伊根町では、「伊根浦ゆっくり観光の会」を立ち上げられ、【伊根浦暮らしの旅 シリーズ 全5回】を企画されましたので、ご紹介します。
世屋の隣は伊根町です。山・川・海でつながる丹後をイメージして、連携が図れればと思いますので、よろしくお願いします。
2013/04/24
田植え前の棚田は、月夜です。
(↑ ↓ 22日午後6時45分ころ)
たんぼが月を映します。「田毎の月」という言葉があります。文字通り、お月さまがたんぼごとに映るという意味です。
うそだという方もありますよ。例えばwww5a.biglobe.ne.jp/~m-hokuto/nikki1/nikki1.html さん。
こうおっしゃいます。(^.^)
「久しぶりに早起きをして田んぼを見て周った。(人んちの。我が家に田んぼはない) 水を張り田植えの準備の整った田んぼが日に日に増え、この連休中には見渡す限りの巨大な湖が誕生するだろう。 夜、この水面に星や月が映る様子は本当に美しい。 題名の「田ごとの月」とは、この季節の棚田(段段田んぼ)に月の映る様子を言う言葉だ。でも、実際にはみんな水平面だから、田んぼの数だけお月様が写るわけではない。「見たことのない町の人間の間違った空想」と笑い捨てる人もいるかと思うが、水の便の悪い山の上の田んぼまで、苦労して水を張り終えて、ふと見おろした千枚田の一枚一枚にお月様の映る様子を思い描く嬉しさは、その苦労を知る者でないとわかない「想像」かもしれない。」
このように、田毎の月が想像上の産物だというのが、現代の国民的認識だとするなら、これには断固訂正をしておく必要を感じます(`ヘ´) 。 田が、100枚あれば、100枚に映ります! もちろん、月が百個あるわけではありません。一個の月です。1枚の田には一個の月、そしてその一個の月が100枚の田に映るのが、「田毎の月」です。マジックでも何でもないです。コロンブスの卵ですよ。月を見ながら歩いたら、どうなりますか?
月がついてくるでしょ。田の水面に映った月も同じです。ついてくるのです、1枚1枚に月は映る、日を暮らして帰る畦道では普通の現象です。ほんとテレビカメラでも何でも入れて検証してみてください。 田毎の月は、いまでは、世屋の里でしかみられないのかもしれません。時期も、水が張られて田植えまで。ただし見るのはガイドが必要です!ご相談ください。
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ちなみに本場信州千曲市のHPでも、そのように紹介しています‥
「信州更級の「田毎(たごと)の月」は江戸時代からたくさんの俳句に詠まれている。「田毎の月」と言うと何枚もある田んぼに沢山の月が映り込んだ「絵」などが紹介されているがしかしこれは物理的に不可能。
実際には自分の一番近い田んぼに月が映り自分が動けば月も一緒について来るそんな情景に感動したのだろう。 姨捨の田んぼは小さいから5~6歩動けば次の田んぼに月が移動し余計感じさせれる。
田んぼに映る月を見るには①田んぼに水が張られている事。②田植え前か稲が伸びない期間であること。③満月に近い状態であること。④晴れていて風が無いこと。が条件です。月の出時間も毎日約30分ずつ遅くなり、月も欠けて行く。 この条件に合うのは、5月下旬から6月上旬頃までがチャンスとなる。」 (www5d.biglobe.ne.jp/~togura/furusato23.html )
宮崎県発行の季刊誌「JAJA」N0.5の棚田の風景特集号のき記事でも、その見解を述べています。
「 棚田の月は、一つひとつの田にその影を落とすという。 俳人たちが愛した田毎の月。 失われつつある風景が、多くのことを語ってくれた。 昔から俳人たちの間で愛されてきた田毎(たごと)の月。それはやはり、ひなびた里山の水鏡がよく似合う。棚田を訪ねる取材を始める前に、先人たちは田毎の月を眺めて何を思ったのか確かめようと、高千穂町栃又(とちまた)の水田にカメラを据えて月を待ってみた。田植えもすんだとはいえ、山々に囲まれたこのあたりでは、夕暮れの空気は冷気さえ漂う。その山から湧く冷たい水を引いた田からも、昼間の暑気を払うような微風が吹いてきた。 陽もとっぷりと暮れたころ、谷の向こうから出た月が、小さな田の水面にその姿を映す。ひとつの月が無数の田に同時に映るわけではないが、月の下を歩いていくと、それを映す水鏡もどんどん隣の田に移っていく。昔、夜道を急ぐ人の目には、見慣れた田の風景が、息をのむような美しさに見えたことだろう。田毎の月とは、そんな驚きを込めて呼ばれたイメージだったのかもしれない。 戦後の食糧難も去った昭和40年代以降、日本の稲作は減反と効率化の途をたどった。全体として米の作付けを減らしていきながら、残った田は大規模なほ場整備と水路の整備によって、一枚一枚の面積が大きく、四角に区切られることで耕作機械の導入を容易にし、生産性を上げていく。そのおかげで収量は安定し、農家の収入にも寄与し、また転作が奨励されたことで新たな作物の生産にも弾みがついた。そうした効率化の流れの中で、当然、いずれは消えていくものと思われていた棚田が、ひとつの風景として、あるいは文化として人々の注目を集めるようになっている。 一枚一枚の田が小さく、形も山の斜面に沿って微妙な曲線を描くことの多い棚田は、生産性からみれば平地の整備された田とは比較にならないが、国土を守り、水を蓄えるなどの保全機能が高く、稲作には厳しい気象条件がかえって害虫を防ぐために、農薬などの使用が抑えられ、結果として生態系の保全にも役立っているという。棚田の米はうまいといわれるが、それは澄んだ冷たい水や豊かな環境といった要素の上に、その地形の厳しさから、すべてを人の手でこなさざるを得ないことが、理由となっているのだろう。そんな日本の稲作の原風景ともいえる棚田を軸に、都市と農村の交流事業といった取り組みも始まっている。 宮崎は、農林水産省が選定する「全国棚田百選」のうち11カ所が点在する棚田王国だ。四季折々の里山の暮らしぶりを、その水鏡に映してきた棚田には、土地ごとの風土や歴史を背景にした物語が見えてくる。あの田毎の月のように。 棚田の1枚1枚は小さく、蓄える水もわずかにみえるが、それが集まることにより、時と共に違う顔を見せる棚田。営々と日本の国土を守り、虫や草木そして人間の命を育んできた。ここでは、古代の神々に見つめられているような気分になる。」