ユキヤナギの花で蜜を吸うウスバシロチョウ!

わかりますか、、、、飛べ,小さな花の集合花、一つ一つを吸っているようなのです。飛んでくれ!ひたすら念じましたよ(^.^)
そしたら、、、、、
念ずれば、、、これはほんとうです、、、
念ずれば蝶も飛ぶ!
世屋・高山ガイド部会の活動ブログ
世屋バスと世屋の里
、ほんとに相性がいい、どこに立っていても絵になります。
そして、なんだか寅さんが降りてきそうな気配も感じるのですよ、
「おばちゃん、この村、なんでぇ村だい?、、、せや、、、そうかい、、美しい村だねえ、しばらく置いてもらいてぇんだが、どこか泊まるところはないかい!え、ないから家に泊まればいい、、、なに、だんながいねえから、そいつはまずいよ、、、しんだんだって、、、なにかまやあしないって、、おばちゃんいくつなんだい、、ええ86!ひとりで草刈ってこめつくっているのかい、、、近くの街に息子夫婦がいていつもきてやってくれる いい息子だねえ、、、」とか何とか。

快晴で青葉の森からツツドリ。それはそれで風情抜群なのですが、きつい紫外線が降り注いでいたのでしょう
撮影のポイントでバスを待っていただけなのに、顔がヒリヒリ。
それと、アユ続報。
昨日のポイントでで釣っていらっしゃったお客さんのクーラーの中!
よほど腕のいい方のようです(^.^)
♪君の名は……と たずねし人あり
その人の 名も知らず
今日砂山に ただひとり来て
浜昼顔(はまひるがお)に きいてみる
、、、、と口に出ます、、世代は隠せません!
「二反田」寿司屋さんの前。本命は世屋バス狙いだったのです、ピントを探ってもたもたしたもので逃げられてしまいました。
さて、この歌、昭和28年の発表ということです。東京大空襲をたまたまいっしょに逃げ惑った二人のドラマ。 戦争の傷の生々しく残る時代でした。空の蒼海の碧砂の白、そして花の薄紅色、、、そこに夫以外の男を思う人妻、、、これは絵になります、千葉県房総半島九十九里の群生地は有名です。
それにしても、生育地とする砂山!水が少なく、日差しが強く風も強く風で移動する砂に葉も芽も埋もれてしまう、植物にとって最悪の環境じゃないですか、、、ここもコンクリートとアスファルトの間。けれどもそこに適応できれば独占的に繁栄できる、、、、、地下茎を深く伸ばして葉を葉をツヤツヤさせて日光を反射させそして分厚くして、、なかなかやるもんです(^.^)
日暮れの飯尾醸造たんぼ。
田植えに備えて、草刈り機の音が連日、谷に響き渡っていました。写真ですから音は写せませんがたんぼは賑やかにうたいます。想像してください!音もエコロジーです。
さて、この棚田を縫うように上り下りする世屋バス!
もうこれは里山景観のなくてはならないファァクター、里山の文化というべきものじゃないですか。
。里山エコロジーの一部に根ざしてさえいるといってもいい(^.^)。
生存権を定めた憲法! がにっこりとほほえんでいるように感じます!だって人の命は地球より重い、バスがあるから安心だ、バスがあるから実家にも友人を訪ねにも行くことができるとお婆ちゃんたちはおっしゃいます。
しかし、そのことをみんながみんな「ええことです」と認めているわけでもない、なんでも賛成半分反対半分。権利は授かるものではなく闘いとるもの、乗らなくては続きません。乗りましょう(^.^)
ところで、里のたんぼの日暮れ。
こちらのたんぼもうたっています。山のたんぼとは歌い方が違います。聞き比べてご覧になってください。、
しゅんたろうさん、谷川俊太郎さんとは「おつきあい」があります、かれこれ40年になるでしょうか、
ただし「教科書」を通してのおつきあいですけれども。そうはいっても、中学校一年から三年生までどこかに俊太郎さんの詩は必ず掲載されているのです、音読なり多少の精読なりを加えるというのを毎年重ねていくと谷川俊太郎さんではなく、「しゅんちゃん」といった感じになるものです(^.^)
さてそのしゅんちゃん、長いつきあいもあってイート&ウオークについて一筆書いてくださいました。ので皆様にご紹介申し上げます。

「名前を付けるという行為は愛情と関心と敬意のあらわれであり、また名前と実体とはきりはなすことのむずかしい関係にあって、それが言語の本質の一つをなしているのは確かですが、目前の一輪の花のせいみょうさな美しさに驚きと畏敬を感ずるとき、それに名前をつけるという行為がどこか自然に対する冒瀆とも思えることがわたしにはあります。~略~花を感ずるには花という集合名詞だけで十分だというのは、星を感ずるのに天文学は要らないと思うのに似ています。一つ一つの花がそれぞれにどんなに微妙繊細に違っているか、その相違にわたしが鈍感だとは思いませんし、好きな花、嫌いな花の区別もあります。でも、花の名はイクラ覚えようとしてもすぐに忘れてしまう。しかし、山菜の名は少しずつ覚え始めています。ごくわずかな違いで食べられたり、毒であったりするからです。目で見るだけでなく食べること,体ぐるみでかかわること、それがわたしには必要なのでしょう。花に限りません、これはわたしの人間とのつきあいにもいえます。人類よりもひとりひとりの個人とかかわることでしか、わたしの言葉は現実と拮抗できないのだと思います。ちなみに、わたしの好みは派手な大輪の花よりも、小さい地味な花のほうに傾きます、そして切り花よりも野生の野花のほうに。」
どうでしたか。
ちなみにこの文章は『ひとり暮らし』草思社刊 「花」の文章です。興味のある方はそちらをお読みください(^.^)
また写真はいずれも新緑と花に埋まる小川弥生さん宅のスナップです。