木子から見るガラシャ里・味土野
直線で約2キロという所でしょうか。
小鳥ならひとっ飛び。
しかし、人は谷に下り、またのぼらなければなりません。
ここに戦国古道が眠ります。
野間が与謝郡だった頃、中郡への道が開かれるまでは、ここが郡道だったのです。ガラシャもこの小杉坂をたどったのです。
谷までの標高差、350mといったところでしょうか。
途中には滝、100mを滑り落ちる丹後最長の滝です。
この古道の中程にあったのが小杉の里。
屋敷跡の石垣は城の石垣にも思える立派さです。
養蚕や炭や薪などで栄えた村だったことが忍ばれます。
がらしゃさんもここでもてなされたのでしょう。
「麒麟が来る」、初回視聴率16%、好感度も70%が期待していると言うこと。
新聞も高い評価
「何かを変えなければ、誰かが変えなければ」、、、父・光秀のこの積極性は玉にも受け継がれ、ガラシャの誕生につながっていくのでしょう。
このルート、この小杉道、丹後ひくやま会」の皆さんが、ロープや目印テープをつけてくださっています。
{⑥毛利方に送った密書が、秀吉の手に奪われていたことを、まだだれも知らない。
「うむ・・・・」不承不承、松井の言葉に応ずる気配がした。「と決まれば、急いで場所を探さねばならぬ。」「人目につかぬ山中のう」「おお、そうじゃ、殿、味土野はいかがでござりましょう。」松井康之がいった。「みとの?とな」「は、丹後半島の中程にある山の中、あの金剛寺亀山のすぐ傍らにござる」「では、険しい山中だな。女の足ではたいへんなところだが、、、」「男の足でも容易ではありませぬゆえめったに人の寄りつくところではござりませぬ」「道のりは?」「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」「おお、それは近い!」ようやく忠興の声がはずんだ。「戸数はどれほどじゃ」「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります「では、ひどく淋しいというほどでもないな」「は、山の中とはいえ、人里でございますれば、、、、」「なるほど、では、それに決める。松井!明朝早々にも人をつかわし、住居を用意させよ。」
⑧「敵を欺くためには、味方から欺かねばならぬ。」という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中でみたものはない。夜陰に乗じて宮津の浜から舟に乗り、伴のもの数人と、警護のもの二十名ほどに守られて、日置の浜に渡った。
略 日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中でまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。}とは、『細川ガラシャ夫人』で三浦綾子さん。
ガイドを付けて頂ければより安全に利用して頂けると思います。連絡相談は、まずは宮津市商工観光課、天橋立観光協会にください。