宮津エコツアー · こちらにはまだ見えていない物語が存在している、、かもしれない!  天橋立を世界遺産に 112

こちらにはまだ見えていない物語が存在している、、かもしれない!  天橋立を世界遺産に 112

【閑話休題、、知人から、カエルのお尻度アップ写真を頼むと依頼、、ちなみに、彼は、児童文学者、です!!カエルをたくさん写してきたわたしですがが、そんなアングルで、など意識したことがありません、、これは空想課題だろうがなあ、と困惑しています、心情お察しください】

宮津エコツアー · 「カエルの詩人が愛した里 帰村4年目・川内村の誇り」

いやあ……それは困惑します。
しかも**児童文学者から「カエルのお尻を度アップで」**ですからね。

「カエルを撮ってください」なら、こちらも、

「おお、いいですね。アマガエルですか? トノサマガエルですか?」

となる。

ところが、

「お尻を、度アップで」

となった瞬間、

「……お尻?」

と、世界の見え方が一段階変わる。(^.^)

しかも、これまでたくさんカエルを撮ってきたのに、カエルのお尻を撮ろうという発想が一度もなかった
これは当然です。

カエルを見るとき、普通は、

  • 鼓膜
  • 吸盤
  • 体色
  • 模様
  • 抱接

あたりを見る。

なのに突然、

「尻」

ですよ。

しかも「度アップ」。

これはもはや自然観察というより、児童文学者の頭の中に、こちらにはまだ見えていない物語が存在していると考えるしかありません。


ただ、ちょっと面白いのは、彼が**「カエル」ではなく「カエルのお尻」**を指定してきたことです。

つまり、もしかすると欲しいのは、

生物学的に珍しい写真

ではなく、

「お尻だけ見たら、いったい何に見える?」

という視覚的な面白さなのかもしれません。

真正面から見ると「カエル」。

しかし後ろから超接近すると、

なんだこれは?

になる。

それは児童文学的には、かなりありそうな発想です。


そして、もし本当に撮るなら、私はむしろ**「カエルのお尻そのもの」だけを撮らない**ほうが面白い気がします。

例えば、

① お尻の超接写
→ 何の生物なのか分からないくらい寄る。

② お尻+後ろ脚
→ 「あ、カエルだ」とかろうじて分かる。

③ カエル全身+お尻側から
→ 普通のカエル写真との対比になる。

この3枚を撮っておけば、彼の脳内にある「お尻」の正体が判明する可能性があります。(^.^)


しかし最大の問題は……

「どこまでがお尻なのか?」

ですよね。

カエルは人間のように腰から下が「お尻」と明確に区切られているわけではない。

背中なのか、臀部なのか、後肢の付け根なのか、総排泄腔付近なのか。

生物学者に聞けば話は済むでしょうが、児童文学者に頼まれた自然観察指導員としては、

「先生、これは『お尻』の定義から打ち合わせが必要なのでは……?」

となる。

ここまで来ると、もはや撮影依頼ではなく、共同研究です。

そして私は、かなり本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい

たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい

駿河屋 - 海の京都(地理・地誌・紀行)

【「たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。」、、わたしも、ここだとおもいます、、何かがある、、ありがとう、、さて、とはいうものの、肝心なのは、そしてつくずく思うのは、地域・団体・教育・企業、そして、行政、、その連携、優秀な回し役の存在、、ですね、】

 まさに、そこだと思います。

そして面白いのは、さっきの**「カエルのお尻」**の話と、実はつながっていることです。(^.^)

誰か一人では、たぶん何も起きない。

児童文学者は、

「カエルのお尻を見たい」

という、普通の自然観察者なら見落とす問いを投げる。

自然観察をする人は、

「そんなところ、撮ったことないぞ」

と言いながら現場を探す。

子どもたちは、

「なんでお尻なん?」

と笑う。

写真が撮れたら、そこから物語が生まれる。

つまり、異なる人間の「目」が出会うことで、今まで見えなかったものが見えてくる。

地域連携も、たぶん同じです。


地域・団体・教育・企業・行政

それぞれには、それぞれの「目」があります。

地域
→ そこに暮らしてきた記憶と身体知がある。

団体
→ 現場を動かす力、継続する力がある。

教育
→ 「なぜ?」を次世代へ渡す力がある。

企業
→ 技術、人材、資金、設備、発信力を持っている。

行政
→ 制度、公共性、長期的な仕組みを支えられる。

ところが、これらが並んでいるだけでは、なかなか動かない。

そこでおっしゃる、

「優秀な回し役」

がものすごく重要になる。

私はこれを、単なる「調整役」と呼ばないほうがいいと思います。

**「翻訳者」**でもあり、
**「触媒」**でもあり、
**「場をつくる人」**でもある。

地域の言葉を行政に翻訳する。

行政の制度を地域に翻訳する。

研究者の言葉を高校生に翻訳する。

企業の技術を地域課題につなぐ。

そして、ときには、

「それ、面白いじゃないですか。では一緒にやりましょう」

と、人と人をつなぐ。


これ、実は先ほどの世屋の④が非常に象徴的なんですよね。

現場の人がいる。
農の知恵がある。
自然共生サイトがある。
高校生の探究が入る。
そこに地域や行政や企業が関われる余地がある。

すると、ひとつの湿地が、

農業の場所であり、
生態系の場所であり、
教育の場所であり、
研究の場所であり、
地域づくりの場所になる。

そして、その全部を一人でやろうとしない。

ここが大事なんでしょうね。

“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!


(“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!)

だから、もしかすると「百年持つや否や」の答えも、少し見えてきます。

百年続くものをつくるのは、百年間同じ人が頑張ることではない。

むしろ、

人が替わっても、役割が受け渡される仕組みをつくること。

ではないでしょうか。

90歳近い大工兼お百姓さんから高校生へ。

高校生から次の世代へ。

地域から学校へ。

学校から企業へ。

企業から行政へ。

行政から地域へ。

そして、その間を誰かがくるくる回す

その「回し役」が優秀だと、点だった活動が線になり、線が面になっていく。


そう考えると、天橋立に置かれた大砲も、また面白い位置に立ってきます。

大砲は、何かを直接つくる道具ではない。

でも、

「ここを見よ」

と指し示す。

その「指し示す力」を、現代では人が担う。

問いを立てる人。
人をつなぐ人。
現場を知る人。
若者を巻き込む人。
行政と地域をつなぐ人。

つまり、現代の「大砲」は、人なのかもしれません。

そして優秀な回し役とは、

自分が主役になる人ではなく、
他人の持っている「何か」を発見して、
それを別の誰かの「何か」とつなげられる人。

……これ、先ほどの児童文学者が「カエルのお尻」に何かを見つけている話と、そっくりなんですよ。(^.^)

「そんなところに、何があるんです?」

と問える人がいて、
「じゃあ、見てみましょう」

と動く人がいて、
そこに**「何か」が見つかる。**

地域づくりも、結局はそこから始まるのかもしれません。

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