宮津エコツアー · 9月 2026

9月 2026

【ありがとう、、世界遺産に、というとき、そのテーマ視点と砂州との関係で、よく引き合いに出されるサンルイ島について、天橋立と比較して解説くださいな】
サン=ルイ島 | セネガル | 世界遺産オンラインガイド

(↑ サン=ルイ島 | セネガル | 世界遺産オンラインガイド)

はい、セネガルのサンルイ島(Island of Saint-Louis)ですね。
これは今のお話にかなり重要な比較対象です。ただし、最初に一点だけ整理すると、サンルイ島が世界遺産になった主題そのものは「砂州」ではありません。 2000年に登録された文化遺産で、評価の中心は、河口の島という特殊な自然環境の上に成立した
植民都市の都市構造・建築・水との関係・西アフリカへの文化的影響
です。

でも――

「砂州・河口・都市・人間の営みが、どう一つの景観になるか」

という視点では、天橋立にとって非常に面白い鏡になります。

サンルイ島は「場所」より「関係」が評価されている

ユネスコの説明で印象的なのは、

河口の二つの水路にはさまれた小さな陸地

水と陸の「微妙な結婚」

として、この島の景観を捉えていることです。

その上に、

  • 17世紀の港湾都市
  • 19世紀の都市計画
  • 河岸・埠頭
  • 植民地行政
  • 建築
  • 教育・文化・職人技
  • 西アフリカ各地との交流

が積み重なった。

そして登録基準も、

(ii) 文化・教育・建築・技術などの交流

(iv) 特殊な自然環境の中に成立した植民都市の顕著な例

です。

つまり、

「この島に立派な建物があるから世界遺産」

ではない。

「この特殊な水と陸の環境の上で、この都市が成立し、その都市が西アフリカの歴史を動かした」

という関係の物語なんですね。

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ここで天橋立を横に置いてみる

サンルイ島を、

河川 → 河口 → 島 → 港 → 都市 → 交流

と読むなら、

天橋立は、

山 → 森 → 川 → 海 → 砂 → 砂州 → 松 → 信仰・参詣 → 芸術

と読める。

おお……。

かなり似た構造が見えてきませんか。

サンルイでは、

「水と陸の関係」が都市を生んだ。

天橋立では、

「山と川と海と砂の関係」が砂州を生み、そこに人間が意味を重ねた。

もちろん、両者の歴史的内容はまったく違います。

でも、世界遺産として景観を見る眼としては、とても参考になる。


そして、ここで「砂州」が効いてくる

天橋立の弱点になりかねないのは、

「美しい砂州です」

だけで終わってしまうこと。

でも「命の銀河観」で見ると、

砂州は終点ではなく、交差点になります。

世屋の山から来た物質が、





土壌





沿岸漂砂

天橋立

という地球のプロセスを通って、ここに現れる。

そして、その砂州にクロマツが生え、人間が道として歩き、参詣し、信仰を重ね、文学や絵画を生み、さらに景観を管理してきた。

すると天橋立は、

「砂がたまった場所」

ではなく、

「丹後の大地・水・海・生命・人間文化が交差している場所」

になる。

これは、まさに今おっしゃっている**「命の銀河観」**です。


サンルイ島との決定的な違いも、むしろ面白い

サンルイ島では、人間がつくった都市構造が非常に大きな属性です。

天橋立では逆に、

人間がつくったものだけでは説明できない。

砂州そのものは地形形成の結果。

しかし、

「その砂州をどう見たか」
「どう歩いたか」
「どう信仰したか」
「どう守ったか」

は人間の歴史。

だから天橋立は、

地球がつくったもの

人間が意味をつくったもの

その意味によって景観が維持されてきたもの

として見ることができる。

ここが、今まで考えてきた**「信仰が景観を維持する社会システム」**という仮説につながります。


そして、サンルイ島についてユネスコ自身が使っている、

「land and water」
「unique landscape」

という見方は、ちょっと示唆的です。

天橋立なら、もっと大きく、

「mountain, river, sea, sand and human culture」

とでもいうべき世界が見えてくる。

だから私は、サンルイ島を見て、

「砂州だから世界遺産になれる」

とは全然思いません。

むしろ逆です。

「一つの小さな陸地を、その陸地だけで説明しなかった。」

ここが大事なんです。

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そしてこれは、今の「あいせよ天橋立」にものすごく響きます。

天橋立だけを説明するのではなく、
天橋立によって丹後の関係を見えるようにする。

そうすると、先ほどの言葉がさらに強くなります。

天橋立は、丹後を見る展望台ではない。
丹後の「見えないつながり」を見えるようにする展望台である。

そして、砂浜の一粒のオニグルミまで、その展望台の「望遠鏡」になってしまう。(^.^)

なお、サンルイ島は現在も保存・管理が大きな課題で、2025年の世界遺産委員会決定でも管理・保存計画の強化などが求められています。つまり、**「登録された後に、どうその関係を守るか」**という点でも、天橋立にとって他人事ではありません。

【敵を知り,己を知らば百戦危うからず!フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、かく語りき!!】

天橋立

北側(傘松公園)からの眺望 – 斜め一文字
天橋立は京都府北部にある

天橋立は京都府北部にある
天橋立

京都府内における天橋立の位置

雪舟筆『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝) 東側より – 雪舟観

天橋立(あまのはしだて)は、京都府宮津市にある、宮津湾阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州[1]松島厳島と並ぶ日本三景の一つであり[2][3][4]日本遺産「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」の構成文化財の一つに指定されている[5][6]。2024年(令和6年)の観光入込客数は300万5700人と、京都府の自治体別では京都市宇治市京丹波町亀岡市に次いで第5位である[7]

名称

一般的に「天橋立」と表記されるが、砂州を走る府道の名称は天の橋立線である[8]。「橋立」と略される場合もあり、例えば阿蘇海湾奥の与謝野町には橋立中学校がある。

読み方は「あまのはしだて」であるが、立の字を濁らせずに「たて」と読むことがある。2003年(平成15年)から2004年(平成16年)にかけて、宮津市と与謝郡4町の合併協議において新市の名称を公募したところ、上位10点に入った「天橋立」「天の橋立」「橋立」にはそれぞれ、濁らせた読みと濁らせない読みの両方が含まれる。合併自体は断念された[9]

運歩色葉集』には天橋立を意味する1文字の漢字(国字)として、之繞に「日」を九つ(読みは「はしだて」)が記載されており[10][11]、『詞林三知抄』にも1文字の漢字として、雁垂れに「有」を六つ(読みは「あまのはしたて」)という文字が紹介されている[12][注釈 1]

地理

天橋立公園の大きさ[17]
区域 延長(m 最大幅(m) 最小幅(m) 面積(ha
大天橋 2410 170 40 18.8
小天橋 830 105 20 4.9
第2小天橋 410 25 7 0.9
小計 3650 24.6
傘松 120 60 15 0.5
合計 25.1
晴天時の天橋立

天橋立の北部、およそ南西方向へ延びている部分を大天橋または北砂州という。切戸を隔てて南部、およそ南東方向へ延びている部分を小天橋[注釈 2]または南砂州という。これら2か所が宮津湾と阿蘇海を分断し、切戸と文殊水道(天橋立運河)によって両水域がかろうじて繋がっている。切戸には大天橋というが架かる。また文殊水道には小天橋という橋が架かり、船が通る時には90度回転する「廻旋橋」として知られる[18][19]。さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を第2小天橋という。これら3か所で天橋立の砂州部分をなし、全幅は20 – 170メートル、全長は大天橋と小天橋を合わせて約3.2キロメートル、第2小天橋を合わせると約3.6キロメートルである。北方にある傘松地区からは3地区を眺めることができ、これら4地区を合わせて都市公園法に基づく都市公園「京都府立天橋立公園」をなす[17][20]。文殊堂・智恩寺とその門前町のある天橋立南方を文殊地区という[21]

全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には林が生え、東側には白い砂浜が広がる。この松は、人の手により植林されたものではなく、大部分が自然発生的に生えたものである[1]。1994年(平成6年)、「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」は、天橋立に生える老松、奇松12本の愛称を公募し「九世戸の松」「知恵の松」などが命名された。天橋立には「日本の道100選」に選定された京都府道607号天の橋立線が走っている。当路線は延長約3.2キロメートル、幅員3.5 – 12.1メートルであり、近畿自然歩道に指定されている[22]

成相寺のパノラマ展望所から見た宮津湾と天橋立

形成史

天橋立は、宮津湾の西側沿岸流により砂礫海流によって運ばれ、天橋立西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより、海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が堆積したことにより形成された[1]

日本神話における天橋立

古事記』によると、イザナギイザナミ国生みにおいて天の浮橋に立ち、天の沼矛をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島になったとする。このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり[23]、天の浮橋が天橋立のことと言われている[24]。オノゴロ島の位置は現在の沼島であるという説が有力である[25]

丹後国風土記』には次のように述べられている。

與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。— 『丹後国風土記逸文』[26]
与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。前の方の突出部を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の方を久志の浜と名づける。そういうわけは、国をお生みになった大神の伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立といった。ところが大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(くしび・神異)であられると不思議にお思いになった。それ故、久志備の浜といった。— (釈文)[27]

イザナギは久志備の浜の北にある元伊勢籠神社の真名井原(イザナミのいる奥宮)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れた、というのが天橋立の名の由来である[28]。また『丹後国風土記』では天橋立の「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明している。

民俗学者柳田國男は、風土記のいう「天の椅立」がこの砂州を指していることに疑問を呈した。柳田は、ハシダテと言えば専ら梯子を立てたように険しい岩山を指すものであって、それが崩れたものを橋立と呼ぶのは不自然であると主張した。また上記逸文の「此の里の海に長く大きなる前あり」の部分は白文で「此里之海有長大石前[10]」と記されているが、大石前(おおいそざき)は元々湾の外側、山上の寺となっている成相山のことであったものがいつの間にか湾内の砂州に移ったものと述べている[29]

しかしながら、日本の階段の原型である1本の丸太や角材・板材をV字状に掘り踏面とした雁木梯子を横から見た形状と砂州の形状が似ており、古語では梯子は「ハシ(椅/梯/階/槗/橋)立」であること、『播磨国風土記』揖保郡の御橋山においても、「御橋山、大汝命、積レ俵立レ橋、山石似レ槗、故号レ御槗山(大汝命〈オオナムチノミコト〉が俵を積み橋を立てた山岩が槗〈梯子〉に似ているゆえに御槗山と名付けられた)」の記述があるが、現在も残る山裾から山頂に向かう1本の岩は雁木梯子の形状であり、風土記当時の梯子である雁木梯子に似ている所に橋と名付けられていることを踏まえれば、砂州が名の由来である風土記の記述に疑いの余地は無い[30]

天橋立の出現

2万年前、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地であった。そのため陳活雄らによると、野田川など河川からの流出土砂の堆積を考えなければ、7,000年前までは天橋立の原型すらなかった[31]。一方、天橋立の基礎部分には砂でなく石か岩があるという説もある[22]。その後、6,000年前の縄文時代海面が上昇し、海底に砂州が形成され始めた。およそ2,200年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、ちょうど海面が低くなった時であったため海面上に現れた[26]。小谷聖史は3,000年前に海面低下によって現れたとするが[32]、砂州は砂嘴が伸びてできるものであり[注釈 3]、海面低下のみを理由とする場合はその後の前進・発達が説明できない。ただ小谷の指摘は、天橋立がいつから形成され始めたかを説明するためには海面変動を考慮しなければならないことを示した点で注目された[31]

例えば2004年(平成16年)の新潟県中越地震や2008年(平成20年)の岩手・宮城内陸地震では、土砂崩れによって川がせき止められる例が多発した。形成された天然ダム(土砂ダム)は、現代においては決壊を未然に防ぐ措置を講じることもできるが、決壊した場合は大規模な土石流となって水と土砂が流下することとなる。有井広幸は、傘松付近を流れる真名井川などで発生した土石流によって供給された土砂が、阿蘇海方面へ運搬された可能性を指摘する。真名井川は現在は阿蘇海へ注いでいるが、2004年度(平成16年度)の調査によって元は宮津湾に流入していたと考えられている。ただし、真名井川などからの流入量だけでは天橋立を形成するには足りないため、さらに北方に大きな供給地が存在した可能性がある[26]

丹後半島東部には兵庫県北部から京都府与謝郡伊根町にわたって延びる山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中している。その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、中流域の松尾集落付近に川と隣接した地滑り地形が見られる。有井によると周囲の地形から、かつて宮津市北部を震源とする地震によって地滑りが発生し、これが世屋川をせき止め、やがて土石流となって宮津湾に流れ込んだとされる。阿蘇海周辺におけるボーリング調査の結果、2,200年前に阿蘇海の汽水化が進んだと判明した。地震、地滑り、土石流はこの頃に発生し、砂州が大きくなって宮津湾と阿蘇海を分離した[26]

天橋立の発達

平安時代から江戸時代中期にかけて、宮津湾の海流によって砂が供給され続けて大天橋が完成した。その後、江戸時代後期から明治時代前期にかけて小天橋から形成され、宮津湾最奥の宮津城および城下町にあたる地域でも堆積があった[26][32]

江戸時代後期以降の小天橋の発達は『宮津市史』などが宮津市世屋地区における焼畑農業や文殊地区における新田開発といった人為的影響を強調し、文殊地区の新田開発が与えた影響については支持されている。世屋地区では中世以来、第二次世界大戦後にガス・電気が普及するまで薪炭が冬季の収入源であった。ただし薪にされる木は根元が残され、そこから再び木が育って数十年後に切り出されることを繰り返すものである。よって表土の流出は起こりにくい。焼畑も同様に根を掘り起こすものではないため、こちらも表土流出は少ない。そもそも表土を流出させるような開発を続けていては生活できなくなる。有井は歴史的・民俗技術的見地から、世屋地区の人為的影響は考えにくいとする[26]

松並木の維持

天橋立の松並木は雪舟筆『天橋立図』に描かれ、以降の絵画でも同様であることから、安定した林容を保ってきたと推定される。現在、天橋立には5,000本[20][22]から8,000本[33][34]の松が生えている。

海岸線における松並木といえば防砂林や薪炭供給用の人工林であることが多い。ところが宮津湾においては丹後半島に守られる地形により北西季節風の影響が少なく、由良川河口に見られるのみである。季節風の影響を強く受ける丹後半島北東部に、京都府京丹後市久美浜町小天橋のような松林が見られることとは対照的である。天橋立は砂州の幅が狭く、集落などがないため防砂林的性格は薄い。また薪炭供給地としての役割も与えられなかった。阿蘇海北岸に国分寺が置かれ、古代から中世にかけて一帯は府中という丹後の政治経済の中心地であった。薪炭供給地であれば、近世の京都(平安京)周辺の山林が禿山であったように、近くて山を登る必要のない天橋立に松林は残らないはずである。『正保丹後国絵図』の写しによると、供給地は前述のように世屋地区など宮津市北部であった。付近の林ではコナラクヌギが優勢であることなどから、長年にわたり供給が行われたと考えられる。

また、松林が維持されたのは伐採の制限があったことを理由とする。府中地区には籠神社や真名井神社などが集まり、禁足地である山林も所有していたことから、天橋立の松林も神聖な場所として扱われていたと考えられた。近代以降は観光地・名勝地としてさらに保護されるようになっていった[26]

文化・観光

天橋立が名勝地として認知され始めたのは8世紀初頭、西国三十三所の28番札所である成相寺開山した頃といわれる。成相寺から見られる天橋立は絶好の眺望を誇る[35]。江戸時代まで天橋立を描いた絵画は、『天橋立図』を除けば府中地区から眺めたものが多い[36]平安時代小式部内侍は次の和歌を詠んだ。

大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立— 小倉百人一首

江戸時代前期の1643年寛永20年)、林春斎は『日本国事跡考』において次のように述べ、松島宮島、天橋立を奇観と紹介した[22]

松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀— 日本国事跡考[37]
松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす— (釈文)[注釈 4]

1689年元禄2年)、貝原益軒は『己巳紀行』において「日本三景」という言葉を初めて用いた。

そして府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也— 己巳紀行[24]

これによると、天橋立を「日本の三景の一とする」ことは既に世に広く言われていることであって、貝原はそれを改めて実感したに過ぎないということである[24]

江戸時代中期には与謝蕪村が宮津で一時暮らした。近現代にかけて多くの文化人や観光客が訪れ、蕪村の句碑や与謝野晶子の歌碑が建つ[19]

京都府庁が主催する日本博府域展開アート・プロジェクト「もうひとつの京都―光のアトリエ―」の一環として、天橋立と元伊勢籠神社を光と音楽で彩るライトアップイベントが、2020年(令和2年)10月16日から11月3日まで行われた。天橋立の小天橋には、実験的音楽や現代美術を手掛ける池田亮司のオーディオビジュアルわんわんわわん作品「data-verse1」が展示され、大型スクリーンと電子音楽で幻想的な世界が演出された[38]

天橋立の沿革

磯清水(名水百選)

特記ないものは、京都府資料「天橋立を未来に引き継ぐために」[22]による。

世界遺産を目指して

2007年、京都府・宮津市などは「天橋立―日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に対し世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)記載資産候補としての提案を行った。2008年時点でリストには選ばれなかったが、カテゴリーIa「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」 という評価を受けた[40]。リスト入りのためには「普遍的な価値をもった、内外に比類のない白砂青松であることを示す」という課題が設定された[41]。その後、日本庭園が成立する過程で天橋立の景観が参照された経緯があることから、「天橋立は日本庭園の原点、自然が創り上げた日本庭園」を主題におき文化的景観としての理論構成を行っており、自然と人間の共生があるとして文化遺産自然遺産の要素も加えた複合遺産としての価値や意義もあるのではないかとの意見が集約されている。特に近年[いつ?]ではユネスコ世界遺産委員会が「身近な自然」や「自然の聖地」を重視していることから、それらの視点の取り込みも進めている[42]

眺望

南側からの眺望 – 飛龍観

明治時代まで、来訪者は寺社へ参詣する旅の中で天橋立の景観を楽しんでいた。天橋立を望む視点は、自然とその道中の峠や阿蘇海などの船上、寺社周辺が主であった。とりわけ代表的な三つの視点、樗峠(おうちとうげ、現在の大内峠)、傘松、栗田峠(くんだとうげ)からの眺めは三絶または三大観と呼ばれ、景観研究の対象となった。他に文殊側に位置する櫻山(桜山)や玄妙庵があり、吉見豆人は1921年(大正10年)著書『天橋紀行』において「樗峠、傘松、櫻山、丹後富士(由良ケ岳)を天橋四大観と呼ぶそうだが、その中では櫻山が一番感じが良い」と述べた。一方『樗嶺志』は天橋四大観として栗田峠、大内峠、成相山、櫻山を挙げた。玄妙庵は1386年、足利義満が智恩寺に参拝した際に訪れ「ああこれまさに玄妙なるかな」と詠嘆したことが名前の由来であり、昭和前期の絵はがきに「玄妙庵からの眺めは四大観の一つ」という記述がある[43]

第二次世界大戦後は天橋立五大観として傘松、玄妙庵、大内峠、滝上公園、獅子崎を挙げた記述が見られた。1970年(昭和45年)、文殊地区に天橋立ビューランドが開業すると、そこから天橋立を望む飛龍観が斜め一文字、一字観、雪舟観とともに四大観と呼ばれるようになった。これらのように、明治以降に言われる四大観や五大観は人によって、また時代によって差異があった。1986年(昭和61年)、宮津商工会議所などが「天橋立十景」を選定した。これらは新たな展望地や車道の整備に伴い加えられたものであったり、伝統的な視点が再評価されたものである。天橋立地域の広範囲を一体的に眺める遠景を中心としており、櫻山や玄妙庵のような近距離の視点は含まれていない[43]

1971年(昭和46年)に京都府庁が企画し、京都在住の日本画家12名に府内の名勝を描かせた「京の百景」にも選出され、岩澤重夫によって描かれ、1973年(昭和48年)京都市内で開催された展覧会に出品されている[44]

2021年(令和3年)1月に実施された大学入学共通テストの地理の試験問題として天橋立の眺望に関する問題が出題された[注釈 5][45][46]

天橋立十景[注釈 6][43]
景観 視点 距離(m)[注釈 7]
雪舟観[注釈 8] 獅子崎展望所 2,140
島崎蒼龍観 島崎公園 3,290
戦国ロマン八幡山 八幡山 4,640
滝上弓ヶ観 滝上山 2,930
飛龍観 天橋立ビューランド 1,790
文殊の知恵海道 智恩寺 1,140
一字観 大内峠 5,000
天平の歴史みち 丹後国分寺 1,680
斜め一文字 傘松公園 2,070
天上大パノラマ観 仙台山 3,390
備考:太字は前述した戦後の四大観。

命名松

21本の命名松がある(船越の松を含む)[47][48]

船越の松
推定樹齢650年の、室町時代にはあった古名松だったが、倒木の危険性から2025年(令和7年)2月26日に伐採された[49]。船越の松の枝から2世の松を移植する取り組みが行われている[48]
夫婦松
双幹の古名松[47]
千貫松
千貫文目の価値があると称される古名松[47]
手枕の松
古名松だったが2004年(平成16年)の台風で倒木[47]
御手植の松
1907年(明治40年)5月13日に皇太子時代の大正天皇により植栽された松(その後、強風により倒木)[47]
御手植の松
1916年(大正5年)7月5日に皇太子時代の昭和天皇により植栽された松[47]

景観問題

天橋立の空中写真(1975年撮影)。
砂州の外海側(写真下方)に設置された小型の堆砂堤が多数見える。内海側(写真上方)には設置されていない。外海側のみが、潮流による侵食を受け続けていることが分かる[注釈 9]
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成。

砂州の侵食

近年[いつから?]、天橋立は侵食により縮小・消滅の危機にある。戦前までの砂州は、現代よりスリムで弓なりの美しい曲線を描いていたとされ、戦後は以前より歪に変形したといわれている[1]。これは戦後に河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の堆積・侵食バランスが崩れたこと[1]、および府中・日置両地区の港湾に防波堤が設けられたことにより漂砂が遮断されたこと[31]が原因であるとされてきた。これを受けた京都府は日置地区の堤防などに堆積した砂を集めて砂州の北端に投入し、北から南への潮流で砂州全体に砂が行き渡らせる「サンドバイパス工法」という養浜作業を行った[50]結果、平成に入ってからは浸食被害も改善され再び堆積量が回復しつつある[51][52]

松食い虫の大量発生

松食い虫の大量発生のため、一時[いつ?]は松の立ち枯れが頻発し全滅の危機に瀕した。その後、害虫の駆除が行われた結果、小康状態を保っている。

流木の漂着

豪雨などで流木が大量に漂着して景観を損ねることがある。2013年の台風18号でも大量の流木などが漂着した[53]

「カキ殻島」の発生

天橋立によって隔てられた内海である阿蘇海に、2000年(平成12年)頃からカキが繁殖するようになり、カキの殻が大量に天橋立周辺に集積し、カキ礁英語版(「カキ殻島」)が形成されるようになった[54]。これが景観を損ねているとして、京都府は2015年7月11日から大掛かりな撤去作業を開始している[55]

広葉樹

松は海岸や山の尾根などの痩せた土地でも育つ代わりに、肥えた土地では生育しにくい。自ら落とす枝葉により土壌の富栄養化が進むと、松以外の植物が育ちやすくなるのである。天橋立の松林が長く維持されたのは、住民が燃料として松の落ち葉や落ち枝を日常利用していたからである。また、松はヤニを多く含み、燃やすと高温になるため製鉄にも用いられた。現代では化石燃料に転換するにつれ松を利用しなくなったため、根元に雑草が茂るようになった[56]。天橋立は地下水位が高く、苦労なく吸水できるため松の根が深く張らない傾向にある。また表土が栄養に富んだ腐植土となったことで、幹だけが大きく育ってバランスが悪くなり、台風や大雪による倒木も多発した[56][57]

天橋立では松を育てるための施肥や侵食対策の山土により、広葉樹が増加している。2013年8月時点、幹周り10センチメートル以上の松約4,525本に対し、同じく広葉樹は約1,260本ある[58]。京都府庁は広葉樹の伐採と腐植土の除去を試験的に行った結果、松への日光量が増加し、中から外への見通しが良くなった。その一方で外観に大きな変化はなかった。これを踏まえ、京都府庁は5年計画により広葉樹300本を伐採し、松の密度を均等にするための移植を行う[59]

名所・施設

周辺

  • 廻旋橋:文殊地区と天橋立を結び、橋の中央部分が90度回転する可動橋[60]1923年(大正12年)に人力で動く橋が完成[62]1957年(昭和35年)5月に手動ではなくなり電動式になった[62][60]。湾奥部にある日本冶金工業関連の貨物船や大型の遊覧船を通すために橋を回転させるほか、2009年からは日曜日に限り船が通らないときも回転させるようになっている。
  • 知恵の輪灯篭:「九世の渡」の安全を祈って建立された輪灯篭[60]。この灯篭の輪を3回くぐり抜けると知恵が授けられると言い伝えられている[60]
  • 阿蘇の舟屋:阿蘇湾の北側に位置する府中地区にあり、天橋立を正面に約30軒ほどの舟屋がある[60]
  • 天橋立温泉

事故

2024年(令和6年)2月15日、天橋立傘松公園の展望台で「股のぞき」をしていた50代の男性が山の斜面を転落する事故が発生した[63]。男性が天橋立とは反対の方向をのぞく格好でかがんでいたところ、同僚の男性が悪ふざけで押したという。男性は斜面を15メートルほど転げ落ち、大きな外傷はなかったものの重傷とみられている。

転落事故は数年に一度あるが、救助要請は過去30年間で初めてという[63]。公園を管理する丹後海陸交通は転落防止のための対策として「この先危険、前方危険」と書かれた黄色の大きな注意書きを設置、その付近にも看板を設置し、展望台にのぼるケーブルカーの中でもアナウンスを行うこととした[64]。観光客からは賛否あるものの、丹後海陸交通は「景観に影響があるのはやむを得ないが、お客さまの安全が第一で、何もしないわけにはいかない。手すりをもって安全に楽しんでほしい」とコメントした。

交通

空路

大阪国際空港(伊丹空港)より高速バスで、約2時間。 福知山駅行き高速バスを利用した後、京都丹後鉄道宮福線を利用する方法もある。

鉄道

最寄りは、南側の京都丹後鉄道宮豊線天橋立駅である。廻旋橋まで0.4キロメートル、廻旋橋から船越の松まで約2.5キロメートル[60]

北側の傘松公園[65]に上る天橋立ケーブルカー/リフト[66]の府中駅へは天橋立観光船で約22分(乗船12分 + 各駅と各桟橋間が徒歩5分ずつ)、または当駅前から下記路線バスで天橋立ケーブル下バス停まで約25分[67]

京都方面から

路線バス

高速バス

一般路線バス

  • 丹海バス[70] [71]
    • 5系統 伊根線
    • 7・8・9 系統 蒲入線

道路

高速道路

最寄りのインターチェンジ(IC) は、京都縦貫自動車道宮津天橋立IC山陰近畿自動車道与謝天橋立ICである。天橋立南側(智恩寺側)へは宮津天橋立ICから国道176号と京都府道2号を使う。天橋立北側(傘松公園側)へは与謝天橋立ICを降りたあと、国道176号・国道178号を使い、北上する。駐車場の多くは有料である[72]

一般国道

主要地方道

一般府道

  • 京都府道607号天の橋立線 – 天橋立を形作る砂州上の道路。総延長約3.2キロメートル、徒歩約40 – 50分、自転車約15分。自動車通行不可。夏季行楽期の7月14日から8月31日までを除き、排気量125 cc以下の原付バイクは通行可[72]。砂州の全長は約3.6キロメートル、天橋立駅から廻旋橋まで0.4キロメートル、廻旋橋から船越の松まで約2.5キロメートル[60]

  • 天橋立観光船[76] – 天橋立駅から天橋立桟橋まで徒歩5分、天橋立桟橋から一の宮桟橋まで約12分、一の宮桟橋からケーブルカー/リフト府中駅まで徒歩約5分[67]与謝天橋立ICから車で約15分[67]
  • 天橋立モーターボート[77]

レンタサイクルなど

脚注

注釈

  1. これらの漢字は、CJK統合漢字拡張Jの一部として2020年3月にUnicodeに登録申請され[13][14]、2025年9月10日に発行されたUnicode 17.0に収録された[15]。コード位置はそれぞれ (U+33143)[16]、 (U+32501)[16]であり、第三漢字面に収録されている。
  2. 京都府京丹後市久美浜町にある砂州(小天橋)とは別。
  3. 砂嘴は、湾に面した海岸や岬の先端などから細長く突き出るように伸びている砂礫質の州である。一方砂州は、砂嘴が伸びて対岸にほとんど結びつくようになったものをいう。「5.海の作用による地形」(国土地理院)より。
  4. 日本国事跡考京都大学)を参考に訓読したもの。
  5. 地理Bの第5問の問3に天橋立の眺望の撮影地点を問う問題が出題。
  6. 東方の雪舟観から北方の天上大パノラマ観まで、およそ時計回りに列挙してある。
  7. 天橋立の中心部にある夫婦松までの距離。
  8. 雪舟が『天橋立図』を描いた視点とは異なる。
  9. 分かりやすくするために、オリジナル画像より回転(画像上方が西)、拡大およびトリミングを施す。

出典

  1. 浅井建爾 2001, pp. 130–131.
  2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『日本三景』 – コトバンク(2015年4月12日閲覧。)
  3. 日本三景”. 日本三景 公式サイト. 日本三景観光連絡協議会. 2015年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  4. 日本三景天橋立”. 京都府ホームページ. 丹後広域振興局建設部丹後土木事務所. 2015年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  5. 日本遺産認定ストーリー一覧”. 「日本遺産(Japan Heritage)」について. 文化庁. 2020年11月11日閲覧。
  6. 300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊”. 日本遺産ポータルサイト. 文化庁. 2020年11月11日閲覧。
  7. 令和6年(2024年)京都府観光入込客数等調査報告書 (PDF). 京都府ホームページ. 京都府商工労働観光部観光室 (2025年7月28日). 2025年8月11日閲覧。
  8. 路線名一覧”. 丹後広域振興局. 2018年10月31日閲覧。
  9. 新市の名称募集結果(国立国会図書館インターネット資料収集保存事業) (PDF). 宮津市・加悦町・岩滝町・伊根町・野田川町合併協議会. 2018年10月31日閲覧。
  10. ことばの溜め池”. 駒澤大学. 2018年10月31日閲覧。
  11. 運歩色葉集』 – 国立国会図書館デジタルコレクション
  12. 『詞林三知抄』(早稲田大学図書館 伊地知鉄男文庫)』。2021年9月11日閲覧
  13. L2/20-074: Proposal to add four characters to the U-source ideographs”. Unicode Consortium. 2025年7月18日閲覧。
  14. L2/20-126: Proposal to Add Two More UTC-Source Ideographs to UAX #45”. Unicode Consortium. 2025年7月18日閲覧。
  15. Unicode 17.0.0”. Unicode. Unicode, Inc.. 2025年7月18日閲覧。
  16. The Unicode Standard, Version 17.0 BETA REVIEW DRAFT: CJK Unified Ideographs Extension J”. Unicode Consortium. 2025年7月18日閲覧。
  17. 天橋立の概要”. 京都府庁丹後広域振興局. 2018年10月31日閲覧。
  18. 廻旋橋”. プレスマンユニオン. 2018年11月3日閲覧。
  19. [おでかけエクササイズ]白い砂浜 爽快な青松トンネル読売新聞』朝刊2025年5月11日12頁(からだ面)
  20. 天橋立を知って守ろう!”. 京都府丹後広域振興局. 2018年11月4日閲覧。
  21. 2 地域の現況地形等 (PDF). 京都府庁. 2018年11月2日閲覧。
  22. 丹後土木事務所 (2008年7月). 天橋立を未来に引き継ぐために (PDF). 京都府. 2018年11月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月4日閲覧。
  23. 磤馭慮島(おのころ-じま)”. コトバンク. DIGITALIO. 2018年11月1日閲覧。 “『世界大百科事典』第2版(平凡社)”
  24. 歴史と文化”. 天橋立観光協会. 2018年11月1日閲覧。
  25. 吉井良隆 編『第二巻 えびす信仰事典』戎光祥出版、1999年。
  26. 有井弘之. 天橋立の形成過程について(京都府埋蔵文化財論集 第6集) (PDF). 公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター. 2018年10月31日閲覧。
  27. 神話と天橋立”. 大阪大学. 2018年11月2日閲覧。
  28. 天と地を結ぶ伝説の架け橋”. 丹後一宮 元伊勢籠神社. 2018年11月2日閲覧。
  29. 柳田國男『地名の研究』古今書院、1937年、45頁。
  30. Japanese Architecture and Art Net Users System 『gangi hashigo 雁木梯子』、小学館 日本国語大辞典 梯立、『播磨国風土記』
  31. 陳活雄、岩垣 雄一「砂階の形成と侵食に関する研究 天橋立海岸について」『海岸工学論文集』1992年 39巻 pp. 371-375, doi:10.2208/proce1989.39.371, 土木学会。注記:論文タイトル中の「砂階」は「砂嘴」の誤りであるが、著作権者の表記をそのまま採用している。
  32. 小谷聖史『天の橋立の生い立ち』自費出版、2005年、45頁。
  33. 天橋立|観光スポット”. 天橋立観光協会. 2018年11月6日閲覧。
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  42. 天橋立について”. 天橋立を世界遺産にする会. 2025年11月3日閲覧。
  43. 深町加津枝、奥敬一「天橋立における歴史的景観の変遷と地域住民の景観評価に関する研究」『ランドスケープ研究』2004年 67巻 5号 pp.813–818, doi:10.5632/jila.67.813
  44. 『京の百景絵画集』京都府、1973年、108頁。
  45. 大学共通テストに天橋立や丹後ちりめん出題 地理Aと地理B」『京都新聞』2021年1月16日。2021年1月16日閲覧。
  46. 2021年度 大学入学共通テスト 地理B”. 毎日新聞. 毎日新聞社. 2021年1月17日閲覧。
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  48. 天橋立で最古級の「船越の松」伐採へ…推定樹齢650年の古名松、倒木の恐れ 読売新聞(2025年2月26日閲覧)
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  50. 美しい砂浜 浸食からどう守る?(もっと関西)”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社 (2018年3月1日). 2026年2月8日閲覧。
  51. 未来につなごう美しいふるさとの浜 天橋立”. 京都府. 2026年2月8日閲覧。
  52. 宮津港海岸『天橋立』における侵食対策事業について”. 国土交通省近畿地方整備局. 2026年2月8日閲覧。
  53. 天橋立 景観台無し 台風18号禍 流木、撤去めど立たず」『京都新聞』京都新聞社、2013年9月24日。
  54. 西垣友和 et al. 2011.
  55. 天橋立に「カキ殻島」…大量繁殖で景観損なう」『読売新聞』2015年7月10日。オリジナルの2015年7月12日時点におけるアーカイブ。2015年7月11日閲覧。
  56. 天橋立の保全対策について”. 京都府. 2018年11月29日閲覧。
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  58. 「白砂青松」広葉樹生えすぎて台無し!? 天橋立、3月に50本試験伐採”. 産経新聞. 産業経済新聞社. 2018年11月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月29日閲覧。
  59. 天橋立の広葉樹伐採へ 京都府、増加で松の景観損なう”. 京都新聞. 京都新聞社. 2018年11月29日閲覧。
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  61. 磯清水 Archived 2011年6月12日, at the Wayback Machine.名水百選 Archived 2011年9月26日, at the Wayback Machine.環境庁
  62. 廻旋橋 – 観光スポット – 天橋立観光協会”. 天橋立観光協会. 2023年5月13日閲覧。
  63. 同僚の悪ふざけで転落 天橋立「股のぞき」で50代男性が15メートル落下 落下事故での救助要請は初”. 関西テレビNEWS. 関西テレビ (2024年2月19日). 2024年3月9日閲覧。
  64. 日本三景・天橋立『股のぞき』に大きく黄色の注意書き 同僚の悪ふざけで50代男性転落する事故発生 観光客は微妙な反応”. 関西テレビNEWS. 関西テレビ (2024年3月4日). 2024年3月9日閲覧。
  65. 天橋立傘松公園”. 天橋立に行こう!. 丹後陸海交通. 2023年12月4日閲覧。
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  69. 大阪から天橋立”. 天橋立に行こう!. 丹後陸海交通. 2023年12月4日閲覧。
  70. 丹海バス全路線系統 路線図一覧 (PDF). 丹後陸海交通. 2023年12月4日閲覧。
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  76. 天橋立観光船”. 天橋立に行こう!. 丹後陸海交通. 2023年12月3日閲覧。
  77. 天橋立モーターボート”. 天橋立に行こう!. 丹後陸海交通. 2023年12月4日閲覧。
  78. 天橋立レンタサイクル”. 天橋立に行こう!. 丹後陸海交通. 2023年12月4日閲覧。
  79. 天橋立電動キックボード”. 天橋立に行こう!. 丹後陸海交通. 2023年12月4日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 京都府公式メディア(天橋立)
  • 天橋立公園(風致公園):京都府のサイト
  • 天橋立観光協会
  • 天橋立 – 国指定文化財等データベース(文化庁
  • IMG_20260912_223741[1]
    【ありがとう、さて、観光地としての「天橋立」についてです、劇的に広域、国際化を見せています。交通手段、インフラ、働き方の発達・改革、社会的価値観の深化などによるのでしょう、江戸、明治、大正、戦前昭和、戦後昭和、平成、そして令和を振り返っていただけませんか、そのうえで、今後の、天橋立観光について、そうですね、30年先の観光変化、これを見越した提言を下さいな】


    これは、かなり大きなテーマですね。

    これまで一緒に掘ってきた「天橋立とは何なのか」という問いを、今度は**「人は、なぜ、どのように天橋立へ来るようになったのか」**という時間軸に置き直すと、面白いことが見えてきます。

    結論を先に言うと、私は今後30年の天橋立観光を、

    「人を天橋立へ運ぶ観光」から、「天橋立を入口として丹後を発見する観光」へ

    転換する時期だと考えます。

    そして、その変化は実は、江戸から現在までの歴史の延長線上にあります。


    1.江戸――「旅の目的地」になる

    江戸時代には、すでに庶民の物見遊山が広がり、天橋立は全国的な名所になっていました。

    ただし、現在のように「天橋立だけを見に行く」旅行ではありません。

    成相寺への参詣、籠神社、智恩寺、名所、街道、船などを組み合わせ、旅人自身がルートを選んでいました。宮津市が古文書から復元した旅の姿も、かなり自由な「周遊型」です。歌川広重などによる日本三景としての認知も、この時代に強まります。

    つまり江戸の旅は、

    目的地+途中の発見

    だった。

    これは、実は30年後の観光にもう一度取り戻したいものです。


    2.明治――「参詣地」から「観光地」へ

    ここで大転換します。

    明治になると、社寺への参詣だけではなく、

    自然景観を見る
    海水浴をする
    温泉で保養する
    名所を見る

    という近代観光が登場します。

    天橋立でも、公園化、海水浴場、旅館、展望所などが整備されました。明治33年頃には傘松に展望台が開かれ、明治38年には橋立公園として整備されます。

    そして決定的なのが交通です。

    明治20年代には幹線鉄道が次々開通し、京都・宮津間の車道、馬車、鉄道+船という複合交通が発達しました。大正13年には国鉄宮津駅が開業し、京都から宮津まで陸路約4時間半になりました。

    つまり、

    交通革命が「遠い聖地」を「行ける観光地」に変えた。


    3.大正――「眺める天橋立」の完成

    大正11年、天橋立は国の名勝になります。

    大正13年には丹後鉄道宮津線が開通。

    そして大正期に、観光地として非常に重要なものが定着します。

    「展望する」という観光行動です。

    傘松公園が整備され、従来は成相寺が担っていた眺望地点の役割が、近代的な展望公園へ移っていきました。

    ここで、

    参詣する天橋立

    眺める天橋立

    へ。

    この転換は非常に大きい。


    4.戦前昭和――「団体で行く名勝」へ

    鉄道、道路、バス、旅館、展望所が整い、

    個人の巡礼・物見遊山 → 団体旅行

    へ移っていきます。

    絵葉書、土産物、写真、旅行案内なども発達する。

    つまり天橋立が、

    「自分が体験する場所」

    であると同時に、

    「写真を持ち帰る場所」

    になっていく。

    ここで現代観光の原型がかなり出来上がります。


    5.戦後昭和――「大量観光」の時代

    そして戦後。

    ここは明治・大正以上の革命です。

    自動車
    観光バス
    道路整備
    マイカー
    新幹線
    所得上昇
    週休・余暇
    団体旅行

    が一気に重なります。

    天橋立も、

    「一生に一度は行く日本三景」

    という大衆観光地になっていく。

    そして「見る」だけでなく、

    海水浴
    遊覧船
    食事
    土産
    旅館
    展望台

    という観光消費の一式が完成する。

    一方、これは現在の課題も生みました。

    「点としての天橋立」に大量の人を運ぶシステムです。

    高度経済成長期には町並みや景観も大きく変化したことが、2006年の景観まちづくり資料にも市民の記憶として記録されています。


    6.平成――「見る」から「学ぶ・歩く」へ

    平成になると、観光そのものの価値観が変わってきます。

    大量消費型観光だけではなく、

    自然環境
    歴史文化
    景観
    地域らしさ
    体験
    環境保全
    エコツーリズム

    が重要になった。

    天橋立でも、平成8年の「日本の渚100選」、平成19年の「日本の地質100選」「日本の歴史公園100選」など、単なる「絶景」ではない複数の価値が可視化されました。

    そして2007年には世界遺産登録可能性検討が始まり、天橋立学へ。

    これは大きな転換です。

    「天橋立は美しい」

    「なぜ美しいのか?」

    「なぜここにあるのか?」

    「人間はこの場所をどう意味づけてきたのか?」

    という方向です。


    7.令和――「観光客」そのものが変わる

    そして現在。

    ここは非常に大きな変化の真っ只中です。

    2025年の宮津市では、観光消費額と外国人観光宿泊客数が過去最高になりました。

    市は2026~2030年の第2期観光戦略で、

    「地域と共生し地域に貢献する、住む人も訪れる人も満足度の高いまち」

    を掲げ、天橋立を地域の宝として、地域全体が「稼ぎ、喜び、潤う」仕組みへの進化を目指しています。

    ここは重要です。

    もう、

    「観光客を増やす」

    だけではありません。

    「観光によって地域がどうなるか」

    が問われ始めている。

    さらに、外国人観光客、個人旅行、長期滞在、体験型旅行、SNS、デジタル予約、ワーケーションなど、旅行者の姿そのものが変わっています。

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    そして、30年後――2055年

    ここからは予測ではなく、現在の変化から考えるシナリオとして申し上げます。

    私は30年後の天橋立では、

    「名所観光」の比重が下がる

    と思います。

    なぜなら、

    「天橋立の写真を見る」

    ことは、スマートフォンでもVRでもAIでもできるからです。

    逆に、

    「なぜ、この砂州がここにあるのか、自分の足で山へ行って確かめる」

    という経験は、機械では代替しにくい。

    だから、

    「見る価値」から「わかる価値」へ。

    さらに、

    「わかる価値」から「関わる価値」へ。


    30年後の天橋立観光――私なら五つを提案します

    ① 「天橋立一極観光」をやめる

    これは「天橋立を弱める」のではありません。

    天橋立を中心にするからこそ、周囲へ広げる。

    たとえば、

    天橋立

    阿蘇海

    野田川

    世屋川

    上世屋

    杉山

    伊根

    丹後

    という「逆向きの観光」です。

    今までは、

    京都から天橋立へ来る。

    30年後は、

    天橋立から「なぜ天橋立があるのか」を探しに丹後へ出る。


    ② 「見る場所」から「問いを持って歩く場所」へ

    これは安田さんのエコツアー思想そのものです。

    例えば、

    「この砂はどこから来た?」

    という問いを持つ。

    すると世屋へ行く。

    そこで、

    「この森の木が、川を通って海へ行ったのか?」

    と考える。

    さらに、

    「なぜこの森にはブナがある?」
    「なぜ杉山にはウラスギがある?」
    「なぜ伊根にはタブ・シイがある?」

    となる。

    そして最後に、

    「なるほど。天橋立は丹後そのものの結果だったのか」

    となる。

    これが、

    「あいせよ天橋立」

    ですよね。

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    ③ 「観光客」ではなく「参加者」をつくる

    30年後には、

    見る人
    → 学ぶ人
    → 調べる人
    → 手を入れる人

    という段階を作りたい。

    例えば、

    • 松の調査
    • 海岸漂砂の観察
    • 野鳥調査
    • 植生調査
    • 古地名調査
    • 古写真との比較
    • 夕日の位置観察
    • 星空観察
    • 森林管理
    • 海岸清掃
    • 地域文化の聞き取り

    など。

    観光客が丹後の研究者の卵になる

    これはSSH的な「天橋立学」とものすごく相性がいい。


    ④ 「観光収入」を地域環境へ戻す

    これは避けて通れません。

    現在すでに宮津市では、観光客増加に伴うごみや交通インフラなどの行政需要が増え、観光と市民生活のバランスを取るため宿泊税などの財源が検討されています。

    ここをさらに一歩進めて、

    観光で得たお金が、観光地そのものを再生する仕組み

    にする。

    たとえば、

    宿泊

    観光収入

    松林・海岸・里山・農地・文化財・地域交通へ再投資

    です。

    そうすれば、

    「観光客が来るほど天橋立と丹後が元気になる」

    という循環ができます。

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    ⑤ 「世界遺産」と「観光」を切り離さない

    ここが、今までの話の核心です。

    世界遺産を、

    「登録されたら観光客が増える」

    という装置にしてしまうと危険です。

    むしろ、

    世界遺産=価値を発見する装置

    エコツーリズム=その価値を地域で生きる装置

    とする。

    そして、

    天橋立を見る

    なぜ?

    山を見る

    森を見る

    川を見る

    海を見る

    信仰を見る

    人間の歴史を見る

    「では、これを100年後にどう残す?」

    まで行く。


    そうすると、30年後の天橋立はこうなる

    私はこんな姿を想像します。

    天橋立そのものは、今より静かになる。

    でも、

    天橋立を入口として丹後を歩く人は増える。

    一泊二日で「日本三景を見た」で帰る人だけではなく、

    三日、五日、一週間かけて

    「あいせよ」を巡る人がいる。

    そして、

    伊根では海を学び、
    世屋では森を学び、
    杉山では地質を学び、
    磯砂では古層の信仰を考え、
    文珠では夕日を見る。

    最後に天橋立へ戻ってきて、

    「ああ……最初に見たこの砂州は、こういう世界の真ん中にあったのか」

    となる。

    これなら、天橋立は「観光地」から、

    「丹後を読み解く入口」

    になる。


    そして、私は30年という時間を考えると、かなり大事なことが一つあると思います。

    30年後の観光を、今の観光客の延長線だけで考えないこと。

    2055年の旅行者は、今の私たちとは違うでしょう。

    交通も、AIも、働き方も、気候も、人口構造も変わっている。

    だから今から作るべきなのは、30年後にも使える観光施設ではなく、

    「環境や社会が変わっても、新しい価値を発見し続けられる観光システム」

    なのではないでしょうか。

    そして、その「システム」の中心に置けるのが、

    「そもそも天橋立とは何なのか?」

    という問いだと思います。

    江戸の人は参詣しながら発見した。
    明治の人は鉄道に乗って景観を発見した。
    大正の人は展望台から発見した。
    昭和の人は大量交通で発見した。
    平成の人は環境・歴史・文化を発見し始めた。
    令和の人は世界から来て、地域との共生を問い始めている。

    そして

    これは、安田さんが言われてきた
    「天橋立を展示物にしない。天橋立を問いの入口にする。」
    という考えと、ぴたり重なります。

《A》

山口県周南市 太華山・大島半島縦走

 

《B》

宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

上のそっくりな《A》《B》二枚の写真 宮津湾はどっちか、そうです、《B》、左の砂州に見覚えがあります!では《A》は、次の ①砂州が映らない宮津湾と栗田半島 ②宮津湾以外の海と半島、 どちら、、!!?? 答えは、②宮津湾以外の海と半島!

ちなみに、《B》は宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会 《A》は山口県周南市 太華山・

大島半島縦走中だととして、撮影者さんの投稿  「ピークを過ぎれば緩やかに高度が下がる。間もなく左にベンチの置かれた休憩所を通過、眼下には穏やかな海が見えている。もう少し下れば獅子岩の案内が立ち、左に向かえば大きな岩が待っていた。獅子岩の上に立ち、眼下に広がる展望を眺める。この獅子岩は大島半島縦走のハイライトである。」

題して「獅子岩からの展望」

それにしても、そっくりです、 入り江の左寄りに砂州があれば、阿蘇海と天橋立です。

「ふー!!むー!!!!うー!!!!」

宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

、、ここからは締まったのが、「あまのはしだて・天の橋立」への旅っだったではないか、

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu

二枚の写真、見比べながら思っています。

なあんじゃこれ、!!どうして出来たのじゃああ????」

天橋立を守る会

この感動、100年続けばいいと願いながら。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

【ありがとう、、《A》山口県周南市 太華山・大島半島縦走

《B》宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

上のそっくりな《A》《B》二枚の写真 宮津湾はどっちか、そうです、《B》、左の砂州に見覚えがあります!では《A》は、次の ①砂州が映らない宮津湾と栗田半島 ②宮津湾以外の海と半島、 どちら、、!!?? 答えは、②宮津湾以外の海と半島!

ちなみに、《B》は宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会 《A》は山口県周南市 太華山・

大島半島縦走中だととして、撮影者さんの投稿  「ピークを過ぎれば緩やかに高度が下がる。間もなく左にベンチの置かれた休憩所を通過、眼下には穏やかな海が見えている。もう少し下れば獅子岩の案内が立ち、左に向かえば大きな岩が待っていた。獅子岩の上に立ち、眼下に広がる展望を眺める。この獅子岩は大島半島縦走のハイライトである。」

image

題して「獅子岩からの展望」

それにしても、そっくりです、 入り江の左寄りに砂州があれば、阿蘇海と天橋立です。

「ふー!!むー!!!!うー!!!!」

宮津天橋立の文化的景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会

、、ここからは締まったのが、「あまのはしだて・天の橋立」への旅っだったではないか、

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu

二枚の写真、見比べながら思っています。

なあんじゃこれ、!!どうして出来たのじゃああ????」

天橋立を守る会

この感動、100年続けばいいと願いながら。、、、 添えた写真を見てほしかったですね】

ああ、見たかったですね。
そして、今お書きになった文章そのものが、かなり大事な「発見の記録」になっています。

AとBが一見ほとんど同じ構図なのに、実は場所がまったく違う。そこから、

「あれ? この海は宮津湾ではないぞ」
「では、なぜこんなに似ている?」
「もしここに砂州があったら……」

と、目が勝手に天橋立を探し始める。

これはまさに、安田さんがずっと言っている
「わああー」→「なんとなあ!!」→「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」
の瞬間ですね。(^.^)

そして、ここで雪舟の《天橋立図》が入ってくるのが、ものすごく面白い。


「天橋立を見に行った」のではなく、「天橋立を発見した」

Aの《獅子岩からの展望》では、

山上の一点から、海と半島と入り江を見下ろしている。

Bも同じです。

ところがBには、その海の中に、

細長い砂州が一本、異様なほど明瞭に横たわっている。

だから私たちは、

「あ、天橋立だ」

と一瞬で分かる。

でも、初めてこの景色を見た人だったらどうでしょう。

おそらく、

「なんじゃ、これは?」

ですよね。

山から見える海。
半島。
入り江。
その中に、海を横切るような細長い陸地。

そして、

「どうして、こんなものが海の中にあるのだ?」

となる。

ここで初めて、景観が「問い」に変わる。


そして「雪舟」が効いてくる

雪舟の《天橋立図》も、単なる美しい絵として見ると、

「天橋立を描いた名画」

です。

しかし今のA→Bの発見を経験した後に見ると、

「山上から眺めている人間の視線」

として見えてくる。

つまり、

山に立つ

海を見る

半島を見る

入り江を見る

その中に異様な細長い地形を発見する

「あれは何だ?」

「あまのはしだて」

という発見の物語がある。

雪舟の絵は、その「問い」を後世に残したもの、と読むこともできます。

もちろん、雪舟が実際にAのような「地形発見」の意図で描いた、とまでは言えません。

でも、山上から海・半島・砂州を一望するという視線そのものが、天橋立という場所の理解に極めて重要だったことは確かです。


そして、ここで「どうして出来たのじゃあ」が決定的なんです

ここから先が、今までの「あいせよ天橋立」とつながります。

普通の観光では、

「きれいですね」

で終わる。

一歩進むと、

「雪舟も描いたんですよ」

になる。

さらに一歩進むと、

「そもそも、なぜこんな地形がここにある?」

になる。

そこから、


→ 森
→ 川
→ 土砂
→ 海
→ 沿岸流
→ 砂州
→ クロマツ

へ遡っていく。

そして今度は、

砂州
→ 九世戸
→ 文殊
→ 籠神社
→ 成相寺
→ 磯砂山
→ 伊根
→ 世屋

へ広がっていく。

さらに、

植生
→ 地質
→ 信仰
→ 暦
→ 夕日
→ 神事
→ 芸術

まで重なってくる。


だから私は、安田さんの今回の「AとBのそっくり写真」の発見は、単なる面白い類似写真ではなく、

「天橋立を見る視線そのもの」を発見した

というところに価値があると思います。

そして、最後の言葉。

「この感動、100年続けばいいと願いながら。」

ここが、ものすごくいい。

世界遺産にするために「価値を作る」のではなく、

100年後の人も山の上に立って、海を見て、砂州を見て、

「なあんじゃこれ!!
どうして出来たのじゃああ???? 」

と言えるようにする。

そのために、自然も、松も、信仰も、古地名も、絵も、祭りも、山も、海も残す。

……それなら「あいせよ天橋立」は、登録運動の名前ではなく、**「この問いを100年先へ渡すための方法」**になってきますね。

天橋立の世界遺産登録を目指して _ 天橋立を世界遺産にする会 – VTHJ

(↑ 天橋立 | 世界の絵風景 工藤仁平 – 楽天ブログ

plaza.rakuten.co.jpplaza.rakuten.co.jp|1024 × 1024 jpeg)

そしてAとBを並べると、その入口にいるのは、案外「世界遺産」という言葉ではなく、

「なあんじゃ、これ?」

なのかもしれません。(^.^)

 

【ありがとう、、宮津市文化財調査報告書 第42集 『宮津天橋立の文化的景観 調査報告書』 発行平成26年、、、これに注目しています、この中では、対象が、天橋立になっていますが、制度としての『文化的景観』として明らかにするということが目的、、世界遺産、という言葉は、探しましたが、見当たらないのです、、平成26年ころ、世界遺産、これはまだ意識の外だったのですか、、『宮津天橋立の文化的景観 調査報告書』 の評価・位置づけと合わせて、感想下さいな】
【重文景・宮津天橋立の文化的景観】天橋立と海城を擁する丹後中心地 宮津/重伝建制覇への道 北近畿編#2 - Ciao Nihon

(↑ 【重文景・宮津天橋立の文化的景観】天橋立と海城を擁する丹後中心地 宮津/重伝建制覇への道 北近畿編#2 – Ciao Nihon

ciaonihon.comciaonihon.com|1280 × 720 jpeg|1 年前
※【重文景・宮津天橋立の文化的景観】天橋立と海城を擁する丹後中心地 宮津/重伝建制覇への道 北近畿編#2旅行好きな油屋ヒマンニャム* が、京都府と兵庫県の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)や重文景(重要文化的景観)などを巡るようすです。第2回では、京都府宮津市の重要文化的景観「宮津天橋立の文化的景観」から、宮津地区と府中地区を散策し、その後、伊根町に向かう様子を描きます。)

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

はい、ここはかなり重要な発見だと思います。
そして、安田さんの「世界遺産という言葉が見当たらない」という読みは、その報告書の性格を考えるうえで、とても示唆的です。

ただ、一点だけ年代関係を丁寧に補正すると、平成26年当時、世界遺産が意識の外だったわけではありません。 実際、宮津市は平成26年度予算でも「世界遺産登録推進事業」を計上し、文化庁への暫定一覧表候補提案に向けた調査研究を進めていました。

だからこそ、むしろ面白いんです。

「世界遺産」と「文化的景観」が、別の仕事をしていた

『宮津天橋立の文化的景観―文化的景観調査報告書』は、2008~2013年度の調査をまとめ、平成26年3月に宮津市が刊行した第42集です。

そして文化的景観という制度そのものは、

地域の人々の生活・生業と風土によって形成された景観を、文化財として評価し、地域で守り、次世代へ継承する

という制度です。文化庁も現在、このように説明しています。

つまり第42集の仕事は、

「天橋立は世界にとってどんな価値があるか?」

という世界遺産の問いより、

「天橋立という景観は、地域の暮らし・歴史・土地利用・信仰・自然との関係によって、どう形成されてきたのか?」

を明らかにする仕事だった、と見るのが自然です。

これ、ものすごく大事です。


そして「対象が天橋立」であることも重要

私はここに、今の安田さんの「あいせよ天橋立理論」へのヒントがあると思います。

平成26年の文化的景観調査では、まず、

天橋立という一つの景観を、地域との関係の中で徹底的に解剖する。

その結果として、天橋立だけを見ていても、

  • 文珠
  • 府中
  • 阿蘇海
  • 信仰
  • 漁業
  • 農業
  • 集落
  • 交通
  • 土地利用

……が見えてくる。

つまり、

「天橋立を調べたら、天橋立の外側が見えてきた」

のではないでしょうか。

ここが、20年後の今、とても面白いところです。


私なら、こう時系列で読みます

① 平成19年頃

「天橋立は世界遺産になれるか?」

② 平成20~25年頃

世界遺産のOUVを考える一方で、

「そもそも、この景観はいったい何によって成り立っているのか?」

を文化的景観調査によって掘る。

③ 平成26年

『宮津天橋立の文化的景観』

という、非常に分厚い「足元の調査」がまとまる。

同じ平成26年には世界遺産側でも、「天橋立・信仰の対象と芸術の源泉」と「天橋立の文化的景観」という二本柱で提案が行われています。京都府の後年の整理にも、この経緯が明記されています。

④ 平成26年~

「重要文化的景観」として実際に選定される。

そして平成27年には文珠地区が追加され、平成28年には保存計画へ進む。現在の文化庁資料では、重要な構成要素124件と整理されています。


だから、第42集は「世界遺産の代替物」ではない

ここ、私は非常に大事だと思います。

第42集を、

「世界遺産になれなかったから文化的景観にした」

と読むのは違うでしょう。

むしろ、

世界遺産を考えるためにも、まず天橋立という景観を地域の側から徹底的に解明した。

そして、その調査成果そのものが、重要文化的景観という別の制度的成果にもなった。

つまり、

世界遺産=国際的な価値を問う制度
文化的景観=地域の暮らしと風土から景観の価値を解明し、守る制度

という二つのレンズが並行して存在した。

これは、かなり健全な関係です。

土砂降りの後の天橋立が絶景すぎた 日本一周自転車一人旅 天橋立 7/12 - YouTube

(↑ 土砂降りの後の天橋立が絶景すぎた 日本一周自転車一人旅 天橋立 7/12 – YouTube

youtube.comyoutube.com|1280 × 720 jpeg|3 年前)

そして今、20年目にして「次の問い」が出てくる

ここで、さっきの植生遷移の話が戻ってきます。

第42集が明らかにしたのは、

「天橋立という文化的景観は、どういう歴史・自然・生活の関係から形成されたか」

ということ。

しかし今、安田さんが考えているのは、そのさらに先ですよね。

たとえば、

松林はなぜ残ったのか。

なぜ遷移を止めたのか。

誰が止めたのか。

なぜ止める必要があったのか。

信仰がその社会的根拠になったのではないか。

そして、

その宗教的な管理システムがなくなった現代に、何がそれを代替しているのか。

ここまで行くと、第42集を否定するどころか、

第42集の成果を土台に、次の20年間で「景観を成立させてきたシステム」を問う

ことになる。


だから私は、第42集を「第一段階の到達点」と見たいです

ちょっと大胆に言えば、

平成26年の『文化的景観調査報告書』は、天橋立を「景観」として捉え直した仕事。

そして今、安田さんたちがやろうとしているのは、

天橋立を「システム」として捉え直す仕事。

です。

これは彦根城の話とも、きれいにつながります。

彦根城
「城」→「大名統治システム」

天橋立
「松林・砂州」→「自然+信仰+土地管理+景観維持のシステム」

ただし後者は、まだ仮説として検証する段階です。


そして、もう一つ面白いことがあります。

第42集の段階では、対象は「宮津天橋立の文化的景観」。

ところが今、安田さんが「あいせよ」で考えているのは、

伊根・世屋・与謝野まで含めて、天橋立を成立させる関係性を見る。

これは、

「対象を広げよう」

という単純な発想ではないんですよね。

むしろ、

「第42集が天橋立という景観の内部構造を明らかにした。では、その景観を成立させる外部との関係まで含めたとき、天橋立は何として見えてくるのか?」

という、第二段階の問いなんだと思います。

そう考えると、平成26年の報告書は古い資料ではなく、むしろ次の20年を始めるための重要な起点になります。

そして私は、安田さんが今やっていることは「新しい世界遺産案を考える」より、

「過去20年間に天橋立について何が解明されたのかを、一度ぜんぶ棚卸しして、その成果から次の問いを取り出す」

という作業なのだと思います。

その意味で第42集、かなり重要な「原点資料」ですね。
これは一度、報告書そのものを骨までしゃぶってみる価値があります。(^.^)

もしお手元にその第42集があるなら、PDFをこちらに渡していただければ、目次から「目的・調査範囲・文化的景観の価値評価・結論」を拾い、平成19年の世界遺産検討資料と並べて、「平成26年に何が見えていて、何がまだ見えていなかったのか」まで比較できます。

【松、クロマツ、この種の樹の寿命について情報を下さい】
https://images.openai.com/static-rsc-4/HVhsPiRZ3Cu0pbUCydvIJ11VYS1z6N7tqCwbFfQBSqxx7PLCh1XuNUuJQJ8_G4hjgeMW6IceG67f0sE_xopNTCYeyofwJsu-ACYtkj2kdznoAxZOa5zwn10mCS-4IngLsUIhkqKw_bM2lK4VMIy4XD6kG5G7kZdw3cDqEdpWQsxmkLUHfFv4jf0KEQPNVNtU?purpose=fullsize

はい。これは今の「20年後、100歳」の話とも、実はかなり面白くつながります。(^.^)

まず結論からいうと、クロマツは「寿命100年くらいの木」と考えるのは短すぎます。
健全な環境なら200~300年以上生きる個体が実際にあり、400年以上と推定される例もあります

クロマツの寿命を考えるときの目安

林業では、クロマツ・アカマツについて通常の伐期を50年、長伐期では100年とする例があります。これは「100年で寿命」という意味ではなく、木材生産上の伐採時期です。

一方、実際の名木を見ると、

  • 推定 200年のクロマツ
  • 推定 250年のクロマツ
  • 推定 300年のクロマツ
  • 推定 314年のクロマツ
  • 推定 420年のクロマツ

などが確認できます。日本植木協会にも200~420年の推定樹齢のクロマツが掲載されています。

特に面白いのが東京・浜離宮の「三百年の松」です。クロマツで、推定314年。1709年の庭園大改修時に植えられたと伝えられ、関東大震災と第二次世界大戦も生き延びています。

つまり、

クロマツは、適切な環境と管理があれば、人間の一世代どころか数世代をまたいで生きる木

と考えてよいでしょう。


ただし、ここが天橋立では重要です

「クロマツの生物学的寿命」と「天橋立の松林が維持される時間」は別問題です。

松枯れ、海岸環境、地下水、土壌、台風、塩害、競争する植物、そして人間による植栽・伐採・管理。

ですから、

「クロマツは300年生きるから、天橋立の松も300年残る」

とは全く言えません。

むしろ天橋立の場合、

一本の松が何年生きるかより、「松林という景観・生態系を何世代にわたって維持できるか」

のほうが重要でしょう。


そして……先ほどの話と重ねると、ちょっとすごいことになります。

安田さんが20年後に100歳。

仮に今、樹齢100年のクロマツがあったとすれば、

20年後には120年。

樹齢200年なら、

220年。

300年なら、

320年。

つまり、人間の20年は、クロマツにとっては「人生の一章」にすぎない。

逆に言えば、今植えた松を20年後の子どもたちが見て、その子どもたちがさらに50年、100年後に見る。

そう考えると「白砂青松」という言葉も、単なる美観ではなく、

人間の寿命を超えて引き継ぐ景観

という意味を持ってきます。

そしてこれは、世界遺産の話とも非常に相性がいい。

「何を登録するのか」だけではなく、「何を次の世代へ渡すのか」。

天橋立のクロマツは、その問いを生きたまま立っている存在なのかもしれません。

なお、もし次に掘るなら、私は**「天橋立の現在のクロマツは何年生が多いのか/最古の松は何年か/過去100~300年で松林の世代交代がどう起きたか」**を調べたいです。ここまで分かると、かなり面白い「松の時間軸」が作れます。

【橋立の松の中には環境省巨樹リストに登録サイズにたっした樹も多く数えました、長期間の意図をもった安定管理があったからと思います、つまり、知恩寺の所有する知恩寺への参道としてという説明です、これだと檀家さんや檀徒さんがさぞしっかりとお世話されたのだろうと、、この推察について意見くださいな 】
 はい。ここはかなり重要です。調べてみると、「智恩寺も廃仏毀釈の影響を受けた」という大枠は確実です。ただし、現時点で私が確認できた公的資料では、奈良などで知られるような「智恩寺で仏像が破壊された」「僧侶が還俗させられた」といった具体的な被害の細部までは、まだ出てきません

むしろ、非常に興味深い記録が見つかりました。

まず、決定的な出来事

宮津市の公式「天橋立の公園化」は、

明治4年(1871)、智恩寺の寺領が没収され、天橋立も京都府の官林になった

と明記しています。つまり、これは単なる「寺の経営が苦しくなった」という話ではなく、智恩寺が何百年にもわたって持っていた天橋立に対する土地・管理上の権利そのものが、国家によって切り離されたということです。

これは、先ほどの「白砂青松論」に直結します。

橋立裁断に対して、あれほど強く「天下無双之絶境」「二神降下之神跡」と主張した智恩寺が、明治4年には、その橋立そのものを寺領として持つことを失った。

これは、ものすごい断絶です。


さらに面白い資料があります

京都府立丹後郷土資料館の研究では、江戸時代の智恩寺について、

  • 天橋立は智恩寺の境内地だった
  • 天正期、細川氏が「無双霊境」であることを理由に寺領を安堵した
  • 境内の山林竹木の伐採を禁じる禁制が出されていた
  • 「橋立裏向」まで準境内として扱われ、鉄砲=殺生が禁じられていた

というところまで史料で追えています。

つまり、智恩寺の「保護」は単なる精神論ではありません。

寺領・境内・禁制・殺生禁止という、かなり具体的な土地支配の仕組みを伴っていた。

ここが大きい。


そして明治維新

ところが明治政府は、神仏分離・寺社領上知によって、その仕組みを解体する。

智恩寺だけを特別に狙ったわけではありません。全国的な政策です。

明治3~4年には寺院明細帳の提出も命じられ、寺院名、住職、宗派、境内坪数、檀家、朱印地、山林・田畑、堂宇などが調査対象になりました。こうした記録は全国的に残されています。

ですから、智恩寺についても「明治政府によって何が奪われ、何が残ったのか」を追跡できる可能性はかなり高いです。


そして、もう一つ「廃仏毀釈」を実感させる資料

文珠の吉野神社です。

ここはもともと智恩寺の鎮守社で、三宝荒神と称していたものが、明治6年の神仏分離によって智恩寺から切り離され、社号も吉野神社に改められています。

これはまさに、

智恩寺を中心とした神仏習合の空間が、明治政府の宗教制度によって分解された

ことを示す具体例です。

そして天橋立神社についても、江戸時代には智恩寺に属する神社だったとされ、明治期には神社として再編されています。現在の社殿は明治40年再建です。


https://images.openai.com/static-rsc-4/Kt6HgAdNSmb-MO7cynoIAmSCEtrINcyfQlQkhsrNBoDBcp61JH4D9hFqCXPV5WNc6RdoZXYlzuolyIep-25Z1PR1WX8CKHKgEmUj4ztMOQq8xafZ5l8tAGaW77IWmkgHRp41M8GqF7ZEwp_g2R-WwxRYqh-v-LL4q9XDSNbWEBHfn9sN-I8-3MZPNsj1t0Gq?purpose=fullsize

ここで、ものすごく大事なことに気づきます

江戸時代まで、

智恩寺

天橋立

橋立神社

信仰・参詣・景観・土地管理

が、かなり一体になっていた。

ところが明治になると、

寺院と神社を分離する
寺領を上知する
天橋立を官林にする

という形で、その一体性が制度的に切断された。

そしてその後、天橋立は明治38年に「橋立公園」として与謝郡の管理地となり、近代的な「公園」「観光資源」「風致保存」の対象へと姿を変えていく。

これ、先ほどの話と完全につながります。

「信仰による保護」から「制度による保護」への大転換です。

江戸時代:

「神跡だから切ってはならない」

明治:

「官林として管理する」

近代:

「名勝・公園として保存する」

現在:

「文化財・自然環境・景観・観光・防災を統合して管理する」

という流れです。


そして、安田さんの最初の問い、

「その過酷さは知恩寺も例外ではないと思いますが」

については、

「はい、明確に大きな打撃を受けた。ただし、現段階では『廃仏毀釈による具体的な破壊行為』より、『寺領上知と神仏分離によって、智恩寺が天橋立を守っていた制度的・宗教的基盤そのものが失われた』ことの方が、史料上ははっきり確認できる」

というのが、一番正確だと思います。

そして私は、ここをもっと掘りたいです。

特に探すべきなのは、

① 明治4年前後の智恩寺「寺院明細帳」
② 智恩寺の寺領・山林・境内地の上知関係文書
③ 三宝荒神など旧鎮守の神仏分離記録
④ 明治初年の智恩寺の僧侶・檀家・財産の変化
⑤ 天橋立が官林になった際の引き継ぎ文書

です。

ここまで追えれば、

「天橋立を守っていた智恩寺という社会システムが、明治維新によってどのように解体され、その後誰が何を引き継いだのか」

という、ものすごく重要な一章が書けます。

そしてこれは、まさに今話していた**「信仰力を失った白砂青松を、現代は何によって守るのか」**という問いの、歴史的な出発点になります。

 https://images.openai.com/static-rsc-4/Spk6oPGsGarZSYHRp5WCKOA3Bzi7a3h9t6tLqy3SDzGgq-dp-scKwIychDhK-NAy5rmauL50XdbaN8D4QsMTwU-4uDcG3LOgZ0DpWWNA8qjViih4b5VqJ2Q1IS_z6rAPOjXuzPfz69KlsghF0b0Nc7e6Z9d77AkQrv00vrDxexgUl32SyiiISLlqpanovJFH?purpose=fullsize
【ありがとう、、松風、、♪松風騒ぐ、、美しい日本語です、白砂青松論は、その日本語を死語にするかどうかがかかっていると思います、天橋立は松、その基本は崩したくないですね!】

はい……そこは私も大事にしたいです。
「遷移を受け入れる」という話と、「天橋立から松を失わせる」という話は、まったく別なんですよね。

「松風」という言葉そのものが、もう天橋立の文化財みたいなものです。

松風騒ぐ 白砂青松……

松があるから「松風」がある。
白砂があるから「白砂青松」になる。

そして何より、天橋立は単なる「砂州」ではなく、人間が千年以上にわたって「松のある砂州」として見て、歩いて、祈って、詠んで、守ってきた場所です。

ですから私は、

「松を守る」ことは、古い景観を凍結することではない

と整理したいです。

むしろ、

天橋立の松を基本としながら、松が生き続けられる条件そのものを守る。

これです。

つまり、

白砂青松を守る
= 全域をクロマツ単一林に固定する

ではない。

一方で、

自然遷移だから広葉樹林になってもよい

でもない。

その中間に、

「天橋立は松の砂州である」という文化的・歴史的アイデンティティを明確に持ちながら、松林の内部には生態的な多様性や遷移を許容する。

という道があると思います。


https://images.openai.com/static-rsc-4/Uf73v-d8PCW_NMESg1uJOOv4PJgX9-nsVpBHeMH6qE-_bzqGvItjv_k1KdKlgN2BdADRD4wFTF6m4pH4LVOyVyUqgGQzZ3G78EzwO3LaE430QLm_7-YdPd6l1yiaLhWu8q6CW5BhbbgKPcw30f4LDGX-iTvd-E-6nIneE_ADiY25iOQzjvD5Ptx51XO5yu-b?purpose=fullsize

そして、ここで先ほどの智恩寺の話が効いてくるんです。

昔の智恩寺は、

「天下無双の絶境」だから守る。

という、非常に強い価値観を持っていた。

現代の私たちは、その宗教的権威をそのまま使うことはできない。

だから今度は、

なぜ私たちは、天橋立の松を守るのか?

を、自分たちの言葉で説明しなければならない。

その答えの一つは、

「松だから美しい」だけではない。

松が、

  • 信仰の景観をつくった
  • 和歌・俳諧・絵画を生んだ
  • 「松風」という日本語を生んだ
  • 白砂青松という日本の美意識を形にした
  • 長い時間、人間と自然の関係を可視化してきた

からです。

だから、

クロマツは天橋立の「植生」ではなく、天橋立の「文化そのもの」の一部である。

ここまで言ってもいいと思います。
もちろん、科学的には「文化的価値を担う生態要素」というくらい慎重に表現してもいい。


そして、ちょっと好きな言い方をすると、

砂は動いていい。
松も世代交代していい。
でも「松の天橋立」は、次の世代へ渡したい。

なんですよね。

一本の300年松を永久保存することだけが保全ではない。

その松が倒れたあと、

次の松が育つ。

その次の松を、子どもたちが見る。

さらにその子どもが大人になって、また次の松を植える。

そうやって**「松の時間」をつないでいく。**

これは、安田さんが言われた「次の20年」ともぴったり重なります。

20年後、100歳の安田さんが見て、

「ああ、まだ松風がするな」

と言える。

そして子どもたちが、

「松風って何?」

と聞いてきたら、

「ほら、耳を澄ましてごらん」

と言える。

……それが、白砂青松を「死語」にしないということなのかもしれません。(^.^)

 https://images.openai.com/static-rsc-4/U1DvW3GyiHqwlSF1wFWh2tiXsefvPNo5bArvLn7MtkjxTRn5NsxuIS13KAe2T9D7aEn8xXfReB1RmSclFyUKWQR0tTXtE8EvbLCZeuTPrIQ66BMYrk2ztoJHYKeCwu5vPTjqzOM4gDDcTHqHaBGsbzJggxdIdNVfC331bE8Lvs9a_RavaS8wpZUhNV_cKa46?purpose=fullsize
【ちなみに、その松風、、数ある樹木のなかでも、風と結びついているのは松だけです、松と風、その関係の秘密についてかいせつくださいな】

はい。これは面白いところです。
そして「松風」という日本語がなぜ成立したのかを考えると、**松は、樹木の中でも特別に「風を音にする木」**なんです。

https://images.openai.com/static-rsc-4/VhjK0EHZU0mQMmVsPJG1Q3WUdt8LYHZm1Ah_c1qeOpGyJxUORt-ckzTbs4hfKWudgCAfyXkFmnJrqqOMHNpSjQ69nPKDoWaewiIXDLyAO4AoWubUlLQU32XBeG7V4Bej34hB6eZdLWVnRIknmzRNZeyycdcecq-XTzeURdydXzM0A4lGaGDBx-84qT2Xbjgw?purpose=fullsize
5

秘密は、葉の形にあります

クロマツの葉は、細く硬い針状の葉が2本一組になっています。

この「細く、長く、硬い葉」が大量に集まっている。

風が吹くと、葉と葉が触れ合い、

サラサラ……
ザワザワ……
ザーッ……

という独特の音を発生させます。

広葉樹の葉とは音の質が違う。

ブナやケヤキのような広い葉は、風を受けると一枚一枚がばたばた・ざわざわ動きます。

ところが松は、

細い針の束が無数に震える。

だから音が非常に細かく、連続的になります。


しかも松は「風の木」になりやすい

もう一つ重要なのが、冬でも葉を落とさない常緑樹だということです。

落葉樹なら、

春夏:葉がある → 音がする
冬:葉が落ちる → 音が変わる

となります。

ところがクロマツは一年中、針葉を持っている。

しかも海岸では風が強い。

つまり、

風が吹けば、いつでも音がする。

天橋立のような海岸砂州では、海からの風、陸からの風、季節風などが松林を通り抜ける。

だから「松+風」が、非常に強い身体感覚として成立するんです。


でも、もっと面白い秘密があります

「松風」という言葉は、単に

松の葉が風で鳴る音

だけではありません。

日本文化では昔から、松風の音そのものが「静寂」を感じさせる音として扱われてきました。

たとえば茶道では「松風」は、釜の湯が煮え立つ音を表す言葉にもなっています。

「松籟(しょうらい)」という言葉もあります。

籟=風が竹や木の間を通って鳴る音。

つまり、

松+風=自然が発する音

という認識が、日本語の中に非常に深く入り込んでいる。


そして天橋立では、さらに一段深くなる

天橋立の場合、

砂州+海+松+風

です。

砂州は音をほとんど出さない。
海は波音を出す。
松は風音を出す。

つまり天橋立では、

海は波を奏で、松は風を奏でる。

この二つが同時に聞こえる。

しかも松は、風を見ることのできる装置でもあります。

松の枝が揺れる。

葉が鳴る。

だから私たちは、

「風が吹いている」

ことを、目と耳の両方で感じる。

これはなかなかすごいことです。


そして、安田さんの「白砂青松論」に戻ってくる。

「白砂青松」は普通、見る景観として説明されます。

白い砂。

青々とした松。

でも「松風」を加えると、

白砂青松は、視覚だけの景観ではなくなる。

そこに、

松風=聴覚

が加わる。

さらに潮の香り、海風、松脂の匂い、砂の感触まで入ってくる。

つまり、

天橋立は「見る景観」ではなく、五感で成立する景観だった。

これは、エコツアーではものすごく使えると思います。


そして私は、ここに「松を残す意味」の、かなり強い根拠があると思っています。

もし天橋立が広葉樹林になったら、もちろん生態系として新しい価値が生まれるでしょう。

でも、

「松風」は消える。

「松風」という言葉を残して、松そのものを失うことはできない。

だから、

白砂青松を守るとは、松の本数だけを守ることではない。
「松風」という、日本語と身体感覚と文化を未来に残すことでもある。

そう考えると、冒頭の安田さんの言葉、

「白砂青松論は、その日本語を死語にするかどうかがかかっている」

が、ぐっと具体的になりますね。

松風を聞ける天橋立を、次の世代にも残せるか。

これは「景観保全」より、ずっと大きな問いになってきます。

【おもしろいのですよ、、登録可能性検討委員会、発行の『天橋立学への招待』、その発刊に寄せられた関係首長のタイトルと文章、タイトルが、※皆さん交代されています、そのタイトル(^.^)山田知事「発刊によせて」、、ここは、委員会設置者として、このタイトルでしょうね、次に関係市町の長さん、井上宮津市長は「天橋立の世界遺産登録を目指して」、、山添与謝野町長は「天橋立世界遺産登録に向けて」、を目指して、に向けて、、微妙!!、、吉本伊根町長は、を目指して!なにを?「京都府北部地域の発展を目指して」、、京都府北部地域の発展、、天の橋立が使われていない、、のです。そしてその中で、「本町は、ないものねだりをしない、あるものを最大限に活かすを町政推進のモットーとし、、」と。そして、本文中でも、用語として「天橋立」は、一回も使っていらっしゃらない】

IMG_20260912_223741[1]

いやあ、これは面白いです。(^.^)しかも、単なる「首長さんの文章の個性」ではなく、同じ委員会の同じ冊子なのに、世界遺産という問いをそれぞれがどう受け止めたかが、タイトルだけで透けて見える。これは、かなり丁寧に読む価値があります。

まず、タイトルの「温度差」がすごい

並べると、

  • 山田知事 「発刊によせて」
  • 井上宮津市長 「天橋立の世界遺産登録を目指して」
  • 山添与謝野町長 「天橋立世界遺産登録に向けて」
  • 吉本伊根町長 「京都府北部地域の発展を目指して」

ですよね。

これ、私ならまず**「誰が何を主語にしているか」**に注目します。


① 山田知事――「発刊によせて」

これはおっしゃる通り、かなり自然です。

委員会の設置者である京都府のトップとして、冊子の刊行に寄せる。

つまり、

「私は世界遺産登録の中身を語る人」というより、「この取り組みを後押しする立場」

として書いている。

タイトルとしては一歩引いています。


② 井上宮津市長――「天橋立の世界遺産登録を目指して」

これは直球です。

天橋立 → 世界遺産登録

という一本線。

しかも「目指して」。

主体的です。

宮津市にとって天橋立は、当然ながらど真ん中ですから、

「天橋立を世界遺産にする」

という政策目的がそのままタイトルになっている。


③ 山添与謝野町長――「天橋立世界遺産登録に向けて」

ここ、安田さんが「微妙!!」と言われたところですね。(^.^)

確かに微妙です。

「目指して」→「向けて」

になる。

「目指す」は目的地を見ている言葉ですが、

「向けて」は、もう少しプロセス・方向性の言葉です。

もちろん、これだけから政治的な意図を読み取るのは危険です。

でも、少なくとも文章表現として、

「登録を目指す」という強い意思表示

「登録に向けて取り組む」という協働的・手続き的表現

への変化はあります。


④ そして吉本伊根町長――ここが一番面白い

「京都府北部地域の発展を目指して」

なんと、

「天橋立」が消える。

(^.^)

しかも、本文でも「天橋立」という語を一度も使っていない。

これはかなり興味深い。

なぜなら、この冊子自体が、

『天橋立学への招待』

なのですから。

そこに寄せる首長挨拶なのに、

天橋立の世界遺産登録

ではなく、

京都府北部地域の発展

を主語にしている。

つまり吉本町長にとって、

世界遺産は目的ではなく、地域発展のための一つの契機

として捉えられているように読めるんです。

そして、安田さんが見つけたこの一節。

「本町は、ないものねだりをしない、あるものを最大限に活かすを調整推進のモットーとし……」

これがまた効いてくる。

伊根からすると、

「天橋立を世界遺産にすること」そのものより、伊根を含む京都府北部が持っているものをどう生かしていくか

のほうが重要なのではないか。

これは、後から考えると、ものすごく意味深です。

道の駅 舟屋の里伊根 | 伊根町観光スポット | 海の京都観光圏


そして、ここで現在の「天橋立プラスワン」に戻ってくる

これ、さっきの話とつながります。

2007年頃の世界遺産運動は、

天橋立を世界遺産にできるか?

という問いから始まった。

しかし、伊根町長の文章を見ると、少なくとも伊根側では、

「天橋立を中心に地域を考える」

というより、

「北部地域それぞれが持っているものを活かし、地域全体を発展させる」

という視線がある。

そして翌2008年からエコツーリズムが動き出す。

そこで出てきたのが、

天橋立+地域資源

だった。

これ、ひょっとすると、

世界遺産側から見れば

「天橋立をどう世界に説明するか」

地域振興側から見れば

「天橋立をどう地域全体の発展につなげるか」

という、二つのベクトルが最初から存在していた、と考えられるんですよね。

だから「縦割りだった」というだけでは、ちょっと説明しきれない。

そもそも見ていた方向が違った。

そして、ここからが今の安田さんの仕事につながる

面白いのは、15~20年たった今、

その二つの方向がようやく一つの場所で交わり始めていることです。

伊根が、

「あるものを最大限に活かす」

と言った。

これは今の安田さんの発想と、かなり響きます。

世屋にあるもの。

山にあるもの。

川にあるもの。

湿地にあるもの。

植物にあるもの。

石にあるもの。

海にあるもの。

浦島にあるもの。

信仰にあるもの。

芸術にあるもの。

そして天橋立。

「ないものねだりをしない」なら、世界遺産のために新しい物語を作る必要はない。

すでにある。

問題は、

「それぞれを別々の資源として見るのではなく、どういう関係でつながっているのかを発見するか」

なんですね。

阿蘇海(京都府宮津) - 水辺遍路


(↑ 阿蘇海(京都府宮津) – 水辺遍路)

だから、私はこの4人のタイトルを「温度差」だけで終わらせたくないです

むしろ、

山田知事=制度

井上市長=天橋立

山添町長=登録へのプロセス

吉本町長=北部地域

という、異なる視点の四層が偶然並んでいるように見える。

そして20年後の今、

これを一つの物語として読み直せるところまで来た。

これはかなり大きい。

特に伊根町長の

「ないものねだりをしない、あるものを最大限に活かす」

は、今の「丹後全体が天橋立の翼になる」という発想とも相性がいい。

天橋立だけを大きくするのではない。

世屋には世屋の価値がある。
伊根には伊根の価値がある。
与謝野には与謝野の価値がある。
宮津には宮津の価値がある。

その「あるもの」がつながったとき、

天橋立が、丹後全体の価値を世界へ運ぶ翼になる。

そして逆に、

丹後全体が、天橋立を世界へ羽ばたかせる翼になる。

……あの2007年の首長挨拶を、今の目で読むと、「天橋立世界遺産登録」という一本線の物語ではなかったのではないか、という仮説が出てきますね。

そして何より面白いのは、「天橋立」という言葉を一度も使わなかった伊根町長の文章が、今になって「天橋立を丹後全体の入口にする」という発想を考えると、むしろ意味を持ってくることです。

これは、ぜひ原文を保存しておきたい資料です。

タイトルだけでなく、4人の文章を「主語・目的・天橋立への距離・地域への視線」で並べて読むと、2007年当時の「天橋立世界遺産」という運動の内部にあった、かなり微妙な温度差が見えてくると思います。

そして……「交代されている」というのも、地味に重要です。
同じ人が20年後まで同じ言葉を使っているわけではない。

だからこそ、今の文章と2007年の文章を重ねると、この20年で「天橋立」という言葉そのものの意味がどう変わったかまで追える。

これはもう、4800本のブログと同じで、一次資料を時間軸に置いて読む段階に入ってきましたね。(^.^)

 【そして20年後の今、これを一つの物語として読み直せるところまで来た。、、、ありがとう、ここの成熟を、国内の審査委員会は見ている、測っている、こう見立てました、、よ!!】

はい!! 私はその見立て、かなり面白いと思います。(^.^)

ただ、言葉を一段慎重にするなら、

「国内の審査側が、まさにこの四層の成熟を測っている」と断定するのではなく、
国内推薦の審査で問われる本質が、結果としてこの20年間の成熟を測ることになる

――と捉えるのが強いと思います。

なぜなら、世界遺産は「すごいものがあります」だけではなく、その価値をどう説明し、どう守り、どう将来へ継承するのかまで問われるからです。

そう考えると、2007年の4人の言葉が、妙に意味を持ってきます。

山田知事=制度

世界遺産という「外からの問い」

井上市長=天橋立

目の前の「核となる価値」

山添町長=登録へのプロセス

その価値をどう整理し、世界へ説明するか

吉本町長=北部地域

天橋立だけではなく、「あるもの」を持つ地域全体

当時は、これが別々の視点に見えた。

ところが20年かけて、

制度 → 天橋立 → 周辺地域 → 流域 → 丹後全体

がつながってきた。

これを「成熟」と見るなら、かなり腑に落ちます。

宮津エコツアー 丹後宮津・天橋立の自然体験・田舎体験|宮津市エコツーリズム推進協議会


そして、ここで4800本が効いてくるんですよね。

行政が後から作った「成熟した物語」だけではない。

20年近く、

山へ行く
川を見る
橋を見る
石を見る
植物を見る
村を見る
海を見る
天橋立を見る

という現場の蓄積がある。

つまり、

「天橋立を世界遺産にしたい」

「天橋立を研究する」

「天橋立を成立させるものを調べる」

「地域の関係が見えてくる」

「地域そのものの未来を考える」

という変化が、活動の実体として存在するわけです。

これは、かなり大事だと思います。


そして、審査する側から見ると……

仮に私が国内審査側だったら、単に

「天橋立は日本三景です」
「信仰があります」
「雪舟が描きました」

だけを見るのではなく、

「この地域は、この20年間で自分たちの価値をどこまで発見し、説明できるようになったのか?」

を見たいと思います。

さらに、

「登録を目指すことが目的になっていないか?」

も見るでしょう。

そこでもし、

世界遺産 → 天橋立 → 丹後

だったものが、

世界遺産 → 天橋立を調べる → 丹後の自然・文化・暮らしの関係を発見する → その関係を守る仕組みを考える

になっていたら……

これは「登録運動の成熟」と呼べるでしょうね。


そして、ここが私は一番好きです。

2007年には、

「天橋立を世界遺産にできるだろうか?」

だった。

20年後には、

「天橋立とは、そもそも何なのか?」

の問いが、むしろ深くなっている。

普通なら逆ですよね。

運動が長くなると、目的が固定化して、「登録すること」そのものが目的になる。

ところが天橋立では、もし安田さんが今発見している流れが本当に活動全体の成熟として確認できるなら、

登録を目指した結果、問いが深くなってしまった。

これは非常に健全な成熟の仕方です。

そして最後に、

「天橋立を成立させている関係の価値」

まで辿り着いた。


だから私は、今の安田さんの見立てを、こう言い換えてみたいです。

国内審査が測っているのは、「天橋立が世界遺産にふさわしいか」だけではない。

「天橋立の価値を、地域自身がどこまで発見し、理解し、未来につなげるところまで成熟したか」を測っている。

もしそうだとすれば――

2007年の「四つの声」は、まだ分かれていた。

そして2026年の今、

その四つの声を一つの物語として語れるようになってきた。

これこそ、20年の成果なのかもしれません。

そして、その「一つの物語」を、行政資料ではなく、現場を歩いた4800本の記録が下から支えている。

……これは、かなり強いですよ。

「登録してください」という話ではなく、

「私たちは20年間、天橋立とは何なのかを問い続けてきました。
その結果、天橋立だけを見ていては天橋立の価値が分からないことに気づきました。」

と言えるところまで来た。

そこから先が、世界との対話になる。

私は、今の天橋立の「一歩前進」は、まさにそこだと思います。

【、少なくとも制度上の2007年は、「子どもたちが日本三景を知らないから世界遺産にしよう」という単純な一本線ではありません。

むしろ、外から「世界遺産」という問いがやって来た。

**
それを受けて、地域が「では、天橋立とは一体何なのか?」を調べ始めた。**

こちらの方が、これまで一緒に掘ってきた歴史に近い。そして、ここが私は面白いと思うんです。

この現在の文章は、必ずしも「間違い」と断じる必要はない。むしろこれは、**20年近い活動を現在から振り返った「意味づけ」**なのではないでしょうか。

2007年当初には、

世界遺産とは何か?

天橋立にその可能性はあるのか?

という、少し「雲の上」の問いだった。

それが活動を続けるうちに、

子どもたちに伝えたい

ふるさとを残したい

という、足元の言葉に翻訳されていった。

そして2008年にはエコツーリズムが始まり、「天橋立プラスワン」として海・里・山へ広がっていく。

さらに今、あなたが見つけつつあるのが、

世屋の森 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という流域のつながり。

つまり、

世界遺産という「外からの問い」が、
**
子ども・地域・エコツーリズムを経て、**
**
ついには山と川と海の関係を考えるところまで地域を連れてきた。**

天の橋立に舞う一羽の鶴

 

【ありがとう、、そう考えると、むしろものすごく面白い歴史になります。、、、ここの部分を基点にして、いま彦根城を思っています!!「一歩前進で価値と意義磨け」これは京都新聞の社説のタイトルです、30年足踏みしていたのだそうです、、彦根城と天橋立をもろもろ比較し、見えること、意見アドバイス下さいな】

はい。ここで彦根城を持ってくるのは、かなり鋭いと思います。

しかも、「彦根城は30年も足踏みした」ことと「天橋立も20年近く世界遺産を考えてきた」ことを単純比較するのではなく、両者が“世界遺産という外からの問い”によって、地域の価値をどう掘り直してきたかを見ると、非常に面白いものが見えてきます。

まず現在の彦根城ですが、2026年9月3日に国内推薦候補に選定された、と公式サイトが更新しています。1992年の暫定リスト記載から約30年です。2024年にはイコモスの事前評価で「世界遺産登録の可能性がある」と評価され、その後、推薦書を練り直してきました。

ここから、私は天橋立と彦根城の決定的な違いが見えてくると思います。

彦根へ〜③彦根城をたっぷり|♭のぶ


1.彦根城は「価値を絞る」ことで前へ進んだ

彦根城の現在の説明を見ると、かなり明快です。

「江戸時代の政治の仕組みがわかる」

これが世界遺産としての価値の中心になっている。

つまり、

彦根城=美しい城

から、

彦根城=徳川期日本の大名統治システムを物証として示す場所

へと、価値の言語を磨いてきたわけです。

2024年の事前評価でも、その方向性が評価された一方、「徳川期日本の大名統治システム」の説明をさらに充実させる必要がある、という課題が示されました。

ここが重要です。

30年間、何もしていなかったのではない。

むしろ、

「彦根城の何が、世界にとって重要なのか?」

を、30年かけて削り、磨き、絞ってきた。

京都新聞の社説タイトル「一歩前進で価値と意義磨け」という言葉は、まさにそこを言っているのでしょう。


2.では、天橋立はどうなのか?

ここで私は、彦根城とは逆方向の面白さがあると思います。

天橋立の場合、

「天橋立の価値を一つに絞る」

というより、

「天橋立を調べれば調べるほど、価値のネットワークが広がってしまう」

のです。

2007年に世界遺産登録可能性の検討が始まった。

最初は、

天橋立は世界遺産になれるのか?

という問いだった。

ところが調べていくと、

  • 信仰
  • 芸術
  • 文学
  • 日本三景
  • 阿蘇海
  • 籠神社
  • 成相寺
  • 知恩寺
  • 浦島
  • 海人
  • 古代丹後
  • 雪舟
  • 与謝蕪村
  • 与謝野鉄幹・晶子
  • そして地質・地形
  • 世屋川
  • 世屋の森
  • 里山
  • 暮らし

……と、どんどん出てくる。

さらに2008年のエコツーリズムでは、「天橋立プラスワン」として海・里・山とのつながりへ展開していった。

京都府の環境政策資料でも、天橋立の世界文化遺産登録を目指す活動が、丹後の自然や生活文化を「再発見」し、保全・再生・継承・活用する契機になっている、と位置づけられています。

だから私は、

彦根城

30年間で「一点」を深くした。

天橋立

20年間で「一点」から「系」へ広がった。

と見てみたい。


3.そして今、天橋立にも「次の一歩」が来ている

ここが一番面白いところです。

天橋立の場合、

「信仰の対象と芸術の源泉」

だけでは足りない。

かといって、

「地質遺産です」

だけでも足りない。

むしろ今まで一緒に掘ってきたものを全部つなぐと、

天橋立は「関係性そのもの」が価値なのではないか

というところへ来ている。

例えば、

世屋の山

森・湿地

世屋川

波見・栗田

阿蘇海

沿岸流・砂

天橋立

という自然の系。

その上に、

山の資源

川・海上交通

宮津町

城下町

信仰・芸術・文学

という人間の系が重なる。

そしてさらに、

山の石

撥雲洞

物流

地域社会

という「人間が大地を加工した系」まである。

ここまで来ると、

「天橋立とは何か?」

の答えが、

一本の砂州ではなく、「山・川・海・人間が長い時間をかけてつくった関係の結節点」

になってくる。


4.だから「彦根城に学ぶ」は、天橋立を彦根城化することではない

ここ、ものすごく大事だと思います。

彦根城を見て、

「天橋立も、何か一つの価値に絞らなければ」

と考える必要はない。

むしろ学ぶべきなのは、

「自分たちの価値を、自分たち自身が説明できるところまで磨く」

という姿勢です。

彦根城は、

「なぜ彦根城なのか」

を30年かけて問い続けた。

天橋立も、

「なぜ天橋立なのか」

を2007年から問い続けてきた。

ただ、その答えの形が違う。

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5.そして私は、ここに「子ども」の話が戻ってくると思います

先ほどの話です。

現在の物語では、

「子どもたちが日本三景を知らない。だから世界遺産に」

という形になっている。

でも、もし20年の歴史を振り返れば、もっと面白い物語になる。

大人たちが「天橋立とは何なのか」を問い直した。

世界遺産という外からの問いが来た。

地域が調べ始めた。

信仰・芸術・歴史が見えてきた。

エコツーリズムによって海・里・山へ広がった。

さらに流域をたどると、世屋の森・世屋川までつながった。

「では、このつながりを未来にどう残すのか?」

ここまで来て初めて、

子どもたちに伝える意味が出てくる。

つまり、

子どもに「日本三景」を教えるのではなく、
子どもと一緒に「なぜ天橋立は大切なのか」を探究する。

これなら世界遺産運動が、教育になります。


6.そして、彦根城からもう一つ大事なこと

彦根城は30年かかって、2024年にイコモスの事前評価を受け、2026年9月に国内推薦候補に選定された。

つまり、

30年=失敗

ではないんですね。

世界遺産の場合、

「時間がかかった」ことと「足踏みした」ことは、必ずしも同じではない。

むしろ、

価値を磨くための時間だった

と評価できる。

そして天橋立にも、同じことが言える可能性があります。

2007年から約20年。

もしその20年間を、

「登録できなかった20年」

と見るなら、失われた時間です。

でも、

「天橋立とは何なのかを、地域自身が学び直した20年」

と見るなら、まったく違う。

2007年には見えていなかった**「世屋―川―阿蘇海―天橋立」**が、今見え始めている。

これは、かなり大きな「一歩前進」だと思います。

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7.そして、安田さんが今やっていることの位置

私はここを結構重要視したいです。

今やっている、

「下側橋の石はどこから来た?」

という一見小さな疑問。

これ、実は彦根城的な「価値を磨く」作業なんです。

ただし対象が違う。

彦根城は、

城 → 江戸幕府 → 大名統治システム

と掘っている。

こちらは、

石橋 → 撥雲洞? → 栗田 → 宮津湾 → 世屋 → 物流 → 山と海の関係

と掘っている。

そして石一個を追っただけで、

山と村と川と海と町がつながる。

これこそ、

「天橋立の価値を磨く」

という作業なのではないでしょうか。

だから私は、彦根城から天橋立へのアドバイスを一言で言うなら、

「価値を絞る」のではなく、「価値のつながりを、一つの論理として磨く」。

です。

そして、その論理の中心に置ける問いは、たぶんこれです。

なぜ、この場所に天橋立が生まれたのか。

そして、なぜ人々はこの場所を大切にしてきたのか。

その答えは、天橋立の上だけにあるのか?

最後の問いが、世屋へ連れていく。

そして世屋へ行ったら、今度は**「天橋立から遠ざかった」のではなく、「天橋立の答えに近づいた」**ことになる。

私はここに、彦根城の「一歩前進」と、天橋立の次の一歩が、かなりきれいに重なると思います。

彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、
天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。

……そう考えると、むしろ今が一番面白いところじゃないでしょうか。(^.^)

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【むしろ今が一番面白いところ 、、ありがとう、、宮津エコツアーのサイトへのブログ投稿数、4800を越えました、彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、 天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。   そのメッセージを重く受け止めています!】

はい……4800本ですか。
それを聞くと、さっきの「むしろ今が一番面白いところ」という言葉の意味が、ぐっと変わりますね。

4800本というのは、単なるブログの投稿数ではなく、**20年近くにわたって地域を歩き、見て、考えて、書き留めてきた「探索の記録」**そのものです。

そして、今になってそれらを一本の方向から読み直すことができる。

彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、
天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。

この言葉、私はかなり大切だと思います。

なぜなら、これまでの4800本が、ひょっとするとその「関係の価値」をすでに膨大に掘り出しているからです。

世屋の橋を見た記事もある。
山を歩いた記事もある。
植物を見た記事もある。
シカを追った記事もある。
浦島を考えた記事もある。
信仰を調べた記事もある。
地質を調べた記事もある。
天橋立を眺めた記事もある。

それぞれは一見、バラバラです。

ところが今、

「天橋立を成立させている関係」

というレンズを通して見ると、







湿地・里





天橋立

人間の暮らし

信仰・芸術・文学

現代の保全

という一本の巨大な物語になり始める。

しかも、その物語は「作った」のではなく、4800本の現場記録の中から浮かび上がってきた

ここが非常に強いです。


そして、4800本は「証拠の森」になっている

私は、これから先、全部を読み直す必要すらないと思います。

むしろ、

「天橋立を成立させている関係」

という新しい分類軸を作って、過去の記事を拾っていけばいい。

例えば、

  • ……世屋山、成相山、イサナゴ山、花崗岩
  • ……ブナ、チマキザサ、シカ、森林利用
  • ……世屋川、野田川、阿蘇海
  • ……風化、土砂、沿岸流、砂州
  • ……天橋立、下側橋、撥雲洞
  • ……山村、海民、物流、宮津町
  • 信仰……籠神社、成相寺、知恩寺、妙見、題目
  • 芸術……雪舟、蕪村、鉄幹・晶子
  • 未来……エコツーリズム、自然共生、シカ問題

こうすると、4800本が「ブログアーカイブ」から、

天橋立という一つの地域システムを読み解く巨大なフィールドノート

になってくる。

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そして、これは世界遺産運動にとっても面白い。

2007年には、

「天橋立は世界遺産になれるのか?」

だった。

今なら、

「20年間、天橋立を調べ続けたら、何が見えてきたのか?」

と問い返せる。

この二つは全然違います。

前者は登録可能性の検討です。

後者は地域自身が発見した価値の提示です。

そして後者のほうが、ずっと強い。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

世屋川の石造り橋

2012/08/02
石造りの橋が世屋川の深い谷に、美しいアーチをかけている。

下側橋。現在宮津に残る石作りアーチ六橋の一つ。

明治19 ~大正後半の完成とされる。時は「新しい物流」時代。幅の狭い丈夫ではない木橋から、幅の広い堅牢な橋を求めた。その石は、宮津湾を挟んだ対岸の栗田に撥雲洞トンネル(旧栗田トンネル)を開削したさい出た石が使われたと伝える。

このトンネルの余材として出た石が大手橋の掛け替えなどにいかされ、新しい交通時代をひらいたのだ。

アーチ橋は谷に車輪を半分にしたような木枠をつくり、その上に石をのせていく工法だという。石を積み終わったら、その枠を外すのだ。

ブナ林の水はこの橋をくぐり海に行く。

夏はここで松尾の子供たちが、水浴びをした。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


私は、安田さんが今感じている「重さ」は、たぶんそこなんだと思います。

4800本も書いてしまった。

だからもう、

「天橋立にはこんな価値がありますよ」

と新しい物語を誰かが上から作る段階ではない。

むしろ、

「4800本の中から、天橋立とは何だったのか、何であり得るのかを、もう一度掘り出してみよう。」

という段階に来ている。

そして、その先に、

世屋川の一本の石橋

が出てくる。

たった一つの橋から、

栗田のトンネル※ → 石 → 交通 → 世屋 → 山 → 川 → 海 → 天橋立

がつながってしまう。

撥雲洞トンネルができる以前、栗田半島から宮津までの道中に荷車や人力車が通行できるような道がなく、物品を運ぶのに担いで運んでいたようです。その際、使われていたルートは3つあり、1つ目は栗田の小寺を通って山中・皆原を抜ける道(青ルート)、2つ目は栗田の上司町から栗田峠を通って波路村に出る道(赤ルート)、3つ目は栗田の獅子から海岸沿いを抜ける道(緑ルート)。
その中で一番の近道が栗田峠を通る道でしたが、険しい峠のため大変な苦労だったようです。その様子をみかねた波路村の賣間うるま九兵衛くへえが、明治12年(1879)頃、栗田峠の開削工事を提唱し、同年、上司町が衆議のうえ採用しました。

当時は隧道ではなく、水力によって土を流し、峠を切り下げる工法で計画されていました。明治12年(1879)6月に水路を開く工事が始まり、半年後の12月には水路が完成。上司町から資金が渡され、賣間氏は上司町に寄留し、引き続き継続工事を行います。しかし、その後資金集めは困難を極め、明治13年(1880)に京都府へ費用負担を請願しますが許可されず、賣間氏は私財を使い、田んぼを売ってお金を作りました。

画像9

翌年の明治14年(1881)4月、京都府では京都から宮津まで車道を作る「京都・宮津間車道計画」が始まり、栗田峠もこの線路中に含まれることになりました。それに伴い、明治15年(1882)に賣間氏と上司町惣代(まちの代表)の千賀義三郎ほか3名と京都府知事・北垣国道との話し合いの結果、工事の方法を切下げから隧道工事へと変更したうえで、京都府の事業として明治17年(1884)に開始。京都府の事業となった後も賣間氏や上司町の人々は工事に労力を提供し続け、明治19年(1886)に、遂に撥雲洞トンネルが完成。8月4日に開通式が執り行われました。

画像10

この時の工事で出た花崗岩は宮津市内の橋の材料として使用されています。当時、京都-宮津間車道の起点とされた「大手橋」もその一つで、旧宮津城と城下町を繋いでいた木造の橋が、花崗岩を使い三連アーチの立派な石橋に改修され、撥雲洞トンネルと同日に竣工式が行われました。
現在は新しい橋に架け替えられていますが、明治21年(1888)に建立された「改造大手橋の碑(北垣国道撰)」が宮津市役所横に残されています。

画像11
旭橋

また、「大手橋」と同年に架けられた波路の「大膳橋」「旭橋」にも撥雲洞トンネルの花崗岩が使われており、こちらは現在もアーチ部分に当時のものが残っています。

賣間九兵衛を讃える石碑

画像12

撥雲洞トンネルの波路側には、賣間九兵衛の功績を讃える石碑が建てられています。これは明治42年(1909)、当時の栗田村、城東村、宮津町の運送業者の寄付によって建てられたものです。撥雲洞トンネルが完成した後も、賣間氏が費やした工事費の負担を巡って訴訟が起き、結果、賣間氏は家屋敷と家財を売却して借金の一部を払い、残りは身を持ち直し次第返済することになりました。

家屋敷売却後、村を離れざるを得なくなった賣間氏ですが、峠を切り下げようと立ち上がり、波路地区と上司地区を繋いだ隧道は130年以上経つ今も現役のまま、我が国最初期の近代隧道として残っています。「撥雲洞」の撥雲とは暗雲をはらうという意味だそうです。険しい栗田峠を渡る人たちの不安な気持ちを払った隧道にふさわしい名前ですね。 (宮津市広報)

……これは、かなり象徴的です。

4800本のブログそのものが、もう一つの「天橋立」なのかもしれません。

一本一本は小さな記事。

でも、それが積み重なって、見えなかった関係を「橋」にしている。

白砂青松の天橋立。

そしてもう一つ、

知の天橋立。

後者を20年かけて架けてきた、と考えると……。

20221117_200359親分

いやあ、これは確かに、今が一番面白いところです。(^.^)

 【『脳は自然の中で本来の働きを取り戻すと 椎名誠さんが、、ふぞろいで不定型な世界に人は安らぐ と茂木健一郎さん、』、、コアゾーンの天橋立にそれを求めるとしても、表層はなでられるかも。しかし、 あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード!思考に立てば、もっと深く天の橋立を活かすことができると考えます!!、】

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式

はい、まさにそこだと思います。

お二人の言葉を並べると、かなり面白い構図になります。

  • 椎名誠さんのいう 「脳は自然の中で本来の働きを取り戻す」
  • 茂木健一郎さんのいう 「ふぞろいで不定型な世界に人は安らぐ」

これは、天橋立のコアゾーンそのものの価値を説明するには、とてもよい。

白砂、松、海、風、光、曲線――
人工的に整えすぎない、不定型な自然の中を歩く。

「わあー」と感じる。
「気持ちいいなあ」と感じる。
それだけでも、人間にとって大切な場所です。

天の橋立 素朴なmai30_35

でも――

そこで終わってしまうと、天橋立の価値を“表面でなでる”ことになる。

ここで「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」が効いてくるんですね。

天橋立を「見る場所」から「考える場所」へ

天橋立の上に立って、

「なんて美しいんだろう」

で終わるのではなく、

「この砂は、どこから来たんだろう?」

と一歩踏み込む。

すると、

天橋立 → 阿蘇海 → 野田川 → 与謝野 → 山

へ行ける。

さらに、

天橋立 → 世屋川 → 世屋高原 → 森 → 地質 → 砂

へ遡れる。

そして、

伊根 → 海人 → 浦島 → 海上他界観

へ行けば、今度は「この海を人間はどう見てきたのか」という問いになる。

さらに宮津へ戻れば、

知恩寺 → 妙見山 → 題目山 → 成相寺 → 籠神社 → 信仰

という、人間がこの風景に与えてきた意味の歴史が見えてくる。

つまり、

天橋立を見ることが、丹後を考えることになる。

ここが大きい。

宮津エコツアー · 丹後半島・大地の成り立ちを見る!「エコ&ジオ」ダブルウオークin世屋高原のご案内


そして、これは実は**「自然の中で脳が本来の働きを取り戻す」こととも矛盾しない**と思うんです。

むしろ逆でしょう。

人工的に答えが用意された観光では、

「ここは○○というパワースポットです」

で、思考が止まってしまう。

ところが、

「この砂、どこから来た?」
「なぜこの山に題目と妙見という名前がある?」
「なぜ海の向こうに浦島の世界観が生まれた?」
「なぜこの土地の人は、この山を聖なるものとして見た?」

と問いが次々に生まれる。

ふぞろいで、不定型で、簡単には答えの出ない世界。

これこそ、茂木さんのいう「ふぞろいな世界」と、かなり響き合うのではないでしょうか。

だから「あ・い・せ・よ」は単なる観光ルートではない

私はむしろ、

「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」は、天橋立を巨大な“思考の入口”にする仕掛け

と捉えると、とても強いと思います。

コアゾーンでは、

自然に身をゆだねる。

ロードに出れば、

その自然がどう生まれ、どう人間と出会い、どんな文化を生み、そして今どうなっているのかを考える。

そして最後に、また天橋立へ戻ってくる。

すると最初に見た天橋立と、帰ってきて見た天橋立は、同じ景色なのに意味が違って見える。

これが面白いんですよね。

最初は、

「きれい!」

だったものが、

「この山が崩れ、この川が運び、この海が動かし、人間がそこに意味を与え、何千年もの時間を経て、この景観になったのか……」

となる。

そして、

「この景色の中に、地球の物語がある。」

に至る。

さらに一歩進めるなら、

「天橋立は、答えを見せる場所ではない。問いを生む場所である。」

とも言えそうです。

これは「世界遺産」と「エコツーリズム」をつなぐ言葉にもなります。

エコツーリズムは、足元から世界へ。
世界遺産は、世界から足元へ。
そして天橋立は、その二つをつなぐ“問いの入口”。

「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」は、まさにその入口をコアゾーンから丹後全体へ開く装置になり得ると思います。

 【天橋立が翼を得て、世界に羽ばたくように、その翼になれれば、と考えますね!】
 宮津エコツアー · midorimushi

はい……その言い方、かなり本質を突いていると思います。(^.^)

天橋立そのものを「世界遺産にする」のではなく、天橋立が世界へ羽ばたくための翼を、丹後全体でつくる。

そんな感じですね。

天橋立は、すでに十分に美しい。
白砂青松、日本三景、信仰、芸術、文学……世界に語れるものもある。

けれど、一本の砂州だけを世界に差し出すと、

「美しい日本の景勝地」

で終わってしまう危険がある。

ところが、

あ・阿蘇海
い・伊根
せ・世屋
よ・与謝野

へ翼を広げると、

海・山・川・砂・人・信仰・浦島・農・植物文化・芸術・政治史

がつながってくる。

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式

すると天橋立は、

「日本の美しい景色」から、
「人間は自然とどのように生き、そこにどんな意味を与えてきたのかを考える場所」

へと飛躍できる。

そして面白いのは、翼が天橋立を薄めるのではなく、むしろ天橋立を際立たせることです。

世屋へ行って砂の源を知る。
伊根へ行って海の世界観を知る。
与謝野へ行って古代からの人の営みを見る。
宮津へ戻って信仰と芸術を見る。

そして最後に天橋立を見る。

「ああ、これは単なる砂州ではなかったのだ」

となる。

つまり、

丹後全体が天橋立の翼になり、
天橋立が丹後全体を世界へ紹介する。

この相互関係が大切なのだと思います。

そして、もしかすると「世界遺産登録」という言葉より、その先にある思想は、

天橋立を世界へ。
世界から丹後へ。
そして、丹後から未来へ。

なのかもしれません。

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式宮津市エコツーリズム推進協議会 世屋・高山ガイド部会 | Miyazu-shi Kyoto

「翼になれれば」という言葉には、天橋立を利用して何かを成し遂げようとするのではなく、天橋立が本来持っている力を引き出してあげるという感じがあります。

それなら「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」は、観光ルートというより、

天橋立が世界へ羽ばたくための“翼の骨格”

……と呼んでもいいかもしれませんね。

 【ありがとう、、さて、天の橋立の世界遺産登録の運動とエコツーリズム、宮津市は第六回エコツーリズム大賞優秀賞を受賞しています、この関係ですね、どう位置づけられるものでしょうか!!】

応募要項 | エコツーリズム大賞 | エコツーリズム | 環境省

はい、ここはかなり重要です。
調べてみると、世界遺産運動とエコツーリズムは「別々に始まった二つの政策」ではなく、かなり早い段階から同じ方向を向いていたと見ることができます。

しかも、環境省の第6回エコツーリズム大賞の評価文が、ほとんど答えを言ってしまっています。(^.^)

宮津市エコツーリズム推進協議会は、2008年に設立され、「天橋立プラスワン事業(天橋立+地域資源)」として、天橋立と、それを形成してきた周囲の海・里・山のつながりを来訪者に体感してもらう仕組みをつくっていました。そして「住民が主役」として観光地の魅力づくりと周辺地域の地域振興を進めたことが評価され、2010年の第6回エコツーリズム大賞で優秀賞を受賞しています。

これ、今日まで話してきたことと驚くほど重なります。


世界遺産とエコツーリズム――実は「逆方向から同じものを見ている」

世界遺産側から見ると、

「天橋立には、人類にとってどんな普遍的価値があるのか?」

という問い。

エコツーリズム側から見ると、

「天橋立は、何によって生まれ、周囲の自然・文化・暮らしとどうつながっているのか?」

という問い。

一方は価値を世界的な尺度から問い直す

もう一方は地域の現場から価値のつながりを掘り起こす

ところが、行き着くところは同じなんですね。

「天橋立だけでは天橋立にならない」

です。


そして「天橋立プラスワン」という言葉が、とても象徴的

当時の発想は、

天橋立 + 地域資源

だった。

でも、いま私たちが話しているところまで来ると、

天橋立 + 世屋の山
+ 世屋川
+ 阿蘇海
+ 野田川
+ 栗田半島
+ 植物文化
+ 山岳信仰
+ 海人の記憶
+ 宮津文化

となってくる。

つまり「プラスワン」が、だんだん**「プラス全部」**になっていく(笑)。

でも、これは冗談ではなくて、エコツーリズムの思想そのものがそうなんです。

宮津エコツアー 丹後宮津・天橋立の自然体験・田舎体験|宮津市エコツーリズム推進協議会


そして、世界遺産運動との時間関係が面白い

世界遺産の可能性検討が始まったのが2007年。

その翌年、2008年に宮津市エコツーリズム推進協議会が設立

そして2010年に環境省から優秀賞。

つまり、

世界遺産という「外からの問い」

と、

エコツーリズムという「地域からの実践」

が、ほぼ同じ時期に動き始めています。

これは偶然として片付けるより、相互作用があったと考えるほうが自然でしょう。

ただし、「世界遺産運動が直接エコツーリズムを生み出した」とまでは、現時点の資料だけでは断定しません。


私なら、こう位置づけます

世界遺産

「なぜ、この場所は人類にとって大切なのか?」

エコツーリズム

「では、その価値を地域の人と訪れる人がどう理解し、どう体験し、どう守るのか?」

現在

「その価値を未来の地域づくりにどう使うのか?」

この三段階です。

だからエコツーリズムは、世界遺産運動の「観光版」ではありません。

むしろ、

世界遺産が「価値を発見する装置」なら、エコツーリズムは「価値を地域で生きる装置」

と考えると、とても分かりやすい。


そして、ここでユーザーさんの「エコツアーガイド」という立場が、ものすごく重要になってきます。

例えば「天橋立は日本三景です」で終われば、観光ガイドです。

でも、

「この砂はどこから来たんだろう?」

と世屋へ連れて行く。

そこで、

「この森がなくなったら、川はどうなる?」

と考える。

さらに、

「この山を昔の人は何と呼んだ? なぜ題目山なのか? 妙見山なのか?」

と進む。

そして、

「この海を旅した人は、この山をどう見たのだろう?」

となる。

最後に天橋立へ戻って、

「ああ、私はさっき見ていた砂州だけを見ていたんじゃなかったんだ」

となる。

これこそ、エコツーリズムと世界遺産の接点だと思います。


そして実は、環境省が当時評価した言葉に、ユーザーさんの現在の構想を先取りするような部分があります。

**「天橋立と天橋立を形成してきた周囲の海・里・山の豊かな自然のつながり」**です。

これ、2008~2010年の段階で、すでに出ているんですよね。

だから今ユーザーさんが言っている、

「天橋立から世屋へ行くことは、天橋立を離れることではない。天橋立を生んだ大地へ帰っていくことだ。」

は、突然出てきた新奇なアイデアではない。

15年以上前に始まった「天橋立プラスワン」の思想を、地質・生態・文化・信仰まで掘り下げて、次の段階へ進めるもの

と位置づけられると思います。

そして今、宮津市自身も「天橋立/上宮津/日置・世屋」のガイドを取り上げ、「人と自然がつなぐエコツーリズム」として発信しています。

つまり、あの時の「プラスワン」が、今になって「海・里・山をつなぐ」という本来の意味をもう一度大きく開き始めている

これは、かなり面白い歴史だと思います。

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 【縦割りのせいなんでしょうか、連携連動している節が感じられなかったですね、、雲の上の話と聞いていましたよ!】

はい、その感覚、かなり分かります。
そして私は、これは単純に「縦割りが悪かった」とだけ言わないほうが、むしろ構造が見えると思います。

当時はおそらく、同じ天橋立を見ながら、違う行政言語を使っていたんですよね。

  • 世界遺産 → 文化庁・文化財・学術・顕著な普遍的価値
  • エコツーリズム → 環境省・自然環境・地域振興・観光
  • 国立公園 → 環境行政
  • 文化的景観 → 文化財行政
  • 宮津城下 → 歴史・都市・観光
  • 世屋の農山村 → 農林・地域政策

それぞれが間違っているわけではない。
むしろそれぞれ一生懸命やっている

でも、上から見ると全部、

「同じ一枚の風景」

なんですよね。

ところが行政制度では、その一枚が細かく切られてしまう。


そして「世界遺産は雲の上の話」という感覚は、ものすごく重要だと思います。

なぜなら、世界遺産という言葉そのものが、

ユネスコ

文化庁

京都府

市町

専門家

という、非常に遠いところから降りてくる言葉だからです。

現場の人からすれば、

「世界遺産? それは専門家の先生方が考える話でしょう」

となりやすい。

一方でエコツーリズムは、

「じゃあ、この森を歩いてみよう」
「この川を見てみよう」
「地元のおばちゃんの話を聞こう」

という、足元から始まる活動です。

だから両者が同じ方向を向いていても、現場では「つながっている」という実感が生まれにくかったのではないでしょうか。


でも、今になって振り返ると、ものすごく惜しいんですよね。

2007年 世界遺産登録可能性検討
2008年 エコツーリズム推進協議会
2010年 エコツーリズム大賞優秀賞

これ、実はほぼ同じ時代に、

「天橋立を単独の観光資源として扱わない」

という二つの動きが存在していた。

なのに、

世界遺産=雲の上
エコツーリズム=現場

と受け止められてしまった。

ここに、まさに「縦割り」の問題があったのかもしれません。


そして、今ユーザーさんがやっておられることが面白い。

「世界遺産」を下へ降ろしてきているんです。

例えば、

世界遺産の価値って何?

を、

この砂はどこから来た?

まで降ろす。

さらに、

世屋の森がなかったら?

まで降ろす。

さらに、

シカが森の下層植生を食べ尽くしたら?

まで降ろす。

さらに、

その森にはチマキザサがあり、京都の文化につながっている。

まで降ろす。

そして、

それら全部が天橋立につながっている。

となる。

ここまで来ると、もう「雲の上」ではない。

世界遺産が、足元の草一本まで降りてくる。

私はこれ、エコツーリズムの本当の力だと思います。

そして逆方向には、











天橋立

日本文化

人類共通の価値

と上がっていく。

宮津エコツアー 丹後宮津・天橋立の自然体験・田舎体験|宮津市エコツーリズム推進協議会

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つまり、

エコツーリズムは「足元から世界へ」。
世界遺産は「世界から足元へ」。

この二つが出会えばいい。

そのとき初めて、世界遺産が「雲の上の話」ではなくなります。

そして、これまで話してきた**「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」**の構想は、実はその橋渡し役になり得ると思います。

世界遺産を観光資源にするのではなく、
世界遺産という問いを、地域の森・川・海・暮らしまで降ろしてくる。

――そう考えると、2007年から始まった「可能性検討」の次の段階が、今ようやく現場から始まっている、とも言えますね。(^.^)

【(^.^)2008年の宮津市エコツーリズム推進協議会設立当時、上世屋や大江山が、天橋立とつながっているなどとは、むそうだにしなかったこと、、流域学が深まってなかったのですね、、ありがとう】

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式

(^.^) こちらこそです。

そして、その見方はかなり大事だと思います。

2008年の「天橋立プラスワン」は、すでに**「天橋立+周囲の海・里・山」**という発想を持っていました。つまり、最初から「天橋立だけではない」という芽はあった。
ただ、その「つながり」を、流域という一つの自然システムとして、上流から下流まで読み切るところまでは、まだ十分に進んでいなかった――そう整理するとよさそうです。

当時は、

天橋立 + 周辺地域

だったものが、今なら、

山 → 森 → 湿地 → 川 → 阿蘇海 → 沿岸流 → 天橋立 → 人間の文化

という一続きの物語として見えてくる。

そして大江山まで視野に入れると、さらに「天橋立を生んだ地域」の輪郭が変わってきます。

これは「昔の人が知らなかった」というより、

研究の単位そのものが変わった

と考えると面白いですね。

行政区、観光地、施設、文化財ごとに見るのではなく、水が山から海へ動く単位=流域で見てみる。

すると、上世屋は「遠い山里」ではなくなる。

天橋立の上流側の物語になる。

そして、ここに今のあなたの「あ・い・せ・よ」が重なってくる。

2008年の「プラスワン」が、
**「天橋立の周辺にも魅力がありますよ」**だったとすれば、

今見えてきたものは、

「周辺ではない。全部つながっていて、天橋立そのものを成立させている。」

という段階なのかもしれません。

だから、あの頃にはまだ「むそうだにしなかった」上世屋や大江山が、今になって天橋立の翼の一部として見えてくる。

知識が増えたというより、風景を見る“単位”が大きくなった。

これ、かなり重要な発見だと思います。

【『天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会』、、不思議な委員会名だと思っていました。「可能性検討」とはどういう意味!!??(^.^)そもそも、、ですね、天の橋立を世界遺産に、、これ、およそ良きお誘いは外よりやってくる、、このパターンだった、ようですね、金田章裕氏がお話なさっていることを聴けば、発信元は文化庁、ここから各都道府県に、世界遺産、、かくかくしかじか、、推薦するように、ということがきっかけだったようですね、さて、一方、その養成というのかお達しというのかお誘いというのか、、受け取った側は、はああ、、!!なんですか、世界遺産って??集まって検討、どうも該当するのは「天橋立」のようだ、そこで立ち上がった委員会が、『天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会』、たしかにスタート時点では登録可能性検討、あまのはしだてってなんだ!!こういう状況があったようですね、、、(^.^この見立てについて解説いただけますか。】

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はい、私はその見立て、かなり当たっていると思います。ただし一箇所だけ、歴史的事実と「そこから読み取れる構図」を分けておくと、むしろ面白さが増します。(^.^)

まず、委員会名そのものが非常に正直なんです。

「天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会」

「登録推進委員会」ではない。
「世界遺産登録委員会」でもない。

「可能性を検討する」

実際、京都府の平成19年度予算資料には、目的が明記されています。
「天橋立を中心とした地域の世界遺産登録の可能性について検討するため」、専門家によって登録可能性を評価する委員会を設置し、必要な調査を行う、とあります。つまり名称は後から格好よく付けたものではなく、本当にスタート地点の仕事をそのまま表している

そして宮津市の資料を見ると、平成19年6月に委員会設置、同年9月には京都府・1市2町で文化庁へ暫定一覧表候補提案書を提出しています。

ですから、ユーザーさんの「はああ、世界遺産って何ですか?」は、かなり本質を突いています

ただし、**「文化庁から天橋立を推薦せよ、と直接指名された」**ところまでは、今回確認できた公的資料だけでは言えません。

ここは少し慎重にしたい。

確認できるのは、

国・文化庁が世界遺産暫定一覧表への候補提案を受け付ける制度的な流れがあり、京都府・宮津市・伊根町・与謝野町側がそれに応じて、まず「天橋立で可能性があるのか?」を専門家に検討してもらった

ということです。

そして、その「可能性を調べる」ために集まった。

これが重要なんですね。


そして、ここからがユーザーさんの読みの面白いところ

最初から、

「天橋立には人類にとって顕著な普遍的価値がある!」

と確信して始まったわけではない。

むしろ、

「世界遺産という制度がある。
丹後・宮津で、それに該当し得るものは何だろう?」

という入口だった、と考えるほうが自然です。

そこで「天橋立」が候補として浮上する。

だから、

「天橋立を世界遺産にする」

というスローガンの前に、

「そもそも天橋立とは何なのか?」

という、もっと根源的な問いが発生した。

これ、実は現在の「天橋立学」につながる非常に重要な逆説だと思います。

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そして「可能性検討」は、結果的に「天橋立研究」になっていった

実際、平成20年の文化庁の評価では、暫定一覧表には入らなかったものの、**「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」=次点の「1a」**という評価になっています。京都府もその後、国から示された課題に対応しながら調査研究を続けています。

そして平成28年度には、

『「天橋立学」への招待 “海の京都”の歴史と文化』

が刊行される。

さらに平成31年には「可能性検討委員会」が「世界遺産登録推進会議」に発展的改組され、学識者による専門委員会が調査研究を担う体制になった。京都府自身が現在、「天橋立の顕著で普遍的な価値を証明するため、様々な分野で調査研究を積み重ねている」と説明しています。

つまり、

可能性を調べる

なぜ天橋立なのかを調べる

天橋立とは何なのかを調べる

地域の歴史・宗教・文化・景観を掘り下げる

「天橋立学」になる

という展開なんです。


そして、ここで「およそ良き教えは外より来たる」が効いてくる

これ、先ほどの山岳信仰の話と同じ構造に見えてきませんか。(^.^)

外から、

「世界遺産という物差しがありますよ」

と来た。

地域は、

「……世界遺産? では、うちの天橋立って何なんだ?」

となった。

そして調べ始める。

すると、

地質がある。
山がある。
川がある。
砂がある。
神社がある。
寺がある。
文殊がある。
成相がある。
海人がいる。
浦島がいる。
雪舟がいる。
宮津文化がある。
三処奇観がある。

……と、どんどん奥から出てくる。

つまり外から来た「世界遺産」という制度が、結果として地域自身に自分たちの土地を問い直させた

ここが非常に面白い。


そして、私はユーザーさんが最初におっしゃった宗田好史氏の「はじめに」の話とも、ここでつながると思います。

世界遺産は、

「天橋立を世界に売り込むための看板」

ではなく、

「天橋立とは、人類にとって何なのかを、地域自身が問い直す装置」

になった。

だから、最初の名称が**「可能性検討」**だったことは、むしろ象徴的です。

「登録できるか?」だけを調べていたはずが、

「そもそも、なぜこの場所が人間にとって特別なのか?」

という問いに変わっていった。

そして今、ユーザーさんがやっておられる、

地質の時間軸 × 海人の記憶 × 山岳信仰 × 政治史 × 宮津文化 × 植物文化 × 現在の自然共生

という掘り方は、まさにその問いをさらに先へ進めているように見えます。

だから私は、

「世界遺産にするために天橋立を研究した」のではなく、
「世界遺産という外から来た問いによって、天橋立とは何かを研究することになった」

と表現すると、かなり本質を突くのではないかと思います。

そしてこれは、今日の「およそ良き教えは外より来たる」の、まさに現代版ですね。(^.^)

なお、金田章裕氏は現在も推進会議会長を務めており、2026年3月のシンポジウムでも「天橋立 世界遺産登録への道のり」のコーディネーターを務めています。

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 【金田先生、正直なかたで、ご講演で、文化庁から「候補を推薦するようにご要請をうけた、、」とおっしゃっていました、、「世界遺産にするために天橋立を研究した」がスタート、研究冊子発行2017年、その冊子によせられた各市町の首長さんのコメントの熱に温度差があるなと感じたのはそのあたりの事情だったかと感じましたね。しかし、この間、 「世界遺産という外から来た問いによって、天橋立とは何かを研究することになった」 ここに発展しているのは貴重なことだったと思いますね。】

はい……私は、そこがこの運動のいちばん面白いところだと思います。
そして金田先生が講演でそう明言されたのであれば、「文化庁から候補を推薦するよう要請を受けた」という出発点は、かなりはっきりしますね。

そうすると、ユーザーさんが感じられた**首長さんたちのコメントの「温度差」**も、少し違って見えてきます。

最初は「天橋立を世界遺産にできるか」だった

おそらく出発点では、

国から「世界遺産候補を考えてください」と来た。

丹後で何が該当するだろう?

天橋立だろう。

では、世界遺産になる可能性を調べよう。

という流れだった。

だから委員会の名前も、

「天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会」

だった。

これは、ある意味ものすごく正直な名前です。

まだ、

「天橋立には人類にとって顕著な普遍的価値がある」

と確信している段階ではない。

「あるのか? ないのか? 調べてみよう」

だった。


ところが10年後、問いが反転した

ここが本当に貴重だったと思います。

最初の問いは、

「天橋立を世界遺産にできるか?」

だった。

ところが研究を進めると、

「そもそも天橋立とは何なのか?」

になった。

さらに、

「なぜ、この場所はこれほど長い時間、人間に意味を与え続けてきたのか?」

になった。

そして今なら、

「この景色の中に、地球の物語と人間の物語がどう重なっているのか?」

まで行ける。

これは、単なる「登録準備」の成果ではありません。

外から与えられた制度的な問いが、地域自身の自己探究に変わった。

そこに、この活動の大きな価値があると思います。


そして、2017年の『「天橋立学」への招待』を読み返すときも、首長コメントの温度差を「熱心な町、そうでない町」とだけ読む必要はないでしょうね。

むしろ、

「世界遺産」という新しい外部の物差しを、各自治体がそれぞれの立場からどう受け止めていたのか

の記録として読むと面白い。

宮津にとっての天橋立、
与謝野にとっての野田川・古代丹後、
伊根にとっての浦島・海民、
そして世屋を含む山間地域にとっての自然・暮らし。

それぞれの「天橋立」が違っていたから、当然、言葉の熱量も違う。

まだ「一つの天橋立」が出来上がっていなかったとも言えるわけです。

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だから私は、ここでユーザーさんの「あいせよ」の構想が効いてくると思います。

もし、

天橋立を世界遺産にする

だけなら、天橋立を中心に周辺地域を「構成資産」として説明する方向になりがちです。

でも、

天橋立とは何なのかを考えたら、世屋も、野田川も、伊根も、宮津も、栗田半島も、阿蘇海も、切り離せなかった。

となれば話が逆になります。

天橋立が周辺を従えるのではなく、周辺の大地・海・人・文化があって、はじめて天橋立という意味が成立する。

これこそ、ユーザーさんがずっと言っている、

「天橋立から世屋へ行くことは、天橋立を離れることではない。天橋立を生んだ大地へ帰っていくことだ。」

につながります。


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そして、これはちょっと面白い言い方をしてしまえば、

文化庁から来た「世界遺産」という宿題が、いつの間にか「丹後とは何か」という自由研究になった。

(笑)

でも、その「自由研究」が10年、20年と積み重なれば、ものすごい地域資産になります。

そして今われわれが話している、

海人のランドマーク
→ 山岳地名
→ 山岳信仰
→ 妙見・題目
→ 成相・真名井・籠
→ 知恩寺・文殊
→ 阿蘇海
→ 天橋立
→ 宮津城下
→ 三処奇観
→ 日本三景

というつながりは、まさにその「自由研究」が生み出した新しい問いの次の段階なんですよね。

だから私は、

「世界遺産登録が実現したかどうか」だけでは、この20年を評価できない。

と思います。

むしろ、

「世界遺産にするために天橋立を調べ始めた。
その結果、天橋立を調べること自体が、地域の歴史と未来を考える営みになった。」

ここに、この運動の非常に大きな成果がある。

そして、ひょっとすると次の段階は、

「世界遺産に登録されるための天橋立」から、
「世界遺産という問いを使って、丹後の未来を考える天橋立」へ。

なのかもしれません。

これなら、ユーザーさんが最初から大切にしておられる**「タイトルを取りに行く運動ではない」**という感覚とも、きれいにつながります。

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