宮津エコツアー · 世屋・高山ガイド部会

世屋・高山ガイド部会

世屋・高山ガイド部会の活動ブログ

【龍、、飛龍 昇龍、、ところで、その龍とはなにものですねん、お寺の天井にも描かれたり、12支にも、日本人と龍、、ここを深掘りしてくださいな、、】
成相寺 真向の龍 | 最初の第一歩

おお、ここは天橋立の「龍」を考えるうえで、かなり深いところですね。
しかも今までの話――飛龍観、昇龍、世屋川、湿原、水、海、信仰――が一本につながる可能性があります。

まず結論めいたことを言うと、

日本人にとって龍は、単なる想像上の怪獣ではない。
「水をめぐって働く、目に見えない巨大な力」を、人間が一つの姿にしたもの

と捉えると、かなり見通しがよくなります。

もちろん、これは龍のすべてを説明する定義ではありません。龍には中国の皇帝権力、仏教、吉祥、芸術など非常に多くの層があります。

でも、天橋立を読むなら「水・海・雨・川・大地の変動」という龍から入るのが、とても面白い。


1 そもそも「龍」は何者なのか

まず重要なのは、龍は日本列島で生まれた一種類の神ではないことです。

中国の龍、インドのナーガ、仏教の龍王、日本古来の水神信仰などが、長い時間をかけて重なっています。

仏教では、龍王は仏法を守護する存在として登場します。『法華経』に説かれる八大龍王もその一つです。なかでも娑伽羅龍王は海・雨と結びつき、航海の守護や雨乞いの対象になりました。

ここが面白い。

龍=水

という日本でのイメージは、単なる後世の「龍伝説」ではない。

雨。

川。

池。

井戸。

滝。

海。

そして農業。

人間の生命を支える水と、時として人間を脅かす洪水・高潮・大雨。

つまり龍は、

「恵みでもあり、災害でもある水の巨大な力」

を人格化したもの、と見ることができます。

国際日本文化研究センターの伝承資料でも、龍神・龍王は水界を支配する存在として、農耕儀礼と結びつき、海神・農神の両面を持つと整理されています。


2 だから「龍は蛇なのか?」という問いが出てくる

ここも面白いところです。

日本の水辺には、昔から蛇がいる。

川。

沼。

池。

田。

水路。

そして蛇は、脱皮する。

姿を変える。

土の中にもぐり、水辺にも現れる。

そのため蛇と水神との結びつきは強く、龍神の眷属として蛇が語られることもあります。

だから、

蛇 → 水辺の霊威 → 龍 → 龍神 → 龍王

という連想の回路ができる。

もちろん、

「日本の龍は全部蛇から発生した」

という単純な話ではありません。

中国の龍やインドのナーガ、仏教思想などが重なっています。

でも日本人の自然観の中で、

「水辺にいる、姿を変える長い生き物」

と龍のイメージが親和性を持ったことは、とても重要です。


3 そして「十二支の辰」

ここで、龍が庶民の時間・暦の中にまで入り込む。

十二支の「辰」に龍が当てられています。

これは中国古代の暦・天文学に由来する十二支が東アジア社会に広がったものです。東京国立博物館も、十二支が方角・時刻・月日・年回りを示す体系として生活に深く浸透したこと、そして辰に龍が当てられたことを説明しています。

そして辰だけが、

実在しない動物

なんですね。

京都国立博物館も、十二支の動物の中で龍だけが想像上の生き物であり、だからこそ時代・地域ごとに様々な龍が描かれた、としています。

これ、私は面白いと思います。

十二支は「現実の動物だけ」の体系ではない。

そこに龍を入れた。

つまり人間は、

目に見える動物の世界だけでは、世界を説明しきれない

と感じていたのかもしれません。


4 では、なぜ寺の天井に龍がいるのか

ここは非常に分かりやすいです。

龍は、雲・雨・水を操る存在として考えられてきました。

だから寺の天井に龍を描く。

単なる「迫力ある絵」ではありません。

天井=天空

龍=雲・雨・水を司るもの

ですから、

「天空に龍がいる」

という構図になる。

そして仏教では龍王は仏法の守護者でもある。

だから、

天井画の龍

には、

  • 水を司る
  • 雨をもたらす
  • 仏法を守る
  • 堂宇を守護する
  • 天空を支配する

という複数の意味が重なっている。

京都国立博物館が、龍の典型的な図像として「雲と龍」「昇る龍・降りる龍」「龍と虎」などを挙げているのも、この世界観の広がりをよく示しています。


5 そして「昇龍」「飛龍」

ここで、とうとう天橋立です。

京都府は「飛龍観」を、

南から北を見た天橋立が、龍が天に昇るように見える

ことから名付けたと説明しています。

これは単なる「形が龍に似ている」という話で終わらせると、ちょっともったいない。

なぜなら天橋立そのものが、

海の中に伸びる細長い陸地

だからです。

そこへ、

龍=水・海・雲・天をつなぐ存在

という文化的イメージが重なる。

すると、

海から空へ向かって伸びていく龍

という「飛龍観」が成立する。

そして「昇龍」はさらに、

地上から天へ上昇する龍

という方向性を持つ。

つまり天橋立は、

海と陸

だけではなく、

地と天

を結ぶものとしても読まれてきた。

ここは、以前から安田さんが追っていた

「天と地の梯」

という歌枕的な表現とも響きます。


6 さらに驚くのは、「龍が天橋立をつくった」という話

天橋立には、龍神が土を盛って一夜で天橋立をつくったという伝承があります。九世戸縁起と結びついて語られてきたものです。

ここで、

地質学

と

神話

を対立させない方が面白い。

地質学は、

河川が土砂を運ぶ
↓
海が沿岸漂砂で運ぶ
↓
砂州が成長する

と説明する。

神話は、

龍が海に土を盛る

と語る。

言葉はまったく違う。

しかし、もしかすると両者が見ていた対象は同じです。

「海の中に、なぜこんな陸地ができたのか?」

という、人間の驚き。

科学はそれを地形形成過程として説明する。

神話はそれを龍の仕事として語る。


7 すると、安田さんの「なあんじゃこれ」が龍につながる

ここ、私は非常に好きです。

人間が天橋立を見た。

「なあんじゃこれ???」

海の中に、長い陸地がある。

しかも、

  • 松が生えている
  • 海と海を分けている
  • 天に向かって伸びているように見える
  • 場所によっては龍のように見える
  • 伝承では龍がつくったことになっている

そこで古人は、

「これは龍だ」

と表現した。

現代の私たちは、

「砂州だ」

と説明する。

でも、どちらも出発点は、

「こんなものが、なぜここにあるのだ?」

という驚きだったのではないでしょうか。


8 そして世屋川まで遡ると……龍がさらに面白くなる

ここが今日の話の核心かもしれません。

安田さんが先ほど言われた、

天橋立 → 世屋川 → 支流 → 源流 → 湿原

という旅。

これを龍の目で見ると、

海にいる龍を、川を遡って山へ追いかけていく旅

になる。

龍は水の神。

水は海から川へ、川から谷へ、谷から山へ。

いや、物理的には逆方向ですね。

雨 → 森 → 湿原 → 沢 → 川 → 海

です。

そして龍を「水の循環を人格化したもの」と読むなら、

天橋立の龍は海だけにいるのではない。

世屋の森にもいる。
湿原にもいる。
小さな沢にもいる。
棚田にもいる。
世屋川にもいる。
そして最後に海へ出て、天橋立になる。

……こういう読みが可能になります。

もちろん、これは歴史的に「世屋川の人々が龍をそう理解していた」と証明する話ではありません。

でも、天橋立の地質・水系と龍神信仰を重ねて読む、非常に強い現代的な解釈にはなり得ます。


9 そして「飛龍観」を、もう一度見る

私はここで、

飛龍観=龍の形をした天橋立

だけで終わらせたくありません。

むしろ、

飛龍とは、水が大地を旅して、海へ出て、天へ還っていく姿ではないか。

と考えてみる。

もちろんこれは私たちの現代的な比喩です。

でも、

森 → 湿原 → 川 → 海 → 天橋立 → 空

という循環を一匹の龍に重ねると、

安田さんの「世屋まで行け」が、また一段深くなる。


そして「昇龍」は、未来へ向かう龍になる

ここまで来ると、

飛龍=地形を見る視線

昇龍=未来へ向かう視線

とも読めます。

天橋立を「完成した絶景」として見るのではなく、

この地形を生んだ水と大地の循環を知り、
その環境を次世代へ渡していく。

その時、龍は昔話の怪獣ではなく、

地球の水循環・生命・大地の力を、人間が想像力で一つの姿にしたもの

として蘇ってくる。

そして、先ほどの「富国環境」にまで戻ってくるんですよ。

富国強兵の大砲が、

「世屋まで行け」

と言った。

そこへ今度は、

飛龍・昇龍が、

「水を遡れ。
大地を見よ。
そして、この土地を未来へ渡せ。」

と言っているように見えてくる。

いやあ……これはかなり佳境です。(^.^)

不思議なものです、名は体を表す、、!!砂州の形状を、橋に見立てた、それで天橋立、、そうかあ!!!です、さて、その次は、龍に見立てた、、そして、これも、そうかあ!!!です、、では、砂州が龍に見立てられて観光に供されるようになった、それはいつからか、特定できますか!

おお、ここはかなり特定できそうです。
ただし、調べてみると**「龍に見立てられた瞬間」と「飛龍観という観光名所として成立した時期」は分けた方がよさそう**です。

結論から言うと

「天橋立を龍に見立てる発想」は、少なくとも近世には成立していた可能性が高い。

一方で、現在の展望観光地としての**「飛龍観」そのものがいつ命名されたかは、今回確認できた公的資料だけでは特定できませんでした。**

京都府は現在、南から北を見る眺望を「飛龍観」とし、「龍が天に昇るように見える」ことが名称の由来だとしています。

ここからが面白いんです。


「龍」は、かなり古いところまで遡れそうです

天橋立の龍について、現在の観光協会は、

神代の昔、神の通い路が海に落ち、龍神が一夜にして土を盛って天橋立をつくった

という伝承を紹介しています。これは『九世戸縁起』に結びつけられています。

つまり、

①砂州の形を「橋」と見る

だけではなく、

②その形成そのものを「龍神の仕事」とする

という二重の龍が存在する。

これは大事です。

「飛龍観」という名前が生まれる以前から、天橋立と龍を結びつける物語そのものは存在していた可能性があるわけです。


さらに「観光」という視点で見ると……

ここで安田さんの問い、

「砂州が龍に見立てられて観光に供されるようになった、それはいつからか?」

が鋭いんです。

なぜなら、江戸時代にはすでに天橋立は日本三景の一つ=全国的な名所になっています。

1643年、林春斎(林鵞峰)の『日本国事跡考』に、

松島・天橋立・厳島=「三処奇観」

として登場する。

つまり、

「天橋立をわざわざ見に行く」

という名所観光の土台は17世紀にはできている。

そして江戸後期になると、原在中の「天橋立図」のような詳細な真景図も描かれるようになります。京都府の研究資料も、この作品を江戸後期のものとしています。


ところが、ここに「龍の形」が入ってくる

現在確認できる資料では、

「○年に誰々が初めて飛龍観と名付けた」

という決定的な記録は、まだ見つかりません。

なので、現段階ではこういう年代整理が一番安全です。

古代~中世

天橋立=神話・聖地・神の梯子

↓

中世~近世

龍神が天橋立をつくったという伝承

↓

江戸前期

天橋立が全国的名所として「三処奇観」に組み込まれる

↓

江戸後期

絵画・紀行・名所遊覧によって、様々な方向から天橋立を見る文化が成熟

↓

近代~現代

「飛龍観」「昇龍観」という視点名が定着し、展望所・観光施設と結びつく

という流れです。


そして「そうかあ!!」の核心は、ここではないでしょうか

安田さんが言われた、

「名は体を表す」

これを天橋立に当てはめると、

天橋立

形を「橋」として読む。

一字観

形を「一」として読む。

飛龍観

形を「龍」として読む。

つまり古人は、同じ地形を見ながら、

「これは何に見えるのか?」

を考えていた。

そして面白いことに、見る方向によって「答え」が変わる。

北から南なら一文字。

南から北なら龍。

斜めからなら橋。

これは単なる「名前の付け方」ではなく、

天橋立そのものが、「視点によって意味が変わる地形」だった

ということですよね。

京都府も現在、四大観を「見る方向によって全く違う景色になる」と説明しています。


そして、ここからが本当に面白い

もし今後、古文献を掘って、

「飛龍」
「龍上り」
「昇龍」
「龍形」
「龍に似る」

などの語が、いつ・どの場所からの眺望を指して使われ始めたかを追えれば、

「天橋立という地形が、いつ『龍という意味』を獲得したのか」

という研究ができます。

実は、京都府の景観資料にはすでに、

「龍上りケ岳観」

という眺望地点も「天橋立十景」の中に登場します。

これ、ちょっと気になりますね。

飛龍観だけではない。
「龍上り」という地名・眺望文化がある。

つまり「龍」は、近年の観光キャッチコピーとして突然作られたものではなく、天橋立周辺の景観認識の中に、もう少し厚い層を持っている可能性があります。


そして私は、今のところこう言いたいです。

天橋立は、最初に「橋」として発見され、
やがて「龍」としても発見された。

地形そのものは変わらない。
変わったのは、人間がその形に与えた意味である。

そしてその「龍」が、

神話の龍 → 信仰の龍 → 景観の龍 → 観光の龍

へと姿を変えてきた。

……これ、かなり重要な研究テーマになりそうです。

次に掘るなら、私は**「飛龍観」という語の初出年代を文献で特定すること**、そして同時に**「龍上りケ岳観」がいつからあるのか**を調べたいです。

ここが見つかれば、安田さんの「いつ、砂州は龍になったのか?」に、かなり具体的な年表が作れるはずです。

おお……それは、かなり重要な「地形と言葉」の重なりですね。
しかも今までの話をつなぐと、「龍」という言葉が、単に天橋立の観光的な見立てとして出てきたのではなく、世屋川水系の上流にも現れていることになります。

ここ、私はかなり面白いと思います。

世屋川水系を「龍の地形」として読む

世屋川の上流に、

V字谷
→ 急流
→ 滝
→ 滝壺
→ 龍渓
→ 龍ケ壺

という地形・呼称の連鎖がある。

これはまず、自然地形として非常に納得できます。

V字谷は、川が山地を侵食してできた谷です。急勾配なら水流のエネルギーが大きく、硬い岩盤と軟らかい部分の差などによって、滝や滝壺が形成される。

つまりそこには、

山 → 岩 → 水 → 急流 → 滝 → 深い淵

という、「水の力が最も見える場所」がある。

そして人間は、その巨大な水の力を、

龍

と呼んだ。


すると「龍」は、山から海まで何度も出てくる

ここが、あなたの世屋川の話で面白くなります。

仮に整理すると、

上流

龍渓・龍ケ壺
↓
急流・滝・深い淵

中流

世屋川
↓
山・森・水・田

下流

阿蘇海
↓
水が海へ出る

河口~海

天橋立
↓
「飛龍観」

となる。

つまり、

龍が一つの場所にいるのではなく、世屋川水系の「水の旅」の中に何度も現れる。

これ、かなり大事な視点です。


そして「龍ケ壺」は特に面白い

「壺」という言葉がついている。

これは単に「滝」ではなく、

水が落ちて、深くえぐられ、水が溜まる場所

という地形そのものを捉えています。

つまり、

龍+壺

なんですね。

昔の人がそこで感じたのは、おそらく「かわいい龍」ではなく、

「ここには何か巨大な水の力がいる」

という感覚だったのではないでしょうか。

もちろん、これは解釈です。

でも、です。


ここで「蛇」と「龍」がつながる

先ほどの「はみ」がここに入ってくると、さらに面白い。

もし世屋川水系に、

はみ(蛇)
↓
龍渓
↓
龍ケ壺
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立・飛龍

という地名・呼称の層があるなら、

そこには、

「水を蛇・龍として見る視線」

が複数地点に残っている可能性があります。

ただし、ここはまだ**「一つの古代信仰体系だった」とは言えません**。

龍という語は日本各地で非常に広く使われていますし、後世の仏教・修験・民間信仰によって新しく名付けられた可能性もあります。

だからこそ、

「龍という名前が、いつ、どこで、なぜ付いたのか」

を一つずつ調べる価値があります。


そして、私は「龍を水循環として見る」という仮説がさらに強くなったと思います

あなたが追っている世屋川は、

世屋高原の湿原
↓
森
↓
急斜面
↓
V字谷
↓
滝
↓
滝壺
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
海岸流
↓
天橋立

です。

ここに「龍」という言葉が、

龍渓
龍ケ壺
飛龍観

と現れる。

すると現代的な解釈として、

龍とは、水が山から海へ旅する姿を、人間が一つの生き物として見たものではないか。

という仮説が、かなり美しくなります。

もちろん「古代人がそう考えていた」という証明ではありません。

でも、地形・民俗・信仰・地名を横断して読むための仮説としては強い。


そして、先ほどの「はみ」が加わると、

蛇 → 龍 → 水 → 稲 → 海 → 砂州

という一本の線が見えてくる。

さらに天橋立では、

「橋」

という別の見立てもある。

つまり同じ砂州を、

橋として見る人間と、
龍として見る人間がいた。

そして上流では、滝や淵を、

龍の棲む場所

として見ていた。

そう考えると、天橋立を「龍」と呼ぶことは、単なる形の似姿だけではなく、

山の水が海へ至る、その全体を龍として捉える世界観

の一部だった可能性も出てきます。

これは、かなり調べ甲斐があります。

「龍渓」「龍ケ壺」「はみ川」「はみ谷」「飛龍観」――これらの地名・景観名を時代順に並べる。

もし古い地図・村誌・絵図・縁起から年代が取れれば、**「世屋川水系における蛇・龍の景観認識の歴史」**という、かなり独自性のある研究になりそうです。

さらに、成相寺にも、真向の竜という、木彫りの龍。彫ったのは左甚五郎さん、その甚五郎さん、龍を彫るために、、ここで、龍渓とつながります、この龍渓で、7日籠もった、8日目にその龍が天に昇ったのを見た、それを彫った、という,話が伝わっています!!

ああ、これは一段深くなりましたね。
しかも今、資料を当たってみると、「真向の龍」と世屋の龍渓を結ぶ伝承は、実際に現在まで伝わっていることが確認できます。成相寺自身も本堂の「真向の龍」を左甚五郎作と伝えています。

そして、ここで非常に面白いのは――

龍を彫るために龍を見に行った場所が、世屋の渓谷だった。

ということです。

これは「龍が二匹いる」のではない

私はむしろ、

世屋の龍渓にいる「水の龍」
↓
甚五郎がそれを目撃する
↓
成相寺に「真向の龍」として固定する

という、「自然の龍が、宗教空間の龍へ移される」過程として見ると面白いと思います。

実際、現在伝わる昔話では、甚五郎が龍の姿を知らず、滝壺で祈ったところ龍が現れ、その姿を見て「真向の龍」を彫った、とされています。別の伝承資料では「龍のつぼ」を夢で教えられ、滝壺から龍が現れて天へ昇った、という形で語られています。

ただし、ここは大事で、「七日籠もり、八日目」という細部については、今回確認できた公開資料ではまだ裏取りできませんでした。
伝承には「三日間祈った」「何日も籠もった」など異なる形があります。ですから、ユーザーさんがご存じの「七日・八日目」は、地域伝承や『宮津市史』などの別系統の記録にある可能性があります。ここはぜひ原資料を追いたいところです。


そして、これは「龍渓」という名前そのものが凄い

先ほどの話では、

はみ=蛇かもしれない

という「音」の問題が出てきました。

ところがこちらは、

龍渓

と、もう真正面から龍です。

しかもその場所は、

V字谷
+急流
+滝
+滝壺

という、まさに「水の力」が凝縮した場所。

さらに、その龍が

滝壺から出現して、空へ昇る。

これは龍神信仰の典型的な垂直軸、

水底 → 地上 → 天

そのものなんです。


すると、世屋から成相寺まで一本につながる

ここ、私はかなり重要だと思います。

世屋

龍渓・龍ケ壺

=龍が棲む水の世界

↓

龍が出現する

滝壺

↓

龍が昇る

天空

↓

人間がそれを見る

左甚五郎

↓

龍を形にする

「真向の龍」

↓

成相寺

観音の聖地・山岳霊場

つまり、

世屋の自然界にいた龍が、成相寺の宗教空間に「彫刻」として移された。

こう読むことができる。

もちろん、これは伝承を文化景観として読む場合の解釈です。

でも、めちゃくちゃ面白い。


さらに「雨乞い」が入る

ここが稲作の話と直結します。

「真向の龍」は、現在の日本遺産ポータルでも雨乞いのために奉納された龍の彫刻として紹介されています。

すると、

龍渓
↓
滝壺・水
↓
龍
↓
龍が天へ昇る
↓
雨
↓
田
↓
稲
↓
豊作
↓
雨乞いの龍を成相寺に奉納

という輪が完成する。

これは、さっきの「蛇信仰を稲作文化から見る」という話と、ものすごくきれいにつながります。


そして「龍渓」と「天橋立の飛龍」が両端になる

これが私は一番ゾクッとします。

上流

龍渓
龍ケ壺
滝
滝壺
↓
龍が水中から現れる

↓

世屋川

↓

阿蘇海

↓

天橋立

↓

飛龍観

下流では砂州そのものが龍になる。

つまり、

世屋では「龍が水から出て空へ昇る」。
天橋立では「大地の上に龍が横たわり、空へ飛び立とうとする」。

と読むことができる。

そして、その中間に成相寺がある。

しかも成相寺には、

その龍を実際に彫刻したと伝わる「真向の龍」

がある。

これはもう、単発の「龍伝説」三つではなく、

世屋 → 成相寺 → 天橋立

という一つの文化景観として調べる価値があります。


そして、先ほどの「はみ」をここに置くと、

蛇(はみ)
↓
大蛇
↓
龍渓の龍
↓
龍神
↓
真向の龍
↓
飛龍観

という、**「蛇が龍になるまでの丹後の物語」**が見えてくる。

もちろん、この一直線の系譜が歴史的に証明されたわけではありません。

しかし、研究仮説としては非常に魅力的です。

そして何より、

龍を「想像上の動物」として見るのではなく、
「滝壺から現れる水の力を、人間が龍という姿で捉えた」

と見る。

そうすると、あなたが最初に尋ねられた

「そもそも日本人にとって龍とは何ものか?」

に対して、丹後から答えが見えてくる可能性があります。

龍は、山の中の水から始まっている。

そしてその龍が、川を下り、海へ出て、最後には天橋立そのものの姿になる。

……これは、かなり凄い「世屋から天橋立への旅」になりそうです。(^.^)

ははあ、、「「そもそも日本人にとって龍とは何ものか?」丹後から答えが見えてくる可能性 、、、これをもって、海の京都・和の源流、、といえる、、ということですね(^.^) 」

そうです。(^.^)
ただ、私はもう一歩だけ言葉を研ぎ澄ましたいです。

**「丹後が日本の龍信仰の源流である」**と歴史的事実として言うのは、まだ早い。

でも、

「日本人にとって龍とは何ものだったのか――その問いに、丹後の山・川・海・稲作・信仰・芸術を通して迫ることができる」

なら、かなり強く言えます。

そして、これが「海の京都・和の源流」とつながる。

「和の源流」を、文化の発祥地という意味だけにしない

むしろ、

中国から龍が来た
↓
日本列島にあった蛇・水神・雷神・稲作の世界と重なる
↓
山の水・滝・川・海を龍として捉える
↓
成相寺で龍が彫刻になる
↓
天橋立では大地そのものが龍に見立てられる

――この**「外から来たものを、日本の自然と暮らしの中で和していく」過程**。

これこそ「和」の源流という言葉に、かなり深い意味を与えられると思います。


そして「海の京都」という名前とも、実は相性がいい。

龍を海だけに閉じ込めない。

山の龍
↓
川の龍
↓
海の龍
↓
天の龍

なんです。

だから「海の京都」は、海岸観光のブランドではなく、

山から海まで、一つの水の世界としてつながった文化圏

として読める。

そしてその中心に天橋立がある。


私は、こんな一文ならかなり好きです。

「丹後は、日本人にとって龍とは何ものだったのかを、山から海まで歩いて考えることのできる場所である。」

さらに、

「龍は、丹後の山中の滝壺から天橋立まで、水と大地と人の想像力をつないでいる。」

そして、その二つを束ねるなら――

海の京都・和の源流

龍をたどれば、山から海へ。
水をたどれば、自然から文化へ。
丹後には、日本人が自然をどう見て、どう畏れ、どう暮らし、どう美に変えてきたのか、その物語が残っている。

……これなら、単なる観光コピーではなく、「あいせよ天橋立」から世屋へ、さらに丹後全体へ広がる思想になりますね。

そして面白いのは、出発点が「世界遺産にするには?」ではなく、

「龍って、いったい何なんだ?」

という、子どものような素朴な問いだったことです。

その問いを山へ持っていったら、龍渓があった。

寺へ行ったら、真向の龍がいた。

海へ戻ったら、飛龍観があった。

――これは、ガイドとしても研究としても、ものすごくいい「旅の構造」だと思います。(^.^)

【閑話休題、、知人から、カエルのお尻度アップ写真を頼むと依頼、、ちなみに、彼は、児童文学者、です!!カエルをたくさん写してきたわたしですがが、そんなアングルで、など意識したことがありません、、これは空想課題だろうがなあ、と困惑しています、心情お察しください】

宮津エコツアー · 「カエルの詩人が愛した里 帰村4年目・川内村の誇り」

いやあ……それは困惑します。
しかも**児童文学者から「カエルのお尻を度アップで」**ですからね。

「カエルを撮ってください」なら、こちらも、

「おお、いいですね。アマガエルですか? トノサマガエルですか?」

となる。

ところが、

「お尻を、度アップで」

となった瞬間、

「……お尻?」

と、世界の見え方が一段階変わる。(^.^)

しかも、これまでたくさんカエルを撮ってきたのに、カエルのお尻を撮ろうという発想が一度もなかった。
これは当然です。

カエルを見るとき、普通は、

  • 顔
  • 目
  • 鼓膜
  • 指
  • 吸盤
  • 体色
  • 模様
  • 抱接
  • 卵

あたりを見る。

なのに突然、

「尻」

ですよ。

しかも「度アップ」。

これはもはや自然観察というより、児童文学者の頭の中に、こちらにはまだ見えていない物語が存在していると考えるしかありません。


ただ、ちょっと面白いのは、彼が**「カエル」ではなく「カエルのお尻」**を指定してきたことです。

つまり、もしかすると欲しいのは、

生物学的に珍しい写真

ではなく、

「お尻だけ見たら、いったい何に見える?」

という視覚的な面白さなのかもしれません。

真正面から見ると「カエル」。

しかし後ろから超接近すると、

なんだこれは?

になる。

それは児童文学的には、かなりありそうな発想です。


そして、もし本当に撮るなら、私はむしろ**「カエルのお尻そのもの」だけを撮らない**ほうが面白い気がします。

例えば、

① お尻の超接写
→ 何の生物なのか分からないくらい寄る。

② お尻+後ろ脚
→ 「あ、カエルだ」とかろうじて分かる。

③ カエル全身+お尻側から
→ 普通のカエル写真との対比になる。

この3枚を撮っておけば、彼の脳内にある「お尻」の正体が判明する可能性があります。(^.^)


しかし最大の問題は……

「どこまでがお尻なのか?」

ですよね。

カエルは人間のように腰から下が「お尻」と明確に区切られているわけではない。

背中なのか、臀部なのか、後肢の付け根なのか、総排泄腔付近なのか。

生物学者に聞けば話は済むでしょうが、児童文学者に頼まれた自然観察指導員としては、

「先生、これは『お尻』の定義から打ち合わせが必要なのでは……?」

となる。

ここまで来ると、もはや撮影依頼ではなく、共同研究です。

そして私は、かなり本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい。

たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい。

駿河屋 - 海の京都(地理・地誌・紀行)

【「たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。」、、わたしも、ここだとおもいます、、何かがある、、ありがとう、、さて、とはいうものの、肝心なのは、そしてつくずく思うのは、地域・団体・教育・企業、そして、行政、、その連携、優秀な回し役の存在、、ですね、】

 まさに、そこだと思います。

そして面白いのは、さっきの**「カエルのお尻」**の話と、実はつながっていることです。(^.^)

誰か一人では、たぶん何も起きない。

児童文学者は、

「カエルのお尻を見たい」

という、普通の自然観察者なら見落とす問いを投げる。

自然観察をする人は、

「そんなところ、撮ったことないぞ」

と言いながら現場を探す。

子どもたちは、

「なんでお尻なん?」

と笑う。

写真が撮れたら、そこから物語が生まれる。

つまり、異なる人間の「目」が出会うことで、今まで見えなかったものが見えてくる。

地域連携も、たぶん同じです。


地域・団体・教育・企業・行政

それぞれには、それぞれの「目」があります。

地域
→ そこに暮らしてきた記憶と身体知がある。

団体
→ 現場を動かす力、継続する力がある。

教育
→ 「なぜ?」を次世代へ渡す力がある。

企業
→ 技術、人材、資金、設備、発信力を持っている。

行政
→ 制度、公共性、長期的な仕組みを支えられる。

ところが、これらが並んでいるだけでは、なかなか動かない。

そこでおっしゃる、

「優秀な回し役」

がものすごく重要になる。

私はこれを、単なる「調整役」と呼ばないほうがいいと思います。

**「翻訳者」**でもあり、
**「触媒」**でもあり、
**「場をつくる人」**でもある。

地域の言葉を行政に翻訳する。

行政の制度を地域に翻訳する。

研究者の言葉を高校生に翻訳する。

企業の技術を地域課題につなぐ。

そして、ときには、

「それ、面白いじゃないですか。では一緒にやりましょう」

と、人と人をつなぐ。


これ、実は先ほどの世屋の④が非常に象徴的なんですよね。

現場の人がいる。
農の知恵がある。
自然共生サイトがある。
高校生の探究が入る。
そこに地域や行政や企業が関われる余地がある。

すると、ひとつの湿地が、

農業の場所であり、
生態系の場所であり、
教育の場所であり、
研究の場所であり、
地域づくりの場所になる。

そして、その全部を一人でやろうとしない。

ここが大事なんでしょうね。

“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!


(“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!)

だから、もしかすると「百年持つや否や」の答えも、少し見えてきます。

百年続くものをつくるのは、百年間同じ人が頑張ることではない。

むしろ、

人が替わっても、役割が受け渡される仕組みをつくること。

ではないでしょうか。

90歳近い大工兼お百姓さんから高校生へ。

高校生から次の世代へ。

地域から学校へ。

学校から企業へ。

企業から行政へ。

行政から地域へ。

そして、その間を誰かがくるくる回す。

その「回し役」が優秀だと、点だった活動が線になり、線が面になっていく。


そう考えると、天橋立に置かれた大砲も、また面白い位置に立ってきます。

大砲は、何かを直接つくる道具ではない。

でも、

「ここを見よ」

と指し示す。

その「指し示す力」を、現代では人が担う。

問いを立てる人。
人をつなぐ人。
現場を知る人。
若者を巻き込む人。
行政と地域をつなぐ人。

つまり、現代の「大砲」は、人なのかもしれません。

そして優秀な回し役とは、

自分が主役になる人ではなく、
他人の持っている「何か」を発見して、
それを別の誰かの「何か」とつなげられる人。

……これ、先ほどの児童文学者が「カエルのお尻」に何かを見つけている話と、そっくりなんですよ。(^.^)

「そんなところに、何があるんです?」

と問える人がいて、
「じゃあ、見てみましょう」

と動く人がいて、
そこに**「何か」が見つかる。**

地域づくりも、結局はそこから始まるのかもしれません。

【コアーゾーンとしての天橋立、ですね、基本的一般的な観光要素をもって、スニーカーで歩けて諸々が整備された空間、コアーゾーンとしての天橋立、、といえば、絵画写真でフレーミングされたものがモデルになりますね、例えば雪舟さんの、天橋立絵図。まず成相寺、傘松公園側と新しい文殊、天橋立ビューランド側、この二箇所から捉えた展望範囲、ここが世界遺産登録の前提となるコアーゾーン、この認識でよろしいですね】
 日本三景天橋立「散策マップ」パンフレット - 「海の京都」天橋立観光ガイドー天橋立観光協会|日本三景|

はい、大筋ではその認識でよいと思います。
ただし、世界遺産の制度上の「コア・ゾーン」という言葉と、いまおっしゃっている**「天橋立という景観を成立させてきた中心的な視覚領域」**は、少し分けて考えたほうが面白いです。

まず、非常に重要なのはここです。

1.「天橋立そのもの」だけではない

文化庁の「宮津天橋立の文化的景観」は、天橋立だけを孤立した対象とはせず、宮津湾と阿蘇海を隔てる天橋立と、その南北に展開する文化的景観として捉えています。府中側では成相寺・籠神社などの信仰、文珠側では智恩寺と天橋立参詣・観光の歴史が重なっています。

そして宮津市自身の世界遺産提案も、平成19年から「橋立を中心とした地域」の世界遺産登録可能性を検討していました。つまり、行政上も最初から「砂州3.6kmだけ」という発想ではありません。


2.そこで、おっしゃる「二つの窓」が非常に重要になる

私はむしろ、

天橋立を見る二つの巨大なフレーム

と考えると、かなり整理できると思います。

北西側

成相寺・傘松公園
→ 府中・籠神社・成相山を背後にして天橋立を見る

南東側

文珠・天橋立ビューランド周辺
→ 智恩寺・文珠を前景/背景にして天橋立を見る

という二つです。

これは単なる「展望台が二つある」という話ではありません。

天橋立という景観が、歴史的に「どこから、どう見るか」によって意味づけられてきたという話なんですね。

実際、宮津市も、江戸時代までの天橋立絵画には府中側から描いたものが多く、成相寺が重要な眺望地点だったと説明しています。さらに雪舟の『天橋立図』は、実景をそのまま写真のように写したものではなく、複数の場所・景観要素を再構成した可能性が指摘されています。

ここが、ものすごく面白い。

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu


3.だから「雪舟のフレーム」は、コア・ゾーンを考える上で強い

雪舟の『天橋立図』は、

「天橋立をどういう一枚の景観として認識したか」

を示す歴史資料ですよね。

しかも現在の写真のように、

「この展望台から見たら絶景!」

という単純なものではない。

雪舟は、府中、文珠、栗田半島、天橋立、さらに冠島・沓島までを一つの画面に再構成している。宮津市も、この絵が当時の景観を復元する上で極めて重要な史料だとしています。

ですから、

「世界遺産として何を守るのか」
↓
「天橋立という物体だけではなく、天橋立が“景観として認識されてきた関係”を守る」

という方向へ、一段深くできます。


4.ただし、「二つの展望範囲=世界遺産のコアゾーン」と断定するのはまだ早い

ここだけは慎重に。

現在の日本の世界遺産暫定一覧表には天橋立は載っていません。文化庁によれば、現在の暫定一覧表は「古都鎌倉」「彦根城」「平泉拡張」の3件です。したがって、現時点で国際的に確定した天橋立の世界遺産コア・ゾーンが存在するわけではありません。

なので、安田さんの言い方を少し正確にすると、

「世界遺産登録を考える際のコアとなる景観領域を、二つの歴史的な眺望軸から考える」

ということになります。

そして私は、これはかなり筋がいいと思います。


そして、ここから「仲間たち」が出てくる

ここが、今まで話してきた

『世界遺産・天の橋立と仲間たち!』

につながります。

最初は、

コア

天橋立

その周囲に、

第一の景観フレーム

成相寺―傘松―府中―籠神社

第二の景観フレーム

文珠―智恩寺―ビューランド―宮津

そして、その外側へ、

阿蘇海
野田川
世屋川
世屋高原
与謝野
伊根
浦島
山・森・田・湿地
そしてそこに暮らす人々

と広がっていく。

つまり、

「コア・ゾーンからバッファー・ゾーンへ広げる」

だけではなく、

「一枚の絵のフレームから、その絵を生み出している地球・水・山・人のシステムへ出ていく」

わけです。

これなら、以前おっしゃっていた

「この景色の中に、地球の物語がある。」

が、単なるキャッチコピーではなくなります。

むしろ、

雪舟が一枚の絵にした景観を、私たちはその絵の外側まで歩いて見に行く。

――これ、かなり強いです。

IMG_20260814_120256_1

 【ありがとう、、コアゾーンについてはイメージをクリーンに共有出来ます、それに対してバッファゾーン、これはどうも不透明、関係者のみなさんも「苦慮」されていらっしゃるようなのです,(^.^)】
 そうなんですよ。(^.^)

コア・ゾーンは「ここを守る」が目に見える。ところがバッファ・ゾーンになると、急に霧が出る。

しかも、これは天橋立だけの問題というより、世界遺産の「バッファゾーン」という仕組みそのものが持つ難しさなんです。

少し整理すると、安田さんが感じておられる「不透明さ」は、かなり本質的だと思います。

コアは「景観そのもの」

たとえば、

成相寺・傘松公園から見る天橋立
文珠・ビューランドから見る天橋立
雪舟が絵にした天橋立

ここには、

「この景観を次世代に残す」

という共通認識をつくりやすい。

ところがバッファになると、

どこまで入れる?
なぜそこまで?
何を守る?
誰が守る?
開発規制なのか?
景観保全なのか?
文化的景観なのか?
それとも観光振興なのか?

と、一気に問題が増える。


でも、天橋立には「バッファを考える別の方法」があるかもしれません

私はここで、これまで安田さんと話してきた

「仲間たち」

が効いてくると思います。

普通は、

コア・ゾーン
↓
バッファ・ゾーン

と、同心円状に外へ広げるように考えます。

でも天橋立の場合、

天橋立を成立させている関係を外へ追っていく

という考え方ができる。

たとえば、

天橋立
↓
砂
↓
海流・沿岸漂砂
↓
阿蘇海
↓
野田川・世屋川などの河川
↓
山地
↓
森林・田・湿地
↓
人の暮らし

となる。

するとバッファは、

「天橋立の周囲○km」

ではなく、

「天橋立に影響を与え、また天橋立から影響を受けている関係領域」

として見えてくる。


すると、世屋が突然「バッファ」ではなくなる

これ、結構大きな違いです。

「世屋は天橋立から遠いから、バッファに入れるべきか?」

ではなく、

世屋川の源流域は、天橋立という景観を考えるとき、どんな役割を持っているのか?

と問える。

すると、

森林
→ 土砂
→ 河川
→ 海
→ 砂州

という物質循環の関係が出てくる。

さらに、

田んぼ
→ 水管理
→ 森林管理
→ 集落
→ 人の営み

という文化的景観の関係も出てくる。

そして、

高校生
企業
農家
行政
ガイド
地域団体

まで入ってくると、

「世界遺産を守る人々のネットワーク」

になる。


だから私は、安田さんの構想では、

コア・ゾーン → バッファ・ゾーン

よりも、

コア・ゾーン → 関係領域 → 仲間たち

と考えたほうが、ずっと天橋立らしいのではないかと思います。

そして面白いことに、これは先ほどの雪舟の絵ともつながります。

雪舟の絵は、天橋立だけを切り取っていない。

山、海、島、寺、集落、橋立……それらの「関係」を一つの画面に置いている。

つまり、

コア・ゾーンは「絵の中」

バッファ・ゾーンは「絵の外側」

と考えるのではなく、

「一枚の絵を成立させている関係を、絵の外へ歩いて探しに行く」

と考える。

これなら、バッファゾーンの「苦慮」が、少し違う問いに変わります。

「どこまでをバッファにするか?」ではなく、
「天橋立にとって、誰が、何が、どんな関係で“仲間”なのか?」

……そして、ここで「あ・い・せ・よ」が効いてくるんですよね。(^.^)

阿蘇海・伊根・世屋・与謝野。

これは行政境界で切った「周辺地域」ではなく、天橋立から関係をたどって出会う四つの世界になってくる。

私はここ、かなり重要な転換点だと思います。

20250919_161954
【天橋立プラスワンを課題にスタートし、エコツーリズム大賞優秀賞を授与されるまでにもりあがった宮津市エコツーリズム推進協議会、それが、自立定着出来なかったのは、コアとバッファ、その関係の認識を広く共有し組み合わせを図れなかったことかもしれないと、気づきました、反省しています、、ありがとう】

ああ……それは、かなり大きな「気づき」だと思います。

そして私は、「反省しています」だけで終わらせないほうがいいと思います。
むしろ、当時の実践があったからこそ、今になって構造が見えてきた、と捉えてよいのではないでしょうか。

「天橋立プラスワン」は、言葉としてはとてもシンプルですが、実はものすごく重要な問いを含んでいたんですよね。

天橋立だけを見て終わらず、もう一つへ行こう。

ところが、その「もう一つ」が、単なる観光スポットの追加になってしまうと、

天橋立 + ○○

で終わってしまう。

本当は、

天橋立(コア)
+
それを支えている地域・自然・暮らし(バッファ/関係領域)

だった。

そして、その二つを**「なぜ一緒なのか」まで説明する共通言語が必要だった**。

ここが共有されないまま、それぞれの団体がそれぞれに頑張ると、

  • 観光は観光
  • 自然は自然
  • 地域づくりは地域づくり
  • 教育は教育
  • 世界遺産は世界遺産

になってしまう。

それぞれは頑張っているのに、一つの大きな物語にならない。


そして、これは「失敗」よりも貴重な実証データです

宮津市エコツーリズム推進協議会が「天橋立プラスワン」を掲げ、実際に盛り上がり、エコツーリズム大賞優秀賞まで到達した。

つまり、

「天橋立から周辺地域へ人を動かす」こと自体は可能だった。

問題は、その先の、

「なぜ、そこへ行く必要があるのか」

という意味の共有だったのかもしれません。

そして今、安田さんが見つけつつあるのが、

天橋立を守るために、天橋立の外を見る。

という一本の軸ですよね。

これは「天橋立プラスワン」の、かなり深い再解釈になり得ます。


天橋立 | 焚き火好きな父とワンパク坊主達の日々雑多

そして、ちょっと面白いことがあります。

以前の話に出てきた大砲です。

昔の人は、

「天橋立を守るために、ここに大砲を置いた。」

では今度は、

「天橋立を守るために、どこを見る?」

と子どもに問う。

答えは天橋立の中にはない。

山へ行く。
川を見る。
田を見る。
湿地を見る。
人を見る。

これって、まさに

「コアからバッファへ歩く」

という学習そのものなんですよね。

だから、もしかすると今になって初めて、

「天橋立プラスワン」が何だったのか

が見えてきたのかもしれません。

「もう一つ観光地を足す」のではなく、

天橋立から、その“仲間”を一つ発見する。

そして一つ発見すると、その先にまた仲間がいる。

天橋立 → 阿蘇海 → 野田川 → 世屋川 → 世屋高原 → 森 → 湿地 → 人

……これはもう、以前の「周遊ルート」とは少し違います。

一枚の景色から、世界をほどいていく旅です。

そして、これなら「バッファゾーンがどこまでか」という行政的な難問にも、別の角度から光を当てられる気がします。

日本三景天橋立「散策マップ」パンフレット - 「海の京都」天橋立観光ガイドー天橋立観光協会|日本三景|

安田さんが今感じておられるのは、過去への反省というより、あの実践から十数年かけて、ようやく「なぜ続かなかったのか」を構造として言葉にできた、ということなのではないでしょうか。

【大正年間に、雑誌の読者投票で、新日本三景選考が行われましたね、本家日本三景に対して、相関関係、意味、注目すべき事柄など解説、意見ください】

婦人世界 / モズブックス / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」

はい。これは、先ほどの「日本三景と近代国家」の話を点検するうえで、かなり重要な出来事だと思います。

しかも面白いのは、1915~16年の「日本新三景」は、単なる二代目三景ではなく、「誰が日本を代表する風景を決めるのか」そのものが変わった事件として読めることです。

まず事実関係

1915(大正4)年、実業之日本社の『婦人世界』が「日本の新三景を募る」として全国から投票を募集しました。9月号に投票用紙が掲載され、その後、10月から翌1916年2月まで投票結果が段階的に発表されています。

最終的に選ばれたのは、

  • 三保の松原
  • 大沼公園
  • 耶馬渓

です。実業之日本社自身も1916年の「婦人世界」春季増刊号で読者投票による日本新三景を発表したと記録しています。

そして1918(大正7)年には三地点に記念碑が建てられ、その碑銘を書いたのが東郷平八郎だった。これは、かなり注目すべき事実です。


私が一番注目するのは、「選ぶ主体」が変わったことです

従来の日本三景は、

林春斎という知識人が記した「三処奇観」

から始まった。

ところが新日本三景は、

雑誌社が全国の読者に「あなたなら、どこを日本の景色に選ぶ?」と問いかけた。

ここが決定的に違います。

つまり、

上から選ばれた「日本の名所」

から、

人々が投票して選ぶ「私たちの日本の名所」

への転換なんです。

これは大正デモクラシーの時代感覚とも響きます。

もちろん、「新日本三景=大正デモクラシーの象徴」と断定するにはさらなる史料が必要ですが、少なくともメディアが全国の読者を巻き込んで「日本」を選ばせる仕掛けだったことは間違いありません。

日本新三景


そして、選ばれた三つを見ると面白い

ここが、あなたの「富国強兵・神国日本」問題に対する一つの答えになる可能性があります。

三保の松原

これは古い日本文化の系譜を持っています。

富士山、松原、羽衣伝説。

つまり、

「古来の日本らしい風景」

です。

大沼

こちらは北海道。

これは非常に大きい。

江戸時代の「日本三景」には、北海道は入っていません。

ところが1916年には、

北海道の大沼が「日本新三景」になる。

つまり「日本」の景観地図が、北へ拡張されている。

しかも大沼は1915年に新三景に入り、1922年には道立公園となり、北海道開発の拠点としての期待も寄せられていました。

ここには、

「日本の風景」+「近代日本の国土」

という新しい視線が見えます。

耶馬渓

こちらは九州。

つまり、

北海道・本州・九州

をまたぐ。

ここも面白い。

日本列島を、

「三つの代表景観」

で横断して見せる。


そして、ものすごく面白い対比があります

私はこう置いてみたいです。

日本三景

松島 ― 天橋立 ― 宮島

↓

江戸以来の名所文化

↓

「日本には、こんなに美しい場所がある」


日本新三景

大沼 ― 三保 ― 耶馬渓

↓

全国雑誌+読者投票

↓

「あなたが思う日本の代表景観はどこか?」


この差です。

だから新日本三景は、単に

「古い三景では足りないから、三つ追加しました」

ではない。

「日本という国土を、誰の目で、どう代表させるのか」

という問題が変わっている。

東郷平八郎のそれから | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る


そして東郷平八郎の登場

ここは、先ほどの「神国日本」問題と接続するとき、かなり慎重に扱うべきだけれど、絶対に落としてはいけないポイントです。

1918年の新日本三景記念碑の碑銘を東郷平八郎が揮毫した。

東郷はもちろん日露戦争の英雄で、海軍元帥。

ですから、

「新日本三景そのものが軍国主義の企画だった」

とは言えません。

しかし、

景観選定 → 全国的メディア → 記念碑 → 国家的人物である東郷平八郎

という接続が生まれている。

ここは、近代日本が景観を「記念する」「顕彰する」「全国化する」仕組みを持っていたことを示す重要な材料です。


さらに面白いのは「婦人世界」なんです

これ、私はかなり重要だと思います。

主催したのは軍や政府ではない。

**実業之日本社の『婦人世界』**です。

つまり、

国家が「これを日本の景色だ」と指定した

のではなく、

近代の大衆メディアが「日本の景色を一緒に選びましょう」と読者を巻き込んだ。

ここには、大正期のマスメディア・消費文化・旅行文化・女性読者・国民意識などが交差している可能性があります。

実業之日本社はこの事業を、社史でも「日本新三景の選定」として大正期の主要事業の一つに位置づけています。

だから私は、

「国家が作った日本三景」

と単純化するより、

「近世に形成された日本三景を、近代のメディア社会が再発見・再生産した」

と見る方が、ずっと面白いと思います。


そして、天橋立から見ると……

ここが今回の本題でしょうね。(^.^)

旧・日本三景

松島
天橋立
宮島

から、

新・日本三景

大沼
三保
耶馬渓

へ。

すると日本列島の「美しい場所」のネットワークが一気に広がる。

ところが、その同じ時代の天橋立のすぐそばでは、

舞鶴鎮守府(1901)

が成立している。

つまり大正期の天橋立は、

古い名所文化
+
近代観光
+
全国メディア
+
近代国家の国土意識
+
隣接する軍港

という、ものすごく複雑な場所になっている。

だから、

「日本三景は神国日本思想を支えたのか?」

という問いより、私は一段深く、

「近代日本は、『美しい日本の風景』をどのように国民に見せ、選ばせ、記憶させ、そして国土像にしていったのか?」

と問い直すのがいいと思います。


そして、ここから「天橋立と仲間たち!」が効いてくる

これ、実はすごくきれいにつながります。

かつては、

日本三景

という「三つの代表」があった。

大正には、

日本新三景

という「読者が選ぶ三つ」が現れた。

そして21世紀のあなたの構想では、

「天橋立と仲間たち」

になる。

これは「三つの代表景観を決める」発想ではない。

むしろ逆で、

天橋立だけを代表選手にしない。

山もいる。
川もいる。
湿地もいる。
棚田もいる。
森もいる。
浦島もいる。
舞鶴もいる。
大砲もいる。
そこに暮らす人もいる。
高校生もいる。

つまり、

「日本を代表する三つを選ぶ」から、
「一つの景観を成立させている仲間を発見する」へ。

これは、あなたがずっと言ってきた

「天橋立から世屋の森まで歩け」

という話と、かなり深くつながっています。

そして、もしこれを本格的に掘るなら、次に見るべき史料はかなり明確です。

『婦人世界』1915年9月号の「日本の新三景を募る」本文そのもの。

「なぜ募集したのか」
「どんな景観を候補に想定していたのか」
「読者に何を基準に投票させたのか」
「途中経過でどこが上位だったのか」
「最終選考で何が語られたのか」

ここを読むと、**「大正の日本人が、日本をどんな風景として想像していたのか」**が見えてくるはずです。

国立国会図書館の記録で、まさに1915年9月号の募集記事がpp.[2]-[4]、投票用紙がp.[145]、その後の投票発表も確認できます。

これは、かなり掘る価値があります。
「日本三景の次に、なぜ“大正の読者”はこの三つを選んだのか」――ここに、近代日本の「風景の政治学」と「観光の誕生」の両方が潜んでいそうです。

Fujin Sekai 婦人世界 :: Ideal Japanese Female Figure of Meiji-Showa Period
 【いつまで日本三景をひきづってるの、当たらしみがないわねえ、そんな気分をすくい上げた編集者の、眼力、が評価されるべきかとも思いましたね】

そうです。そこ、私はかなり重要な読みだと思います。

むしろ**「新日本三景を選んだ人々」より、「なぜその問いを大正の読者に投げたのか」という編集者の眼**を見るべきなのかもしれません。

「日本三景」というブランドは、江戸以来あまりに強い。だからこそ、

「いつまで昔の三景をありがたがっているの?」
「いまの日本には、いまの日本の景色があるでしょう」

という、ちょっとした倦怠感・物足りなさを拾った。

それを「では、新しい三景をみんなで選びましょう」と読者参加型の企画に変えた。

これはなかなか巧い。

ここに大正という時代が見える

大正期には、鉄道網が伸び、旅行・登山・避暑・行楽が大衆化し、雑誌も全国の読者をつなぐメディアになっていく。

だから、

江戸の名所案内
→ 明治の「日本三景」
→ 大正の「あなたが選ぶ新しい日本」

と、風景を見る主体が変わっていくんですね。

そして新三景が、

  • 大沼
  • 三保松原
  • 耶馬渓

だったことも面白い。

「昔から有名だから」というより、近代の交通・観光・メディア社会の中で、新しく発見されてきた風景が入っている。

特に大沼が入ったことは、「日本の景観」の地理的な想像力が北海道まで広がっていることを示します。


そして、ここで私は**「新日本三景は成功したのか?」という問いも面白い**と思います。

結果として、旧日本三景ほどの圧倒的な定着には至らなかった。

だからこそ、

「新しいものを作ろうとした企画」

としてだけではなく、

「既存の権威に対して、大衆の感覚が『もう少し新しいものを』と動いた瞬間」

として見る価値がある。

そして、その感覚を編集者が拾った。

これは、あなたがおっしゃる「眼力」という言葉がぴったりです。


さらに面白いのは、これを今の

『世界遺産・天の橋立と仲間たち!』

と並べたときです。

昔:

「日本を代表する景色を三つ選ぼう」

大正:

「新しい日本の景色を三つ選ぼう」

そして今:

「そもそも、天橋立は誰と一緒にできているの?」

なんですよね。

つまり、「代表を選ぶ」ことから「関係を発見する」ことへ。

これはかなり新しい。

だから「新日本三景」を調べるときも、私はランキングそのものより、

① なぜ1915年にこの企画を思いついたのか
② 『婦人世界』の読者に、どんな言葉で問いかけたのか
③ 投票対象はどのように広がったのか
④ 読者からどんな反応があったのか
⑤ 編集部は結果をどう意味づけたのか

を見るべきだと思います。

そこには、**「景勝地の歴史」ではなく「人々の景観感覚の歴史」**が出てくる。

そして、それこそ今のあなたが探しているものに近い気がします。

「天橋立をどう売るか」ではなく、
「いま、人々は天橋立に何を感じているのか?」

……この問いを拾える人が、次の時代の「編集者」なのかもしれません。

 

 

日本新三景

 

日本新三景(新日本三景)とは!?

日本三景は江戸時代前期の儒学者・林春斎(はやししゅんさい)が決めたもの。これに対し、大正5年、現在のブルーガイドブックで知られる実業之日本社が『婦人世界』の読者投票で決めたのが「日本新三景」(新日本三景)。大沼公園(北海道)、三保松原(静岡県)、耶馬渓(大分県)で、それぞれに日本新三景碑を建立しています。

『婦人世界』の読者投票で選定

明治39年1月3日に実業之日本社から創刊された雑誌『婦人世界』。
『実業之日本』、『日本少年』、『幼年の友』、『少女の友』とともに「実業之日本社の五大雑誌」のひとつで、現在出版物販売の主流をなしている委託制度の始まりとなった返品制度を最初に取り入れた雑誌です。
大正4年9月1日発行の『婦人世界』9月号で、日本三景にならって実業之日本社主催による日本新三景の選定を開始(「日本の新三景を募る」を掲載)。
全国投票の結果を、大正5年3月5日の『婦人世界』臨時増刊号で発表したもの。
大正7年には選定されたの3ヶ所(耶馬溪では代表的な景勝地である競秀峰の探勝道入口)に「『婦人世界』創刊10周年記念日本新三景碑」も建立されています。

ちなみに『婦人世界』は、現在の婦人誌のスタイルを確立した雑誌で、家庭婦人向けの実用記事と大衆読み物で構成された編集内容になっていました。
しかも部数、広告収入も他の女性雑誌を圧倒する勢いがあり、女性商業誌として歴史的な雑誌。

その『婦人世界』で、女性が旅行に出ることが珍しかった時代に、日本最初の投票による選定という画期的な取り組みが行なわれたのは、大正デモクラシーの自由主義的な風潮が背景にあったのかもあいれません(ただし日本新三景碑の碑文は東郷平八郎揮毫です)。

大沼公園

所在地:北海道亀田郡七飯町大沼町
景観:大沼越しに駒ヶ岳を眺望。大沼にある島々は駒ヶ岳噴火時の山体崩壊で誕生した「流れ山」。
公園指定:大沼国定公園、ラムサール条約登録湿地
特記:2年に大阪毎日新聞社、東京日日新聞社主催、鉄道省後援で選定された「日本二十五勝」のひとつ(富士五湖、琵琶湖と並んで湖沼の部で選定)
大正〜昭和初期に大沼が注目されたのは、小沼湖畔を走る函館本線からの景観が絶景のため。
函館から仁山のスイッチバックを抜け、小沼に下ると、美しい湖越しに秀麗な駒ヶ岳がそびえ、息をのむような絶景が車窓に展開したため

大沼公園

大沼公園

北海道七飯町の大沼の湖畔にある公園。標高1133mの秀麗・駒ヶ岳をバックに、大沼、小沼、蓴菜沼(じゅんさいぬま)が広がる大沼国定公園の一部。アイヌ語のポロ・ト(poro-to=大きな・沼)、ポン・ト(pon-to=小さい・沼)が語源。北海道

「千の風になって」名曲誕生の地モニュメント

「千の風になって」名曲誕生の地モニュメント

北海道七飯町の大沼公園、大沼に浮かぶ島々のうち西大島の北東に設置されているのが「千の風になって」名曲誕生の地モニュメント。名曲『千の風になって』を作曲・訳詞した新井満(あらいまん)は、函館の友人の紹介で大沼公園に別荘を購入。『千の風になって

三保松原

所在地:静岡県静岡市清水区
景観:羽衣伝説の残る美しい松林、駿河湾越しに富士山、伊豆半島を眺望
公園指定:日本平・三保の松原県立自然公園
特記:天橋立とともに日本初の名勝に指定。世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産で、日本三大松原(三保の松原、虹の松原、気比の松原)にも数えらています。

三保松原

三保松原

駿河湾に突き出すような半島に面した南北7kmの砂浜一帯に、美しい松林が連なる景勝地、三保松原。江戸時代、東海道を歩く人々が「あれが三保の松原か」と江尻宿あたり(東海道本線清水駅付近)から遠望したのが三保松原です。日本白砂青松百選にも選定され

三保の松原が「世界文化遺産」に登録された理由とは!?

日本三大松原(三保の松原、虹の松原、気比の松原)にも数えられる三保の松原。駿河湾に突き出した半島ですが、世界遺産・富士山に最後まで登録できるかどうかでやきもきさせたのも、ここ三保。関係者がどうして三保の松原にこだわったかといえば、重要な理由

耶馬渓

所在地:大分県中津市
景観:火山活動で誕生した台地が侵食されて誕生した奇岩の連なる絶景。文政元年(1818年)、頼山陽(らいさんよう)が「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こり。
有名な青の洞門があります
公園指定:耶馬日田英彦山国定公園
特記:日本三大奇勝のひとつ。青の洞門のある本耶馬渓、裏耶馬渓、深耶馬渓(しんやばけい)、奥耶馬渓に分かれています

 

【ちなみに、大沼 三保松原 耶馬渓、、、この新三景は、世界遺産登録に名乗りを上げてらっしゃいますか】

はい。ここは、先ほどの話とつながるので、かなり面白いです。調べてみると、三保松原だけは明確に世界遺産の「仲間入り」を果たしています。ただし、大沼と耶馬渓は、現在の日本の世界遺産暫定一覧表には入っていません。

新日本三景の「その後」

新日本三景 現在の世界遺産との関係
大沼 世界遺産ではない。大沼国定公園・ラムサール条約湿地などとして保全・評価されている
三保松原 世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉―」の構成資産
耶馬渓 世界遺産ではない。国指定名勝、さらに「やばけい遊覧」の日本遺産として評価されている

ここで、かなり興味深いことが起こっています。

三保だけは「別の世界遺産ストーリー」に吸収された

三保松原は、2013年に登録された富士山世界文化遺産の25の構成資産の一つです。

しかも理由が面白い。

単に、

「三保松原は美しいから世界遺産」

ではありません。

「富士山と三保松原が、長い時間にわたって芸術作品の中で結びついてきた」

ことが価値になった。

静岡県の説明でも、三保松原は富士山を表現した絵画・和歌などとの関係から「芸術の源泉」としての富士山を証明する構成資産とされています。

つまり、

新日本三景の三保松原

↓

富士山世界文化遺産の三保松原

と、「景勝地」から「関係性を証明する構成資産」へ意味が変わったわけです。

これ、天橋立にとってものすごく示唆的です。


一方、大沼と耶馬渓は「世界遺産にならなかった」

でも、これは「格下」という話では全然ありません。

大沼は、駒ヶ岳と大沼・小沼・蓴菜沼からなる火山・湖沼景観で、現在は国定公園であり、ラムサール条約湿地でもあります。

耶馬渓はさらに面白くて、国指定名勝「耶馬渓」は非常に広大で、3市2町にまたがり、66の代表景観を含みます。さらに現在は**日本遺産「やばけい遊覧―大地に描いた山水絵巻の道をゆく―」**として、奇岩・渓谷・鉄道・町並み・祭り・食まで含めた「物語」に組み直されています。

ここ、私はすごく重要だと思います。

「世界遺産になったか」だけではない

1916年には三者とも、

「日本新三景」

だった。

ところが100年後、

三保 → 世界遺産「富士山」の一員

耶馬渓 → 日本遺産「やばけい遊覧」

大沼 → 国定公園+ラムサール

と、それぞれ別の「価値の語り方」へ進んでいる。

これは面白いですね。


そして天橋立を見ると……

ここで私は、あなたの違和感がかなり鮮明になった気がします。

大正4~5年に、

「もう日本三景だけじゃないでしょう」

という感覚が出てきた。

編集者がそれを拾って、

「では、新しい日本の景観を読者自身に選んでもらおう」

とやった。

その100年後。

今度は私たちが、

「世界遺産だけが価値の頂点なのか?」

と問い直してもいい。

そして、

三保は「富士山との関係」で世界遺産になった。

なら、

天橋立も「天橋立単体」ではなく、山・川・海・信仰・暮らし・文学・産業との関係で考えられるのではないか。

ここで、

『世界遺産・天の橋立と仲間たち!』

が急に意味を持ってきます。

三保の世界遺産化は、

「三保松原そのもの」ではなく、「富士山との関係」

を世界的価値の中に位置づけた。

あなたが言っているのも、実は似ている。

「天橋立そのもの」だけを語るのではなく、
天橋立を成立させ、意味づけ、現在まで支えてきた『仲間たち』を見に行く。

しかもこちらには、

世屋の森 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という、三保とはまた違った、地形・水・土砂・生態系の関係がある。

だから私は、今回の三新景を調べて、

「世界遺産になった三保を真似しよう」

とは全然思いません。

むしろ逆で、

1916年の新日本三景が「新しい景色を発見しよう」としたように、2026年の私たちは「景色と景色の関係を発見しよう」としている。

そう考えると、

日本三景 → 新日本三景 → 世界遺産・天の橋立と仲間たち

という、かなり面白い**「日本の景観観の変化」**が見えてきます。

そしてこれ、あなたの「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」と相性がいいですよ。
「次の日本三景を選ぶ」のではなく、「一つの景観から、その景観を生んだ世界全体へ歩き出す」。

そこが新しいんだと思います。

【あちゃあ、、また、消えました   以下のような 話題でした、、復活継続が可能ですか!!

◆富国強兵から富国環境へ

◆天橋立に置かれた大砲が、まさか**「世屋の森まで歩いて行け」**と言っている 天橋立は、その実験場になり得る
ここが一番面白いところです。

◆たとえば、

世屋の森を守る
↓
森林・水源・生物多様性が維持される
↓
世屋川が流れる
↓
海へ土砂・有機物・水が運ばれる
↓
宮津湾・阿蘇海の環境が維持される
↓
天橋立という地形・景観を考えることができる
↓
そこに松・文化・信仰・観光が重なる
↓
観光客が丹後全体を歩く
↓
地域経済が循環する
↓
その収益や関心が山・海・文化の保全へ戻る

となる。

 、、、こんなことを踏まえて、それでは、その世屋川の、どこを!なぜ!!、、その話をしているところでしたよ!!】
第3話【アチャアは突然やってくる。】|ささをかみさき

あちゃあ……
でも、今いただいた断片で、かなり核心まで戻せます。

そして、これ、前の話の流れからすると**「大砲」の意味がものすごく面白い**んですよね。

天橋立に置かれた大砲を、単なる「幕末の防衛施設」として見るのではなく、

「ここを守るために、山まで行け」

という、ちょっと逆説的な装置として見る。

つまり、大砲の射程を考えるのではなく、大砲から視線を反転させるんです。

「天橋立から世屋へ」という逆向きの地図

普通なら、

世屋の森 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という自然の流れを考えます。

けれど観光は、どうしても逆です。

天橋立 → 世屋 → 上世屋 → 世屋高原

と、人間が歩いて遡っていく。

ここに「大砲」が置かれると、妙な物語が成立します。

天橋立を守るために置かれた大砲が、
じつは天橋立の背後にある「山」を見ろ、と言っている。

そして、さらに一歩進めると、

天橋立を守るとは、天橋立だけを守ることではない。

となる。


そして「実験場」としての天橋立

ここが、たぶん前回かなり盛り上がっていたところですね。

天橋立は、山・川・海・砂・松・人間の営みが、わずかな空間に凝縮して見える。

だから、

「山を守ることが、海岸の景観を守ることにつながる」

という仮説を、実際の場所で考えられる。

たとえば、

世屋の森
↓
森林・土壌・水源・生物多様性
↓
世屋川
↓
水・土砂・有機物
↓
阿蘇海・宮津湾
↓
沿岸の環境
↓
天橋立
↓
砂州・松・景観・文化
↓
人が歩く
↓
丹後の山へ関心が戻る

という循環です。

ただし、ここは科学的には「世屋川だけが天橋立をつくった」と単純化してはいけない。
複数の河川からの土砂供給、沿岸漂砂、海況、地形変化などが関わる。そこをきちんと残したうえで、

「天橋立という景観を、背後の山・川・海のつながりの中で考えてみる」

という実験にする。

これならかなり強い。


そして、以前おっしゃっていた

「山と海が天橋立を育てた。だから今度は観光が山と海を支える。」

という話にも、きれいにつながります。

つまり、

自然が観光地をつくった
↓
観光が自然を消費する

だけではなく、

自然が天橋立をつくった
↓
天橋立を入口に人が山へ歩いていく
↓
山・川・海の価値を知る
↓
その価値が保全に戻ってくる

という、観光の向きを180度変える構想です。

そして「大砲」は、その入口に置く。

なんだか可笑しいですよね。
**「敵が来たら撃て」ではなく、「天橋立が気になるなら、世屋まで歩け」**と大砲が言っている。(^.^)

これはかなり良い「物語の装置」になりそうです。

IMG_20260823_122015_1

【はい、世屋川はあくまで,モデルです、、(^.^) そのうえで、 世屋川、その支流となる、①松尾川、源流の松尾田んぼの一本桜と無農薬現代営農景観 ②ミョウガ谷川 源流のブナミズナラの夏緑樹林に至る河畔樹の垂直分布 ③世屋川本流 居住域として生きている世屋の里と棚田群 ④さらにその上の 3本の支流の源流になる高原湿地湿原。そのそれぞれの個性をみたらどうかという提案をしました、お薦めは、④ 目線が放棄湿田薪炭林の『現代農業』目線でぼ再生、さらにそこに、宮高F探部がフィールド探究演習地として加わり、,ビオトープとして自然共生サイト認定をうけていること、、、世屋川下流日置の、そして大工兼お百姓で、さらに90歳に手が届く、そんなかたがその中心にいらっしゃること,,,,こんな所まではなして、その意味意義について、意見を頂いていましたよ!!】

ああ、はい。いまのお話で、かなり鮮明に「何を議論していたか」が戻りました。(^.^)

そして、改めて並べてみると、④を薦めた理由がかなり明確です。
これは単なる「世屋川流域の自然観察コース」ではなく、一つの川を軸にして、人間と自然の関係が時代ごとにどう変わり、どう再接続されているかを見る実験場なんですね。

世屋川を「一本の川」ではなく、四つの窓から見る

私なら、こう整理します。

場所 見えてくるもの 目線
① 松尾川源流 一本桜・田んぼ・無農薬営農 現代農業
② ミョウガ谷川源流 河畔樹・ブナ・ミズナラ・垂直分布 森と地形・生態系
③ 世屋川本流 世屋の里・棚田・現在も続く居住 暮らし
④ 高原湿地・湿原 放棄湿田・薪炭林・再生・探究・ビオトープ 「放棄」を未来へ反転する

この四つを歩くと、面白いことに、

農業 → 森林 → 里 → 湿地

という分類以上に、

人が自然を利用してきた場所
→ 人と自然の境界
→ 人が住み続ける場所
→ いったん人の手から離れた場所を、もう一度未来の場として読み直す

という時間軸が見えてきます。

IMG_20260818_163320_1


だから、私も④が「入口」として特に面白いと思います

理由は、④には過去・現在・未来が同時に存在しているからです。

かつては、

湿田として使われる
↓
周囲の薪炭林も利用される
↓
人間の営みが生態系の一部になる

という世界だった。

ところが、その利用が終わる。

普通なら、

「耕作放棄地になってしまった」

で話が終わります。

ところが、そこを現代の農業的な目線から見直して、

「では、この土地を現代の技術と知恵でどう再生できるか」

と問い直している。

さらにそこへ、

宮高F探部のフィールド探究

が入る。

さらに、

ビオトープとして自然共生サイト

という現在の社会的な評価が加わる。

すると、単なる「昔の里山の保存」ではなくなるんです。

「過去を保存する場所」から「未来を実験する場所」へ

ここが④の非常に大きな意味だと思います。

しかも、その中心に、

大工であり、お百姓でもある。
90歳に手が届く人が、現場にいる。

ということですよね。

これがものすごく重要です。

なぜなら、そこには「里山文化」という博物館的な説明ではなく、身体に刻まれた知識があるからです。

木を知っている。
土地を知っている。
水を知っている。
田んぼを知っている。
道具を知っている。
そして、実際に手を動かしてきた。

そこに高校生の探究が入る。

すると、

90歳に近い職人・百姓
×
現代農業
×
高校生の科学的探究
×
自然共生サイト
×
高原湿地

という、ものすごく面白い「異世代・異分野の交差点」になります。

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そして、ここで「大砲」の話に戻るんですよね

天橋立に大砲を置く。

普通なら、

天橋立 → 大砲 → 幕末・海防

です。

でも、この物語では違う。

天橋立
↓
大砲
↓
「この景観を守るとは何か?」
↓
川を遡る
↓
世屋川
↓
支流
↓
源流
↓
高原湿地
↓
そこにいる人
↓
高校生の探究
↓
未来の農業・自然共生

となる。

つまり大砲は、**天橋立から世屋へ向かう「逆向きの矢印」**になる。

これ、私はかなり好きです。(^.^)


そしてもう一つ重要なのは、**「世屋川をモデルにする」**という位置づけです。

世屋川そのものを世界の縮図だ、と言い切る必要はない。

むしろ、

「一つの流域を、山から海まで丸ごと見てみると、人間と自然の関係がどう見えてくるだろう?」

というモデルケースにする。

すると①②③④は「観光スポット4か所」ではなく、

同じ流域の中に存在する、4種類の“人と自然の関係”

になります。

そして④は、その中でも、

「失われたものを懐古する」のではなく、
「失われた土地を、次の世代の探究の場に変える」

という未来志向を持っている。

だから、私は前の話で④を推した、という筋道だったのだと思います。

そして実はこれ、あなたがずっと言っている

「この景色の中に、地球の物語がある」

の、かなり具体的な実験場になっています。

天橋立を見て終わらない。
天橋立から、山へ歩いて行く。

そして最後には、

「景観を見る人」から「景観を成立させているシステムを探究する人」へ変わる。

――ここまで来ると、もう単なるエコツアーではなく、**「流域そのものをフィールドにした探究型観光」**という言葉が見えてきますね。

【おはようございます、、天橋立を地質地形的にいうなら、リアス式海岸若狭湾の西端、丹後半島と栗田半島、野田川と世屋川、二つの半島、二つの河川が創った奇跡、こう定義が出来ると考えました、いかがですか】
日本三景に選ばれた絶景とグルメを満喫!天橋立の観光ガイド | GOOD LUCK TRIP

(↑ 日本三景に選ばれた絶景とグルメを満喫!天橋立の観光ガイド | GOOD LUCK TRIP)

おはようございます。
はい、私はかなり強い定義になってきたと思います。

特にいいのは、天橋立を「砂州」という一つの地形名で終わらせず、それを生み出した周囲の地形・河川・海の関係まで含めて定義しているところです。

ただ、地質地形学として少しだけ言葉を整えるなら、こうでしょう。

天橋立とは、リアス海岸が発達する若狭湾西端の宮津湾において、丹後半島と栗田半島にはさまれた海域へ、野田川と世屋川などが運んだ土砂が供給され、海岸流によって運ばれ・集積して形成された砂州である。

そして、ガイドとしての言葉なら、私はむしろこちらが好きです。

天橋立――二つの半島、二つの川、そして一つの海が創った奇跡。

これ、かなり強いです。

なぜなら、

丹後半島
 ↓
野田川・阿蘇海
 ↓
天橋立
 ↑
世屋川
 ↑
栗田半島・宮津湾

という「地形の舞台」が見えてくるからです。

ただし、一点だけ大事な科学的整理があります。

「二つの河川が創った」は、少し慎重に

野田川と世屋川を**「二つの主要な土砂供給系」**として捉えるのは、とても面白いです。

しかし、天橋立の砂が実際にどの河川から何%来たのか、というところまで確定しているわけではありません。また、海岸流による沿岸漂砂、波浪、海面変動、地盤変動なども関わります。

ですから、

「野田川と世屋川が創った」

を科学的事実として断定するより、

「野田川と世屋川という二つの河川系が土砂を供給し、宮津湾の海流・波がそれを運び、二つの半島にはさまれた海に砂州が育った」

とすると、ぐっと強くなります。

そして、ここが面白いんです。

これまで話してきた「世屋へ行く」という意味が、一気に変わります。

天橋立から世屋へ行くのは、天橋立を離れることではない。
天橋立をつくった側へ、逆向きに旅することになる。

砂州から川へ。
川から森へ。
森から山へ。

つまり、

「天橋立を見に行く旅」ではなく、
「天橋立がどこから来たのかを遡る旅」

になる。

そしてその先に、以前お話しした

山 → 森 → 川 → 海 → 砂州

という「生命の銀河」がある。

さらに反対側には、

丹後半島 ↔ 栗田半島
野田川 ↔ 世屋川
阿蘇海 ↔ 宮津湾

という、二つのものの間に天橋立が生まれたという構造がある。

これは、あの

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

という問いに、かなり真正面から答え始めていますね。(^.^)

そして私は、もう一歩だけ踏み込みたいです。

「奇跡」ではあるけれど、偶然の奇跡ではない。

地球科学的には、

大地がつくった地形条件 × 河川が運んだ土砂 × 海が運んだ力 × 長い時間

が重なって、人間から見ると「奇跡」に見える地形ができた。

だから、

「この景色の中に、地球の物語がある。」

が、ここで初めて具体的な地球科学の物語になるのだと思います。

そしてその「地球の物語」の入口として、

「二つの半島と二つの川が出会うところに、天橋立が生まれた。」

これは、かなり使える一行だと思います。

《若狭湾》日本列島のくびれが若狭を御食国にしました|ニッポンの魚が美味しい理由 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパン

(↑ 《若狭湾》日本列島のくびれが若狭を御食国にしました|ニッポンの魚が美味しい理由 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパン)

【ありがとう、若狭湾を形成する、名のある半島、その数が知りたいです、分かりますか】

 おはようございます。あります。しかも、「いくつあるか」については、どこを若狭湾の範囲とするかで少し数え方が変わります。

今回確認した資料では、かなりきれいに整理できます。

若狭湾の「主な半島」は、東から数えて8つ

環境省・福井県などの資料を突き合わせると、若狭湾の主要な半島として、おおむね次の並びになります。

東 → 西

  1. 敦賀半島
  2. 常神半島
  3. 内外海半島
  4. 大島半島
  5. 音海半島
  6. 大浦半島
  7. 栗田半島
  8. 丹後半島

ただし、資料によって**「音海半島・大浦半島」を一体的に扱ったり、小さな半島を含めたりする**ので、単純に「若狭湾には8半島」と固定するのは避けた方がよさそうです。

福井県は、若狭湾国定公園について「敦賀・常神・内外海・大島・内浦などの半島」としています。
一方、原子力規制委員会の資料では、西から丹後・栗田・大浦・音海・大島・内外海・常神と、7つの主要半島を列挙しています。ここでは敦賀半島を若狭湾の東端側に含めるかどうかで差が出ています。
日本大百科全書も、湾内に栗田・大浦・内浦・大島・内外海・常神・敦賀などの半島が突出すると説明しています。

そして、ここが安田さんの天橋立論にとって面白いところです。

「二つの半島」は、宮津湾の話として非常に意味がある

若狭湾全体を見ると、

丹後半島 ― 栗田半島 ― 大浦半島 ― 音海半島 ― 大島半島 ― 内外海半島 ― 常神半島 ― 敦賀半島

と、まるで巨大な櫛の歯のように半島が海へ突き出している。

その一つ一つの間に湾が入り込む。

そして国土地理院も、若狭湾を典型的なリアス海岸として扱い、宮津湾・舞鶴湾などを「リアス式海岸(溺れ谷)」として記載しています。

だから、先ほどの安田さんの定義、

「リアス式海岸若狭湾の西端、丹後半島と栗田半島、野田川と世屋川、二つの半島、二つの河川が創った奇跡」

は、かなり面白い。

ただ、私はここでさらに一段階、整理したいです。

若狭湾全体では「多数の半島と湾」がつくったリアス海岸。
その最西端の一つの湾=宮津湾では、「丹後半島と栗田半島」が向き合う。
そのさらに奥で「野田川・世屋川などの河川」と海の作用が出会い、天橋立という砂州が生まれる。

つまり、

若狭湾という巨大な地形構造の「最後の一仕事」として、天橋立がある。

……こう見ると、天橋立が急に小さな砂州ではなく、若狭湾という巨大な地形物語の終章になってきますね。

そして、これは以前の

「天橋立だけでは天橋立にならない」

という話と、ものすごくよくつながります。

若狭湾 → 丹後半島・栗田半島 → 宮津湾・阿蘇海 → 野田川・世屋川 → 土砂 → 沿岸漂砂 → 天橋立

です。

これは、かなり「地質地形版・天橋立憲章」の骨格になりそうです。(^.^)

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【ありがとう、、富国強兵から富国環境へ、天橋立に大砲の砲身が展示してしてある、そのメッセージを考えたときに、このアイデアとつながったのです(^.^)】

ああ……なるほど。(^.^)
「大砲」から「富国環境」へだったんですね。

それなら、この言葉は単なる時代区分ではなく、天橋立に置かれた一門の大砲を「読む」ための言葉になります。

天橋立に大砲があるということ自体が、ものすごく象徴的です。

かつて近代国家は、

国を豊かにすること(富国)
+ 国を強くすること(強兵)

によって国土を守ろうとした。

その「強兵」の象徴が、砲身。

ところが今、その砲身を見ている私たちは、別の問いを持つことができる。

では、これからの時代に、この美しい海と山と砂州を、何によって守るのか?

大砲ではありません。

森を守る。
川を守る。
海を守る。
砂州を守る。
松を守る。
文化を守る。
そして、それらを支える地域の暮らしを守る。

つまり、

富国強兵から、富国環境へ。

なんですね。

しかも天橋立の場合、「環境」が単なる自然保護ではない。

世屋の森があり、
世屋川があり、
宮津湾・阿蘇海があり、
天橋立という砂州があり、
そこに松が生え、
人間の信仰と文化が積み重なり、
それを今度は観光と地域経済が支える。

だから「富国環境」は、

自然を守って経済を我慢する

という話ではなく、

自然・文化・暮らしを豊かにすることそのものが、地域の豊かさになる

という意味にできる。

そして……ここが実に天橋立らしい。

大砲は「守る」とは何かを問い返している。

かつては、

外敵から国土を守る。

今は、

気候変動、生物多様性の喪失、人口減少、文化景観の劣化から、地域の未来をどう守るか。

です。

そして未来には、

「守る」だけではなく、どうすれば次の世代がこの場所を豊かに生きられるか。

になる。

だから、大砲を撤去する必要もないし、単に「戦争の遺物」と説明して終わる必要もない。

むしろ、

「この大砲は、富国強兵の時代から私たちに届いた問いである。
では、地球時代を生きる私たちは、何によってこの国土を守り、豊かにするのか。」

と読む。

そしてその答えの一つとして、

富国環境

を置く。

いやあ……これは、かなりいいです。

しかも、以前の安田さんの言葉、

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

とも完全につながります。

大砲 → 天橋立 → 丹後の山・森・川・海 → 地球環境 → 未来

となる。

そうすると、あの大砲は過去の遺物ではなく、未来へ向けた案内板になるんですよ。

そして私は、この一行を残しておきたいです。

**かつて国を守った大砲。

これから国を豊かにするのは、何か。**

富国強兵から、富国環境へ。

……天橋立に置かれた大砲が、まさか**「世屋の森まで歩いて行け」**と言っているとは。(^.^)

難産だった明治天皇の東幸の実現と、今に続く首都「東京」の誕生 渋沢栄一と時代を生きた人々(24)「東京遷都④」(1/4) | JBpress ...

【ありがとう、、、天橋立・松島・安芸の宮島を日本三景とした江戸幕府が倒れ、時代は明治へ、この時代のテーマは、富国強兵でした、、明治政府も日本三景は維持しました。さらに進んで現代に、地球時代到来と言っていいですね、そんな現代から未来への時代のテーマ、これを、富国環境、、と置いてみたい、その「富国環境」の視点から、天橋立の世界遺産登録を見、論じることは出来ないかと考えたのです。】

おはようございます。
いやあ、これはかなり大きな視点転換だと思います。

私は、「富国環境」という言葉は、安田さんのこれまでの天橋立論を現代から未来へつなぐ軸として十分使えると思います。

ただし、世界遺産制度との関係では、一つ大事な整理があります。

「富国強兵」から「富国環境」へ

もちろん「富国環境」は歴史上の正式な政策用語ではありません。安田さんが置かれた現代・未来を考えるための造語ですね。

でも、時代の流れを大きく捉えると、面白い三段階になります。

時代 日本をめぐる大きな課題 天橋立の位置
江戸 海・交通・文化・名所の形成 三処奇観の一つ
明治~近代 富国強兵・近代国家形成 日本三景として継承
現代~未来 地球環境・持続可能性・地域社会 「富国環境」?

ここで面白いのは、明治政府が日本三景を捨てなかったことです。

つまり、政治体制も国家目標も大きく変わったのに、

「この三つの景観は、日本にとって大切なものだ」

という文化的な価値は継承された。

これは、天橋立を考える上でかなり重要な事実だと思います。


そして現在、世界遺産制度そのものが変わってきている

ここが、安田さんの「富国環境」と非常にうまく接続します。

UNESCOの世界遺産条約は、そもそも第一義的には顕著な普遍的価値(OUV)を持つ文化遺産・自然遺産を保護する制度です。

ところが2015年、世界遺産条約の実施に「持続可能な開発」の視点を統合する政策が採択されました。

そこでは、

環境的持続可能性
+社会的包摂
+経済的包摂

を相互に関連するものとして扱っています。

さらにUNESCOは、

生物多様性と地域文化は、世界遺産の多くにおいて相互に結びついた社会・生態系を形成している

という考え方まで明確にしています。

ここなんですよ。

安田さんがずっと考えてきた

山 → 森 → 川 → 海 → 砂州

と、

信仰 → 参詣 → 景観管理 → 暮らし → 観光

が重なっている天橋立の姿と、かなり響き合っています。


だから「富国環境」は、こう定義できるかもしれません

私は、

富国環境とは、自然環境を守ることで経済を縮小させるのではなく、自然・文化・地域社会そのものを豊かにすることによって、国と地域の持続的な豊かさをつくる考え方。

くらいに置いてみたいです。

「富国強兵」が、

国土・産業・軍事力を強くして国家を豊かにする

という近代国家の論理だったとすれば、

「富国環境」は、

大地・水・生態系・文化・地域社会を健全にして、その価値を次世代へ渡すことが、結果として地域と国を豊かにする

という発想です。

そしてこれは単なる「環境保護」とは少し違う。


天橋立は、その実験場になり得る

ここが一番面白いところです。

たとえば、

世屋の森を守る
↓
森林・水源・生物多様性が維持される
↓
世屋川が流れる
↓
海へ土砂・有機物・水が運ばれる
↓
宮津湾・阿蘇海の環境が維持される
↓
天橋立という地形・景観を考えることができる
↓
そこに松・文化・信仰・観光が重なる
↓
観光客が丹後全体を歩く
↓
地域経済が循環する
↓
その収益や関心が山・海・文化の保全へ戻る

となる。

つまり、

環境を守ることと、地域を豊かにすることを別々にしない。

これが「富国環境」ではないでしょうか。


そして世界遺産の意味が変わってくる

ここは慎重に言いたいです。

「富国環境に役立つから世界遺産にする」ではありません。

それでは世界遺産の論理が逆転してしまいます。

世界遺産でまず問われるのは、あくまで

「この場所には、人類全体にとって顕著な普遍的価値があるのか」

です。

その上で、その価値を守ることが、

環境・社会・経済の持続可能性にどうつながるか

を考える。

UNESCO自身も、持続可能な開発への貢献を認めつつ、OUVを損なってはならないとしています。

だから私は、天橋立については、

第一の問い

「なぜ天橋立は、人類にとって大切なのか?」

第二の問い

「その価値は、どのような自然・文化・社会のつながりによって成立したのか?」

第三の問い

「そのつながりを、21世紀から22世紀へどう引き継ぐのか?」

この三段階にすると、とても強いと思います。


そして「日本三景」と「世界遺産」が一本につながる

ここ、私はかなり好きです。

江戸の人々は、

松島・天橋立・厳島

を「三処奇観」として一組にしました。

それは、少なくとも記録上確認できる日本三景の原点です。

その後、時代が変わっても「日本三景」は生き残った。

そして今度は私たちが、

「なぜ300年以上経っても、この三つは大切なのか?」

と問い直す。

さらに、

「江戸時代の日本三景を、地球時代の世界遺産という尺度で見直すと、何が見えてくるのか?」

と問う。

これは面白いですよ。


「三景」から「地球景」へ

少し大胆に言えば、

日本三景は、

日本人が日本列島の中で「これは特別だ」と発見した景観。

だった。

これからの世界遺産は、

人類が地球上で「これは人類全体の遺産として残す意味がある」と認識する景観。

です。

そう考えると、

江戸 → 日本という国土の発見
明治 → 近代国家としての日本
現代 → 地球という共有環境の発見

という大きな視野が出てくる。

そして「富国環境」は、その現代から未来への合言葉として置ける。


そして何より、安田さんがこれまで言ってきた、

「天橋立を展示物にしない。天橋立を問いの入口にする。」

が、ここで効いてきます。

世界遺産登録を、

「天橋立を世界遺産にする運動」

だけで終わらせず、

「天橋立を入口にして、地球時代の地域の豊かさとは何かを考える」

という運動に変える。

その時、

**「富国強兵」の時代に日本三景が継承された。

「富国環境」の時代に、天橋立は何を人類に語るのか。**

これは、20年間の世界遺産可能性検討を次の20年へ渡すための、かなり大きな問いになりそうです。

そして京都府自身も現在、天橋立について「国際的な理解を深め、その評価を向上」させながら暫定一覧表記載を目指す取り組みを続けています。

だから私は、「富国環境」を世界遺産登録の理由そのものにするのではなく、OUVを現代と未来につなぐ上位概念として置くのが、一番筋がいいと思います。

【行きつ戻りつです、お付き合いくださいね、、日本海に天橋立、瀬戸内海に宮島、太平洋に松島、これを日本三景、、この思想には海と船が背景にある、日本には三つの海があります、太平洋、日本海、そして瀬戸内海。織田、豊臣、を倒して徳川が国内統一を果たし、時代の物流動線は、陸運からより大量広域な海運へ、と移行していました、海上の守護神 、元伊勢、瑞巌寺 三タイプの信仰体系を取り込んで日本三所奇観、そんな議論を踏まえて、日本海に天橋立、瀬戸内海に宮島、太平洋に松島三つの海の要所として配置した。だとしたら、考え抜いた妙手と思いました、意見くださいな!、、】
松島の観光ガイド~日本三景松島の魅力やおすすめスポット14選~ | たびこふれ
宮島・厳島神社と紅葉谷、深まる秋の彩りを求めて歩く山陽ひとり旅 - KURAFT [クラフト]

天橋立撮影スポット – 天橋立 周辺マップ – PJCJZY

いやあ、私はこの着想、**「歴史的事実として証明された」とまでは言えないけれど、かなり筋のよい“次の問い”**だと思います。

特に面白いのは、単に「三つとも海辺の絶景だった」という話ではなく、

江戸初期に、日本列島を横断する視野の中で、三つの海辺の聖地・奇観が一組として認識された

というところです。

ただ、ここは一段ずつ分けた方が、むしろ仮説が強くなります。


まず、史実として確認できるところ

1643年(寛永20)、林春斎の『日本国事跡考』に、

陸奥松島・丹後天橋立・安芸厳島

を「三処奇観」とする記述が現れます。

これが現在の「日本三景」の端緒とされています。もっとも、1689年の貝原益軒『己巳紀行』ではじめて「日本の三景」という表現が確認されるとされています。

そして非常に面白いのは、この三つがいずれも海岸景だったという研究です。

  • 松島=多数の島々
  • 天橋立=砂州と松原
  • 厳島=海上の社殿・島

つまり春斎が選んだ三つは、たしかに「海を舞台とする奇観」という共通性を持っています。

ここまでは、かなりしっかり言えます。


では、「三つの海」を意識していたのか?

ここからが仮説です。

私は、

「太平洋・日本海・瀬戸内海という三つの海を代表させるために、意図的に三景を選んだ」

と現段階で断定するのは危険だと思います。

『日本国事跡考』の説明から、春斎が「三つの海を代表させる」という地理学的意図を持っていたことまでは確認できません。

しかも当時の日本人の海域認識を、現代の「太平洋・日本海・瀬戸内海」という三分法にそのまま重ねるのも注意が必要です。

でも。

あなたの仮説は、ここからが面白い。


なぜ、この三つだったのか?

三つを並べると、

日本海

天橋立

瀬戸内海

宮島

太平洋側

松島

となる。

しかも、三者は「海岸の美しい場所」というだけではない。

場所 自然景観 人間の意味づけ
天橋立 砂州・松・二つの海 元伊勢・籠神社・知恩寺・成相寺
宮島 島・海・海上社殿 厳島神社・弥山信仰
松島 多島海・島々・松 瑞巌寺・雄島・霊場

たとえば松島は平安以来の歌枕で、中世には円福寺・雄島を中心とする霊場として発展しています。

宮島も古くから厳島信仰の対象で、江戸時代に「日本三景」の一つとして広く知られるようになります。

そして天橋立には、

籠神社
↓
知恩寺
↓
成相寺

という異なる宗教景観が重なっている。

つまり、

三景は「海の絶景」であると同時に、「海に成立した聖地景観」でもある。

ここは非常に重要です。

考えたことはありますか?日本列島が弓状の形になっている理由 | ライフスタイル - Japaaan


そして、あなたの「海と船」という視点

ここ、私はかなり賛成です。

三つを陸側からだけ見ると、

「美しい景色を三つ選んだ」

で終わってしまいます。

ところが海側から見る。

すると、

松島=海上の島々

宮島=海上の神社

天橋立=海上の砂州

となる。

つまり三つとも、

船から見ることによって完成する景観

という共通性を持っているんです。

もちろん、当時の選定理由として「船からの景観」が明記されているわけではありません。

しかし、近世の日本では海岸景そのものが名所として非常に大きな比重を占めていました。研究でも、近世の定数名所では海岸景が約75%を占めると整理されています。

だから、

「海から見た日本の美」

という視点は、かなり重要だと思います。


そして徳川の時代

ここも、あなたの着眼点が面白い。

ただし、

「徳川が日本三景を物流政策として選定した」

という証拠はありません。

そこは切り離しておきましょう。

しかし時代背景として、

戦国 → 天下統一 → 江戸の安定 → 全国的な街道・海運・遊覧の発達

という大きな変化が起きた。

そして『国史大辞典』も、日本三景が成立した背景として、交通路の発達と地方遊覧の盛行を挙げています。

これは重要です。

つまり、

「日本三景が生まれた時代」と「人が日本列島を広く移動できるようになった時代」が重なっている。


そして「船」というところが、さらに面白い

江戸時代の旅行者は、もちろん徒歩だけではありません。

河川、湖、沿岸、内海を船で移動する。

特に瀬戸内海は、海上交通の巨大な回廊です。

宮島はその海上交通の世界にあります。

松島も東北太平洋側の海域にある。

そして天橋立は、

日本海側の丹後・若狭・但馬

をつなぐ海域にある。

すると、

太平洋側

松島

↓

日本海側

天橋立

↓

瀬戸内海

宮島

という三つの海域の名所が、

「日本列島を海から眺める」

という一つの想像力の中に入ってくる。

これは非常に魅力的な読みです。


そして「三所奇観」という言葉が、私は好きです

ここです。

「三景」という後世の呼び方より、最初の

三処奇観

を大事にしたい。

なぜなら、

「三つの美しい景色」

より、

「三つの、比類なく珍しい海の景観」

というニュアンスがあるからです。

そして、あなたがずっと追っている

「無双絶境」

とも響いてきます。


すると、ものすごく面白い構図ができます

あなたの仮説を、史実と仮説を混ぜない形で書くなら、私はこうします。

1643年、林春斎は松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として一組にした。三者はいずれも海を舞台とする特異な景観であり、それぞれに古くからの信仰・宗教景観が重なっていた。

その三者を、近世の全国的な交通・遊覧の発達という時代背景の中で眺めるなら、日本列島を取り巻く異なる海域を代表する三つの海景として読むことができるのではないか。

もしそこに、海上交通と海上信仰という共通項を見いだせるなら、「日本三景」は単なる絶景ランキングではなく、海によって結ばれた日本列島の景観認識だった可能性がある。

これなら、かなり強いです。


そして「三タイプの信仰体系」

ここも、あなたの着想は面白い。

ただし「三タイプ」として固定するなら、もう少し慎重にしたい。

たとえば、

天橋立

古代神話・元伊勢・神社・仏教霊場が重層する海峡的聖地

宮島

島そのものを神聖視する厳島信仰

松島

島嶼景観+雄島+瑞巌寺などの霊場

とする。

すると三者は、

海+特異な地形+聖地+参詣+船

という共通構造を持ちながら、

聖性の成立の仕方が違う。

これがむしろ面白い。


そして、あなたの「妙手」という言葉

私はここを少し言い換えたい。

誰かが最初から「三つの海を代表させよう」と設計した妙手だった

とは、まだ言えません。

しかし、

結果として、日本列島の異なる海域に成立していた三つの巨大な海景・聖地を、一つの「三処奇観」という枠に入れた。

これは確かに、ものすごく面白い文化的操作です。

そして、その後「日本三景」として定着していった。


さらに驚くのは、「三景」が景観を守る力になったこと

宮津市も、日本三景として広く認知されたことが、その後の天橋立の景観保全に重要な契機になったと説明しています。

つまり、

三景という「言葉」

↓

全国的な価値認識

↓

名所としての移動・観光

↓

景観を守る理由

という循環が起こった可能性がある。

これは、あなたが今考えている**「信仰・権威・景観管理のシステム」**ともつながります。


そして私は、ここで「日本三景」をランキングとして見ない方が面白いと思います。

松島が一位、天橋立が二位……

ではない。

そうではなく、

松島 ― 太平洋側の多島海景観
天橋立 ― 日本海側の砂州・海峡景観
宮島 ― 瀬戸内海の島・海上社殿景観

という、

「三つの海から見た日本列島」

として見る。

さらに、

海 → 船 → 聖地 → 景観 → 参詣 → 名所

という共通の回路を探す。

そうすると、「日本三景」は単なる観光ブランドではなく、

海に囲まれた日本人が、海上交通を通じて列島の異なる聖地景観を発見し、それらを一つの日本像として結び直した

という、大きな文化史のテーマになってきます。

……そしてこれ、あなたの**「丹後浦島ロード」**にも戻ってきますね。

海民が海を渡る。
山を目印にする。
聖地へ向かう。
絶景を見る。
そして、その景観に意味を与える。

天橋立を「日本三景の一つ」と説明するのではなく、

「なぜ、この三つが一組になったのか?」

と問い直す。

これは、まさに今あなたがやっている**「天橋立を、天橋立の外からもう一度見る」**作業だと思います。(^.^)

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【天橋立を「日本三景の一つ」と説明するのではなく、「なぜ、この三つが一組になったのか?」と問い直す。、、なぜうちのはちがうのか、自薦他薦合ったはずしかし、、毅然として日本三景、、三つで一組、考え抜いた基本思想があったと思ったのです。】

はい……そこですね。

おっしゃっていること、分かりました。
「三景になった経緯を調べよう」という話より、一段深い。

なぜ「三つ」だったのか。
なぜ、この三つだったのか。
そして、なぜ「三つで一組」という形が、これほど毅然として定着したのか。

そこに、林春斎あるいは17世紀の知識人たちが持っていた日本の景観を捉える基本思想があったのではないか、ということですね。

私は、この仮説はかなり大切にしてよいと思います。

ただし、「三つの海を代表させるために意図的に選んだ」というところは、まだ史料で証明されていません。そこを断定せず、「なぜこの三つを一組にしたのか」という問いそのものを研究テーマにするのがいいと思います。


「自薦他薦」は、たしかにあったでしょうね

江戸初期には、全国にすでに無数の名所がありました。

京都にも、奈良にも、近江にも、富士にも、和歌浦にも、須磨にも、天橋立にも……。

つまり、

「日本の絶景はこの三つしかない」

という状況だったわけではありません。

むしろ逆です。

候補はいくらでもあった。

その中から、

松島
天橋立
厳島

を一組にした。

ここに「選ぶ」という知的操作があります。

しかも、単に三つ並べたのではなく、

「三処奇観」

という名前を与えた。

ここが大きい。


「三つで一組」は、日本文化では強い

日本には古くから、

三名○○

という形式があります。

三所、三景、三山、三社、三大○○……。

なぜ三なのか。

二つだと「比較」になります。

四つ以上になると「一覧」になりやすい。

でも三つなら、

「それぞれ違う。でも、何か共通するものがある」

という関係を作れる。

だから三景は、

松島を見る
天橋立を見る
厳島を見る

だけではなく、

「この三つを一緒に見たとき、日本の何が見えるのか?」

という装置になっている。

私はここが、あなたの言う**「基本思想」**の核心かもしれないと思います。


そして三つ、全部「海」です

ここが偶然なのか、思想なのか。

これを調べる価値があります。

松島

→ 多島海

天橋立

→ 砂州・海峡・湾

厳島

→ 島・海・社殿

三者とも、

陸から眺める山水ではなく、「海によって成立した景観」

なんです。

しかも海の姿が全部違う。

松島

島が海に浮かぶ

天橋立

陸が海を横切る

宮島

神の島が海に浮かび、社殿が海上に立つ

これ、三つを並べるとものすごく美しい構造になりませんか。

島
橋
島

です。

あるいは、

海に浮かぶもの
海を渡るもの
海上に建つもの

とも読める。

これはまだ私たちの解釈ですが、かなり魅力的です。


さらに「船から見る」という共通項

ここは、あなたが最初に言った

「海と船が背景にある」

が効いてきます。

松島は、島々を船で巡る。

厳島は、海から大鳥居・社殿へ入る景観が象徴的。

天橋立も、阿蘇海・宮津湾という二つの水域に挟まれ、船から見ることで地形の意味が変わる。

つまり、

三景は「海辺の三地点」ではなく、「海上交通の視線で見る三景」

だった可能性がある。

これなら、あなたの「日本列島には三つの海がある」という着想が、一気に面白くなります。


そして「三つの海」は、三つの異なる日本

ここからは仮説としての読みですが、

太平洋

松島

日本海

天橋立

瀬戸内海

厳島

と置いてみる。

すると、

東北
↓
日本海
↓
瀬戸内
↓
西日本

という、日本列島を海から横断する三つの窓になる。

しかも、それぞれ、

松島=多島海

天橋立=砂州

厳島=島+海上社殿

で、海の地形そのものが違う。

つまり、

「日本の海は一つではない。海が違えば、地形も文化も信仰も違う。その三つを並べて初めて、日本列島の海の多様性が見える」

という読みが可能になる。


そして「信仰」を重ねると、さらに深くなる

あなたがおっしゃった、

元伊勢、瑞巌寺、三タイプの信仰体系

というところ。

ここも、私は「三景選定者が三つの信仰体系を意図的に対応させた」とはまだ言いません。

でも、結果として三景には、それぞれ非常に強い聖地性がある。

天橋立

籠神社・元伊勢・知恩寺・成相寺

宮島

厳島神社・弥山信仰

松島

雄島・瑞巌寺など

つまり、

三つの海景が、三つの異なる聖地景観でもある。

これが重要です。

「景」と「聖」が重なっている。


そして、ここで「三所奇観」が効いてくる

「三景」という言葉だけを見ていると、

美しい場所を三つ選んだ。

で終わります。

ところが、

三処奇観

と見ると、

日本の中にある「比類なく奇なる三つの場所」を、一組のものとして認識した

という感じになる。

「奇観」は、単なる美しさではない。

「なんじゃ、これは?」

です。

……あれ?

これ、あなたが最近ずっと言っている、

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

と同じじゃないですか。(^.^)


「奇観」は、問いを生む景観

松島を見て、

なぜこんなに島がある?

天橋立を見て、

なぜ海の中にこんな砂州が?

厳島を見て、

なぜ海の上にこの社殿が?

つまり三景は、

「美しいから見る」

だけではなく、

「不思議だから問う」

という景観でもある。

ここは、あなたの世界遺産論とものすごくつながります。

江戸幕府が長く続いた理由を中学生向けに簡単まとめ!260年続いた要因は? | 歴史専門サイト「レキシル」

(↑ 江戸幕府が長く続いた理由を中学生向けに簡単まとめ!260年続いた要因は? | 歴史専門サイト「レキシル」)


だから「日本三景」をランキングから解放する

私は、あなたの考えを一言にするなら、

「日本三景は、日本の絶景ベスト3ではない。」

だと思います。

むしろ、

「日本の海と、その海が生んだ景観と聖地を、三つで一組として捉えた日本像」

だったのではないか。

――これはまだ研究仮説です。

でも、この仮説なら、

なぜ三つなのか

なぜこの三つなのか

なぜ海なのか

なぜ聖地なのか

なぜ江戸初期なのか

という、全部の「なぜ」が一本につながってきます。


そして、もしこれが少しでも当たっているなら、

天橋立は「三景の一つ」ではなくなる。

いや、位置づけが変わるんです。

天橋立は、日本列島の海を考えるための三つの窓の一つ。

そして、その三つの中でも天橋立は、

海から生まれた砂州が、山・川・海・信仰・人間を一本につないでいる。

だからこそ、あなたが今やっている

「天橋立だけでは天橋立にならない」

という話が、ここでまた効いてくる。

三景も同じなんです。

松島だけでは「日本三景」にならない。
宮島だけでもならない。
天橋立だけでもならない。

三つが並んだとき、初めて「日本」という大きな景観概念が立ち上がる。

……これなら、たしかに「三つで一組、考え抜いた基本思想があったのでは」と感じた、というあなたの直感は、かなりよく分かります。

【ありがとう、、世界遺産に、というとき、そのテーマ視点と砂州との関係で、よく引き合いに出されるサンルイ島について、天橋立と比較して解説くださいな】
サン=ルイ島 | セネガル | 世界遺産オンラインガイド

(↑ サン=ルイ島 | セネガル | 世界遺産オンラインガイド)

はい、セネガルのサンルイ島(Island of Saint-Louis)ですね。
これは今のお話にかなり重要な比較対象です。ただし、最初に一点だけ整理すると、サンルイ島が世界遺産になった主題そのものは「砂州」ではありません。 2000年に登録された文化遺産で、評価の中心は、河口の島という特殊な自然環境の上に成立した
植民都市の都市構造・建築・水との関係・西アフリカへの文化的影響
です。

でも――

「砂州・河口・都市・人間の営みが、どう一つの景観になるか」

という視点では、天橋立にとって非常に面白い鏡になります。

サンルイ島は「場所」より「関係」が評価されている

ユネスコの説明で印象的なのは、

河口の二つの水路にはさまれた小さな陸地
+
水と陸の「微妙な結婚」

として、この島の景観を捉えていることです。

その上に、

  • 17世紀の港湾都市
  • 19世紀の都市計画
  • 河岸・埠頭
  • 植民地行政
  • 建築
  • 教育・文化・職人技
  • 西アフリカ各地との交流

が積み重なった。

そして登録基準も、

(ii) 文化・教育・建築・技術などの交流

(iv) 特殊な自然環境の中に成立した植民都市の顕著な例

です。

つまり、

「この島に立派な建物があるから世界遺産」

ではない。

「この特殊な水と陸の環境の上で、この都市が成立し、その都市が西アフリカの歴史を動かした」

という関係の物語なんですね。

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ここで天橋立を横に置いてみる

サンルイ島を、

河川 → 河口 → 島 → 港 → 都市 → 交流

と読むなら、

天橋立は、

山 → 森 → 川 → 海 → 砂 → 砂州 → 松 → 信仰・参詣 → 芸術

と読める。

おお……。

かなり似た構造が見えてきませんか。

サンルイでは、

「水と陸の関係」が都市を生んだ。

天橋立では、

「山と川と海と砂の関係」が砂州を生み、そこに人間が意味を重ねた。

もちろん、両者の歴史的内容はまったく違います。

でも、世界遺産として景観を見る眼としては、とても参考になる。


そして、ここで「砂州」が効いてくる

天橋立の弱点になりかねないのは、

「美しい砂州です」

だけで終わってしまうこと。

でも「命の銀河観」で見ると、

砂州は終点ではなく、交差点になります。

世屋の山から来た物質が、

山
↓
森
↓
土壌
↓
川
↓
海
↓
沿岸漂砂
↓
天橋立

という地球のプロセスを通って、ここに現れる。

そして、その砂州にクロマツが生え、人間が道として歩き、参詣し、信仰を重ね、文学や絵画を生み、さらに景観を管理してきた。

すると天橋立は、

「砂がたまった場所」

ではなく、

「丹後の大地・水・海・生命・人間文化が交差している場所」

になる。

これは、まさに今おっしゃっている**「命の銀河観」**です。


サンルイ島との決定的な違いも、むしろ面白い

サンルイ島では、人間がつくった都市構造が非常に大きな属性です。

天橋立では逆に、

人間がつくったものだけでは説明できない。

砂州そのものは地形形成の結果。

しかし、

「その砂州をどう見たか」
「どう歩いたか」
「どう信仰したか」
「どう守ったか」

は人間の歴史。

だから天橋立は、

地球がつくったもの

+

人間が意味をつくったもの

+

その意味によって景観が維持されてきたもの

として見ることができる。

ここが、今まで考えてきた**「信仰が景観を維持する社会システム」**という仮説につながります。


そして、サンルイ島についてユネスコ自身が使っている、

「land and water」
「unique landscape」

という見方は、ちょっと示唆的です。

天橋立なら、もっと大きく、

「mountain, river, sea, sand and human culture」

とでもいうべき世界が見えてくる。

だから私は、サンルイ島を見て、

「砂州だから世界遺産になれる」

とは全然思いません。

むしろ逆です。

「一つの小さな陸地を、その陸地だけで説明しなかった。」

ここが大事なんです。

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そしてこれは、今の「あいせよ天橋立」にものすごく響きます。

天橋立だけを説明するのではなく、
天橋立によって丹後の関係を見えるようにする。

そうすると、先ほどの言葉がさらに強くなります。

天橋立は、丹後を見る展望台ではない。
丹後の「見えないつながり」を見えるようにする展望台である。

そして、砂浜の一粒のオニグルミまで、その展望台の「望遠鏡」になってしまう。(^.^)

なお、サンルイ島は現在も保存・管理が大きな課題で、2025年の世界遺産委員会決定でも管理・保存計画の強化などが求められています。つまり、**「登録された後に、どうその関係を守るか」**という点でも、天橋立にとって他人事ではありません。

【敵を知り,己を知らば百戦危うからず!フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、かく語りき!!】

天橋立

北側(傘松公園)からの眺望 – 斜め一文字
天橋立は京都府北部にある

天橋立は京都府北部にある
天橋立

京都府内における天橋立の位置

雪舟筆『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝) 東側より – 雪舟観

天橋立(あまのはしだて)は、京都府宮津市にある、宮津湾と阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州[1]。松島、厳島と並ぶ日本三景の一つであり[2][3][4]、日本遺産「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」の構成文化財の一つに指定されている[5][6]。2024年(令和6年)の観光入込客数は300万5700人と、京都府の自治体別では京都市、宇治市、京丹波町、亀岡市に次いで第5位である[7]。

名称

一般的に「天橋立」と表記されるが、砂州を走る府道の名称は天の橋立線である[8]。「橋立」と略される場合もあり、例えば阿蘇海湾奥の与謝野町には橋立中学校がある。

読み方は「あまのはしだて」であるが、立の字を濁らせずに「たて」と読むことがある。2003年(平成15年)から2004年(平成16年)にかけて、宮津市と与謝郡4町の合併協議において新市の名称を公募したところ、上位10点に入った「天橋立」「天の橋立」「橋立」にはそれぞれ、濁らせた読みと濁らせない読みの両方が含まれる。合併自体は断念された[9]。

『運歩色葉集』には天橋立を意味する1文字の漢字(国字)として、之繞に「日」を九つ(読みは「はしだて」)が記載されており[10][11]、『詞林三知抄』にも1文字の漢字として、雁垂れに「有」を六つ(読みは「あまのはしたて」)という文字が紹介されている[12][注釈 1]。

地理

天橋立公園の大きさ[17]
区域 延長(m) 最大幅(m) 最小幅(m) 面積(ha)
大天橋 2410 170 40 18.8
小天橋 830 105 20 4.9
第2小天橋 410 25 7 0.9
小計 3650 24.6
傘松 120 60 15 0.5
合計 25.1
晴天時の天橋立

天橋立の北部、およそ南西方向へ延びている部分を大天橋または北砂州という。切戸を隔てて南部、およそ南東方向へ延びている部分を小天橋[注釈 2]または南砂州という。これら2か所が宮津湾と阿蘇海を分断し、切戸と文殊水道(天橋立運河)によって両水域がかろうじて繋がっている。切戸には大天橋という橋が架かる。また文殊水道には小天橋という橋が架かり、船が通る時には90度回転する「廻旋橋」として知られる[18][19]。さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を第2小天橋という。これら3か所で天橋立の砂州部分をなし、全幅は20 – 170メートル、全長は大天橋と小天橋を合わせて約3.2キロメートル、第2小天橋を合わせると約3.6キロメートルである。北方にある傘松地区からは3地区を眺めることができ、これら4地区を合わせて都市公園法に基づく都市公園「京都府立天橋立公園」をなす[17][20]。文殊堂・智恩寺とその門前町のある天橋立南方を文殊地区という[21]。

全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。この松は、人の手により植林されたものではなく、大部分が自然発生的に生えたものである[1]。1994年(平成6年)、「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」は、天橋立に生える老松、奇松12本の愛称を公募し「九世戸の松」「知恵の松」などが命名された。天橋立には「日本の道100選」に選定された京都府道607号天の橋立線が走っている。当路線は延長約3.2キロメートル、幅員3.5 – 12.1メートルであり、近畿自然歩道に指定されている[22]。

成相寺のパノラマ展望所から見た宮津湾と天橋立

形成史

天橋立は、宮津湾の西側沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、天橋立西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより、海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が堆積したことにより形成された[1]。

日本神話における天橋立

『古事記』によると、イザナギとイザナミの国生みにおいて天の浮橋に立ち、天の沼矛をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島になったとする。このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり[23]、天の浮橋が天橋立のことと言われている[24]。オノゴロ島の位置は現在の沼島であるという説が有力である[25]。

『丹後国風土記』には次のように述べられている。

與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。— 『丹後国風土記逸文』[26]
与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。前の方の突出部を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の方を久志の浜と名づける。そういうわけは、国をお生みになった大神の伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立といった。ところが大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(くしび・神異)であられると不思議にお思いになった。それ故、久志備の浜といった。— (釈文)[27]

イザナギは久志備の浜の北にある元伊勢籠神社の真名井原(イザナミのいる奥宮)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れた、というのが天橋立の名の由来である[28]。また『丹後国風土記』では天橋立の「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明している。

民俗学者柳田國男は、風土記のいう「天の椅立」がこの砂州を指していることに疑問を呈した。柳田は、ハシダテと言えば専ら梯子を立てたように険しい岩山を指すものであって、それが崩れたものを橋立と呼ぶのは不自然であると主張した。また上記逸文の「此の里の海に長く大きなる前あり」の部分は白文で「此里之海有長大石前[10]」と記されているが、大石前(おおいそざき)は元々湾の外側、山上の寺となっている成相山のことであったものがいつの間にか湾内の砂州に移ったものと述べている[29]。

しかしながら、日本の階段の原型である1本の丸太や角材・板材をV字状に掘り踏面とした雁木梯子を横から見た形状と砂州の形状が似ており、古語では梯子は「ハシ(椅/梯/階/槗/橋)立」であること、『播磨国風土記』揖保郡の御橋山においても、「御橋山、大汝命、積レ俵立レ橋、山石似レ槗、故号レ御槗山(大汝命〈オオナムチノミコト〉が俵を積み橋を立てた山岩が槗〈梯子〉に似ているゆえに御槗山と名付けられた)」の記述があるが、現在も残る山裾から山頂に向かう1本の岩は雁木梯子の形状であり、風土記当時の梯子である雁木梯子に似ている所に橋と名付けられていることを踏まえれば、砂州が名の由来である風土記の記述に疑いの余地は無い[30]。

天橋立の出現

2万年前、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地であった。そのため陳活雄らによると、野田川など河川からの流出土砂の堆積を考えなければ、7,000年前までは天橋立の原型すらなかった[31]。一方、天橋立の基礎部分には砂でなく石か岩があるという説もある[22]。その後、6,000年前の縄文時代に海面が上昇し、海底に砂州が形成され始めた。およそ2,200年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、ちょうど海面が低くなった時であったため海面上に現れた[26]。小谷聖史は3,000年前に海面低下によって現れたとするが[32]、砂州は砂嘴が伸びてできるものであり[注釈 3]、海面低下のみを理由とする場合はその後の前進・発達が説明できない。ただ小谷の指摘は、天橋立がいつから形成され始めたかを説明するためには海面変動を考慮しなければならないことを示した点で注目された[31]。

例えば2004年(平成16年)の新潟県中越地震や2008年(平成20年)の岩手・宮城内陸地震では、土砂崩れによって川がせき止められる例が多発した。形成された天然ダム(土砂ダム)は、現代においては決壊を未然に防ぐ措置を講じることもできるが、決壊した場合は大規模な土石流となって水と土砂が流下することとなる。有井広幸は、傘松付近を流れる真名井川などで発生した土石流によって供給された土砂が、阿蘇海方面へ運搬された可能性を指摘する。真名井川は現在は阿蘇海へ注いでいるが、2004年度(平成16年度)の調査によって元は宮津湾に流入していたと考えられている。ただし、真名井川などからの流入量だけでは天橋立を形成するには足りないため、さらに北方に大きな供給地が存在した可能性がある[26]。

丹後半島東部には兵庫県北部から京都府与謝郡伊根町にわたって延びる山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中している。その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、中流域の松尾集落付近に川と隣接した地滑り地形が見られる。有井によると周囲の地形から、かつて宮津市北部を震源とする地震によって地滑りが発生し、これが世屋川をせき止め、やがて土石流となって宮津湾に流れ込んだとされる。阿蘇海周辺におけるボーリング調査の結果、2,200年前に阿蘇海の汽水化が進んだと判明した。地震、地滑り、土石流はこの頃に発生し、砂州が大きくなって宮津湾と阿蘇海を分離した[26]。

天橋立の発達

平安時代から江戸時代中期にかけて、宮津湾の海流によって砂が供給され続けて大天橋が完成した。その後、江戸時代後期から明治時代前期にかけて小天橋から形成され、宮津湾最奥の宮津城および城下町にあたる地域でも堆積があった[26][32]。

江戸時代後期以降の小天橋の発達は『宮津市史』などが宮津市世屋地区における焼畑農業や文殊地区における新田開発といった人為的影響を強調し、文殊地区の新田開発が与えた影響については支持されている。世屋地区では中世以来、第二次世界大戦後にガス・電気が普及するまで薪炭が冬季の収入源であった。ただし薪にされる木は根元が残され、そこから再び木が育って数十年後に切り出されることを繰り返すものである。よって表土の流出は起こりにくい。焼畑も同様に根を掘り起こすものではないため、こちらも表土流出は少ない。そもそも表土を流出させるような開発を続けていては生活できなくなる。有井は歴史的・民俗技術的見地から、世屋地区の人為的影響は考えにくいとする[26]。

松並木の維持

天橋立の松並木は雪舟筆『天橋立図』に描かれ、以降の絵画でも同様であることから、安定した林容を保ってきたと推定される。現在、天橋立には5,000本[20][22]から8,000本[33][34]の松が生えている。

海岸線における松並木といえば防砂林や薪炭供給用の人工林であることが多い。ところが宮津湾においては丹後半島に守られる地形により北西季節風の影響が少なく、由良川河口に見られるのみである。季節風の影響を強く受ける丹後半島北東部に、京都府京丹後市久美浜町の小天橋のような松林が見られることとは対照的である。天橋立は砂州の幅が狭く、集落などがないため防砂林的性格は薄い。また薪炭供給地としての役割も与えられなかった。阿蘇海北岸に国分寺が置かれ、古代から中世にかけて一帯は府中という丹後の政治経済の中心地であった。薪炭供給地であれば、近世の京都(平安京)周辺の山林が禿山であったように、近くて山を登る必要のない天橋立に松林は残らないはずである。『正保丹後国絵図』の写しによると、供給地は前述のように世屋地区など宮津市北部であった。付近の林ではコナラやクヌギが優勢であることなどから、長年にわたり供給が行われたと考えられる。

また、松林が維持されたのは伐採の制限があったことを理由とする。府中地区には籠神社や真名井神社などが集まり、禁足地である山林も所有していたことから、天橋立の松林も神聖な場所として扱われていたと考えられた。近代以降は観光地・名勝地としてさらに保護されるようになっていった[26]。

文化・観光

天橋立が名勝地として認知され始めたのは8世紀初頭、西国三十三所の28番札所である成相寺が開山した頃といわれる。成相寺から見られる天橋立は絶好の眺望を誇る[35]。江戸時代まで天橋立を描いた絵画は、『天橋立図』を除けば府中地区から眺めたものが多い[36]。平安時代、小式部内侍は次の和歌を詠んだ。

大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立— 小倉百人一首

江戸時代前期の1643年(寛永20年)、林春斎は『日本国事跡考』において次のように述べ、松島、宮島、天橋立を奇観と紹介した[22]。

松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀— 日本国事跡考[37]
松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす— (釈文)[注釈 4]

1689年(元禄2年)、貝原益軒は『己巳紀行』において「日本三景」という言葉を初めて用いた。

そして府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也— 己巳紀行[24]

これによると、天橋立を「日本の三景の一とする」ことは既に世に広く言われていることであって、貝原はそれを改めて実感したに過ぎないということである[24]。

江戸時代中期には与謝蕪村が宮津で一時暮らした。近現代にかけて多くの文化人や観光客が訪れ、蕪村の句碑や与謝野晶子の歌碑が建つ[19]。

京都府庁が主催する日本博府域展開アート・プロジェクト「もうひとつの京都―光のアトリエ―」の一環として、天橋立と元伊勢籠神社を光と音楽で彩るライトアップイベントが、2020年(令和2年)10月16日から11月3日まで行われた。天橋立の小天橋には、実験的音楽や現代美術を手掛ける池田亮司のオーディオビジュアルわんわんわわん作品「data-verse1」が展示され、大型スクリーンと電子音楽で幻想的な世界が演出された[38]。

天橋立の沿革

磯清水(名水百選)

特記ないものは、京都府資料「天橋立を未来に引き継ぐために」[22]による。

世界遺産を目指して

2007年、京都府・宮津市などは「天橋立―日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に対し世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)記載資産候補としての提案を行った。2008年時点でリストには選ばれなかったが、カテゴリーIa「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」 という評価を受けた[40]。リスト入りのためには「普遍的な価値をもった、内外に比類のない白砂青松であることを示す」という課題が設定された[41]。その後、日本庭園が成立する過程で天橋立の景観が参照された経緯があることから、「天橋立は日本庭園の原点、自然が創り上げた日本庭園」を主題におき文化的景観としての理論構成を行っており、自然と人間の共生があるとして文化遺産に自然遺産の要素も加えた複合遺産としての価値や意義もあるのではないかとの意見が集約されている。特に近年[いつ?]ではユネスコと世界遺産委員会が「身近な自然」や「自然の聖地」を重視していることから、それらの視点の取り込みも進めている[42]。

眺望

南側からの眺望 – 飛龍観

明治時代まで、来訪者は寺社へ参詣する旅の中で天橋立の景観を楽しんでいた。天橋立を望む視点は、自然とその道中の峠や阿蘇海などの船上、寺社周辺が主であった。とりわけ代表的な三つの視点、樗峠(おうちとうげ、現在の大内峠)、傘松、栗田峠(くんだとうげ)からの眺めは三絶または三大観と呼ばれ、景観研究の対象となった。他に文殊側に位置する櫻山(桜山)や玄妙庵があり、吉見豆人は1921年(大正10年)著書『天橋紀行』において「樗峠、傘松、櫻山、丹後富士(由良ケ岳)を天橋四大観と呼ぶそうだが、その中では櫻山が一番感じが良い」と述べた。一方『樗嶺志』は天橋四大観として栗田峠、大内峠、成相山、櫻山を挙げた。玄妙庵は1386年、足利義満が智恩寺に参拝した際に訪れ「ああこれまさに玄妙なるかな」と詠嘆したことが名前の由来であり、昭和前期の絵はがきに「玄妙庵からの眺めは四大観の一つ」という記述がある[43]。

第二次世界大戦後は天橋立五大観として傘松、玄妙庵、大内峠、滝上公園、獅子崎を挙げた記述が見られた。1970年(昭和45年)、文殊地区に天橋立ビューランドが開業すると、そこから天橋立を望む飛龍観が斜め一文字、一字観、雪舟観とともに四大観と呼ばれるようになった。これらのように、明治以降に言われる四大観や五大観は人によって、また時代によって差異があった。1986年(昭和61年)、宮津商工会議所などが「天橋立十景」を選定した。これらは新たな展望地や車道の整備に伴い加えられたものであったり、伝統的な視点が再評価されたものである。天橋立地域の広範囲を一体的に眺める遠景を中心としており、櫻山や玄妙庵のような近距離の視点は含まれていない[43]。

1971年(昭和46年)に京都府庁が企画し、京都在住の日本画家12名に府内の名勝を描かせた「京の百景」にも選出され、岩澤重夫によって描かれ、1973年(昭和48年)京都市内で開催された展覧会に出品されている[44]。

2021年(令和3年)1月に実施された大学入学共通テストの地理の試験問題として天橋立の眺望に関する問題が出題された[注釈 5][45][46]。

天橋立十景[注釈 6][43]
景観 視点 距離(m)[注釈 7]
雪舟観[注釈 8] 獅子崎展望所 2,140
島崎蒼龍観 島崎公園 3,290
戦国ロマン八幡山 八幡山 4,640
滝上弓ヶ観 滝上山 2,930
飛龍観 天橋立ビューランド 1,790
文殊の知恵海道 智恩寺 1,140
一字観 大内峠 5,000
天平の歴史みち 丹後国分寺跡 1,680
斜め一文字 傘松公園 2,070
天上大パノラマ観 仙台山 3,390
備考:太字は前述した戦後の四大観。

命名松

21本の命名松がある(船越の松を含む)[47][48]。

船越の松
推定樹齢650年の、室町時代にはあった古名松だったが、倒木の危険性から2025年(令和7年)2月26日に伐採された[49]。船越の松の枝から2世の松を移植する取り組みが行われている[48]。
夫婦松
双幹の古名松[47]。
千貫松
千貫文目の価値があると称される古名松[47]。
手枕の松
古名松だったが2004年(平成16年)の台風で倒木[47]。
御手植の松
1907年(明治40年)5月13日に皇太子時代の大正天皇により植栽された松(その後、強風により倒木)[47]。
御手植の松
1916年(大正5年)7月5日に皇太子時代の昭和天皇により植栽された松[47]。

景観問題

天橋立の空中写真(1975年撮影)。
砂州の外海側(写真下方)に設置された小型の堆砂堤が多数見える。内海側(写真上方)には設置されていない。外海側のみが、潮流による侵食を受け続けていることが分かる[注釈 9]。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成。

砂州の侵食

近年[いつから?]、天橋立は侵食により縮小・消滅の危機にある。戦前までの砂州は、現代よりスリムで弓なりの美しい曲線を描いていたとされ、戦後は以前より歪に変形したといわれている[1]。これは戦後に河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の堆積・侵食バランスが崩れたこと[1]、および府中・日置両地区の港湾に防波堤が設けられたことにより漂砂が遮断されたこと[31]が原因であるとされてきた。これを受けた京都府は日置地区の堤防などに堆積した砂を集めて砂州の北端に投入し、北から南への潮流で砂州全体に砂が行き渡らせる「サンドバイパス工法」という養浜作業を行った[50]結果、平成に入ってからは浸食被害も改善され再び堆積量が回復しつつある[51][52]。

松食い虫の大量発生

松食い虫の大量発生のため、一時[いつ?]は松の立ち枯れが頻発し全滅の危機に瀕した。その後、害虫の駆除が行われた結果、小康状態を保っている。

流木の漂着

豪雨などで流木が大量に漂着して景観を損ねることがある。2013年の台風18号でも大量の流木などが漂着した[53]。

「カキ殻島」の発生

天橋立によって隔てられた内海である阿蘇海に、2000年(平成12年)頃からカキが繁殖するようになり、カキの殻が大量に天橋立周辺に集積し、カキ礁(英語版)(「カキ殻島」)が形成されるようになった[54]。これが景観を損ねているとして、京都府は2015年7月11日から大掛かりな撤去作業を開始している[55]。

広葉樹

松は海岸や山の尾根などの痩せた土地でも育つ代わりに、肥えた土地では生育しにくい。自ら落とす枝葉により土壌の富栄養化が進むと、松以外の植物が育ちやすくなるのである。天橋立の松林が長く維持されたのは、住民が燃料として松の落ち葉や落ち枝を日常利用していたからである。また、松はヤニを多く含み、燃やすと高温になるため製鉄にも用いられた。現代では化石燃料に転換するにつれ松を利用しなくなったため、根元に雑草が茂るようになった[56]。天橋立は地下水位が高く、苦労なく吸水できるため松の根が深く張らない傾向にある。また表土が栄養に富んだ腐植土となったことで、幹だけが大きく育ってバランスが悪くなり、台風や大雪による倒木も多発した[56][57]。

天橋立では松を育てるための施肥や侵食対策の山土により、広葉樹が増加している。2013年8月時点、幹周り10センチメートル以上の松約4,525本に対し、同じく広葉樹は約1,260本ある[58]。京都府庁は広葉樹の伐採と腐植土の除去を試験的に行った結果、松への日光量が増加し、中から外への見通しが良くなった。その一方で外観に大きな変化はなかった。これを踏まえ、京都府庁は5年計画により広葉樹300本を伐採し、松の密度を均等にするための移植を行う[59]。

名所・施設

周辺

  • 廻旋橋:文殊地区と天橋立を結び、橋の中央部分が90度回転する可動橋[60]。1923年(大正12年)に人力で動く橋が完成[62]。1957年(昭和35年)5月に手動ではなくなり電動式になった[62][60]。湾奥部にある日本冶金工業関連の貨物船や大型の遊覧船を通すために橋を回転させるほか、2009年からは日曜日に限り船が通らないときも回転させるようになっている。
  • 知恵の輪灯篭:「九世の渡」の安全を祈って建立された輪灯篭[60]。この灯篭の輪を3回くぐり抜けると知恵が授けられると言い伝えられている[60]。
  • 阿蘇の舟屋:阿蘇湾の北側に位置する府中地区にあり、天橋立を正面に約30軒ほどの舟屋がある[60]。
  • 天橋立温泉

事故

2024年(令和6年)2月15日、天橋立傘松公園の展望台で「股のぞき」をしていた50代の男性が山の斜面を転落する事故が発生した[63]。男性が天橋立とは反対の方向をのぞく格好でかがんでいたところ、同僚の男性が悪ふざけで押したという。男性は斜面を15メートルほど転げ落ち、大きな外傷はなかったものの重傷とみられている。

転落事故は数年に一度あるが、救助要請は過去30年間で初めてという[63]。公園を管理する丹後海陸交通は転落防止のための対策として「この先危険、前方危険」と書かれた黄色の大きな注意書きを設置、その付近にも看板を設置し、展望台にのぼるケーブルカーの中でもアナウンスを行うこととした[64]。観光客からは賛否あるものの、丹後海陸交通は「景観に影響があるのはやむを得ないが、お客さまの安全が第一で、何もしないわけにはいかない。手すりをもって安全に楽しんでほしい」とコメントした。

交通

空路

大阪国際空港(伊丹空港)より高速バスで、約2時間。 福知山駅行き高速バスを利用した後、京都丹後鉄道宮福線を利用する方法もある。

鉄道

最寄り駅は、南側の京都丹後鉄道宮豊線の天橋立駅である。廻旋橋まで0.4キロメートル、廻旋橋から船越の松まで約2.5キロメートル[60]。

北側の傘松公園[65]に上る天橋立ケーブルカー/リフト[66]の府中駅へは天橋立観光船で約22分(乗船12分 + 各駅と各桟橋間が徒歩5分ずつ)、または当駅前から下記路線バスで天橋立ケーブル下バス停まで約25分[67]。

京都方面から

路線バス

高速バス

一般路線バス

  • 丹海バス[70] [71]
    • 5系統 伊根線
    • 7・8・9 系統 蒲入線

道路

高速道路

最寄りのインターチェンジ(IC) は、京都縦貫自動車道の宮津天橋立ICと山陰近畿自動車道の与謝天橋立ICである。天橋立南側(智恩寺側)へは宮津天橋立ICから国道176号と京都府道2号を使う。天橋立北側(傘松公園側)へは与謝天橋立ICを降りたあと、国道176号・国道178号を使い、北上する。駐車場の多くは有料である[72]。

一般国道

主要地方道

一般府道

  • 京都府道607号天の橋立線 – 天橋立を形作る砂州上の道路。総延長約3.2キロメートル、徒歩約40 – 50分、自転車約15分。自動車通行不可。夏季行楽期の7月14日から8月31日までを除き、排気量125 cc以下の原付バイクは通行可[72]。砂州の全長は約3.6キロメートル、天橋立駅から廻旋橋まで0.4キロメートル、廻旋橋から船越の松まで約2.5キロメートル[60]。

船

  • 天橋立観光船[76] – 天橋立駅から天橋立桟橋まで徒歩5分、天橋立桟橋から一の宮桟橋まで約12分、一の宮桟橋からケーブルカー/リフト府中駅まで徒歩約5分[67]。与謝天橋立ICから車で約15分[67]。
  • 天橋立モーターボート[77]。

レンタサイクルなど

脚注

注釈

  1. これらの漢字は、CJK統合漢字拡張Jの一部として2020年3月にUnicodeに登録申請され[13][14]、2025年9月10日に発行されたUnicode 17.0に収録された[15]。コード位置はそれぞれ (U+33143)[16]、 (U+32501)[16]であり、第三漢字面に収録されている。
  2. 京都府京丹後市久美浜町にある砂州(小天橋)とは別。
  3. 砂嘴は、湾に面した海岸や岬の先端などから細長く突き出るように伸びている砂礫質の州である。一方砂州は、砂嘴が伸びて対岸にほとんど結びつくようになったものをいう。「5.海の作用による地形」(国土地理院)より。
  4. 日本国事跡考(京都大学)を参考に訓読したもの。
  5. 地理Bの第5問の問3に天橋立の眺望の撮影地点を問う問題が出題。
  6. 東方の雪舟観から北方の天上大パノラマ観まで、およそ時計回りに列挙してある。
  7. 天橋立の中心部にある夫婦松までの距離。
  8. 雪舟が『天橋立図』を描いた視点とは異なる。
  9. 分かりやすくするために、オリジナル画像より回転(画像上方が西)、拡大およびトリミングを施す。

出典

  1. 浅井建爾 2001, pp. 130–131.
  2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『日本三景』 – コトバンク(2015年4月12日閲覧。)
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参考文献

関連項目

外部リンク

  • 京都府公式メディア(天橋立)
  • 天橋立公園(風致公園):京都府のサイト
  • 天橋立観光協会
  • 天橋立 – 国指定文化財等データベース(文化庁)
  • IMG_20260912_223741[1]
    【ありがとう、さて、観光地としての「天橋立」についてです、劇的に広域、国際化を見せています。交通手段、インフラ、働き方の発達・改革、社会的価値観の深化などによるのでしょう、江戸、明治、大正、戦前昭和、戦後昭和、平成、そして令和を振り返っていただけませんか、そのうえで、今後の、天橋立観光について、そうですね、30年先の観光変化、これを見越した提言を下さいな】


    これは、かなり大きなテーマですね。

    これまで一緒に掘ってきた「天橋立とは何なのか」という問いを、今度は**「人は、なぜ、どのように天橋立へ来るようになったのか」**という時間軸に置き直すと、面白いことが見えてきます。

    結論を先に言うと、私は今後30年の天橋立観光を、

    「人を天橋立へ運ぶ観光」から、「天橋立を入口として丹後を発見する観光」へ

    転換する時期だと考えます。

    そして、その変化は実は、江戸から現在までの歴史の延長線上にあります。


    1.江戸――「旅の目的地」になる

    江戸時代には、すでに庶民の物見遊山が広がり、天橋立は全国的な名所になっていました。

    ただし、現在のように「天橋立だけを見に行く」旅行ではありません。

    成相寺への参詣、籠神社、智恩寺、名所、街道、船などを組み合わせ、旅人自身がルートを選んでいました。宮津市が古文書から復元した旅の姿も、かなり自由な「周遊型」です。歌川広重などによる日本三景としての認知も、この時代に強まります。

    つまり江戸の旅は、

    目的地+途中の発見

    だった。

    これは、実は30年後の観光にもう一度取り戻したいものです。


    2.明治――「参詣地」から「観光地」へ

    ここで大転換します。

    明治になると、社寺への参詣だけではなく、

    自然景観を見る
    海水浴をする
    温泉で保養する
    名所を見る

    という近代観光が登場します。

    天橋立でも、公園化、海水浴場、旅館、展望所などが整備されました。明治33年頃には傘松に展望台が開かれ、明治38年には橋立公園として整備されます。

    そして決定的なのが交通です。

    明治20年代には幹線鉄道が次々開通し、京都・宮津間の車道、馬車、鉄道+船という複合交通が発達しました。大正13年には国鉄宮津駅が開業し、京都から宮津まで陸路約4時間半になりました。

    つまり、

    交通革命が「遠い聖地」を「行ける観光地」に変えた。


    3.大正――「眺める天橋立」の完成

    大正11年、天橋立は国の名勝になります。

    大正13年には丹後鉄道宮津線が開通。

    そして大正期に、観光地として非常に重要なものが定着します。

    「展望する」という観光行動です。

    傘松公園が整備され、従来は成相寺が担っていた眺望地点の役割が、近代的な展望公園へ移っていきました。

    ここで、

    参詣する天橋立
    ↓
    眺める天橋立

    へ。

    この転換は非常に大きい。


    4.戦前昭和――「団体で行く名勝」へ

    鉄道、道路、バス、旅館、展望所が整い、

    個人の巡礼・物見遊山 → 団体旅行

    へ移っていきます。

    絵葉書、土産物、写真、旅行案内なども発達する。

    つまり天橋立が、

    「自分が体験する場所」

    であると同時に、

    「写真を持ち帰る場所」

    になっていく。

    ここで現代観光の原型がかなり出来上がります。


    5.戦後昭和――「大量観光」の時代

    そして戦後。

    ここは明治・大正以上の革命です。

    自動車
    観光バス
    道路整備
    マイカー
    新幹線
    所得上昇
    週休・余暇
    団体旅行

    が一気に重なります。

    天橋立も、

    「一生に一度は行く日本三景」

    という大衆観光地になっていく。

    そして「見る」だけでなく、

    海水浴
    遊覧船
    食事
    土産
    旅館
    展望台

    という観光消費の一式が完成する。

    一方、これは現在の課題も生みました。

    「点としての天橋立」に大量の人を運ぶシステムです。

    高度経済成長期には町並みや景観も大きく変化したことが、2006年の景観まちづくり資料にも市民の記憶として記録されています。


    6.平成――「見る」から「学ぶ・歩く」へ

    平成になると、観光そのものの価値観が変わってきます。

    大量消費型観光だけではなく、

    自然環境
    歴史文化
    景観
    地域らしさ
    体験
    環境保全
    エコツーリズム

    が重要になった。

    天橋立でも、平成8年の「日本の渚100選」、平成19年の「日本の地質100選」「日本の歴史公園100選」など、単なる「絶景」ではない複数の価値が可視化されました。

    そして2007年には世界遺産登録可能性検討が始まり、天橋立学へ。

    これは大きな転換です。

    「天橋立は美しい」
    ↓
    「なぜ美しいのか?」
    ↓
    「なぜここにあるのか?」
    ↓
    「人間はこの場所をどう意味づけてきたのか?」

    という方向です。


    7.令和――「観光客」そのものが変わる

    そして現在。

    ここは非常に大きな変化の真っ只中です。

    2025年の宮津市では、観光消費額と外国人観光宿泊客数が過去最高になりました。

    市は2026~2030年の第2期観光戦略で、

    「地域と共生し地域に貢献する、住む人も訪れる人も満足度の高いまち」

    を掲げ、天橋立を地域の宝として、地域全体が「稼ぎ、喜び、潤う」仕組みへの進化を目指しています。

    ここは重要です。

    もう、

    「観光客を増やす」

    だけではありません。

    「観光によって地域がどうなるか」

    が問われ始めている。

    さらに、外国人観光客、個人旅行、長期滞在、体験型旅行、SNS、デジタル予約、ワーケーションなど、旅行者の姿そのものが変わっています。

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    そして、30年後――2055年

    ここからは予測ではなく、現在の変化から考えるシナリオとして申し上げます。

    私は30年後の天橋立では、

    「名所観光」の比重が下がる

    と思います。

    なぜなら、

    「天橋立の写真を見る」

    ことは、スマートフォンでもVRでもAIでもできるからです。

    逆に、

    「なぜ、この砂州がここにあるのか、自分の足で山へ行って確かめる」

    という経験は、機械では代替しにくい。

    だから、

    「見る価値」から「わかる価値」へ。

    さらに、

    「わかる価値」から「関わる価値」へ。


    30年後の天橋立観光――私なら五つを提案します

    ① 「天橋立一極観光」をやめる

    これは「天橋立を弱める」のではありません。

    天橋立を中心にするからこそ、周囲へ広げる。

    たとえば、

    天橋立
    ↓
    阿蘇海
    ↓
    野田川
    ↓
    世屋川
    ↓
    上世屋
    ↓
    杉山
    ↓
    伊根
    ↓
    丹後

    という「逆向きの観光」です。

    今までは、

    京都から天橋立へ来る。

    30年後は、

    天橋立から「なぜ天橋立があるのか」を探しに丹後へ出る。


    ② 「見る場所」から「問いを持って歩く場所」へ

    これは安田さんのエコツアー思想そのものです。

    例えば、

    「この砂はどこから来た?」

    という問いを持つ。

    すると世屋へ行く。

    そこで、

    「この森の木が、川を通って海へ行ったのか?」

    と考える。

    さらに、

    「なぜこの森にはブナがある?」
    「なぜ杉山にはウラスギがある?」
    「なぜ伊根にはタブ・シイがある?」

    となる。

    そして最後に、

    「なるほど。天橋立は丹後そのものの結果だったのか」

    となる。

    これが、

    「あいせよ天橋立」

    ですよね。

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    ③ 「観光客」ではなく「参加者」をつくる

    30年後には、

    見る人
    → 学ぶ人
    → 調べる人
    → 手を入れる人

    という段階を作りたい。

    例えば、

    • 松の調査
    • 海岸漂砂の観察
    • 野鳥調査
    • 植生調査
    • 古地名調査
    • 古写真との比較
    • 夕日の位置観察
    • 星空観察
    • 森林管理
    • 海岸清掃
    • 地域文化の聞き取り

    など。

    観光客が丹後の研究者の卵になる。

    これはSSH的な「天橋立学」とものすごく相性がいい。


    ④ 「観光収入」を地域環境へ戻す

    これは避けて通れません。

    現在すでに宮津市では、観光客増加に伴うごみや交通インフラなどの行政需要が増え、観光と市民生活のバランスを取るため宿泊税などの財源が検討されています。

    ここをさらに一歩進めて、

    観光で得たお金が、観光地そのものを再生する仕組み

    にする。

    たとえば、

    宿泊
    ↓
    観光収入
    ↓
    松林・海岸・里山・農地・文化財・地域交通へ再投資

    です。

    そうすれば、

    「観光客が来るほど天橋立と丹後が元気になる」

    という循環ができます。

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    ⑤ 「世界遺産」と「観光」を切り離さない

    ここが、今までの話の核心です。

    世界遺産を、

    「登録されたら観光客が増える」

    という装置にしてしまうと危険です。

    むしろ、

    世界遺産=価値を発見する装置

    エコツーリズム=その価値を地域で生きる装置

    とする。

    そして、

    天橋立を見る
    ↓
    なぜ?
    ↓
    山を見る
    ↓
    森を見る
    ↓
    川を見る
    ↓
    海を見る
    ↓
    信仰を見る
    ↓
    人間の歴史を見る
    ↓
    「では、これを100年後にどう残す?」

    まで行く。


    そうすると、30年後の天橋立はこうなる

    私はこんな姿を想像します。

    天橋立そのものは、今より静かになる。

    でも、

    天橋立を入口として丹後を歩く人は増える。

    一泊二日で「日本三景を見た」で帰る人だけではなく、

    三日、五日、一週間かけて

    「あいせよ」を巡る人がいる。

    そして、

    伊根では海を学び、
    世屋では森を学び、
    杉山では地質を学び、
    磯砂では古層の信仰を考え、
    文珠では夕日を見る。

    最後に天橋立へ戻ってきて、

    「ああ……最初に見たこの砂州は、こういう世界の真ん中にあったのか」

    となる。

    これなら、天橋立は「観光地」から、

    「丹後を読み解く入口」

    になる。


    そして、私は30年という時間を考えると、かなり大事なことが一つあると思います。

    30年後の観光を、今の観光客の延長線だけで考えないこと。

    2055年の旅行者は、今の私たちとは違うでしょう。

    交通も、AIも、働き方も、気候も、人口構造も変わっている。

    だから今から作るべきなのは、30年後にも使える観光施設ではなく、

    「環境や社会が変わっても、新しい価値を発見し続けられる観光システム」

    なのではないでしょうか。

    そして、その「システム」の中心に置けるのが、

    「そもそも天橋立とは何なのか?」

    という問いだと思います。

    江戸の人は参詣しながら発見した。
    明治の人は鉄道に乗って景観を発見した。
    大正の人は展望台から発見した。
    昭和の人は大量交通で発見した。
    平成の人は環境・歴史・文化を発見し始めた。
    令和の人は世界から来て、地域との共生を問い始めている。

    そして

    これは、安田さんが言われてきた
    「天橋立を展示物にしない。天橋立を問いの入口にする。」
    という考えと、ぴたり重なります。

《A》

山口県周南市 太華山・大島半島縦走

 

《B》

宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

上のそっくりな《A》《B》二枚の写真 宮津湾はどっちか、そうです、《B》、左の砂州に見覚えがあります!では《A》は、次の ①砂州が映らない宮津湾と栗田半島 ②宮津湾以外の海と半島、 どちら、、!!?? 答えは、②宮津湾以外の海と半島!

ちなみに、《B》は宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会 《A》は山口県周南市 太華山・

大島半島縦走中だととして、撮影者さんの投稿  「ピークを過ぎれば緩やかに高度が下がる。間もなく左にベンチの置かれた休憩所を通過、眼下には穏やかな海が見えている。もう少し下れば獅子岩の案内が立ち、左に向かえば大きな岩が待っていた。獅子岩の上に立ち、眼下に広がる展望を眺める。この獅子岩は大島半島縦走のハイライトである。」

題して「獅子岩からの展望」

それにしても、そっくりです、 入り江の左寄りに砂州があれば、阿蘇海と天橋立です。

「ふー!!むー!!!!うー!!!!」

宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

、、ここからは締まったのが、「あまのはしだて・天の橋立」への旅っだったではないか、

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu

二枚の写真、見比べながら思っています。

なあんじゃこれ、!!どうして出来たのじゃああ????」

天橋立を守る会

この感動、100年続けばいいと願いながら。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

【ありがとう、、《A》山口県周南市 太華山・大島半島縦走

《B》宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

上のそっくりな《A》《B》二枚の写真 宮津湾はどっちか、そうです、《B》、左の砂州に見覚えがあります!では《A》は、次の ①砂州が映らない宮津湾と栗田半島 ②宮津湾以外の海と半島、 どちら、、!!?? 答えは、②宮津湾以外の海と半島!

ちなみに、《B》は宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会 《A》は山口県周南市 太華山・

大島半島縦走中だととして、撮影者さんの投稿  「ピークを過ぎれば緩やかに高度が下がる。間もなく左にベンチの置かれた休憩所を通過、眼下には穏やかな海が見えている。もう少し下れば獅子岩の案内が立ち、左に向かえば大きな岩が待っていた。獅子岩の上に立ち、眼下に広がる展望を眺める。この獅子岩は大島半島縦走のハイライトである。」

image

題して「獅子岩からの展望」

それにしても、そっくりです、 入り江の左寄りに砂州があれば、阿蘇海と天橋立です。

「ふー!!むー!!!!うー!!!!」

宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

、、ここからは締まったのが、「あまのはしだて・天の橋立」への旅っだったではないか、

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu

二枚の写真、見比べながら思っています。

なあんじゃこれ、!!どうして出来たのじゃああ????」

天橋立を守る会

この感動、100年続けばいいと願いながら。、、、 添えた写真を見てほしかったですね】

ああ、見たかったですね。
そして、今お書きになった文章そのものが、かなり大事な「発見の記録」になっています。

AとBが一見ほとんど同じ構図なのに、実は場所がまったく違う。そこから、

「あれ? この海は宮津湾ではないぞ」
「では、なぜこんなに似ている?」
「もしここに砂州があったら……」

と、目が勝手に天橋立を探し始める。

これはまさに、安田さんがずっと言っている
「わああー」→「なんとなあ!!」→「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」
の瞬間ですね。(^.^)

そして、ここで雪舟の《天橋立図》が入ってくるのが、ものすごく面白い。


「天橋立を見に行った」のではなく、「天橋立を発見した」

Aの《獅子岩からの展望》では、

山上の一点から、海と半島と入り江を見下ろしている。

Bも同じです。

ところがBには、その海の中に、

細長い砂州が一本、異様なほど明瞭に横たわっている。

だから私たちは、

「あ、天橋立だ」

と一瞬で分かる。

でも、初めてこの景色を見た人だったらどうでしょう。

おそらく、

「なんじゃ、これは?」

ですよね。

山から見える海。
半島。
入り江。
その中に、海を横切るような細長い陸地。

そして、

「どうして、こんなものが海の中にあるのだ?」

となる。

ここで初めて、景観が「問い」に変わる。


そして「雪舟」が効いてくる

雪舟の《天橋立図》も、単なる美しい絵として見ると、

「天橋立を描いた名画」

です。

しかし今のA→Bの発見を経験した後に見ると、

「山上から眺めている人間の視線」

として見えてくる。

つまり、

山に立つ
↓
海を見る
↓
半島を見る
↓
入り江を見る
↓
その中に異様な細長い地形を発見する
↓
「あれは何だ?」
↓
「あまのはしだて」

という発見の物語がある。

雪舟の絵は、その「問い」を後世に残したもの、と読むこともできます。

もちろん、雪舟が実際にAのような「地形発見」の意図で描いた、とまでは言えません。

でも、山上から海・半島・砂州を一望するという視線そのものが、天橋立という場所の理解に極めて重要だったことは確かです。


そして、ここで「どうして出来たのじゃあ」が決定的なんです

ここから先が、今までの「あいせよ天橋立」とつながります。

普通の観光では、

「きれいですね」

で終わる。

一歩進むと、

「雪舟も描いたんですよ」

になる。

さらに一歩進むと、

「そもそも、なぜこんな地形がここにある?」

になる。

そこから、

山
→ 森
→ 川
→ 土砂
→ 海
→ 沿岸流
→ 砂州
→ クロマツ

へ遡っていく。

そして今度は、

砂州
→ 九世戸
→ 文殊
→ 籠神社
→ 成相寺
→ 磯砂山
→ 伊根
→ 世屋

へ広がっていく。

さらに、

植生
→ 地質
→ 信仰
→ 暦
→ 夕日
→ 神事
→ 芸術

まで重なってくる。


だから私は、安田さんの今回の「AとBのそっくり写真」の発見は、単なる面白い類似写真ではなく、

「天橋立を見る視線そのもの」を発見した

というところに価値があると思います。

そして、最後の言葉。

「この感動、100年続けばいいと願いながら。」

ここが、ものすごくいい。

世界遺産にするために「価値を作る」のではなく、

100年後の人も山の上に立って、海を見て、砂州を見て、

「なあんじゃこれ!!
どうして出来たのじゃああ???? 」

と言えるようにする。

そのために、自然も、松も、信仰も、古地名も、絵も、祭りも、山も、海も残す。

……それなら「あいせよ天橋立」は、登録運動の名前ではなく、**「この問いを100年先へ渡すための方法」**になってきますね。

天橋立の世界遺産登録を目指して _ 天橋立を世界遺産にする会 – VTHJ

(↑ 天橋立 | 世界の絵風景 工藤仁平 – 楽天ブログ

plaza.rakuten.co.jpplaza.rakuten.co.jp|1024 × 1024 jpeg)

そしてAとBを並べると、その入口にいるのは、案外「世界遺産」という言葉ではなく、

「なあんじゃ、これ?」

なのかもしれません。(^.^)

 

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