宮津エコツアー · 未分類

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加悦町江山文庫でひらかれている企画展が、すてきですよ。

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字は「書く」もの、「打つ」ものと思っている私たちには、不思議な感じになることうけあいます。

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取り上げられている短歌や俳句は、それ自体厳選された作品で味わい深いのです。たとえば、

「たのしみは朝おきいでて 昨日まで無かりし花の咲ける見る時」橘曙覧の名歌です。

植田さんの手を経ると、色が見え、香りや音が蘇ってくるようなのです、言葉に籠もる魂を引き出していらっしゃると言うのでしょうか、字で「描いて」いらっしゃるといえばいいのでしょうか。

展覧会のタイトルは水茎春秋。「水茎」は知る人ぞ知るといった言葉。「みずくき」と読んで、筆、毛筆をさします。

□水茎(みずくき)の、岡の葛葉(くずは)を、吹きかへし、面(おも)知る子らが、見えぬころかも

〔語源〕「水茎」は、(1)「瑞茎(みずみずしい茎)」の意で、筆のたとえという。また、(2)古く手紙は梓(あずさ)の枝に玉をつけたものを持たせてやったことから、その使いを玉梓(たまずさ)の使いというが、その梓を「みずみずしい茎」としたことから手紙のことをいい、転じて、筆跡、また、筆の意になったものという。

□意味と用例(1)筆の跡。筆跡。「書道展で見た、かな文字の水茎の跡には、ただただうっとりといたしました」 (2)文字。また、手紙。「今は亡き祖母の水茎の跡を時折眺めては、優しかった人柄をしのんでおります」

この展覧会のほかの展示もおもしろいですよ。

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江山文庫、

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小さいけれど濃い中身の文学館です。ぜひ訪れてみてください。

 

 

 

 

 

 

加悦町作山古墳の埴輪の向こうに白い月。

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1500年、月の祭りが続いているのです。

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空は次第に青ずみ月は黄色みを増していく、、というのが月夜です。

しかし、、♪月がとっても「青い」から、、♪と作詞家の清水みのるさんは、描いてらっしゃいます。

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♪月がとっても 青いから遠廻りして 帰ろう♪

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青い月を見た、と。

月は黄色、青く見える月はあるとしたら、青色の光線がとどくからということ、それは、どんなときなのか、青く見えるのか、そんなことに関心を持って説明してくださる方を探してみたら、いかのものがありました。


月がとっても青いから1 – 亀田メディカルセンター|亀田総合病院 …

www.kameda.com/pr/teamspine/post

投稿日: 2017年9月19日 身体の反射の不思議学〜神経外科医の見た神経生理学〜

「月がとつても青いから、遠回りして帰ろう」かなり古いが菅原都々子のヒット曲である。この恋人達は寒さに凍えながら散歩したことだろう。月が季節によってその高さを変えることを御存知だろうか。月の高さと言ってもなかなか難しいが、いわゆる南中高度といって、最も南に来たときに地平線からどれくらいの仰角をとるかという多少難しい話になる。太陽は、御存知のように夏至の昼12時に最も高度が高い位置に有る。この太陽の高さが、日本の四季を彩るので、太陽の高さを理解するのは難しくない。ところが、月の高さは四季を作るわけでは無いので、その高度と言っても、ピンとこない。月は真冬に最も南中高度が高いそうである。つまり、真冬には、月の光は空気中を通過する距離が最も短く、したがって青く見える。菅原都々子の歌はじつは真冬の歌であった。」

わかるようで、なんだか難しい!!!

まあそれはおいておいて、こんな夜は、丹後の月の名所へ直行です。

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岩滝町、一字観公園です。

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月夜の天橋立は、神々の息づかいを聴けそうなほどですよ。

 

~ 『雪舟が来る!』~

IMG_1245 子どもたちでも  なんとなく かんじるものはあるでしょ しかし、ほんとのこといって むづかしいでしょ、身近な橋立を「世界レベルの遺産」というのを認識することは、、、、、 {この貴重な財産が、、、 人類普遍の遺産となるよう、、、 天橋立の世界文化遺産登録をめざします } そういう音頭をとっている大人でもわかっているとはいえないのが現実! IMG_9856 でも、わかってないと旗はふれないかというとそうでもない、 がんばれ 天橋立!

信仰の地として、、、崇拝を集めてきた天橋立、、、

いわんとするところはわかります。しかし、言葉足らずもええとこです、しっくりこんなあ ほんとのことをいうとらんなあ 深みがないなあという感じは否めません。 IMG_1091.jpgゆうやけ

歩きながらでも、 がんばろう天橋立!

そこで、シンボルの、雪舟さんの天橋立絵図、、、 img174

『日本三景の1つ、丹後天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。雪舟(1420−1506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、雄大に組立てる構図は雪舟の優れた画技の極点を示している。中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた雪舟の傑作である。』と

天橋立図(あまのはしだてず) | 京都国立博物館 | Kyoto National …www.kyohaku.go.jp

つまり水墨画としての完成された境地 画業の集大成! IMG_0677

しかし、雪舟は 天橋立を何のために描いたのか 誰が頼んだのか 頼まれたとしたら、誰が何のために頼んだのか、雪舟齢80歳。彼をして動かした物。彼に依頼しようとしたなにか。 その疑問に関わる説明は京都国立博物館の解説にも見えません。 磯田道史先生なら 「こころのせかいにわけいってみよう」!ではないですが、作品と現場と背景をしっかりみれば、浮き上がってくるかも。

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天橋立は雪舟の絶筆かもしれません。最期の仕事として天橋立を選んだ、特別な動機、理由は果たしてなにか、かんがえてみましょう。 まず、絵を描く その動機。これは願いを表現するためですよ、描く方の、描いてもらう方の両方の願いを表現するためです。 「雪舟が確立した日本独自の新しい水墨画は、日本美術のひとつの金字塔であり、絵を志した者がみな水墨画の最高峰として仰ぐほど多大な影響を与えました。」

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この橋立絵図は、下書きとされます。では、その後どういう展開を辿ったのかについてもそのままだったとも、本作が出来ていたともいいますが不明です。本作が仕上がっていた、という説では、徳川幕府が持っていたが、消失してしまったという話で、現存していません。

隠密説も言われます。しかし、彼ほどの人物がこそこそと領内をうろつけるはずがありません。

室町時代という状況と雪舟の生涯については、ネットで探せる範囲では、

『山口県立美術館:雪舟への旅 -The Trip to Sesshu-:
www.yma-web.jp/exhibition/special/…/asia06.html』が、詳しいようですが、そこでは、「国宝の「天橋立図」を描いたのがこの翌年の文亀元年以降との説があるが、反論もあっていまだ決着をみていない。あるいは丹後天橋立に赴き、その帰路に益田において客死したのではないかとも考えられている。」 と相当な決意の旅であったことだろうとのべておられます。

とはいうものの、京都国立博物館の開設同様、雪舟は 天橋立を何のために描いたのか 誰が頼んだのか 頼まれたとしたら、誰が何のために頼んだのか、雪舟齢80歳。彼をして動かした物。彼に依頼しようとしたなにか、については謎のまま。

こうなると、「自分」で想像、空想をたくましゅうして、「心の内に分け入って」みるしかありません!

『雪舟が来る!』、二つの可能性を考えました。 IMG_1195

その一つ目。丹後の守護一色氏が頼んだ! 相当の金子を要する、謝礼 お迎え送迎 お世話の人夫 安全快適な安全の保障 それが出来る物、丹後の守護しかいません。 繁栄 一族の繁栄 安心安全 豊作豊穣です 無病息災 かれが 相当の金子をはらっても、投資して得られる効果、得たかった物があった。 それはなにか、彼が置かれていた状況、ヒントはそこにあるでしょう。 「こころのせかいにわけいってみよう」!ですよ。 経済の発展 国人の台頭 下克上 戦乱 裏切り 成功と失敗のドラマが繰り返された。 こう語ります。 「     一色氏の分家である知多一色氏の出身で、実父である一色義遠は文明10年(1478年)まで尾張国知多郡の分郡守護であったが、室町幕府より解任されたために本家の領国である丹後国で郡代及び武将として活躍していた。 義有は本家である丹後の一色氏が従兄弟である一色義秀の自害をもって絶えたため、一門の有力者でもあった父の推挙により、その跡を継いで一色氏の当主となった[4]。しかし国内は守護代延永春信・石川直経を初めとする国人による内乱が相次ぎ、混乱を極めた。 永正2年(1505年)に丹後守護に補任されたが、翌永正3年(1506年)に幕府の管領である細川政元により解任、政元の命を受けて丹後に侵攻した細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長及び武田元信らと合戦を繰り広げた。義有は今熊野城に、延永春信は阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦城にそれぞれ籠り防戦する。翌永正4年(1507年)に戦いは継続され、府中(現在の宮津市)が戦火に遭うなどの被害があったが、丹後方は包囲に持ちこたえていた。 その最中に政元が4月に京都へ戻り、澄之と香西元長も5月に直経と和睦して京都へ引き上げ、6月に政元を暗殺する(永正の錯乱)事件が発生する。細川軍は義有と和睦を結び撤退を図ったが、直経がその隙を突いてこれを撃退、赤沢朝経らを討ち取り武田軍を打ち破った(追撃は直経の独断専行とされる)。永正5年(1508年)に義有は丹後守護に再任、永正7年(1510年)に将軍足利義尹(後の義稙)に太刀・馬を送り、永正8年(1511年)には上洛して義尹に軍忠に励んだが、永正9年(1512年)に病死、享年26。  」 つまり、家督相続の正当性の証明!として、自分の領地である天橋立を描き、神仏に守られた世界の領主であること主張するために依頼したと言う仮定。 こういう仮定に関しては、そうなら、所有権は一色家にあるのだから、一色家の家宝として伝わっていたはず。どうもそういう話は聞こえてこない。 水墨画のスーパースター、当代きっての画家、カメラマン おいそれと動くはずもありません。 尾形光琳も!? 雪舟はカリスマ絵師たちの憧れの的だったといいます。 金を払えばえられる 世の中にはそういう物も多いです。 人はそれではうごかないことも。 そんな彼を招くほどの力が、一色氏にあったのでしょうか。 きっかけにはなったのかもしれませんが地方の守護にあるとは考えられません! IMG_9395 二つめの仮定。 雪舟が橋立に赴き、橋立を描いたのは事実。彼を橋立に赴かせたのは誰か、なにか、。 よほどの義理、よほどの強力な指示、よほどの友情、よほどの信頼、よほどの敬愛、よほどの共鳴、よほどの共感があってのこと、それが出来るのは、、、!!! 大胆すぎるかとも思いますが、足利幕府第三代将軍、足利義満の存在を想定してみました。 かれは、室町文化を花開かせた将軍で、世界遺産群の金閣も銀閣も彼あってのこと。 義満の審美眼のエピソードがあります。

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、、、、、、、、、、、 春王が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、正平16年/康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房らに京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、春王はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後しばらくの間、春王は則祐により養育される[16]。翌年、幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津に泊まった際にその場所(明石・須磨あたり)の景色がよいことを気に入り、「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという[注釈 1]。 京都に帰還した春王は新しく管領となった斯波義将に養育され、正平19年/貞治3年(1364年)3月に7歳で初めて乗馬した。 正平20年/貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行ない、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。(ウィクペディア) 、、、、、、、、、この春王が、義満です。 将軍義満は、天橋立を、六度訪れているということです。 カニを食べたかった、あり得ない、将軍なら届けさせるはず。 早馬で一日、届きます。 天橋立、そのものが目的だったとしたらどうでしょう! 「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」というほどの義満です。 同行者には庭師を加え、空と山と海と白砂青松を取り入れた庭を造るように命じ作らせたのが金閣寺かもしれません。 yjimage[8]

また、目に焼き付いた景勝、それを誰かに描かせたかったでしょう、日本一の景勝、中国にはないまろやかさをもった山と海と空、描かせるのは、日本一の画力持ち主でなければならない。 コピー (1) ~ すぎやま赤石山

しかし、義満の存命中には現れませんでした。そのため、後々のものに遺言として残したのです。 天橋立は覚悟を持つものにのみ描かせよ。最高のものにのみ描かせよ おのが名声のために描くものは斬れ!将軍家に伝わる遺言、ようやく託すことができる画家が現れたのです。それが、雪舟。 雪舟という人物はこう伝わります。 、、、、、、、、、、、、、、、、、 絵の才能を見出され京都に上り、相国寺で修行に励みます。しかし、当時流行っていた繊細な画風になじめず、34歳のころに山口へ移転。この選択が、雪舟の人生に大きな影響を与えました。 山口では、中国地方の有力守護大名である大内氏のもとで、絵に専念します。このころまで、「雪舟等楊」ではなく「拙宗等揚」と名のっていたといわれる雪舟ですが、山口で楚石梵琦(そせきぼんき)という元時代の中国の高僧が書いた「雪舟」という墨跡を手に入れ、これをきっかけに「拙宗」から「雪舟」へと改号しました。中国との交流が盛んだった山口だからこその出合い。京都から移転していなければ、「雪舟」という名前自体が生まれていなかったかもしれません。 水墨画の本場、中国へ渡る そんな山口での修行も14年が過ぎた48歳のころ。画僧として頭角を現し始めた雪舟に対し大内氏は、遣明船の一員として中国へ渡ることを命じます。かの地での仕事は記録画の作成でしたが、3年に渡った旅のなかで、当時の画家なら誰もが憧れた、中国の名勝を目にしました。ダイナミックな筆勢の山水画は、まさに自分の得意としていたスタイル。このとき雪舟は、日本画の型にはまらない自らの画風を追求しようと決心しました。 日本の水墨画を革新、最晩年まで筆を握る

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大きな自信を得て帰国した雪舟。大胆な山水画やリアルな花鳥画をのびのびと描くようになります。繊細で小さくまとまっていた日本の水墨画を革新し、ついに「雪舟等楊」としての画境にたどり着いたのです。( 日本美術 雪舟とは何者ゾ?水墨画のスーパースター、その人生と代表作を徹底解説) 、、、、、、、、、、、、、、、、、 将軍家からの丹後の守護一色氏に届けられた命令書。 「雪舟等楊に天橋立を描かせる。すべては、雪舟殿のすべての指示注文に従い、 ご老体ゆえ格別の配慮をいたすことくれぐれも申し伝える、 貴職におかれては、すべての便宜を取りはかられたし。」 一色氏の本陣府中が描かれなかったのは、単純なこと、構図上不自然不要の物だったからです。 、、、、、、、、、、 245_4562

真実を知るのは、雪舟さんのみ。

『雪舟が来る!』

歴史ヒストリアでこの謎、取り上げてもらえないでしょうか!

~成相寺を語る~

天橋立を一望する鼓ヶ岳(標高569m)の南東山腹の標高328m辺りに成相寺はあります。

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が、創建時は山のさらに上方に位置し、修験の道場となっていたといいます。

その跡地には、スギの巨樹。周径735cm。

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室町時代中期には与謝・丹波の両郡にわたって合計60町もの寺領をそなえ、いくつもの子院を従えた有力な一山寺院であったと伝えます。しかし、1400年(応永7年)に大山崩れがあり、いまの所に移って再建されたと言うこと。

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さらに、丹後の大寺院だけに、応仁の乱(1467年~1478年)の抗争の戦場にもなり焼失したということ。それを再建したのが、丹後の守護一色氏。

雪舟が描いたのは、その再建された成相寺。とすれば、雪舟を招き、是非にと作画を依頼したのは、一色氏となるかも。

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しかし、そうして描かれたものの、寺は天文14年(1545年)焼損、その後、永禄年間(1558年~1570年)・慶長年間(1596年~1615年)の2度の再興によりようやく再建を果たしたとと言うことです。

この間に制作されたのが、京都府指定歴史資料の成相寺参詣曼荼羅

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画面は中央部の山地や雲霞によって大きく上下2つの部分に分かれ、上部には成相寺の信仰世界が描かれるという一般的な構図ですが、特に成相寺らしいのは、その天空の右に金箔の日輪、左に銀箔の月輪が配されているところ。実際に、若狭の海からの、日と月の出入りを見ることが出来るのです。

日の出 撮影日時 2014/09/21 6:02:46

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一字観からの日の出 2004年1月。

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月の出

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日輪、月輪の東西の巡航を拝むことが出来るのはここだけ!

参詣へ誘う強力なアピールポイントがしっかり描かれていることがおもしろいです。

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こんな成相寺、704年(慶雲元年)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となり、時代を見ながら2007年(平成19年)、高野山真言宗から独立し、真言宗単立寺院として、今に至っているということです。

銅板画技法による天橋立絵図です。従成相山眺望天橋立之図、

mai30_25[1].jpg岡田地図

岡田春燈斎の手によるものです。 岡田春灯斎さんについては、「幕末の銅版画家。 京都の人。松本儀平に銅版画をまなぶ。弘化4年(1847)以後,諸国名所図や歴史絵などをおおく制作し,水月堂という屋号の店をひらいて販売した。」と紹介されています。

つまり、この図絵の世界は、幕末の天橋立周辺を反映しているのです。

mai30_25[1].jpg岡田地図.jpg宮津

由良ヶ岳は丹後富士、宮津の城は舞鶴城、橋立明神の鳥居は西向き!

mai30_25[1].jpg岡田地図.jpgなりあいじ

世屋山は「施谷山」!

mai30_25[1].jpg岡田地図.jpgいちのみや

真名井神社は、「真名井与佐宮」で、東向きに江尻の海から参道が通じていた!

水墨画でもなく浮世絵でもまして写真で無い、モノトーンの色調と描線の細かさが特徴です。

銅版画は版画の一種です。木版画は凸部の色、銅板画は凹部のインクが紙に写ります。

これが、木版画。

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広重二代 諸国六十八景 三十七丹後あまのはしだて、

文久2年(1862)のものです。

銅板画は、浮世絵に比べるとはどことなく異国情緒を感じさせるということで人気が出たということです。春燈斎さんは、「日本三景」も一枚に刷り込んでいます。正式名は、「日本三勝景」

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現在の「日本三景」の由来は、林春斎の『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)という記述だと言います。この著、寛永20年(1643年)の発行です。

そうですかぁ、日本を代表する勝景はいずれでしょうかのう、という茶飲み仲間の話題に、「松島、橋立、厳島、この三つでござろう」と言ったのが日本三勝景、つまり日本三景になったと言うことですが、相当な発言力のある方だったようです。チェックすると、東京大学総長みたいな立場のかただったようです。

「京都出身。那波活所(なわかっしょ)に師事し、その後父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えた。父羅山の死去後の明暦3年(1657年)林家を継ぎ、幕政に参与した。寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密にあずかった。日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となった。

多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評される」

これにだめ押ししてくださったのが、貝原益軒さん。府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、「此坂中より天橋立、切戸の文殊、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宣[うべ]也…」(紀行記『己巳紀行[きしきこう]』)。

こういう人だったようです

「1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。」つまり、1657年から7年間、1664年まで、京都へ留学し、本草学朱子学を学んだ、その間に、丹後を訪れたと見ていいのでしょう。

この景観、「其景言語ヲ絶ス」と、言葉の達人益軒先生がおっしゃるぐらいですので、そこは私たちの出番と多くの絵の腕自慢が傑作を残しています。

雪舟さんの絵図、

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広重さん

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これは国宝、日本の国宝です

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さて、これ、

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さて、橋立画をこうやって並べてみますと、おかしいことに気がつきます。画になりやすい構図は成相から宮津方向なのに、雪舟絵図だけは特異なのです。

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雪舟がこれを描いた1501(文亀元)年ころといいますと、1493年に明応の政変が起き、下克上の戦国時代の幕が開いた時期になります。写真が軍事機密とされたように、水墨画とはいえ今のドローンで空撮したような写実性に富んだ絵は、相当怪しいものであったはず。絵図に雪舟の落款、押印が無いというのも、丹後の守護一色氏の布陣の偵察ということがカモフラージュされていたのかもしれません。

ちなみに、この等身のお地蔵さん、

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雪舟図の智恩寺部分に描かれている物です。

寄進したのは大宮町三重に居城を構えた一色氏の重鎮大江越中守。代々その名を名乗ってらして、その最期の代の大江越中守は、光秀、藤孝連合軍との弓の木城決戦で討ち死にしたと言います。

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絵は正直です。

今日も天の橋立を写す人。台湾からですって。感想を尋ねたら

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「境致の佳なる 其景言語ヲ絶ス」ですって。

春斎さんと益軒さんだったのかもしれません。

 

 

あ、そういうことね、223、、、ふ2じ2さん3!

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奇しくも令和天皇さんの誕生記念日と重なる日、おそれおおくてとてもそんなことはできる日ではないところですが、富士山の日がさきだったようです。そんなわけで世屋風に言えば、「がっしゃあ重宝なことだあやぁ」というところです。

そこで、インタビュータイム、インタビューアーは世屋野てるみさん。

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◆いつ、誰が、なにをはだてる(※丹後方言 企画する 企てる)のに決めなったったでぃゃあな?

「平成10年11月に、山梨県は、富士山の豊かな自然や美しい景観について、その保護と適正な利用により後世に引き継ぐため、静岡県とともに富士山憲章を制定し、その普及定着を図る運動を推進してきました。富士山の自然、景観及び歴史・文化を後世に引き継ぐための運動をなお一層推進するとともに、富士山の世界文化遺産登録の実現に向けて、静岡県、認定NPO法人富士山を世界遺産にする国民会議等と連携し、国民運動を盛り上げるため、山梨県富士山の日条例を制定することとしました。」

富士山の世界文化遺産登録の実現に向けて、国民運動を盛り上げるため、なるほどぉ!

平成10年え?もう20年もまえのことですわなぁ。

そういう運動が実って、

「2013年平成25年6月、富士山が世界文化遺産に登録されました。」

◆15年もかかんなっただな、そりゃあよかった、で、どういうところを認めてくんなったですいなぁ?

「富士山の世界遺産登録は、富士山という自然の営みに宗教性、芸術性を見出してきた日本人の自然観や文化観が国際的に認められたからであり画期的なことでした。古の人々にとって、高くて美しい富士山は、噴火や溶岩流出を繰り返す恐ろしくも神秘的な山でした。
古来、日本人は噴火を繰り返す富士山を神が宿る山として畏れ、 『遙拝』 の対象として敬いました。噴火活動が沈静化する平安時代後期以降、富士山は 『修験道』 の道場として、次第に 『登拝』 する山へと変化していきます。
また、富士山は、その雄大で美しい姿から芸術面でも多くの人々にインスピレーションを与えてきました。人と自然が信仰や芸術を通して共生する姿は、富士山が持つ大きな特徴の一つです。

『信仰の対象であり、芸術創作の源泉である』。

この見えない価値こそが、富士山を世界文化遺産に導いたのです」

◆この富士山に続け、世界遺産登録を天橋立も目ざしトンなるいうことをききましたけど、その話はどうなっとるでひょうきゃあなあ?

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その「223富士山の日」に、天橋立世界遺産講演会で、日本を代表して登録推進事業に当たってらっしゃる二人の先生が、「あまのはしだて」がを巡る状況と課題を話してくださいました。

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そのうちの一人、、「天橋立世界遺産登録推進会議専門委員会委員」の岡田保良先生のお話は、より率直でした。

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評価は、悪くない

しかし、門は狭く、敷居は高くなっている、

「世界史的・国際的な観点から、本資産がouvを持つ可能性について確実に証明することが必要である」つまり、世界が納得する情報を示し突破力のある理論を組み立てること

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◆なんですいな、そのお湯無井というのは?

おーゆーぶい というのは、「OUV。「Outstanding Universal Value」の略で、「顕著な普遍的価値」と訳される。その意味は、「国家間の境界を超越し、人類全体にとって現代及び将来世代に共通した重要性をもつような、傑出した文化的意義・自然的な価値」

◆、国家間の境界を超越し、人類全体にとって現代及び将来世代に共通した重要性をもつような、傑出した、、、ちゅうですだかどりゃあことだにゃあですかぇ!それにしても、ようしょうちしとらんだけど、どうでそんなどえりゃあもんに名乗りをあけようおもいなっただえ?

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◆「地域の人的・経済的負担は経済効果を超えるかもしれない。地域社会にはそれだけの覚悟が求められる。」というのは、どういうことですいなぁ、わたしらも覚悟せんなんですかえ!

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たしかにそうです、

「橋立だけなんて無理があるわ!」

「こりゃもう丹後全部でやらなアカンのじゃないですか!」

そういう反応も寄せられています。

こういう声をどううけとめ、どう答えていくか、も課題でしょう。

その点についての参考になるかもしれません。

見事登録を果たされた静岡県の川勝知事さん、

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「富士山を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」とおっしゃっています。

究める、守る、伝える、交わる、また、深く、永く、楽しく、広く、この4点セット、確かにポイントです。

img171.jpgふじさん

その言い方を借りれば、

「天橋立を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」

ということになるんでしょう。

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少子高齢化の進む丹後のみならず京都振興に大きな力となることですし、実際に丹後観光の窓口としての観光資産の蓄積はだれしもみとめるところ。

が、、どうも人ごとになる。

「天橋立を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」

たのしくつたえるったって、ヘビはおるかぁ カエルはおるかぁとなります。

1-0 えこ

なんだかどうとりつけばいいのか、、、です。

メーンタイトルは、天橋立を世界遺産に!これはいぞんはない、しかし、サブタイトルがほしいところなんです。

富士山は「日本は、もっといい国だ 富士山再生キャンペーン」を掲げてらっしゃる。

これってすごいですね。

1-1

(↑ 日本エコツーリズム憲章)

フィールド探究の実感から言えば、ここは、

「丹後を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」にして、

●丹後は、もっといい国だ

●丹後再生キャンペーン

「里山の日」「かいがん漂着ゴミの日」など『丹後の日』をたくさん設け、合力しあう、特に「天橋立の日」は月一回、内容は自由に創造する、そしてそれを持ち寄れば、

楽しく伝えられる、広く交われる!

はしだてがんばれの機運も盛り上がるようにおもいますけど、どうなんでしょうか。

「天橋立を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」

「富士山を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」

「丹後を深く究める、永く守る、楽しく伝える、広く交わる」、

 と並べて、それをお題にしてストーンぶれーみんぐ ってんですか、そんなことをしてみるのも方法かもしれません。

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その司会は、この方でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

朗報!です。

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さて、山陰海岸ジオパークとは。

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例えば、1 筆石から犬ヶ岬

イヌガ崎

2 高島海岸から犬ヶ岬

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3 ロウソク岩

イシノタワー

4 犬ヶ島を丹後松島付近から

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5 犬ヶ岬側から高野、間人方面

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観光創造は、価値創造に他ならない!

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確信をもった地道なアピールが実を結んだという意味では快挙、

アキ

(↑ 袖志の秋)

味の濃い里山と大きなスケールの日本海景観の組み合わせの絶妙感は、多くのおきゃくさんを魅了さすることでしょう!

 

 

 

宮津市観光推進会議からの案内です。

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講演をいただくお二人の講師先生を検索してみました。

まず、『天橋立の歴史的文化的意義と世界遺産』の佐藤先生!

①著書
『日本古代の宮都と木簡』(吉川弘文館、1997)
『古代の遺跡と文字資料』(名著刊行会、1999)
『出土史料の古代史』(東京大学出版会、2002)
『古代の地方官衙と社会』(山川出版社(日本史リブレット)2007
『大学の日本史 教養から考える歴史へ 1』山川出版社 2016
『列島の古代』(日本古代の歴史6、吉川弘文館、2019)

② 講演例

摂関政治への過程における皇位継承と藤原氏

講師詳細
古代の皇位継承は、天皇制や律令制の確立をみた後にも、必ずしも安定して行われた訳ではありませんでした。皇位継承は、その時々の政治的条件のもとで実現してきたのであり、時に女性天皇の登場をみたり、大規模な争乱をともなうこともありました。本講座では、日本古代の政治史展開における大きな軸であった皇位継承に焦点をあてることによって、改めて古代の天皇や貴族社会をめぐる歴史的・政治的状況の特徴を考えてみます。
今期は、平安時代前期の九世紀半ばから中期の十世紀後期にかけて、藤原北家=摂関家が外戚となっていわゆる前期摂関政治から摂関政治を実現していく過程の皇位継承の特徴について、継承をめぐる争乱・課題や藤原氏内部の争いに焦点をあてながら、たどりたいと思います。 (講師記)

6-4 はしだて

もうお一方の『丹後から世界遺産を発信する』の岡田先生。

①所属 専攻分野

国士舘大学,イラク古代文化研究所,教授, 研究分野:建築史・意匠,建築史・意匠,考古学,人文・社会系,考古学(含先史学),

②視点・週間読書人 掲載『 掠奪されたメソポタミア』NHK出版についての 書評

~文化財不祥事を暴き出す アメリカは如何に歴史を学ばなかったか~
「二〇〇三年にアメリカがひき起こした、しかも大量破壊兵器製造という誤った情報に基づいたイラクへの軍事介入について、かねてより訝しく思うことがあった。誤情報に基づくにせよ、サダム・フセイン政権の打倒は当時、いったんは大多数のイラク国民の支持を得たように見えた。しかしその後の新政権の樹立から国の安定に至るはずの過程で、サダム政権を支えたスンニー派あるいはバース党員が徹底して排除され、夥しい元公務員失職者が国土に溢れた。内外の中東研究者の多くが、アメリカ主導のこうした戦後計画の危うさを指摘していた。事態はその通りに進行し、文化財行政や遺跡保護での無政府状態のみならず、繰り返されるスンニー、シーア両派の武力衝突や自爆テロ、さらには近年のイスラム国の台頭を招き、そこから軍民両面でイラク支援をやむなく宿敵ロシアと悪の枢軸イランを頼みとせざるを得ない自己矛盾に至るまで、米軍によるバグダード制圧から十三年余、信じられないアメリカの失政が彼の地で展開している。懸念された最悪のシナリオを、アメリカは採用したのだった。まるでイラクの果てしない混乱を、意図して選択したかのようだ。そんなはずはない。では何ゆえに。

本書を通読して、その答えが見えたと言えば独りよがりに過ぎるだろうか。桁違いの軍事力と人材を誇り、他を圧倒する情報網を駆使して打ち立てられるはずのアメリカの世界戦略に、信じられない杜撰さとそれゆえの脆弱さが付きまとっていることを、著者は徹底的に暴き出す。イラクでの文化財不祥事を伝えるその著者は、シカゴ大学文化政策研究センターの当時所長。「何か手を打っておけば(博物館掠奪という)この災難を防げたかもしれない」「自分の職務怠慢を思い知らされた」という懺悔の念が、彼をして執筆に駆り立てた。

シカゴ大といえば、筆者らとも親交があり本書では主役級の役回りで登場するマグワイア・ギブソン教授ら多くの古代オリエント研究者を輩出したこの分野の世界的拠点であり、著者以外に本書を著すべき適者がいないことも納得だ。博物館の彫像持ち去りを防げなかったことは、アメリカ流の自由が無法を意味している、と自国の恥ずべき現代史の裏面を描きあげることも厭わない。さらにアメリカの失敗は、博物館襲撃を未然に防げなかった点のみならず、そうした掠奪を可能にした構造的条件の大部分は今もほぼそのままで、武装した盗掘者の群れは残されたイラクの遺跡をその後も破壊し続けた、というもっと大きな失敗まで引き起こしたとする。

筆者の属する国士舘の研究所を育て、先年他界した藤井秀夫が、ギブソン氏らの協力を仰いで一九九六年に刊行した、湾岸戦争前後に大量に流出した考古資料リストにも言及がある。これはイラクの地方博物館が襲われ奪い去られた収蔵品を網羅したもので、二〇〇三年にバグダードで起こった掠奪の地方版が、はるか以前に地方の主要都市で起こっていた。アメリカは如何に歴史を学ばなかったか、著者の舌鋒が鋭い。他方、こんな文書を公にする自由が保証されるという、なおも米国が誇る健全さも同時につよく印象付ける一書でもある。

失敗しなければ、文化遺産が破壊される前に守ることができた。その事例を知ることには大きな意味がある、との観点から若い翻訳陣を招集し、自らも専門家の一人として労を惜しまなかった監訳者に拍手を送りたい。」

6-5みやずわん

「市民遺産」日本遺産とか言います。この「遺産」というのは、人の力で容易に再び作ることが出来ない宝物ものという意味です、

では橋立は?

天橋立は、阿蘇海のボーリング調査では、大きな土砂災害によって、一気に形成された形跡が、見られるということです。
それを橋が落ちた、と伝えていると言うことです。ともかく一晩で出来た、そして、そこに松をまた一晩で植えた、それが下山田のあけさい神社の神様と伝わっています。

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たしかに、この天橋立、人の力で容易に再び作ることが出来ない。しかし、人には出来なくても、自然がその気になれば容易に出来るのです!

こういう状況の中で、「天橋立を世界遺産に!」への運動の意義、さらに『美しいふるさとをこどもたちに残そう』と呼びかけます、では、子どもたちにのこすべき美しいふるさととはなにか、そんなことにも示唆があることを期待します。

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ご都合がつきましたら、2月23日、ぜひ北野屋さんへ。

 

 

 

 

 

 

昨晩遅くに、一人の女性が訪ねてらっしゃいました、

白い着物をお召しでした、

そして、これを頼みますと、、、

一通の封書を。

はて、とおもい開いてみると、、、、

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、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

丹後・味土野の白い雪

野の花も 鳥も

夜空の星も

愛を歌うのに

人は 愛を歌えない

土地に命をかけ

野に町に血の臭い

子どもは泣く

 

正しいものは力だけ

守るべきは身内のみ

それを 愛という

わたしが生まれたのは

戦世(いくさよ)の嵐の夜

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信長様は愛を歌う

父も愛を歌う人

秀吉殿も愛をうたう

愛と愛は 争うの

だれの愛が正しいの

丹後味土野の白い雪

教えて

だれの愛が正しいの

ああ

味土野ガラシャに白い雪

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

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これは、、!

あなたは、、、もしかして、、、!

と、文から顔を上げると、

頷かれたようなそぶりで、

どうかよろしくおねがいします、

もう一度おっしゃられて、かすかなほほえみを浮かべられたようでしたけれど、

そのまま、、、風が煙をさらうように、消えていかれたのです。

その白い人はもしかして、、。

不思議な体験でした。

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さて、戦に敗れた事実は否定しがたい。城は焼かれ主な一族は皆討たれた 戦国の世の論理は、友情や愛情の入り込む余地のない非情なものです一族の存続の為の打算と計算。その判断は、大将の存在、なので、大事なことは無事か否かの見極め。敵将の首の有無、そしてその真否。

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はたして、宮津・某寺に葬られているという、首は、光秀のものであったのでしょうか。

、、お人払いをおねがいしまする、、、


山崎合戦のあとのこと、某国某有力寺院での様子です。

いま宮津細川屋敷に放っておいたしのびがかえって参りました、

~現れたのは修験姿の男~

「していかがであった
光秀殿は討たれてはおらぬとのこと、
宮津のお玉さまのもとに届いた首、
あれは「影」のものとの噂でなかったのか、、、」

幽齋様は 光秀どのとは違う、
忠興どのも、義父殿ではござらぬ、と。

その首は、京にさらされた首ではないか」
それは怪しゅうござると、
「、、、なんと」
信長様のお首も見つかってはおりませぬ、
「頼朝殿の先例もあるここは慎重に!そうか戦には敗れたものの、光秀殿はご存命やもしれぬということか。して、お玉様は? なんとおっしゃった!」
ところが、お玉様ははっきりと父上でございますと。

「なにお三方、見方違うということか!して、玉どのは何故父と?」
首に鉄砲で受けた傷跡がございますゆえ と、
「な、、、な、なんと 光秀殿はご存命を嘘でも装う方がいいとおもわれるが、」

お見方衆をおいてかりそめにも逃げたなどとのちのちそしられることは不名誉限りないことを選ぶはずはないとおっしゃっているとか。

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「して細川はいかが考えることになったのじゃ」

確かに首に傷跡と、大殿様もお認めになったとのこと!

「つまり光秀殿の復活は無きことということか、英雄は不死、民衆は義経を殺さなかったが、、、、もはや天下の覇権は秀吉の手に渡ったのじゃなあ、あいわかった、それでは、お玉どのの処遇はいかがなされるのじゃ?」

はい、そこでございます、身重のものを斬るわけには参らぬと。

「なに、身重とな、それは真か?」

父の情、祖父の情というものでこざりましょう。

「とはいえ、返す実家はない、どうなさるのじゃ」

味土野に隠されるとのおつもりのようでございます。

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「あのブナの森の美しい、あの味土野か。あそこの和尚は確かな人物じゃ、さすがに、藤孝、、いや幽斎どの、ほとぼりの冷めるのをまとうというみごとな策じゃ、あいわかった、諜報、ごくろうであった」
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

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味土野ガラシャの雪白し、、2月6日の初雪。

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(↑大宮町 すき 薬師堂)

、まあこんなことで、麒麟が来る・祭りを盛り上げようと思っています。

 

みんな 魅力的でした!

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八回目を数える丹後環境シンポジューム、会場野田川ワークパルにキャパ約300を越える参加者をまえに、四つの学校・クラブが「地球の詩・大地の詩・命の詩」を歌ってくれました

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網野北小学校

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養老小学校IMG_8095

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市場小学校

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宮津高校

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おりから、終末時計は、のこり100秒と発表。

世界に半鐘が鳴らされている状況です。

8-3 かりもの.新

地球が危ない!このままの暮らし方で子どもたちに渡せるのか、そんな危機感が現実味をおびて感じられるようになってしまった時勢のなか、  それぞれに感銘深い発表でした。

 

 

 

 

 

 

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