明日の朝は、野に白い露の玉、、、、
暦は白露を過ぎ、秋分へ向かっているのだから!
しかし、どうもそうはいかないようです、連日、モンスター積乱雲
「太平洋高気圧が日本の南東で張り出しを続けることで、上空の偏西風は平年より北を流れるとみられ、日本付近は引き続き暖かい空気に覆われやすくなる見込みです。」とこのため、3か月を通して平均気温は全国的に「高い」と予想されています」と気象庁が発表の9月から11月の長期予報。
こんな時、せめての楽しみは雲です、変幻自在に形も色も変えるのですから。
さて、その雲については、
ミツカン 水の文化センターの雲と人間について哲学者の小林康夫さんに問うた、企画が面白いですよ。
――小林さんが考える雲のおもしろさとは?
誰もが知っているし見ることができる身近な存在だけれど、地上のものではない。人間の生活にそのまま役立つこともない。でも、見上げれば誰でも「気分」や「気」を感じとることができますよね。そして、不思議なことに、「雲」の向こう、「雲の上」への思いが湧いてきませんか。雲は主役ではない。天地のあいだの境界や媒介の場にすぎない。でも、それだから、雲を見ていると、われわれの心になにか別世界への憧憬のような思いが、雲のように湧いてくるのだと思います。
――日本の絵巻でも、雲は場面転換や神仏が現れるシーンで使われていたそうです。
そうです。リアルに考えればそこに雲があるのはおかしいのですが、誰も異議を唱えないし、不思議とは思わない。神仏は、われわれの世界とは違う世界、でも、われわれの世界のちょっと「上」、それほど離れていない世界にいる、そう感じて安心して納得してしまう。そこがおもしろいのです。
もう一つ、雲に関して大事なことは、それが「常に動く」ことです。風に吹かれてね。雲と聞いて多くの人がイメージするのは、青い空に静かに流れていく白い雲ではないでしょうか。雲が全天を覆い尽くしている曇天の日に、雲にポエジーを感じる人は少ないでしょう。じっと見ていると、驚くほどのスピードで流れ、消えていく雲は、時間というものを感じさせてくれるものでもあるのです。
究極の教えは「行雲流水」にある
――空を見上げて雲を見る行為にはどんな意味があると思いますか?
人工的な心地よい空間にいて、空も見ずにスマートフォンだけで天気予報を見る人が多いこの時代、「空を見上げて雲を見る人」、「雲と対話できる人」はますます貴重な存在になると思います。
文学でいえば、ヨーロッパではヘルマン・ヘッセとか、日本では宮沢賢治が空を見上げていた人ですよね。
雲を見上げることができるのか――。これは、これからの時代の大きなテーマだと思います。雲の正体は「水」ですよね。水がなければ雲はない。でも、それだけではなくて、空気もなければならない。水と風がふれあって「婚姻する」ことで雲は生まれているわけです。それは、われわれの地球の本質です。雲を見ることは、私たちが地球に住んでいることを実感するすばらしい機会なのです。
――雲が私たちに「生きる力」を与えてくれるということですか?
そうではありません。雲を見て「よし、がんばるぞ!」といったことではないのです。もしも雲に「教え」のようなものがあるとすれば、もっと厳しい真理ではないでしょうか。「生きる力をあげよう」ではなく、「君も私(雲)と同じようにいつの間にか生まれて、やがて消えていくんだよ」というような。
「行雲流水(こううんりゅうすい)」という禅の言葉がありますね。何事にも執着することなく、雲や流れる水のように成り行きに任せて生きることの教えですが、「こうしたい」という自分の欲望をかなえるための生ではなく、「人間のどんな思いも、雲のように生まれ、消え、そして人間もまた死んでこの空へと還っていく」、そのように生きることで初めてそこに究極の自由の境地が開かれるという教えですよね。これこそ、究極の雲のレッスンではないでしょうか。
それは、東洋的な禅の思想というだけではなく、西洋でも同じです。私が思い出すのは、フランスの詩人ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の冒頭の詩「異邦人」のなかで、自由な異邦人に「わたしが愛するのは雲、彼方の空を過ぎて行くあの雲、素晴らしい雲」と言わせていることですね。
空を見上げることは、生まれては消えていく雲の様子をじっと見つめる自由の時間をもつこと。それは一種のメディテーション(瞑想)に近いかもしれませんね。』
西洋と東洋における雲に対する認識の差
――雲は哲学においてどのような存在なのでしょうか?
私が知る限りで、これまで雲の哲学はなかったのではと思います。木の哲学はあっても、雲のように常に動いていて形の定まらないものを哲学の対象とするのは、困難が伴います。
では、なぜこの取材を引き受けたかというと、それは雲の哲学を今、この時代から始めてみるのもおもしろいかもしれないと思ったからです。
でも、西欧のアートの分野では、雲はとても大きな役割を果たしていました。フランスの哲学者・美術史家のユベール・ダミッシュ(注1)は、名著『雲の理論』で、西欧絵画における雲の役割を「地上と天上の世界をつなぐ装置(媒介)だった」と論じています。つまり、天上には天使や神がいて地上には人間がいる、この二つの異なった世界の「間」を雲が媒介していたわけですね。
でも、そうした表現上の装置としてではなく、自然のありのままの雲を画家が描きはじめるのが、オランダ絵画の画家たち、そしてイギリスのカンスタブルやターナー(注2)といった19世紀のロマン主義(注3)の画家たちです。とりわけターナーは、嵐などの激しい、荒々しい自然の動きを雲に託します。嵐の海の波やアルプスの雪崩などと並んで、雲は人間の力を超えた「崇高なもの」の表現となる。世界の根源的な力が雲に現れると言ったらいいかもしれません。ダミッシュの著書のなかでも、ターナーの雲は、雲の表現の歴史の到着点として語られていました。そこでは、雲は、ある意味では、世界の「気分」そのものです。穏やかな田園には流れる白雲。嵐の海には、荒れ狂う黒雲というようにね。
――西洋と東洋で雲の表現は違うのですか?
ダミッシュは同書の最後で東洋(中国)の雲についても言及しています。そして中国の淡彩による風景画の雲を「人間の息の神聖文字(注4)である」と表現しています。
風景画なのになぜ「文字」なのか。それは中国をはじめとする東アジアは筆の文化圏だからです。15世紀に活字印刷が始まったヨーロッパのように文字と絵画の領域が完全に分かれているのではなく、絵も文もすべて同じように筆で書きます。しかも、それは、書く人の息づかいまで感じさせる。まるで、筆の先から、その人の息が「雲」となって現れるように。強いて言うなら、東洋では、雲は世界の「気分」だけではなく、人の「気」も伝えているのかもしれませんね。
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雲 山村暮鳥
丘の上で
としよりと
こどもと
うっとりと雲を
ながめている
雲 山村暮鳥
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか
、