくなり日の出時刻。
既に、波打ち際には、誰かの足跡。昨日のものではなく、今朝のものだ。釣り人か、散歩者か。
写真を撮るには、朝もやがきつ過ぎる。霞んで見える宮津市街地や栗田半島。杉山や由良ヶ岳はほとんど見えない。
朝もやの宮津湾 穏やかな朝のひとときでした。
天橋立ガイド部会の活動ブログ
6月1日、kyoto地域力体感ウォーク・・・という地元のガイドと歩いて交流する・・・ツアーが
京都トラベルさんであり、11名の皆さんとガイドで歩きました。
最初は山王宮日吉神社より・・・樹齢400といわれるオオサザンカの樹をみながら
滝上山に着きました。そこそこ展望はあります。
順調に平岩山手前の展望台に着きました。橋立が良く見えて・・・
丁度お昼に妙見山に着きました。ここからは真縦の橋立が・・・・
最後の題目山に到着 ここから天橋立が一番綺麗!!皆さん元気よく歩いて・・・
金引きの滝に降りて来ました。縦走で疲れた体をマイナスイオンでリフレッシュ
最後に町中歩いて宮津城から移築された庭の橋の説明を聞きます。
皆さん四山縦走尾根歩き、展望もよくまずまずの天気でほんとにお疲れ様でした。有難うございました。
昼間の日差しを十分に浴びた天橋立の花たち。紫外線情報など全く気にしない彼女たちも、寝化粧に余念はないのでしょうか。その素振りは全く見られません。日没直前の大天橋 船越付近の与謝の海(宮津湾)側の、花たちです。
ハマヒルガオ
コマツヨイグサ (あかばな科)
二年草で茎は、地表を横に枝分かれしながら伸びる。白砂青松の天橋立をむしばんでいる有害外来植物の一つで、猛烈に増殖中です。鳥取砂丘でも、「砂丘に浸入する雑草」として、指名手配、除去に余念がない。北アメリカ原産の帰化植物。
ハマボウフウ (せり科)
浜防風 ヤオヤボウフウとも言って、若葉は生食用になる。刺身のツマとして、天橋立の旅館・ホテルで用いられている。
天橋立は、白砂青松が守られてこそ「日本三景」。松枯れの原因の多くは、マツノマダラカミキリとマツノザイセンチュウが原因だと言われています。マツノマダラカミキリの幼虫は、春から初夏にかけて成虫になり、やがて松から飛び出します。この間にマツノザイセンチュウがカミキリの体に乗り移ります。この時季をねらって、松に消毒液の散布が行われているわけです。
薬剤散布方法は三つ。スプリンクラー散布、ラジコンヘリ散布、地上散布です。人家等への配慮から、場所によって異なります。下の写真は、小天橋の廻旋橋近くで、スプリンクラーの準備がされているところです。
作業開始時間は、地上散布とスプリンクラー散布が午前6時30分から、ラジコンヘリ散布が午前6時からで、大体風が穏やかな午前中に行われています。
宮津の自然・歴史をくまなく探検している「宮津美しさ探検隊」のガイドウオークに、同隊のメンバーである天橋立部会のガイドが案内しました。
「安全は楽しい」をモット―に出発。日本一賢い智恵の文殊様、「文殊堂」の歴史や境内の植生の話。シキミは全部有毒、実は猛毒等々。小天橋の先端まで行き、植生・歴史説明。マツグミ・マツ・ハマナス・アマモ、宮津市内、杉山の天然杉等々・・・。その後、磯清水・橋立神社から江尻の江之姫神社、麓神社、千体仏、真名井神社、籠神社まで。天橋立周辺の自然や歴史の奥の深さの一端を知る一日でした。
「美しい天橋立運河に見とれて、海に落ちないように。ハイ、一列になって進みましょう!」
マツグミは、ヤドリギ「松に寄生しながら、マツと共生している。」[ふーん、初めて見た・・・」
ハマナスは、北方系の植物。北海道から日本海側は鳥取県まで分布。有用植物で花は香水の原料。果実は赤く熟し、ビタミンcが豊富で、レモン17個分。また、バラの品種改良に貢献。北寒の地でもバラが育てられるのはハマナスのおかげです。
「アマモは、海藻ではありません。陸へあがったあと陸を嫌って、また、海に戻った種子植物。」海水と淡水が混合して生じた低塩分の水域である汽水域に分布。日本一長い名前が付いている話など。
宮津市内、杉山の天然杉の説明中に、誰かが叫んだ。虹だ、虹だ。
5月26日 午前10時28分 小天橋の南端から、宮津市獅子崎・由良ヶ岳方面を眺めるとちょっと変わった虹。舞鶴海洋気象台観測予報課にお聞きすると、「環水平アーク」(かんすいへい)とのこと。薄い雲を通して、上空の氷粒に太陽光が屈折してできる光学現象。通常の虹とは逆の方向に出る、めずらしい現象。20代から90代までの参加者全員大騒ぎ。
難波野の千体仏
この辺りの地面を掘れば、次々に現れる石仏を長年にわたって、集めてきたと伝えられる。石仏数は千体を越え、丹後形と言われる板碑型三百余基ある。若干の宝篋印塔、五輪塔のほかに、舟形光背形の地蔵が多い。紀年銘のあるものは見つからないが、彫成時代は戦国期から近世初期。