宮津エコツアー · 2月 2013

2月 2013

「かんじき」は、雪国世屋では自給自足の必需品でした。

「かんじきをはいて、あわし柿ぼりに行ったことがある」、「話は聞いたが見たことがなかった」など、初めて「マイかんじき」作りに挑戦した受講生の皆さん。

前回11月、山へ入ってチャボガヤを伐採・熱湯処理・皮剥ぎ・成型した方々で、今回は最後の仕上げ。

<お知らせ>

3/3(日)世屋高原で「かんじきスノーハイク」があります。お申込み・問合せ先 宮津市エコツーリズム推進協議会事務局 0772-45-1625

 

組み合わせ説明1セット分材料

片足組み合わせ

節取りや長さ調整仮固定

難しいなー

暮らし塾 矢野先生のロープ巻き指導

形が整ってきました

ロープはこのように

完成品

試し歩き

童心に帰って

2013/02/22

弥栄町の雪の朝。

河原でコウノトリが餌をあさっていました。


網野町仲禅寺のカエル池の保全を巡って、なんの意味があるのかと問われたことがあります、豊岡のコウノトリが飛んできたときに食べ物になるようにと答えたことがあります。十何年も前のことです。

丹後に飛来したコウノトリ、活着、定住をさらに加速させそうです(^.^)

コウノトリ君へ

世屋の里にもカエルいっぱいいるので、遊びに来てください。

2013/02/22

どう、わたし

ぼくも、どう


みんなで記念写真!

うちも


わしも

じゃあ、みんなそろって、

「せえのおでぇ!♪みんなちがってみんないい!」

※大根は堅い土にぶつかると変形します。掘り方が浅かったり、土の砕きが荒かったりした事情があったのでしょう

 

天橋立海岸を散策していると、時々予期せぬ光景に出合う。神様からのご褒美?

 

小天橋の砂浜 朝のひとこま ( 1/31)

 

 

2013/02/21

里に雪

道に雪


ブナに雪

柿に雪


カツラに雪

たんぼに雪


やねに雪


見送り傘に雪

※以上20日の世屋

 

現在の木子


昭和27年から30年にかけて、つまり60年前の木子。


撮影されたのは当時木子小に赴任された和田敬之助先生。尾根の形から場所が想定できます。

昭和15年、井本桃軒先生の木子を語った随筆には、戸数50戸、と記されています。

冬の「体育」はスキー!小さな「礼留飛」たちを和田先生は活写されていました。雪原にたっているのは稲木。

「府下有数の世屋スキー場は、木子の前面十町ばかりを距る山腹にありて、成相スキー場と連絡し、太鼓山迄も連絡があり、このスキー場へ来た人は木子に宿泊する事に成って居り、独逸人も来て泊りました。」(「郷土と美術」s15.8)と 井本先生。

※ 和田先生の写真は、藤織り伝承館に展示されています。S34年、木子もまた、大火にあいました、写真なども消失して、先生のお身内の方の保存されていたアルバムが唯一当時を知る手がかりになりました。

また、井本先生は、和田先生に遡って木子で教鞭を執られた方。旧学校前に碑が建てられたいます。「府下有数の世屋スキー場」は、この右上部の尾根から里にかけての斜面。

2013/02/21

卓上織機を使ってしおりを作る藤織り体験、観光っぽくないきまじめさの交じる雰囲気。

男性相手に二人羽織なんかしているところ、見たことがない井之本さんなのに(^.^)、いつもより力が入っています。


それもそのはずです。宮城県からみえた皆さんなのです。

目的は、甚大な被害から立ち上がる復興計画のヒントを得ること。

地震と津波は、命を奪い、暮らしを破壊しただけでなく、海と里と山と川のつながりをも破壊しました。その関係のつむぎ直しを起案し、その具体化に取り組んでおられる関係者の皆さんの眼に、天の橋立+ワンとして取り組んでいる宮津のエコツーリズムが入って視察の運びになったと言うことです。
視察では、藤織りと柿渋塗りの体験メニュー。

そしてガイドウオークを体験していただきました。

ガイドウオークは、大シデ碑から休憩所まで特設コース。ムラの滅びを覚悟した碑とこの里で40年仏に向かい合われた仏師さんの作品、新世屋聖観音からのスタートです。


世屋の里の暮らしは、地形面でも、産業面でも決して安心安全なものとはいえません。壊滅的な火災にもみまわれながらそれでも復興させてこられたのは、自然とつながった暮らしの知恵があったからではないでしょうか。

宮城県の復興プランのテーマは「森里川海が育む自然とともに歩む復興、」というそうです。


上世屋の雪が、その成功を祈りながら、一行を見送りました。

2013/02/20
宮津まごころいち

ほう、「うご」

へえよく売れてますねえ!コンニャク、日ヶ谷の!!

日ヶ谷ちゃあ土井たずえさんは日ヶ谷の人でした。昔話の語り部でした。語り口は芸人の域に達していて、オファーがあっちからもこっちからもとある方でした。コンニャクも話しのネタにされていたんだろうと思いましたが、かくにんできません、そこで福生市の話しですが、土井さんをしのんで掲載させてもらいます、

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福生(東京都多摩丘陵地帯の町)に、こんにゃくばばあ という お化けがいました。
夜おそく、道を あるいている人の ほっぺたを、ながーい舌でペロリとなめるのでした。なめられたほっぺたは、くさってしまうので、たいそう こわがられていました。
ある山伏が、そのはなしをきいて、
「よし、そのお化けを たいじしてやろう」
と、山から おりてきました。
山伏は、金剛杖という ぼうをもっていました。そのぼうは、刀がはいっていて、なぜか、かえるの絵がほってありました。
山伏は、こんにゃくばばあが でるという、熊野橋あたりにきました。
「ヒッヒッヒッヒッ、おまえも なめられにきたか」
橋の下の くらやみから、きみのわるい声がしました。
「おのれ、化けもの、こっちへでてこいっ!。わしが やっつけてやる」
「ヒッヒッヒ」
山伏にこたえるように、橋の下から ふわり、と 黒いものが とびだしてきました。
かおはしわくちゃで、口が耳までさけ、ながい舌を びらびらさせた、うわさの こんにゃくばばあでした。
山伏が、金剛杖から 刀をぬいたとたん、ばばあの左うでが するすると のびてきて、山伏のかたに つかみかかりました。山伏は、スパッ、とそのうでを きりおとしました。
ところが、きりおとされたあとから、ニョロニョロと あたらしいうでが はえてきました。
「ヒッヒッヒ、おまえごときに おれがやられるか。うでなんぞ、いくらでも もっておゆき」
こんどは 右手がのびてきたので、スパッ、ときりおとすと、またニョロニョロと はえてきます。山伏は、さっ、とちかづいて、右足をきっても ニョロニョロ、左足をきっても ニョロニョロ。いくらきっても すぐはえてきます。
「ヒッヒッヒ、そろそろ ほっぺたを なめてやろうか」
ばばあは そういうなり、舌をベロベロッと のばしてきました。
山伏は、すばやくうしろにさがって、のびてきた舌を さっ、と刀で よこにはらいました。ところが、その刀に、ばばあの舌が くるくるとまきつきました。
「な、なんと」
刀は、おしてもひいても うごきません。山伏は刀をはなし、首にかけた じゅずを、ばばあのひたいめがけてなげつけました。
「いてえっ」
ばばあが ひるんだすきに、山伏は、刀をうばいかえして にげかえりました。
「なんて おそろしい べろなんじゃ」
かたでいきをしながら 刀をみると、刃はボロボロ。

(↑ 日ヶ谷 天長寺)

山伏は、福生一ばんの刀かじを たずねてそうだんしました。
「みてのとおり、刃がボロボロじゃ。これでは あの化けものを たいじできない。そなたに、なにものにもまけない 刀がうてぬか」
刀かじは、ざんねんそうに こたえました。
「せっかくですが、うちにはいま、むこうづちがいないので、大刀はうてないのです。」
大きい刀は、大づちでうつ、むこうづちという人が ひつようなのです。刀がなくては、化けものたいじは できません。
二人がこまっていると、トントンと 戸をたたく音がしました。
戸をあけてみると、白いきものをきたりっぱな若者が たっていました。
「おこまりのようですが、わたしが むこうづちを ひきうけましょう」

若者はそういうと、そこにあった大づちを手にとり、刀かじに 小づちあわせを たのみました。
トンテンカン、トンテンカン、
二人のいきは ぴったりあい、若者は みごとなうでまえでした。
山伏とやくそくした 刀かじは、それからは まい朝、金ぼりの滝にうたれて 体をきよめてから、熊野さまにおいのりして、炉にむかいました。
いく日かして、二人は、りっぱな刀を つくりあげました。
山伏は、その刀に、かえるの絵がほってある つばをつけて、でかけました。
そして、「ヒッヒッヒ」と、わらっている こんにゃくばばあの 手足をきりはらい、舌がのびてくるよりはやく、空中にとびあがり、ひたいからまっぷたつに、きりおろしました。
「ギャーッ」
大声で のたうちまわる、こんにゃくばばあは、みるみる一ぴきの 大きな なめくじのすがたにかわり、ヒクヒクしながら しにたえました。こんにゃくばばあの しょうたいは なめくじだったのです。
山伏は、さっそく 刀かじをたずね、
「たったいま、あの化けものを うちはたしたぞ。刃こぼれなど、一つもない すばらしい名刀じゃ」
「それは おみごとでした。これで、村の人たちは あんしんできます」
刀かじは ことのほか よろこびました。
「ところで、あの若者が みえないが」
「はい、それが、ふしぎなことが ありまして。ちょうど、山伏さまが 化けものを きりすてたころでしょうか、あの若者は『わたしの用は すみましたので』といって、そとへでるなり、一すじの 白いへびのような けむりになって、熊野さまの森のほうへ きえていったのでございます。
刀かじのはなしをきいた 山伏は、ふかくうなずきました。
「あの若者は、神のつかいであったのじゃ。むこうづちに すがたをかえて、この名刀をつくって くださったとは、まさに 神のごかごというべき、ありがたいことじゃ」
山伏は、その刀を 熊野さまにおさめました。
そして、山伏が 山にかえろうとすると、ふしぎなことに 村中のかえるが 声をそろえて ほめたたえるように なきだしました。
そのころから、熊野さまのけいだいには、大きな石のかえるが おかれるようになり、村人たちに とてもしたしまれました。
そして、刀かじは、それからは 刀をうつことをやめ、よくきれる かまやなたに、すきやくわなど、田畑につかうどうぐを つくったので、ますます 村人たちにしたわれ、名工の名は、とおくまで つたえられた、ということです。

●蛇と蛙となめくじ
古くから日本には、蛇は蛙を飲み、蛙はなめくじを食い、なめくじは蛇を溶かすという、三すくみの思想があります。「こんにゃくばばあ」は、蛇と蛙が手を組んで、なめくじをやっつける話です。なお、蛙は「お金がかえる」といわれ、信仰の対象にされました。
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福生市観光協会のHPから頂戴しました。たずえさんなら、この話、どんなに盛り上げて生粋の日ヶ谷弁で話してくださったでしょう。

(↑ 日ヶ谷の里)

また、この行者さま、かって丹後半島には、丹後町上山寺を基地にした山伏の一団があり、峰峰を修行の場にされていたということです。
世屋の里でも、手作りコンニャクは、お客さんに大好評。

(合力の家にて)

このはなし、語りながらたべていただいたら、余計美味しくいただけるのではないでしょうかねぇ(^.^)

2013/02/19
山は海につながっています、そして海は山につながっています。こういう関係が成り立つことが自然です。ところがですよ、海は山につながっていますといえるか、、、ダムの提起した問題はそこです。
そこで、世屋川は?

海の物はここから入ってきます。

ここを登ります。

どこまで遡れるのでしょうか。ここは登れます、

ここもオーケー

けれど、ここは、梯子かけてクレー

ここも!


日置小の川の生き物調査によると、鮭は、河口まで来ているそうです。

でもここから先には上れません。アユも同じ運命。

ここまで、まわれーみぎ、なんやここまでしかいけんのか、しょうもな ぶつぶついいながらUターン。

ダムがないから、海とつながっているとは、いえない訳です。

山の尾根から反対側、日本海側に流れる宇川、ここには!

農業用水の取水とアユの遡上との両立が図られています。

鮭やアユがその上に上れなくてこまることあるの?と怖い顔で聞かれると、ちょっと引きますけれど、優しい顔で問われると「こまることありませんか」といいます。

鮭一つの例でみてみましょう。鮭が産卵できるのは湧水の湧く小砂利の沢です。上流にはそんな美しい流れがあるのです。龍渓から龍が壺を越えミョウガ谷の魚止めの滝あたりまで遡らせてやってもいいじゃないか(^.^)京都府自然環境特別保全地域」の世屋川の源流部から世界遺産を目指す天の橋立擁する豊穣の宮津湾まで、命への優しさで結ばれれば素晴らしいなと思いませんか。

生き物調査は、生き物の生息できる環境の課題を提案しているようです。

 

2013/02/19

野田川上流の明石、野田川河口、阿蘇海溝尻の三地点で、ボーリング調査された、そうしたら、阿蘇海の汽水化がある時点で顕著になったと推定される資料がみつかったと言います。汽水化が進むというのは、砂嘴・砂州が発達したと言うことを意味しているわけです。

(↑舞鶴の鳥さんの航空写真)

そして、その砂嘴・さすが発達した「ある時点」と言うのがいつか、というと、調査にあたった植村義博さんは、2200年まえと思われると。サンドバイパス工事に当たる土砂が大量に供給される事態がおこった、と言うことです。
それは、どんな事態だったのか。その点について、府教委の有井さんは、「大地震」を想定されます。有井さんは、中越地震やいわて・宮城内陸地震によって大規模な地滑りが起こされたことを例にひきながら、急速に砂嘴を成長させたのは、大地震によって起きた大規模な地滑りて、その場所は、世屋と松尾とします。その根拠として、大規模な地滑り地形を挙げられます。まず世屋の地滑り地形。

次に松尾。

上の写真の奥、雪の積もったところが、地滑り跡を利用した松尾田んぼ。地震は、岳の中腹から山体崩壊させ土砂がそこから宮津湾に流出したのです。

天との架け橋、どどっと崩れてできたのが天の橋立と伝えます、それを小学生に言うと、「老朽化か手抜く工事か?」と。天へかよう山が崩れて、崩れた土が天の橋立をつくったと説明するのが合理的と、有井さん(埋蔵文化財センター)。その天に通う山こそ世屋の山だった、古代人の動きは山を越えて海へ降りてきたのかもしれないと(^.^)
地震があったか?

橋立ユース前の波堰地蔵は、「あった!」と断言します。

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