宮津エコツアー · 「何を登録するのか」だけではなく、「何を次の世代へ渡すのか」。 天橋立のクロマツは、その問いを生きたまま立っている存在なのかもしれません。  天の橋立を世界遺産に 103

「何を登録するのか」だけではなく、「何を次の世代へ渡すのか」。 天橋立のクロマツは、その問いを生きたまま立っている存在なのかもしれません。  天の橋立を世界遺産に 103

【松、クロマツ、この種の樹の寿命について情報を下さい】
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はい。これは今の「20年後、100歳」の話とも、実はかなり面白くつながります。(^.^)

まず結論からいうと、クロマツは「寿命100年くらいの木」と考えるのは短すぎます。
健全な環境なら200~300年以上生きる個体が実際にあり、400年以上と推定される例もあります

クロマツの寿命を考えるときの目安

林業では、クロマツ・アカマツについて通常の伐期を50年、長伐期では100年とする例があります。これは「100年で寿命」という意味ではなく、木材生産上の伐採時期です。

一方、実際の名木を見ると、

  • 推定 200年のクロマツ
  • 推定 250年のクロマツ
  • 推定 300年のクロマツ
  • 推定 314年のクロマツ
  • 推定 420年のクロマツ

などが確認できます。日本植木協会にも200~420年の推定樹齢のクロマツが掲載されています。

特に面白いのが東京・浜離宮の「三百年の松」です。クロマツで、推定314年。1709年の庭園大改修時に植えられたと伝えられ、関東大震災と第二次世界大戦も生き延びています。

つまり、

クロマツは、適切な環境と管理があれば、人間の一世代どころか数世代をまたいで生きる木

と考えてよいでしょう。


ただし、ここが天橋立では重要です

「クロマツの生物学的寿命」と「天橋立の松林が維持される時間」は別問題です。

松枯れ、海岸環境、地下水、土壌、台風、塩害、競争する植物、そして人間による植栽・伐採・管理。

ですから、

「クロマツは300年生きるから、天橋立の松も300年残る」

とは全く言えません。

むしろ天橋立の場合、

一本の松が何年生きるかより、「松林という景観・生態系を何世代にわたって維持できるか」

のほうが重要でしょう。


そして……先ほどの話と重ねると、ちょっとすごいことになります。

安田さんが20年後に100歳。

仮に今、樹齢100年のクロマツがあったとすれば、

20年後には120年。

樹齢200年なら、

220年。

300年なら、

320年。

つまり、人間の20年は、クロマツにとっては「人生の一章」にすぎない。

逆に言えば、今植えた松を20年後の子どもたちが見て、その子どもたちがさらに50年、100年後に見る。

そう考えると「白砂青松」という言葉も、単なる美観ではなく、

人間の寿命を超えて引き継ぐ景観

という意味を持ってきます。

そしてこれは、世界遺産の話とも非常に相性がいい。

「何を登録するのか」だけではなく、「何を次の世代へ渡すのか」。

天橋立のクロマツは、その問いを生きたまま立っている存在なのかもしれません。

なお、もし次に掘るなら、私は**「天橋立の現在のクロマツは何年生が多いのか/最古の松は何年か/過去100~300年で松林の世代交代がどう起きたか」**を調べたいです。ここまで分かると、かなり面白い「松の時間軸」が作れます。

【橋立の松の中には環境省巨樹リストに登録サイズにたっした樹も多く数えました、長期間の意図をもった安定管理があったからと思います、つまり、知恩寺の所有する知恩寺への参道としてという説明です、これだと檀家さんや檀徒さんがさぞしっかりとお世話されたのだろうと、、この推察について意見くださいな 】
 はい。ここはかなり重要です。調べてみると、「智恩寺も廃仏毀釈の影響を受けた」という大枠は確実です。ただし、現時点で私が確認できた公的資料では、奈良などで知られるような「智恩寺で仏像が破壊された」「僧侶が還俗させられた」といった具体的な被害の細部までは、まだ出てきません

むしろ、非常に興味深い記録が見つかりました。

まず、決定的な出来事

宮津市の公式「天橋立の公園化」は、

明治4年(1871)、智恩寺の寺領が没収され、天橋立も京都府の官林になった

と明記しています。つまり、これは単なる「寺の経営が苦しくなった」という話ではなく、智恩寺が何百年にもわたって持っていた天橋立に対する土地・管理上の権利そのものが、国家によって切り離されたということです。

これは、先ほどの「白砂青松論」に直結します。

橋立裁断に対して、あれほど強く「天下無双之絶境」「二神降下之神跡」と主張した智恩寺が、明治4年には、その橋立そのものを寺領として持つことを失った。

これは、ものすごい断絶です。


さらに面白い資料があります

京都府立丹後郷土資料館の研究では、江戸時代の智恩寺について、

  • 天橋立は智恩寺の境内地だった
  • 天正期、細川氏が「無双霊境」であることを理由に寺領を安堵した
  • 境内の山林竹木の伐採を禁じる禁制が出されていた
  • 「橋立裏向」まで準境内として扱われ、鉄砲=殺生が禁じられていた

というところまで史料で追えています。

つまり、智恩寺の「保護」は単なる精神論ではありません。

寺領・境内・禁制・殺生禁止という、かなり具体的な土地支配の仕組みを伴っていた。

ここが大きい。


そして明治維新

ところが明治政府は、神仏分離・寺社領上知によって、その仕組みを解体する。

智恩寺だけを特別に狙ったわけではありません。全国的な政策です。

明治3~4年には寺院明細帳の提出も命じられ、寺院名、住職、宗派、境内坪数、檀家、朱印地、山林・田畑、堂宇などが調査対象になりました。こうした記録は全国的に残されています。

ですから、智恩寺についても「明治政府によって何が奪われ、何が残ったのか」を追跡できる可能性はかなり高いです。


そして、もう一つ「廃仏毀釈」を実感させる資料

文珠の吉野神社です。

ここはもともと智恩寺の鎮守社で、三宝荒神と称していたものが、明治6年の神仏分離によって智恩寺から切り離され、社号も吉野神社に改められています。

これはまさに、

智恩寺を中心とした神仏習合の空間が、明治政府の宗教制度によって分解された

ことを示す具体例です。

そして天橋立神社についても、江戸時代には智恩寺に属する神社だったとされ、明治期には神社として再編されています。現在の社殿は明治40年再建です。


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ここで、ものすごく大事なことに気づきます

江戸時代まで、

智恩寺

天橋立

橋立神社

信仰・参詣・景観・土地管理

が、かなり一体になっていた。

ところが明治になると、

寺院と神社を分離する
寺領を上知する
天橋立を官林にする

という形で、その一体性が制度的に切断された。

そしてその後、天橋立は明治38年に「橋立公園」として与謝郡の管理地となり、近代的な「公園」「観光資源」「風致保存」の対象へと姿を変えていく。

これ、先ほどの話と完全につながります。

「信仰による保護」から「制度による保護」への大転換です。

江戸時代:

「神跡だから切ってはならない」

明治:

「官林として管理する」

近代:

「名勝・公園として保存する」

現在:

「文化財・自然環境・景観・観光・防災を統合して管理する」

という流れです。


そして、安田さんの最初の問い、

「その過酷さは知恩寺も例外ではないと思いますが」

については、

「はい、明確に大きな打撃を受けた。ただし、現段階では『廃仏毀釈による具体的な破壊行為』より、『寺領上知と神仏分離によって、智恩寺が天橋立を守っていた制度的・宗教的基盤そのものが失われた』ことの方が、史料上ははっきり確認できる」

というのが、一番正確だと思います。

そして私は、ここをもっと掘りたいです。

特に探すべきなのは、

① 明治4年前後の智恩寺「寺院明細帳」
② 智恩寺の寺領・山林・境内地の上知関係文書
③ 三宝荒神など旧鎮守の神仏分離記録
④ 明治初年の智恩寺の僧侶・檀家・財産の変化
⑤ 天橋立が官林になった際の引き継ぎ文書

です。

ここまで追えれば、

「天橋立を守っていた智恩寺という社会システムが、明治維新によってどのように解体され、その後誰が何を引き継いだのか」

という、ものすごく重要な一章が書けます。

そしてこれは、まさに今話していた**「信仰力を失った白砂青松を、現代は何によって守るのか」**という問いの、歴史的な出発点になります。

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【ありがとう、、松風、、♪松風騒ぐ、、美しい日本語です、白砂青松論は、その日本語を死語にするかどうかがかかっていると思います、天橋立は松、その基本は崩したくないですね!】

はい……そこは私も大事にしたいです。
「遷移を受け入れる」という話と、「天橋立から松を失わせる」という話は、まったく別なんですよね。

「松風」という言葉そのものが、もう天橋立の文化財みたいなものです。

松風騒ぐ 白砂青松……

松があるから「松風」がある。
白砂があるから「白砂青松」になる。

そして何より、天橋立は単なる「砂州」ではなく、人間が千年以上にわたって「松のある砂州」として見て、歩いて、祈って、詠んで、守ってきた場所です。

ですから私は、

「松を守る」ことは、古い景観を凍結することではない

と整理したいです。

むしろ、

天橋立の松を基本としながら、松が生き続けられる条件そのものを守る。

これです。

つまり、

白砂青松を守る
= 全域をクロマツ単一林に固定する

ではない。

一方で、

自然遷移だから広葉樹林になってもよい

でもない。

その中間に、

「天橋立は松の砂州である」という文化的・歴史的アイデンティティを明確に持ちながら、松林の内部には生態的な多様性や遷移を許容する。

という道があると思います。


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そして、ここで先ほどの智恩寺の話が効いてくるんです。

昔の智恩寺は、

「天下無双の絶境」だから守る。

という、非常に強い価値観を持っていた。

現代の私たちは、その宗教的権威をそのまま使うことはできない。

だから今度は、

なぜ私たちは、天橋立の松を守るのか?

を、自分たちの言葉で説明しなければならない。

その答えの一つは、

「松だから美しい」だけではない。

松が、

  • 信仰の景観をつくった
  • 和歌・俳諧・絵画を生んだ
  • 「松風」という日本語を生んだ
  • 白砂青松という日本の美意識を形にした
  • 長い時間、人間と自然の関係を可視化してきた

からです。

だから、

クロマツは天橋立の「植生」ではなく、天橋立の「文化そのもの」の一部である。

ここまで言ってもいいと思います。
もちろん、科学的には「文化的価値を担う生態要素」というくらい慎重に表現してもいい。


そして、ちょっと好きな言い方をすると、

砂は動いていい。
松も世代交代していい。
でも「松の天橋立」は、次の世代へ渡したい。

なんですよね。

一本の300年松を永久保存することだけが保全ではない。

その松が倒れたあと、

次の松が育つ。

その次の松を、子どもたちが見る。

さらにその子どもが大人になって、また次の松を植える。

そうやって**「松の時間」をつないでいく。**

これは、安田さんが言われた「次の20年」ともぴったり重なります。

20年後、100歳の安田さんが見て、

「ああ、まだ松風がするな」

と言える。

そして子どもたちが、

「松風って何?」

と聞いてきたら、

「ほら、耳を澄ましてごらん」

と言える。

……それが、白砂青松を「死語」にしないということなのかもしれません。(^.^)

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【ちなみに、その松風、、数ある樹木のなかでも、風と結びついているのは松だけです、松と風、その関係の秘密についてかいせつくださいな】

はい。これは面白いところです。
そして「松風」という日本語がなぜ成立したのかを考えると、**松は、樹木の中でも特別に「風を音にする木」**なんです。

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5

秘密は、葉の形にあります

クロマツの葉は、細く硬い針状の葉が2本一組になっています。

この「細く、長く、硬い葉」が大量に集まっている。

風が吹くと、葉と葉が触れ合い、

サラサラ……
ザワザワ……
ザーッ……

という独特の音を発生させます。

広葉樹の葉とは音の質が違う。

ブナやケヤキのような広い葉は、風を受けると一枚一枚がばたばた・ざわざわ動きます。

ところが松は、

細い針の束が無数に震える。

だから音が非常に細かく、連続的になります。


しかも松は「風の木」になりやすい

もう一つ重要なのが、冬でも葉を落とさない常緑樹だということです。

落葉樹なら、

春夏:葉がある → 音がする
冬:葉が落ちる → 音が変わる

となります。

ところがクロマツは一年中、針葉を持っている。

しかも海岸では風が強い。

つまり、

風が吹けば、いつでも音がする。

天橋立のような海岸砂州では、海からの風、陸からの風、季節風などが松林を通り抜ける。

だから「松+風」が、非常に強い身体感覚として成立するんです。


でも、もっと面白い秘密があります

「松風」という言葉は、単に

松の葉が風で鳴る音

だけではありません。

日本文化では昔から、松風の音そのものが「静寂」を感じさせる音として扱われてきました。

たとえば茶道では「松風」は、釜の湯が煮え立つ音を表す言葉にもなっています。

「松籟(しょうらい)」という言葉もあります。

籟=風が竹や木の間を通って鳴る音。

つまり、

松+風=自然が発する音

という認識が、日本語の中に非常に深く入り込んでいる。


そして天橋立では、さらに一段深くなる

天橋立の場合、

砂州+海+松+風

です。

砂州は音をほとんど出さない。
海は波音を出す。
松は風音を出す。

つまり天橋立では、

海は波を奏で、松は風を奏でる。

この二つが同時に聞こえる。

しかも松は、風を見ることのできる装置でもあります。

松の枝が揺れる。

葉が鳴る。

だから私たちは、

「風が吹いている」

ことを、目と耳の両方で感じる。

これはなかなかすごいことです。


そして、安田さんの「白砂青松論」に戻ってくる。

「白砂青松」は普通、見る景観として説明されます。

白い砂。

青々とした松。

でも「松風」を加えると、

白砂青松は、視覚だけの景観ではなくなる。

そこに、

松風=聴覚

が加わる。

さらに潮の香り、海風、松脂の匂い、砂の感触まで入ってくる。

つまり、

天橋立は「見る景観」ではなく、五感で成立する景観だった。

これは、エコツアーではものすごく使えると思います。


そして私は、ここに「松を残す意味」の、かなり強い根拠があると思っています。

もし天橋立が広葉樹林になったら、もちろん生態系として新しい価値が生まれるでしょう。

でも、

「松風」は消える。

「松風」という言葉を残して、松そのものを失うことはできない。

だから、

白砂青松を守るとは、松の本数だけを守ることではない。
「松風」という、日本語と身体感覚と文化を未来に残すことでもある。

そう考えると、冒頭の安田さんの言葉、

「白砂青松論は、その日本語を死語にするかどうかがかかっている」

が、ぐっと具体的になりますね。

松風を聞ける天橋立を、次の世代にも残せるか。

これは「景観保全」より、ずっと大きな問いになってきます。

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