宮津エコツアー · 2月 2013

2月 2013

2013/02/10
たるみのうえのさわらびのもえいずる春に、、、の「垂水」は垂れ水、滝のことです。その垂れ水が寒波で寒気にさらされ、氷結することがあります。

つらら・氷柱 です。標準型。

鍾乳石の形成と理屈は同じ。形は様々。落ちたしぶきが凍ったもの。


氷のことを「ひ」といいました。ひむろ・「氷室」と言う言葉が残っています。つららとは、つるつるがつらつらになつて、つららと旅をしたということですが、つらら・氷柱とは「垂れ水」と「氷室」を合体させたもの、つまり、たれひ・「垂れ氷」といいました。

大ブナ下の氷柱も今年マックス。

2013/02/10

おっ藤本芳郎さん !

木子のペンション「自給自足」のフロアで。
藤本さんは丹後の美を撮影し続けた写真家です。 しばしば世屋にも訪れ、四季を活写されていました。秘蔵するのではなく写真が喜ぶところにおいてもらうのが一番、とおっしゃって、惜しげもなくおいていかれました。日写連三丹支部長としても地域の写真文化発展に尽力された方です。

藤本さんが撮ったコスモスの咲く田圃で、今日は除雪応援にお母さんたちと世屋を訪れた子どもたちが新雪に絵を描いていました。

さて、雪かき応援二陣のお昼はここ、「自給自足」とは地域の共同あってのことと素材の一つ一つとメニューを話すおばちゃん。

入植25年の生き様を盛る器も半端な器ではありません、味のある器にまつわるエピソードにも、子育て中のお母さんたち、頷くことしきり。

どんな話?そりゃあ、ぜひ訪れて生で聴いてください。(^.^)
電話は、0772-27-1741(ペンション自給自足)

 

2013/02/09
スキーの話し、おフサおばあさんならおぼえとろうで、と新太郎さんからふられたおフサおばあさんは、語りの名人。ほれぼれする世屋弁です。
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丸山先生いうのが初めてスキーで「ええの(上野)」という上世屋のテッペンの山から降りてきなっただ。その時、村中のもんがおおさわぎしてなあ、真っ青になってみんなづれみにでてきただ。
「天からなんだでぃやあっとおりてきたど。天から降りてきたろうか、山から出てきたろうか、いうてなあ、それから村へ降りてきなったんだが、遠いところだで、すいーっとやんなるのがなんだわかれへんで、おもしろいじゃにゃあ、もうびっくりしたもんです。それが上世屋のスキーの見始めでしたけど、そん時はまんだ子どもだじゃったもんに、六、七十年も前のこったろうなあ、その頃はようけ、雪があって、何メートルいうことをしらんで、電信柱に印しといて見たもんですだが、無精なおっさんは、我が家の前をようほらんで、屋根から出入りしたのがあったりしてなあ、

(↑ 2012.2.3)

それくりゃあ雪があったで、スキーにもようけ来なって、婦人会でも寄りおうて、寒いのに来なっただで、思い出のもてなしをしようで、思い出を残すようにしたげようで、いうて決めてなあ、十人ほどが支部長のうちへ寄って、餅をついて小豆を炊いて、砂糖でぜんざいにして、「いわのうえ」へ負うてあがったですわな。
うちは、大きな腹しとったで、いかずに餅をつくっとっただけだったけど、ほいてへこって食べるところは、村の人に頼んで、藁やコモをもっていってもらっちゃあして。無料でお昼の準備をしたもんですだで。それから、ひといきスキーの民宿をしなったえ(家)もあって、ようけもうけなっただ。戦死した保つが一年生の時分じゃったろうかな、あのうちには、冬中、次から次へお客がきなったなあ、ほれで風呂場もこしらえて、丹前も買うてなあ、ほれに濡れてもどってきなるもんだで、大鍋に炭をいれて炭をおこしてその上にアジカ(竹で編んで桑こき二つかうもの)を乗せて着物をかわかしてあげただ。時期に乾いたですで。それから、お客の中には、30センチもあねようなおおけなロウをもってきとんなる人があってそれをうちの九つになる子がもらってよろこんどったのをおぼえとります。
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※レリヒ少佐から指導を受けてスキー普及にあたっていた中山再次郎先生の目にとまった上世屋。“スキーなら上世屋へいけ”「上世屋の雪は、北海道と違わん、ひゃあひゃあ雪(※灰がたつように軽い雪)だ」と中山先生のお墨付きをもらったのですから、スキーに関心を持ち始めた若者たちの眼は、いやでも世屋に向きます。大阪や京都のほうからようけ「上世屋にいこう!」スキー民宿ができ、引きも切らないお客があった!その様子をおフサおばあさんは語ってくれました。

(↑ 2/9  世屋の雪と戯れる町の子ども)

ちなみにおフサおばあさんは、明治33年(1900年)生まれです。昭和の初めのころの話しです。大阪からとしたら「上世屋」へはどのような交通手段を使ってこられたのでしょうか。

Mさん、こうなると、「いわのうえ」スキー場を蘇らせないと(^.^)

それにしても、村人の新しい風を感じる敏感さ、「寒いのに来なっただで、思い出のもてなしをしよう」!まず人のことを気遣う、この人情の熱さは今も、連綿と続いています。
※レリヒ少佐と日本のスキー

テオドール・フォン・レルヒ。1910年11月に交換将校として来日した、オーストリアの陸軍少佐です。

レルヒ少佐は日本に来るや、是非雪の多い駐屯地に配属してくれと強く求めました。そして1911年1月1日に、新潟県・高田(現上越市)の歩兵58連隊に送られます。嬉しかったでしょうね。彼はさっそく雪の中を進む軍事訓練として、兵士たちにスキーを紹介します。これに応えて連隊は彼がオーストリアから持ってきた1組のスキーを拝借、それを見本として帝都の兵器工場に送りました。それからわずか2週間後、ツダルスキー型のスキー10本とストックが高田に届きます。また、連隊長の堀内大佐は数名の青年将校にスキーの練習を命令、レルヒ少佐がその講習をすることになりました。

レルヒ少佐が理論の講習を終えて実地訓練を始めると、好奇心の強い高田の中学生たちが見よう見真似でスキーの道具を作ったといいます。それを見てか、堀内大佐はレルヒ少佐からスキーを学んだ将校たちに、越後地方の学校でスキーを教えるように促しました。もちろん、レルヒ少佐も民間人にスキーを教えることには大いに乗り気でした。彼は特にジャーナリストと教師にスキーを教えます。これはなかなか賢いやり方ですね。おかげでスキーはあっという間に遠方まで伝播、レルヒ少佐が高田に来た翌月の1911年2月29日には日本スキークラブができ、これが翌年には早くも6,000人の会員を数えるほどになりました。
www.onyx.dti.ne.jp 上越市HPなど

また、上越市ではユルキャラも活躍とのこと。

2m70cmという長身キャラのレルヒさん。
ゆるキャラグランプリで4~5位につけています。
身長に合わせて細なが~く切り取ってみました。

<元祖”ゆるキモ”キャラ>
■レルヒさん(新潟県)
2011年「スキー発祥100周年プロジェクトin新潟」のメインキャラクター。
1911(明治44)年1月12日、オーストリア軍のテオドール・フォン・レルヒ少佐が新潟県高田町(現・上越市)金谷山で組織的なスキー指導を行いました。
常に何かを企んでいるが、基本的にお人よし。
やや照れ屋だが、おだてられると調子に乗る一面も。
子ども好きだが、女性には弱い。
教えたがりでおせっかい。
スキーは上手だがやや本番に弱い傾向もあり。
特技:一本杖スキー

 

 

2013/02/08
寒波の楽しみは、雪の造形です。

まずロウバイ。

金剛心院のお地蔵様

同じく金剛心院のタブノキ

世屋の墓標

田圃の稲の切り株も。

「なに気楽なこというとる、」

「私らの身になっていうてほしいわ!」

2013/02/08
「おおさぶさぶ」

「だれだなんだいうとったなあ、今年の冬将軍は腰が引けとってなさけにゃあ、そんなこというでだ」

とフキノトウ。
すまん!


「しゃあないな、しんぼうしたる!そのかわり、、、、」
エ!!蕗の佃煮つくれって、お安いご用(^.^)

2013/02/08
ようふりましたなあ、

「まんだ節分過ぎただけだでなあ」、
バスですか、バス、チェーン掛け取りましたで、

「畑へいこうとおもって頼んだだ、それでだな」

畑へ?

「姉に線香あげにいこうおもって、」

一番奥の!

「そう」
このまえまで電動車にのっとんなったのに

「そうだあな 」
いくつになっとったいな90こしとんなったねええ
「94だった」
きたきた、

きいつけていっとくれよ

2013年2月8日

「世屋高原にはかってスキー場があり、絶景のもと多くの若者たちが楽しんだ」と橋立部会の0さん。そうそう、光野新太郎さん(おためさんのご主人)。こんな話しをされていました。

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「昔は焼いた炭を日置まで負うていっただで。主婦やおばあらあが賃かせぎにしたわなあ、一貫に駄賃17,8銭ぐらいだったけど、えらかったでえ。
昔『飛行少年』いう雑誌があっただが、わしはこれを買うんに炭の駄賃持ちをしたんだ。わしは、この本で外国にはスキーゆうもんがあるのを知ったんだ。二十歳の歳だったなあ、もう五十年も前の旧正月のことじゃった。武つさんげで、節呼びゆうて、今の新年会でよばれるとったときだった。いま、小川ラジオ店のおばあさんが便所にたったんだ。その時、門口から外をみたら、※今の好美さんげ(※現在の合力の家)の上の方をなにやらとんどる、飛ぶもんがある、それでびっくりして『天狗がきたっちゃあおまえたちー』というて叫ぶもんだて、みんな飛び出していったんだ。

(↑ 野間秋祭)

わしも出ていったんだが、それはスキーだいうことが、雑誌みとったで、わかったんだ。みんな、なんだえーいうて雪ん中をわら靴はいて、どんぶらどんぶらいっただ。そうしたところが、寒いで赤ゃあ頬をした人がスキーにのっとんなった。それで、てっきり天狗がきたとおもったんだろうで。それに、今まで雪の上歩くいうたら、かんじきで、もっそりもっそり歩くぐりゃあしかしれへんだもんだで、よけいだわなあ。この、スキーにのっとんなった人は、丸山先生ゆうて、それから二十年ほどして校長を退職してから、駒倉へ代用教員みたいな形で来なった。で、丸山先生はこれがスキーいうて、今、はやっとるもんだ。野間の青年会へ講習にいった帰りに、山を越えてきたんだ、、と言うて、すーっと滑ってみせなったで、みんなあっけにとられてみとっただが、みごとなもんだったでえ。この時、※おフサおばあさんもいっしょだったで、おぼえとろうで。
丸山先生いうのは、京都府スキー連盟の会長もしなった人らしいが、そのときは、※もっと偉い人をつれてくるいうていんなって、またその人をつれてきなっただ。その人が、府立第二中(現府立鳥羽高校の敷地にあった)の校長をしとんなった中山再次郎ゆう人で、二人で、スキーの講習をしとくれた。中山先生は、上世屋の雪は、北海道と違わん、ひゃあひゃあ雪(※灰がたつように軽い雪)だゆうて宣伝しなって、大阪や京都のほうからようけお客さんを連れてきなった。それで、お寺の上の三本松、岩のえにスキー場を作っておっ坂に降りるようにしただが、どんによかっただゃあ。
わしは、中山先生の一の子分だった。それから、スキーにこってなあ、それまで冬だゆうたら、藁仕事ばっかりだったで、おもしろかったんだ。一冬、屋根の雪をほつといてよわったとがあった。
しかし、炭負いもせんならんだし、それにいまもそうだけど、リュックに帽子、スキーいやあ金がかかって困った。幸いスキーは村が補助してくれただけど。それからも、中山先生からは、電報がたびたび来て、誰々が行くから案内せえいうてきなったし、スキーのコースも、世屋村青年団の協力を得て、成相から千代原(せんだいはら)、ごにゅうどう、官地、中郡境、奥地、駒倉の尾根、駒倉道をとおって上世屋に至る道を伐採して作ったもんだ。(1975 世屋上小中 育友会誌)

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新太郎さんがいう、「偉い人」、講習をうけた「偉い人」という中山再次郎という方はは、甲子園大会第一回大会優勝の京都二中めんばーで、日本にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ少佐から直接講習をうけた方です。世屋の地滑り地形の緩斜面は、スキーには最適です。教育者としてスキー普及に努められる中、世屋高原を発見されたのでしょう。

それにしても、新太郎さんの、「一冬、屋根の雪をほつといてよわったとがあった」というのめり込みよう」おためさんが「新太郎さんに惚れたのは、

そういうとこだったかもしれません。

ちがうかな(^.^)

(↑※ 今の好美さんげ(※現在の合力の家)の上の方をなにやらとんどる、という斜面)

※「もっと偉い人」中山再次郎氏について検索してみました。
「その伊吹山スキーの生みの親が元京都府立第二中学校長の中山再次郎氏であるといわれています。明治44年(1911)、オーストリアのレルヒ少佐が来日、新潟県の高田でスキー技術の講習会を行い、それに中山氏も参加しています。(中山氏は若い頃、旧制高田中学校の教頭先生をされていました。)
レリヒ少佐直伝の中山氏は関西でのスキー場を物色し、遂に伊吹山を最適地と選び、大正3年ごろから毎年京都二中の生徒を引率し、スキーに来られました。その後、地元の若者も次第にスキーに親しむようになり、現在の伊吹山スキー場へと発展していったといわれています。私の母(若い頃、アルペンスキーで全国大会に出場)の身内にも、昔レルヒ少佐からスキーを習った人がいたという話を子ども心に聞いていました。何か因縁のようなものを感じました。昭和39年(1964)、伊吹山三合目に京都市長の意を受け、中山校長の胸像が立てられました。 hiromiti1011.sakura.ne.jp/sub1-94.html –
と言う方です。また、
中山再次郎(慶応3〜昭和38年【1867〜1963】)
京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)の校長です。中山は、明治26年に東京帝国大
学文学部国史科を卒業後、明治33年に京都府立第二中学校長となっています。中山は、関西のスキー
普及に努めた先駆者であり、大正4年には第一回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校
野球選手権大会)で優勝しています中山は、教え子の羽田亨(後に京都帝国大学総長
となる)の父親で当時中郡長であった羽田信明の委嘱を受け、中郡誌の編纂を始めます。編纂に伴っ
て明治36年8月3日〜18日まで郡誌編纂資料採訪に丹後地域を訪れます。その経緯は、大正3年に
刊行された『丹後国中郡誌稿』巻末に所収されている「郡誌編纂材料採訪日誌」に詳しく記されています。
この中で中山は、8月16日に「久美浜に至り稲葉氏方にて丹後一覧集一部、他書一部、並に地図一
折を得又織田幾次郎氏方の古墳物陳列館を覧る我善王寺其他の古墳発掘品整然として陳列しあり又
丹後大地図一枚あり」と記載しており、稲葉家と織田考古館を訪れています。稲葉家には、中山が携え
ていた京都府庁本『丹哥府志』を借り受けて稲葉宅蔵が写した写本(実際に写したのは、婿養子の稲葉岸之助)が残されています。
平成20年度丹後古代の里資料館コーナー展示1
「郷土史の黎明~明治時代の丹後地域~」2008年4月16日(水)~7月6日(日)資料

 

※ おふさおぱあさん

丹後民話の語り部‥数多くの話しが岡節三氏、細見正三郎氏らにより、採話され、日本の昔話 丹後の昔話 、日本放送協会発行の中に納められている

2013/02/08
冬将軍さんから青空付きの寒波が届きました。

明日、冬の暮らし体感事業
17日 スノーシューウオーク、
3月3日「かんじきウオーク」(ものつくり部会企画)
まで、世屋の里の冬と雪を「逆手」にいかした企画が続きます。

雪の王国・世屋高原の名を汚しちゃいかんとおもってもらったのでしょう。

関係者一同、ほうっと(^.^)

「確かにうけとりましたー おおきにー」感謝の気持ち、

衛星を使えば、冬将軍さんに届けられるでしょうか。

 

棘皮(きょくひ)動物ウニの仲間 スカシカシパン

浅い海の砂底に半ば埋もれて生息。棘皮動物は特異な構造を持っており、ナマコなどを除いて体は五放射相称、進行方向を定める体軸はありません。

 

2/7 小天橋浜で収集裏側

 

世屋高原にはかってスキー場があり、絶景のもと多くの若者たちが楽しみました。

当時 山歩きの必需品であった「かんじき」。かんじきをはいた雪原ハイクと「世屋そば」を楽しみましょう。

 

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