野間川には、川親父がすんでいます!
この野間谷の秋起こしをしたのは彼なのでしょうか。
この谷の河原に人の気配。
映画のロケなのです。
<<<<<<<<<<<<<<<
2018年10月21日19:05カテゴリ映画『なまくら』
野間川には、川親父がすんでいます!
この野間谷の秋起こしをしたのは彼なのでしょうか。
この谷の河原に人の気配。
映画のロケなのです。
<<<<<<<<<<<<<<<
2018年10月21日19:05カテゴリ映画『なまくら』
空の美しい秋は、上世屋の金さんが映えるとき!
雲が茜色に染まる頃の金さんは、いいあらわしようがない味を醸し出します。
「ばんなりました、もうしまいまひょうで、、、」
さて、この金さん、『西郷どん』に「二宮尊徳先生」として登場。以下その様子を「牛のさんぽみちcowrepo.com 『西郷どん』第37回感想 江戸無血開城ホーム 」が活写されていますのでちょうだいします。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
1868年4月11日、江戸城の無血開城が行われる朝、慶喜は静かに水戸へと旅立ち、粛々と明け渡し作業が進む中、吉之助は天璋院と幾島に会いに行きます。天璋院は改めて吉之助に「徳川の家を守ってくれたこと」の礼を述べる。そして、大量の徳川の資料を吉之助に託す。その書物の中には、徳川の歴史の中での詳細な出来事が書かれているという。天下をこれから納めるのに役立ててほしい、と・・・これは天璋院からのささやかな別れの贈り物ってことですね。
天璋院の心遣いに感謝した吉之助は、ある1冊の冊子に目が留まり思わず歓声を上げてしまう。二宮尊徳先生が各地を歩いて記されたという『農村復興御仕方書上帳』二宮尊徳といえば、有名なのが薪を背中に背負いながら勉強している少年の銅像ですよね。貧しい家計ながらも必死に勉強を重ね才能を発揮していった人物です。「二宮金次郎」という名前の方が親しみがあるかもしれません。この書には、尊徳が農村を飢饉から救うためのノウハウみたいなものが記されているようです。実際に二宮尊徳は下野国桜町領の復興を見事に成し遂げ、一気に存在感を増していったそうな。
、、、、、、、、、、、、
史実なのかどうかはわかりませんが、おもしろい起用でした。戦前文化の代表でありながら、進駐軍が日本のリンカーンと一目置いたのが金さん、二宮尊徳先生。そのリンカーン大統領の暗殺されたのが、1865年4月15日、江戸城無血開城の1868年4月11日に先立つこと三年前、封建国家からの脱却を課題とした西郷さんも、先進国アメリカの大統領リンカーンと金さんとを重ねて見る眼を持っていたということでしょうか。
丹後半島の真ん中に谷を掘り下げる宇川、
野間の霰付近では、基盤の花崗岩がむき出しになっています。
これらの岩の形成は5100万年とのこと。
木子や駒倉の里を水源にし、岩を巡る水は限りなく澄んでいます。
ところが、この川の生き物に異変があるといいます。
見えるはずの魚影が見えないのです。
大きなウグイが泳いでいたけど、と話を向けると、「さあそうだあな、いなくなったんだ」と。さらに、姿を消して、五、六年になる。
ウグイは
「産卵は、4~6月ころの水温が11-13℃に上昇する時期に始まり、直径2mm程度で粘着性のある淡黄色の卵を、流速10㎝/s以下の緩流部で藻の付着していない小石に産み付ける。卵は、水温13℃程度で約1-3週間かかり孵化する。孵化から1年目に約5cm、2年目に10-15cm程度に成長し、2-4年目で繁殖活動を行う。」という魚。この継続を出来なくした理由。水質に問題があるとはまずかんがえられない、見当をつけているのは、最近度重なっている集中豪雨。
産卵時期に起きると卵や稚魚が流されるし、親魚も堰堤の下まで流されると、再度のぼってこれない、そう話されるのです。確かに土手には洪水の生々しい爪跡。
自然界の厳しさは想像できます。しかし、それをしのいで生き続けた川の住人の一種が、姿を消したのが最近のことというのは、気になるところ。ウグイは生態系の大切な構成種、そのバランスが崩れたというのは、軽視できないかもしれません、
ウグイのためにも原因を解明しておくことが大切なのではないかと思いました。
丹後縦貫林道太鼓山線から見た「いちがお」!
山塊を西に置いて、つまり東側からの形です。
山塊右端の里は、「丹後町平」
谷を蛇行する川が、鮎の川、「宇川」
丹後町三宅付近からのこれも「いちがお」
山塊を北東に置いて、つまり、南西側からの形です。
手前の川は竹野川。
弥栄町、峰山町からも見えるのがこの形。
丹後町丹後学園付近からの「いちがお」
山塊を東に置いて見ています。
大陸プレートと太平洋プレートとの関係で、2000万年前から始まり約1000万年も続いた火山活動の名残の形なのだそうです。
さて、「いちがお」。市ヶ尾とも、衣遅ヶ尾とも。その「いち」については、「い」も「ち」も、古語では神聖を意味する言葉である、という切り口から諸説あり、です。地形的にみれば、「ち」はあちこちの方向、方角を指す「ち」ランドマークとしての優秀さを取れば「位置ヶ尾」、あるいは、山塊にあるいくつもの尾のうちもっともたかい尾を「一ヶ尾」と呼んでいたが、それが山塊全体の呼称となったと考えられるかもしれません。
また、切り立つ山は、人には優しくありません。
「むかしむかし、吉永のお寺で盆踊りがありました。その時、一度も見たこともない若い男の人がいました。みんな不思議に思いましたが、だれも、どこの人か、知っている人は、一人もいませんでした。次の日も、盆踊りにその男の人が来ました。村の人たちは、その男の後ろからついてどこへ蛙か調べてみることになりました。細い山道をどんどん登って、依遅ヶ尾の近くまでくると、大きながまが谷というところに、堤がありました。男は、その大きな堤に、とびこみました。すると、みるみるうちに、大きなへびになってしまいました。姿を見られたへびは怒って、次の朝、大雨を降らせました。堤の堤防が壊れて、依遅ヶ尾から、多くの土砂が吉永の村に流れ込み、村はうずまってしまいました、、、」
この怒ったへびの起こした土砂崩れは、「依遅ヶ尾には大蛇が住む」という話に繋がって、そのおろちが麓のお宮の巫女に惚れ、炭のような真っ黒い雲にのって会いに来る、それが210日ごろだという話になっていくという話も伝わっています。
※「丹後町の民話」丹後町教育研究会丹後町社会科研究部会 昭和54年刊
山塊を一周する道があります。いくつものビューポイントを持つのがこの山のおもしろいところ、そんなこんなを思いながら、秋のドライブを楽しまれては。
矢畑から遠下に続く道側に登山口。一時間程度で登ることができます。独立峰からの眺めは格別ですよ。
『「淡紅うすべにの秋桜コスモスが秋の日の何気ない日溜まり揺れている。」四十年前の秋にヒットした山口百恵さんの「秋桜」である。なるほど一輪が風に揺れる姿は、はかなく物悲しい。』と天声人語(2017.9.24)
この文はさらに続きます、
「だが、千本、万本が咲きそろえば、コスモスはたちまち祝祭の花と化す。」と。
この日のコラムが取り上げていたのは、北海道遠軽町のコスモス園。
ここでは、敷地10㌶に一千万本、10000000本あるといいます。株一本は花をお米のように何十とつけますから、花の数は無限に、それはみごとなみものなんでしょう。
そういう見事さを支えているのは、おおい日には400人もの人たちが除草に汗をかくという町民の熱心さ、だと天声人語氏。
この文を読みながら、そうなんですよ、と頷きながら脳裏に浮かべたのは下の景色。
元棚田に咲くのはししうどと尾花ばかり。けれども400人なんて贅沢はいわん、40、いや20人、それだけかかれば、このあれた寂しい秋景色をコスモスの花祭り色に変えることもできるのだと。
思うだけで、わくわくぞくぞく!
どうです、一緒にやってくれませんかと誘いたくなります。
いやほんとに、まじめな話、どうですか、やりませんか!
生き物を見つけられますか?
落ち葉色、岩色ですのでよくみてください、岩にへばりついているもの。
渓流と森のカエル、カジカガエルです。
繁殖形態は卵生。オスは水辺にある石の上などに縄張りを形成し、繁殖音をあげる。
4-8月に水中にある石の下などに約500個の卵を数回に分けて産む。」とウィクペディァ。
彼らの好きなのはこんなところ。
上は、京都府自然環境保全地域の中心部分の、ミョウガ谷。
また、日本固有種なので、英語名も「Kajika frog 」、どういう意味?と訊ねられたら、Kajikaは「河鹿」。この鳴き声が雄鹿に似ているからと伝えてあげるということですが、、、
その、雄鹿が鳴くのが今。
ピューとするどい高い音です。里山に響き渡るのは味があります。しかし、人と鹿との力関係が崩れているので、素直に愛でかねる面もあるのが悲しいです。
これが噂の丹後・五十河の古民家園に移住して見えた方についてやってきたワンちゃんとホース君たちのようです。
見当をつけて検索してみると 「馬2頭、犬1匹とともに滋賀県の安曇川で暮らしておられたのですが、2週間ほど前に京丹後市大宮町五十河の古民家に引っ越して来」というところがヒットしました。暮らし方など詳しく知りたい向きには五十河茅葺き桃源郷 – ホーム | ja-jp.facebook.com/。
美しい生き物から、流れていたゆったりした時間は、里山の時間そのもの。
五十河古民家園が、引っ越し大名の映画のロケに使われていたのはこの間のこと。「右京太秦芸能人会」の作る映画でも使われるとか、これから、この五十河古民家園が注目かも。
あらためて、「 おお! おおぅ!」
台風を避けての寄港だとか。
宮津湾に投錨中のこのヨット、「モーター・ヨットAと呼ばれ、建造費360億円、ロシアの大富豪の持ち船で家族と旅行中」と毎日新聞。記事はこれだけ。ところで、この毎日新聞氏、なにを伝えたかったのでしょうか?
いかめかろうが、いかめかったらはたらけ!、はたらけ!!※いかめえ→丹後弁 うらやましい
ということでしょうか。
あるいは、富の集中の見本のような物、ロシアが騒がしいのはこういうことがあるからではないですか、日本でも、こういうことが起きているのではないですか、足下をみてみなさいよ!ということしょうか、
、、、妙に不思議な記事でした。
三日には出航ということでしたが、八日現在まだ停泊。
海の様子がよほど悪いのか、宮津や京都や関西がよほどきにいられたのか、はたまた、船に不具合が起きたのか、
これも謎!
希望的憶測は「天橋立によく合うので、北前船のようだし、ここにおいていくからとご家族船員ともども帰られた!」
細川たまさんが辿ったであろう丹後の海の路、山の道を歩きます!

その味土野へのルートについて、細川家正史に記録はありません。小説家三浦綾子さんはこう想像しました。
「敵を欺くためには、味方から欺かねばならぬ。」という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中でみたものはない。夜陰に乗じて宮津の浜から舟に乗り、伴のもの数人と、警護のもの二十名ほどに守られて、日置の浜に渡った。
略 日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中でまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。
一方、小説家永井路子さんの想定した道は陸路です。。
追われるように宮津の館を出て、炎熱に焼かれながら、山肌にしがみつき、夏草のしげみをかき分けながら、この味土野の山奥にたどり着いたのは夏のさなかだった。従者に輿脇を護られて夜明けに宮津を出た一行は、暫くの間は、松の木越しに海の見え隠れする道を辿ったが、岩滝の部落から、北へ向かうと、しだいに山が迫ってきて、輿もそのあたりで棄てねばならなかった。
小説家二人の想像は違います。今回は、三浦ガラシャを採用します。
古道について、『伊根町史 下 伊根町の旧道』は、こう語ります。
「古く道路は主として山沿いにつくられ、至るところに峠があって、ほとんどが徒歩であった時代には、山道は近道ということが最大の条件であり、どんな急坂もいとわなかった。各集落を結んで、山裾や川沿い、海岸沿いの道を通って、峠を越すには近道が選ばれ、人のやっと通れる道で、道幅は一㍍足らずであり、山村では車の通れるような道路はなかった。また農村にあっては、田をつぶさないことが極めて重要であったので、平地ではずいぶん曲がりくねった道がつくられていた。道幅はせまく、荷物の運搬は人の背や肩でかつぎ、重い荷物は牛の背にのせて運んだ。旧街道筋のあちこちに、今も残る観音堂や多くの石地蔵と共に三界万霊塔、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などの碑が各地に建立されて、「道しるべ」とともに旅路の安全を祈り、峠のけわしい道の上がり下りに、道行く人々にやすらぎをあたえている。」

人が「蟻」だった時代の道は、木立や藪に埋まっていますけれど、山道は近道ということが最大の条件!そんな目で見れば、たまさんの辿った道も見えてくるはず。玉さんが、先に立って道案内してくださるかもしれませんよ。