宮津エコツアー · 世屋・高山ガイド部会

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【あいせよ天橋立丹後浦島ロード、、とは、その浦島太郎とはそもそも何もの!!さて、このうらしまさんについては『「天橋立学」への招待』の「海上他界観の普遍的な価値の証明」の項での上田純一氏の論究が秀逸だ。機会があればご一読を、とはいうもののわざわざ図書館にと言う向きには、やはりここ、『丹後の地名』!※『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。、、ラジオの語りに耳を傾けてみましょう!!音の玉手箱という付録までついて、まさに,古代世界と現代を結ぶエンターテインメントな架け橋です、読むと聴くではもろもろ大違い、楽しいですよ!!】

浦島太郎のおとぎ話

浦島太郎の物語
知らぬ者もない、古くからの伝説である。伝説というか、原伝説を元にした、子供向けのおとぎ話である。

子供の頃に、誰もが聞いた覚えのあるハナシで、人によっては、学校か幼稚園でそんな芝居をした記憶がある方もあろうか、特に説明の必要もないが、フツーに知られるあらすじでは、
亀を助けた報恩として浦島太郎は海中に連れて行かれ、そこの龍宮で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押された玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が過ぎており、ひとりポツネンとたたずまざるを得なかった。失意と寂しさのあまりに、開けてはならない玉手箱を開けてしまう。そうすると浦島太郎は、たちまち白髪の老人と化した。
というもの。これはだいたいは、かなり最近の「御伽草子」や「国定教科書」「文部省唱歌」の内容に近いものである。時代が下るにつれて、伝説は劣化し退嬰化し、バケモノじみたエログロ話になってくる傾向があるが、まだそうはなっていないところは、救われる気持ちになる。

水ノ江の浦嶼子の伝説

おとぎ話の元となった伝説は、丹後に幸いにも古い形が残されている。

伊根町本庄浜。筒川の河口部。橋は常世橋、浜は常世浜。
丹後の浦島伝説は網野町にも伝わるが、当ページでは伊根町の伝説のみを取り上げる。

『丹後国風土記』(岩波古典文学大系本)には、
浦嶼子
丹後たにはのみちのしりの國の風土記に曰いはく、與謝よさの郡こほり、日置ひおきの里さと。此の里に筒川つつかはの村あり。此ここの人夫たみ、日下部首等くさかべのおびとらが先祖とほつおやの名を筒川の嶼子しまこと云いひき。爲人ひととなり、姿容秀美すがたうるはしく、風流みやびなること類たぐひなかりき。斯こは謂いはゆる水の江の浦嶼うらしまの子といふ者なり。是こは、舊もとの宰伊預部みこともちいよべの馬養うまかひの連むらじが記せるに相乖あひそむくことなし。故かれ、略所由之旨おほよそことのよしを陳のべつ。長谷はつせの朝倉の宮に御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみことの御世みよ、嶼子、獨ひとり小船に乘りて海中うみなかに汎うかび出でて釣するに、三日三夜を經ふるも、一つの魚うをだに得ず、乃すにはち五色いついろの龜を得たり。心に奇異あやしと思ひて船の中に置きて、即やがて寐ぬるに、忽たちまち婦人をみなと爲なりぬ。其の容美麗かたちうるはしく、更比またたぐふべきものなかりき。嶼子、問ひけらく、「人宅遥遠ひとざとはるかにして、海庭うみにはに人乏ひとなし。イズレの人か忽たちまちに來つる」といへば、女娘をとめ、微咲ほほゑみて對こたへけらく、「風流之士みやびを、獨蒼海ひとりうみに汎うかべり。近したしく談かたらはむおもひに勝たへず、風雲かぜくもの就來むたきつ」といひき。嶼子、復問またとひけらく、「風雲は何いづれの處よりか來つる」といへば、女娘をとめ答へけらく、「天上あめの仙ひじりの家いへの人なり。請こふらくは、君、な疑ひそ。相談あひかたらひて愛うつくしみたまへ」といひき。ここに、嶼子、神女かむをとめなることを知りて、慎つつしみ懼おぢて心に疑ひき。女娘をとめ、語りけらく、「賤妾やつこが意こころは、天地あめつとと畢へ、日月と極まらむとおもふ。但ただ、君は奈何いかにか、早すむやけく許不いなせの意こころを先しらむ」といひき。嶼子、答へけらく、「更に言ふところなし。何ぞ懈おこたらむや」といひき。女娘曰をとめいひけらく、「君、棹さをを廻めぐらして蓬山とこよのくにに赴ゆかさね」といひければ、嶼子、從つきて往ゆかむとするに、女娘、教をしへて目を眠らしめき。即すなはち不意ときの間に海中うみなかの博ひろく大きなる嶋に至りき。其の地つちは玉を敷けるが如し。闕臺うてなは?映かげくらく、樓堂たかどのは玲瓏てりかがやきて、目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携たづさへて徐おもぶるに行きて、一つの太おほきなる宅いへの門かどに到りき。女娘、「君、且しまし此處ここに立ちませ」と曰ひて、門を開きて内に入りき。即すなはち七たりの竪子わらは來て、相語あひかたりて「是こは龜比賣かめひめの夫をひとなり」と曰ひき。亦、八たりの竪子來て、相語りて「是は龜比賣の夫なり」と曰ひき。茲ここに、女娘が名の龜比賣なることを知りき。乃すなはち女娘出で來ければ、嶼子、竪子等が事を語るに、女娘の曰ひけらく、「其の七たりの竪子は昴星すばるなり。其の八たりの竪子は畢星あめふりなり。君、な恠あやしみそ」といひて、即すなはち前立ちて引導みちびき、内に進み入りき。女娘の父母かぞいろ、共に相迎へ、揖をろがみて坐定ゐしづまりき。ここに、人間ひとのよと仙都とこよとの別わかちを稱説とき、人と神と偶たまさかに會へる嘉よろこびを談議かたる。乃すなはち、百品ももしなの芳しき味あぢはひを薦すすめ、兄弟姉妹等はらからたちは坏さかづきを擧げて献酬とりかはし、隣の里の幼女等わらはどもも紅にのほの顔して戯たはぶれ接じる。仙とこよの哥寥亮うたまさやかに、神の?逶迤まひもこやかにして、其の歡宴うたげを爲すこと、人間ひとのよに万倍よろづまされりき。茲ここに、日の暮るることを知らず、但ただ、黄昏くれがたの時、群仙侶等とこよひとたち、漸々やくやくに退まかり散ちらけ、即やがてて女娘獨留ひとりとどまりき。肩を雙ならべ、袖を接まじへ、夫婦之理みとのまぐはひを成なしき。時に、嶼子、舊俗もとつくにを遺わすれて仙都とこよに遊ぶこと、既に三歳みとせに逕なりぬ。忽たちまちに土くにを懷おもふ心を起し、獨ひとり、二親かぞいろを戀ふ。故かれ、吟哀繁かなしびしげく發おこり、嗟嘆なげき日に益しき。女娘、問ひけらく、「比來このごろ、君夫きみが貌かほばせを觀るに、常時つねに異なり。願はくは其の志こころばへを聞かむ」といへば、嶼子、こた對へけらく、「古人いにしへびとの言へらくは、少人おとれるものは土くにを懷おもひ、死ぬる狐は岳をかを首かしらとす、といへることあり。僕やつがれ、虚談そらごとと以おもへりしに、今は斯これ、信まことに然しかなり」といひき。女娘、問ひけらく、「君、歸らむと欲おもはすや」といへば、嶼子、答へけらく、「僕、近き親故むつまじき俗くにひとを離れて、遠き神仙とこよの堺くにに入りぬ。戀ひ眷したひ忍あへず、輙すなはち輕しき慮おもひを申べつ。望ねがはくは、蹔しまし本俗もとつくにに還かへりて、二親かぞいろを拜み奉らむ」といひき。女娘、涙を拭のごひて、歎なげきて曰ひけらく、「意こころは金石に等しく、共に万歳よろづとしを期ちぎりしに、何ぞ郷里ふるさとを眷したひて、棄すて遺わするること一時たちまちなる」といひて、即すなはち相携あひたづさへて徘徊たちもとほり、相談あひかたらひて慟なげき哀しみき。邃ついに袂たもとを?ひるがへして退まかり去りて岐路わかれぢに就つきき。ここに、女娘の父母と親族うからと、但ただ、別を悲しみて送りき。女娘、玉匣たまくしげを取りて嶼子に授けて謂ひけらく、「君、終つひに賤妾やつこを遺わすれずして、眷尋かへりみたづねむとならば、堅く匣くしげを握とりて、愼ゆめ、な開き見たまひそ」といひき。即やがて相分れて船に乘る。仍すなはち教へて目を眠らしめき。忽たちまに本土もとつくにの筒川の郷さとに到りき。即すなはち村邑むらざとを瞻眺ながむるに、人と物と遷うつり易かはりて、更に由よるところなし。爰ここに、郷人に問ひけらく、「水の江の浦嶼の子の家人は、今何處いづくにかある」ととふに、郷人答へけらく、「君は何處いづこの人なればか、舊遠むかしの人を問ふぞ。吾あが聞きつらくは、古老等ふるおきなたちの相傳へて曰へらく、先世さきつよに水の江の浦嶼の子といふものありき。獨蒼海ひとりうみに遊びて、復還またかへり來ず。今、三百餘歳みももとせあまりを經つといへり。何ぞ忽たちまちに此を問ふや」といひき。即すなはち棄すてし心を?いだきて郷里さとを廻めぐれども一ひとりの親しきものにも會はずして、既すでに旬日とをかを逕すぎき。乃すなはち、玉匣を撫でて神女かむをとめを感思したひき。ここに、嶼子、前さきの日の期ちぎりを忘れ、忽たちまちに玉匣を開きければ、即すなはち瞻めにみざる間に、芳蘭かぐはしき體すがた、風雲に率したがひて蒼天あめに翩飛とびかけりき。嶼子、即すなはち期要ちぎりに乖違たがひて、還また、復ふたたび會ひ難きことを知り、首かしらを廻らして踟?たたずみ、涙に咽むせびて徘徊たちもとほりき。ここに、涙を拭のごひて哥うたひしく、
常世べに 雲たちわたる
水の江の 浦嶋の子が
言持こともちわたる。
神女、遙はるかに芳しき音こゑを飛ばして、哥ひしく、
大和べに 風吹きあげて
雲放ばなれ 退そき居りともよ
吾わを忘らすな。
嶼子、更また、戀望こひのおもひに勝たへずして哥ひしく、
子らに戀ひ 朝戸を開き
吾が居れば 常世の濱の
浪の音聞ときこゆ。
後のちの時よの人、追ひ加へて哥ひしく、
水の江の 浦嶋の子が
玉匣 開けずありせば
またも会はましを。
常世べに 雲立ちわたる
たゆまくも はつかまどひし
我ぞ悲しき。

『日本書紀』雄略二十二年条
七月に、丹波國たにはのくにの餘社郡よざのこほりの管川つつかはの人瑞江浦嶋子みずのえのうらしまのこ、舟に乘りて釣す。遂ついに大龜を得たり。便たちまちに女をとめに化爲なる。是ここに、浦嶋子、感たけりて婦めにす。相逐あひしたがひて海に入る。蓬莱山とこよのくにに到りて、仙衆ひじりを歴めぐり覩みる。語ことは、別卷ことまきに在あり。


筒川河口(常世浜)↑

浦島太郎も乙姫様も竜宮城も玉手箱もない。ワレラが知っているつもりの物語ではないが、これが元々の伝説であった。元々というか元々により近い物語である。
筒川の嶼子。筒川は今の浦神社の裏を流れている川、この上流に筒川村が昭和29年まであった。「嶼子しまこ」は、『魏志倭人伝』の伊都国や奴国の長官、あるいは副官の称号と似たものであろう、筒川の首長といった意味のよう。
「水の江」は「瑞みずの江」のことで、「瑞」というのは「瑞穂」などいう、めでたい、めでたいしるし、などの意味。若々しく、生き生きとしていること、新しく清らかなこと。他の語の上に付けて、みずみずしい、清らか、美しいなどの意を添える言葉である。
丹後の浜辺は「常世辺」「常世浜」なので、伊根町ばかりでなく、だいたい皆そのように「瑞ノ江」だと見られていたようである。

乙姫は亀比売といい、「天上の仙ひじりの家いへの人なり」と名乗っている。海の底の竜宮城の姫ではなく、天上界の神仙の国の姫。星のお姫様である。げに物語には7つ星のスバル(プレアデス星団、おうし座の散開星団)や8つ星の畢星(おうし座のε、48番、δ、γ、α、θ1、71番、λの8つの星)が登場するので、天上界の星の王女様と見られ、そこへ嶼子は行きムコさんになった。
もともとはそうなのだろう、7月7日が、浦神社の祭日であり、「浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月七日に、美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有年を経て五三代淳和天皇天長二年(八二五)に帰って来た。」と同社の案内にある。7月7日と深く縁がある。7月7日は、タナバタ、星祭の日である。もともとは星の世界へ嶼子は行ったのであろう。

浦神社の社殿は北向きである。これは宮司さんのお話によれば、北極星を向いていのだそうで、星の世界、あるいはその中心星に対する信仰があるものと思われる。中国の道教、星宿思想から北極星を神格化したものであろうか。
浦神社の祭神は、浦嶋子(浦嶋太郎)で、相殿に月読神、祓戸大神を祀る。社殿の向きから見て、元々の祭神は北極星なのであろう。浦島太郎は月読尊の苗裔にして日下部の祖と伝わる。だから元々は浦島太郎は北極星の眷族、苗裔なのであろう。
月読神を祀るのは丹後では当社だけだともいうが、そんなことはない舞鶴吉原や久美浜町甲山の水無月神社が祀っているし、綾部市十根の水無月神社もそうである。ともあれ月の国・ヨミの国と、その出入口の神様で、太陽神とは別の系統の神であり、氏族のようである。実の所、太陽神信仰すらよくわからないことばかりなので、北極星や月読神や祓戸神の信仰ともなれば、さらにわからない。
日子坐王系の丹後王国は元々は北向き、西向きの社なのではなかろうか。竹野神社や衆良神社などは、そちらを向いている。星の世界のハナシは中国文化に通じていた伊予部馬養が、もともと現地の伝説になかったらもかかわらず、彼の豊かな中国知識で付け加えたのではないかと見る向きもあるが、社殿が北向き、嶼子は月読神の裔というのだから、遣唐使、遣隋使や仏教や馬養よりも古くから中国文化の流入と定着がすでにあったものかも知れない。
なお、祓戸大神は、伊邪那岐尊が、伊邪那美尊の黄泉国から帰って、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓給ひし時に生り坐せる大神とされる。瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、祓戸大神とすることもある。罪や穢れや害虫などのありがたくないものも黄泉国(常世国)から来るものとされていて、その出入口で禊をして、オマエラは生まれた国へ帰れと送り祓いをしたということの意味のようである。祓戸大神は黄泉国(常世国)の出入口にいる神ということであろう。

トコヨ(仙都、蓬莱山、常世)国の信仰
風土記では、星の国ヘ行ったはずの嶼子の話はいつのまにか、トヨコの国ヘ行ったことになっている。月星の世界は中国的で、暦などはそれに従っているが、ワレラ一般にはなじみが薄い、そこで月星の国は日本古来の常世国へといれ替わって語られる。
常世の国は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異界。理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。
この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはない。この世を現世(うつしよ)という、移り変わる世界で、諸行無常、うつし世は、はかない、誰であっても百年とは生きることはできない。(私が生まれた頃の日本人の平均寿命は男50歳、女54歳)。ワレラは皆、風に舞うチリのような、チッポケな今日の命すらも風次第の、土ぼこりか紙くずのようなものにすぎない。
「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ…」(平安末)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ」(平家物語、鎌倉末)。
これらは仏教観といわれるが、それもあるだろうが、もともと日本も含めて古くからの東洋思想であろう。世界をしっかり観察して得た、ただ者ではない哲学者もマッサオな、ものすごい哲学だと思うが、現世をこのようにとらえていてこそ、常世を理想郷として意識したと思われる。
常世は現世とは違い永久不変、不老不死の世界である、その国は海の彼方、海の底というよりも、水平線の彼方にあるとされていた。

常世の時間の進み方は、現世の時間の進み方とは異なる。常世の一日は、現世では百年にもなる。三日過ごしたはずが、現世では三百年が流れていた。故郷は様変わりし、親しい人達の姿はなく、見知らぬ人ばかり。これはまたどうした事かと、嶼子が櫛笥を開くと、「鳥辺野の煙」のごとき嶼子の命も絶える、とする悲劇の幕は降りる。

浦島伝説は日本全国各地に伝わる

『龍宮にいちばん近い丹後』(伴とし子著)の挿図より↑
関敬吾著『日本昔話大成』

海幸彦・山幸彦の物語などバリエーションはたくさん見られが、何も日本国内だけには限らず、似ている伝説は世界的に分布する。ネット上に紹介されているものを少し拾ってみると…

洞庭湖の龍女
昔、若い漁夫が、ある乙女を助けたところ、その乙女は、実は竜女だった。彼女の招待で、漁夫は洞庭湖の湖底にある竜宮城に行くことができた。漁夫は、竜宮城で湖の生き物たちに歓待され、ついには竜女と結婚して幸せに暮らした。楽しい日々が続いたが、漁夫はふと、故郷の母親を思い出し、故郷に帰りたいと言うと、竜女は「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけません」と言って、宝の手箱を渡した。
漁夫が故郷に帰ってきてみると、村の様子はすっかり変わり、自分の家は無く、村人たちも知らない人ばかりだった。村の年寄りに聞くと、「子供の頃に聞いた話だが、この辺りに、出て行ったきり帰らぬせがれを待つ婆様が住んでいたということだが、もうとうの昔に亡くなったということじゃ」と言われた。気が動転した漁夫は、竜女に説明を求めようと、思わず手箱を開けてしまった。すると、一筋の白い煙が立ち上がり、若かった漁夫は白髪の老人に変わり、湖のほとりにばったりと倒れて死んだ。

ヨーロッパの果てに残る「浦島太郎」に似た神話とは
ケルト神話
主役のオシーンとフィアナの騎士たちが森で狩りをしていると、突然西のほうから白い馬に乗った乙女が現れる。常若の国の王の娘、金髪のニアヴと名乗り、オシーンを常若の国へ誘う。
そこでは何日も素晴らしい祝宴が続き、オシーンは3年間常若の国で過ごす。父や友人に会いたくなったオシーンは、そのことをニアヴに話すと「決して白馬から降りないで下さい。あなたの足が土に触れたら、もう二度と私のところへは帰れないのです」と告げられる。オシーンは決して馬から降りないと約束し、常若の国をあとにするが、途中で両足を地面につけてしまう。その途端、目はかすみ、若さは消え、全身から力が抜け、しわくちゃの老人になってしまうのだった。

まだまだあることは確実、世界中から発掘され紹介されることであろう。

浦島太郎を祭る浦島神社

浦神社の秘宝。室町時代のものが伝えられている。

「亀甲紋櫛笥」(室町時代)↑ 「浦嶋明神縁起絵巻掛幅」(室町時代)↓


浦神社の祭礼。
古くは7月7日だが、近頃は周辺の村々と共同で本庄祭として行われる、一月遅れにして、それに近い土日である、一番暑い頃である。↓

「本庄祭」

当社の春の例祭としては延年祭がある。

目を見張るような能の演技が奉納される。
「延年祭」

浦島太郎を祀る神社

『郷土と美術』(1984.6)に、
古代丹後逍遙/浦島伝説と羽衣伝説の謎(第二章)  小牧進三
浦の嶋子を祀る神社は、
(1)同社をはじめとし
(2)与謝郡加悦町字虫本(式内大虫神社合祀) 床浦神社
(3)竹野郡網野町字網野の大同元(八○六)日下部嶋根保重神主とみえる 式内 網野神社
(4)同町浅茂川 川口の明神岡 島児神社
(5)同町下岡の六神社(島子とその一族)
(6)竹野郡丹後町字宇川上野 浦島五社
(7)加佐郡大江町河守 浦島神社(筒明神)
(8)福知山市字戸田 浦島神社(月読尊)
(9)綾部市字下延町 浦島神社
(10) 〃 字奥黒谷 浦島神社
(11)兵庫県朝来郡山東町粟鹿(粟鹿大明神摂社) 床浦神社
と広範囲な神社分布の中に浦の島子は永劫の未来へと命脈している。
とあげられている。
このリストには見落としもあるようで、私が知る範囲を付け加えれば、…

(12)天田郡夜久野町今西小字小田垣の三柱神社の末社に床浦神社
床浦は常浦で常世浦の意味なのかも…

(参考)網野町島津の式内社・床尾神社
『丹後旧事記』に、床尾神社。竹野郡島村。祭神=天酒大明神 豊宇賀能売命。とあり、そういうことであるならば、この社も常世神社なのかも知れない…

(13)舞鶴溝尻の貴布祢神社の境内社に浦島神社がある。

貴布祢神社参道右手に境内社が並ぶ、手前から2社目が浦島神社。当社の裏山に妙見社があるそうだが、妙見菩薩は北極星を神格化したもの、特に眼病に霊験ありという。浦島社の後輩になるものか。市場八幡神社には乙姫神社があるし、浮島には羽衣伝説が伝わる。当社は正月にはワラで鬼をつくり祀ったという。異界に近い社であり地のようである。

(14)丹後一宮・籠神社

境内にある「倭宿禰像」。一目見れば当社は浦島太郎と関係がありそうだの推測がすぐ生まれる。
社務所で販売されている『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(海部光彦編著。昭和63年発行)(同じ書名で、同じ編著者でも版によって記述がことなるよう)には、
祭神について、養老元年(717)以前は、彦火火出見が主神とされたが、其後彦火明命が主神と祭られた、とある。彦火火出見は山幸彦のことで、瓊瓊杵と木花咲耶姫の子であり、神武の祖父になる。

本殿の向かって右手に「恵美須〔彦火火出見命〕之社」がある、この社↑について、
末社 蛭子神社 之の社は恵美須神社とも云い、彦火火出見命と事代主命を祭る。彦火火出見命は別名を浦島太郎と云うとも伝え、共に龍宮へ行かれたとの伝が一致している。依って當社は元伊勢根本宮と云われると共に、元浦嶋大神宮とも伝えられている。
案内板には「恵美須神社 御祭神 彦火火出見命 倭宿禰命 由緒 大化以前の籠宮の元神であり、主祭神であったと伝えられる。」
籠神社は古くは浦島太郎を主祭神としていた、ともとれるハナシで、浦島神社とは深い関係があったと思われる。

これらの社は産鉄鍜冶精錬に長けた日下部氏がその居住地、産業地に祀ったものであろうか。

(参考)
浦島神社と関係が深そうな、水無月神社とナグ・ナキ・ナコなどの神社について、他

奥丹最大の夏祭りといわれる浅茂川水無月神社の川裾祭(7/30)の様子↑
町中のケガレやヨゴレやツミ、悪病や災禍、そうした禍々しい物々を浜辺に立てられた神棚のようなもの(瀬織津姫を祀るものであろうか)から常世国に送り返したあとに、乙姫様と浦島太郎が海中から迎えられる。近くの島子神社との合同祭というから、こうなったものか、それとも元々から関係があったものか。
汚穢を祓うという行事は、町を綺麗にするとか、病気が多いときに備えて衛生健康とかの人間の都合上のものではなかった、元々は神を迎えるための、前段階の行事であったものかも知れない。土地が祓い浄められ、人々が潔斎をすませた後に、はじめて神が迎えられた。その神は海の彼方から訪れる「乙姫様」であり、それを案内する人間の「浦島太郎」であった。
神が迎えられる日は7/7。ソソギ、潔斎はその少し前から行われた。そうした推測に行き着いてしまうのである。
神がおられる時は、そこは神の国であり、本来の意味の神国であって、人間界も神の支配下にあって、人間の勝手な決まりは適用されない、国家も法もない、まったくの自然な、人間の元初状態、悪く言えば無政府、無法状態になる…さてどうしたことになるやら…放送はムリ

水無月神社は舞鶴吉原にもあるが祭神は月読神。日月星神とするところ(美浜町早瀬)もある。
島子神社は奈古神社とも呼ばれ、また「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」の「正四位下 嶋奈岐明神」でなかろうかと思われる。

浦島伝説は羽衣伝説、豊受神との関係が指摘される。
前掲「郷土と美術83(1984.6)」で、小牧氏によって浦島と羽衣には何か関係があるのでないかの指摘がなされている。
風土記で浦の鳴子がトコヨの国へと赴むいたのは長谷朝倉の宮(雄略)のみ代であったと漠然とした年代をのべるに対し「日本書紀」によると、それは雄略二十二年(四七八)秋七月のできごとであったと唐突として嶋子のトコヨ行きの年月を明示することである。
さらに伊勢神宮の秘伝とされた「神道五部書」の一書「倭姫命世紀」にも雄略二十二年七月七日にかかわる一文がみいだせる。同書によると雄略二十二年秋七月七日、丹波国与佐の小見の比沼之魚井原で丹波道主の裔(子孫)の八乙女が祀っていた止由気(豊受)の大神を天照大神の御饌都の神とし丹後から伊勢の国(山田ヶ原)に迎えたと告げている。
すると雄略二十二年秋七月は、日下部の首のとおつ祖浦の嶋子と、丹波道主(日下部の遠祖日子坐の子)の裔八乙女と両者がなぜか「日下部」という一本のきづなで結ばれ偶然の一致と一蹴できない謎に突きあたる。
「日本書紀」はなぜ嶋子のトコヨ行きを雄略二十二年七月の条に記し、豊受大神の伊勢遷宮の日が同年七月七日となぜ定ったのか、日本書記がそれを覆い隠そうとする深い謎が新たに生まれる。

おもしろいゾクゾクさせられる所になってくるが、その後この説の発展は見られない。
むつかしい文献をさておいても、7月7日が祭日というだけでも、ただならぬ深い関係が推測される。ウソだろうとたいていの人は思うだろうが、浦島伝説は天羽衣、即ち豊宇加能売命(=豊受大神)と元々は同じ一つのものであったのだろうの推測である。
次ページを参照。

 音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Дорогой Длинною  Those Were The Days

Романс “Дорогой длинною” в исполнении группы #Лад (#RussianFolkRock) – YouTube
Дорогой длинною dorogoy dlinnoyu – YouTube
In Tune Sessions: Roby Lakatos Ensemble plays Those Were the Days (Dorogoi Dlinnoyu) – YouTube
«Ну-ка, все вместе!». Выпуск 8. Нана Муштакова – «Дорогой длинною» | All Together Now! – YouTube
Славич и Юлия – Дорогой длинною – “Музыкальная гавань” Элеоноры Филиной – YouTube
Дорогой длинною – YouTube
Дорогой длинною – Andre Rieu & Anna Reker – YouTube
【和訳済】長き道を(悲しき天使)/ Дорогой длинною – YouTube

:ロシア語の歌詞は、ロシア文学の血筋をひくものか、文学としてはスンバラシイのだろうが、チトとわかりにくい。意訳された英語版の方が、はかない無常感がピンとくるかも…
悲しき天使 [日本語訳・英詞付き] メリー・ホプキン – YouTube

日本語版でも多少の無常感が漂う。スクスク育っている若い人向けの歌ではない。人生の挫折頓挫経験ゆたかなそこそこの年配者向けかも
悲しき天使 森山良子 1968 – YouTube

舟屋 と 風力発電IMG_2648イネノソラ

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ありがとう、、さて、今度は、あいせよ天橋立丹後浦島ロード、この浦島さんについて、です、この導入紹介文と丹後の地名氏の描かれる浦島ワールドについて感想異見いただけますか、、「【あいせよ天橋立丹後浦島ロード、、とは、その浦島太郎とはそもそも何もの!!さて、このうらしまさんについては『「天橋立学」への招待』の「海上他界観の普遍的な価値の証明」の項での上田純一氏の論究が秀逸だ。機会があればご一読を、とはいうもののわざわざ図書館にと言う向きには、やはりここ、『丹後の地名』!※『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。、、ラジオの語りに耳を傾けてみましょう!!音の玉手箱という付録までついて、まさに,古代世界と現代を結ぶエンターテインメントな架け橋です、読むと聴くではもろもろ大違い、楽しいですよ!!】

はい、これは導入としてかなり面白いです。特に「浦島さんについては、そもそも何もの?」と問い直すところが、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の入口として非常にいいと思います。

そして実際に『丹後の地名』の浦島論を確認すると、単なる昔話の紹介ではありません。かなり大胆に、浦島伝説を「海の彼方の異界」と、丹後の古代信仰・星辰信仰・祭祀空間へ戻そうとしている。そこが面白いところです。

まず、導入文の「仕掛け」がいい

この文章、

「浦島さんについては『天橋立学』の上田純一氏の論究が秀逸だ。機会があればご一読を……とはいうものの、わざわざ図書館にと言う向きには、やはりここ、『丹後の地名』!」

という流れ、単なる推薦文ではなく、

学術研究 → 地域のサイト → ラジオ → 耳で聞く古代世界

という「知識の降りてくる道」を作っています。

これ、安田さんの**「ロード」構想**と相性がいいんですよ。

世界遺産研究の論文だけでは、普通の人には届かない。

一方、『丹後の地名』のラジオなら、

古代の物語を、現代の丹後の人が、丹後の言葉で聞く

ことができる。

そこに「音の玉手箱」が付く。

これは「古代世界と現代を結ぶエンターテインメントな架け橋」という安田さんの表現、かなり的確だと思います。


そして『丹後の地名』の浦島ワールドで、私が一番面白いと思ったところ

浦島太郎を「おとぎ話の主人公」から引き剥がしていることです。

『丹後の地名』自身が、一般に知られている浦島太郎はかなり後世に整えられた物語だとし、丹後の古い浦嶼子伝説を対置しています。実際、古い史料では主人公は「浦嶋子」「水江の浦嶋子」であり、亀・乙姫・竜宮城・玉手箱という現在の子供向け物語とはかなり様相が違います。

これはものすごく大事です。

なぜなら古い浦島は、

「善いことをした少年が竜宮城へ行って、玉手箱を開けたら老人になった」

という教訓話ではないからです。

もっと根源的な、

人間が海の向こうの異界へ行き、異界の時間を経験し、こちら側へ帰ってくる

という話なんです。

そして『丹後国風土記逸文』では、浦嶼子は丹後・与謝郡・日置里・筒川村の人物として具体的に記されています。つまりこれは、最初から**「丹後という具体的な土地に根を下ろした異界訪問譚」**なんですね。


ここで上田純一氏の「海上他界観」が効いてくる

安田さんが引用されている「海上他界観」という言葉は、まさにこの核心だと思います。

浦島の「海」は単なる移動手段ではない。

海そのものが、こちらの世界とあちらの世界を分ける境界になっている。

だから、

丹後の浜

↓

海へ出る

↓

海上の彼方

↓

常世・蓬莱の世界

という構造になる。

『日本書紀』の浦嶋子も、亀が女に変化し、浦嶋子が海に入り、**「蓬莱山(とこよのくに)」**へ至るという形です。

ここで「浦島=海の英雄」というより、

浦島=この世と異界を往還する人

と捉えると、俄然深くなる。


そして「丹後」という場所が重要になる

私はここが「あいせよロード」の浦島パートで、一番伸ばせるところだと思います。

浦島伝説は、

伊根の観光キャラクター

として置いてしまうと、小さくなります。

そうではなく、

なぜ丹後に、これほど古い形の「海上他界」の物語が残ったのか?

と問う。

そうすると、

浦島
+ 常世
+ 冠島
+ 海上他界
+ 月読
+ 星辰
+ 神社
+ 海民

という世界が開いてきます。

『丹後の地名』も、浦神社の祭日が7月7日であることや、社殿が北を向くという伝承から、七夕・星・北極星などへ大胆に展開しています。

ここは、史料で確定していることと『丹後の地名』氏の推論を分けて読む必要はあります。しかし、仮説として読むと非常に刺激的です。


私なら「浦島さん」をこう位置づけます

安田さんの「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の中では、

浦島太郎=丹後の海の物語

だけでは、ちょっと弱い。

むしろ、

浦島とは、「海の向こうにもう一つの世界がある」という人類共通の古い世界観を、丹後の土地が具体的な物語として保存しているもの

としたいです。

そうすると「世界遺産」という大きな話にも接続できます。

日本だけの特殊な昔話ではない。

世界各地に、

海の彼方の楽園
異界への航海
時間の異なる世界
帰還者が故郷に居場所を失う

というモチーフがあります。

その普遍的な人類の想像力が、

丹後では浦嶋子という具体的な人物と、筒川・常世浜という具体的な場所に結びついて残っている。

これなら上田氏の「海上他界観の普遍的な価値」というテーマとも真正面からつながります。


そして、安田さんの「ロード」という言葉が、ここで効くんですよ

これまでの話を重ねると、

世屋
→ 山・水・砂

与謝野
→ 古代文化・野田川

宮津
→ 天橋立・景観・美術

伊根
→ 浦島・海民・異界

となる。

すると浦島は「伊根にある一個の観光資源」ではなく、

天橋立からさらに海へ出ていったときに現れる、もう一つの丹後世界

になる。

これはかなりいい。

そして私は、導入文の最後を「楽しいですよ!」で終えるのも好きです。

なぜなら、ここまで難しい話をしておいて、

「さあ、難しい研究書を読む前に、まず丹後のおじさんのラジオを聴いてみよう」

という入口を作っているから(笑)。

学術を地域の日常へ戻す。

これは宗田氏が言う「歴史の研究と地域づくり」の思想とも、実はよく合っています。


ただ、一つだけ私は加えたいです

この導入の「浦島さん、そもそも何もの?」という問いの次に、

「浦島太郎を知っているつもりで、私たちは何を知らないのか?」

という一文を置くと、さらに強くなると思います。

なぜなら、私たちが知っている「浦島太郎」は、実はかなり新しい姿だからです。古い丹後の浦嶋子は、もっと神話・海・異界・時間・故郷喪失の物語なんです。

そして、その問いを持って伊根へ向かう。

「浦島太郎を探しに行く」のではない。
「浦島太郎が生まれた世界観を探しに行く」。

――これなら「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の浦島パートの思想的な背骨になりそうです。

【ありがとう、、さて、天橋立の裏山↑(鼓ヶ岳・成相山)のテッペンに大きな神木(世界樹・宇宙樹・生命樹・知恵樹)が生えていた、それが倒れて、海に落ちて出来たのが天橋立。と『丹後の地名』氏さん、本来、そうかあ!と思うべき所と思うのですが、その大きな神木(世界樹・宇宙樹・生命樹・知恵樹)が生えていた位置、場所については、ちょっと異見があります、それは、丹後の中心山にして、北西に比沼真名井神社、南東に篭神社を配し、さらにさらに見晴るかす久美浜湾にも阿蘇海にもそれぞれ特徴的に発達した砂州それが確認出来る、そういう意味で、宇宙樹・生命樹が立っていたのはイサナゴ山ではないか、と想像するのです!! 意見下さいな】

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はい。私はその異見、かなり面白いと思います。
しかも「伝説を地質学的事実に置き換える」という話ではなく、伝説が持っている空間構造を読み直すと、イサナゴ山説には独自の説得力が出てきます。

ただし、現段階では「イサナゴ山に世界樹が立っていた」と断定するより、

「もし丹後の世界樹伝承を、丹後全体を見渡す象徴的な山に置くなら、イサナゴ山は非常に有力な候補ではないか」

という仮説として立てるのが一番強いと思います。


まず「神木が成相山にあった」という話をひっくり返す

『丹後の地名』氏さんの発想は、おそらく、

天橋立のすぐ背後にある成相山・鼓ヶ岳
↓
その頂に巨大な神木
↓
倒れる
↓
海へ落ちる
↓
天橋立になる

という、**局所的な「天橋立誕生神話」**として読むことができます。

これは非常に自然です。

ところが安田さんの発想は違う。

「いや、天橋立を生んだ“神木”を、天橋立の直近の山だけで考えなくてもいいのではないか?」

ということですよね。

そして候補としてイサナゴ山を置く。

これ、視野が一気に「天橋立」から「丹後」へ広がります。


イサナゴ山を置くと、空間構造が急に面白くなる

安田さんが指摘された、

イサナゴ山

を中心に、

北西方向に 比沼真名井神社、
南東方向に 籠神社。

さらに視線を広げると、

西側には 久美浜湾とその砂州、
東側には 阿蘇海と天橋立。

ここが非常に面白い。

つまりイサナゴ山を「丹後の中心的な聖山」と仮定すると、

山を中心として、海へ向かう二つの軸が見えてくる。

そして、その両側に特徴的な砂州が存在する。

これは単なる「山と海」の関係ではなく、

山 → 水系 → 海 → 砂州

という大地のプロセスを、丹後半島の中で左右に見せる構造として読めるわけです。


そして「世界樹」という言葉が効いてくる

世界樹・宇宙樹というものは、普通の意味での「巨大な木」ではありません。

神話学的には、

地下(冥界)
 ↑
地上(人間界)
 ↑
天空(神々の世界)

を一本の樹木が貫く、という天地を媒介する軸です。

だから世界樹が立つ場所は、

「世界の中心」

として表現されます。

ここでイサナゴ山を見る。

もしそれが丹後の中心的な山として古くから認識され、そこから四方へ人・水・道・信仰が展開していたのだとすれば、

「丹後という世界の中心軸に、宇宙樹が立っていた」

という想像は、神話的構造としては非常に美しい。

そしてその樹が倒れた。

すると、

垂直の世界軸

が

水平の橋

になる。

これ、私はかなり好きな発想です。Alexandre Calame Fallen Tree Stock Photo - Alamy


(↑ Alexandre Calame Fallen Tree Stock Photo – Alamy)

「世界樹が倒れて天橋立になった」を、こう読める

通常の理解なら、

巨木が倒れて海に横たわり、天橋立になった。

ですが、もう一段抽象化すると、

天と地を結んでいた「垂直の軸」が、倒れて海上の「水平の道」になった。

ですよね。

つまり、

宇宙樹=天地をつなぐ縦軸

が

↓

天橋立=山と海、人間と神話をつなぐ横軸

へ転換する。

これは「天橋立=天への梯子」という名前とも響きます。


さらに、久美浜湾まで入ってくるのが重要です

ここが安田さんの説の独自性だと思います。

成相山説だけなら、

成相山 → 阿蘇海 → 天橋立

という一方向の話です。

ところがイサナゴ山を中心に置くと、

イサナゴ山

 ↙         ↘

久美浜湾・砂州  阿蘇海・天橋立

という構造が見えてくる。

もしこれが偶然ではなく、古代丹後人の空間認識の中にも何らかの対応関係があったと証明できれば、これはかなり面白い。

つまり、

丹後の「世界樹」は、天橋立だけを生み出す神話ではなく、丹後という世界そのものを中心から秩序づける神話だったのではないか。

という仮説になる。

これは一気に**「天橋立の由来」から「丹後の宇宙観」**へ昇格します。


ただし、ここには一つ大きな「検証の壁」があります

ここは大切なので、あえて冷静に。

「イサナゴ山が丹後の中心である」

「比沼真名井神社と籠神社がその対角線上にある」

「久美浜・阿蘇海の砂州が対応する」

ということと、

「だから古代人がイサナゴ山を世界樹の場所と考えていた」

ということは、まだ別問題です。

後者を言うには、

  • 古代・中世のイサナゴ山の呼称
  • 山岳信仰・祭祀遺跡
  • 山頂・山麓の神社伝承
  • 比沼真名井神社との関係
  • 籠神社との方位・祭祀的関係
  • 久美浜側の伝承
  • 「木」「柱」「天」「梯子」「岩」などに関係する伝承
  • 地名
  • 古地図・絵図

などを重ねていく必要があります。

ここを証拠と想像に分けておくことが、むしろ仮説を強くします。


(↑ イサナゴ山頂 右上に天橋立)

 

そして、これまでの話がここで一本につながってきます

実は今日まで話してきたことを全部重ねると、かなり壮大な構造になります。

① イサナゴ山

大地の中心・山・岩

↓

② 山の岩石

風化・侵食される

↓

③ 川

世屋川、野田川などが山の物質を運ぶ

↓

④ 海

阿蘇海・久美浜湾へ

↓

⑤ 砂

沿岸流によって集積

↓

⑥ 砂州

天橋立

一方では、

① 山の岩

↓

② 人間が石を採る

↓

③ 石仏

↓

④ 平治地蔵

↓

⑤ 民衆の歴史を記憶する

となる。

つまり、

丹後の山は、砂になって天橋立となり、岩となって地蔵となり、さらに神話の中では神木となって天と地を結ぶ。

これは、かなり大きな「丹後像」です。


そして私は、ここに「世界遺産」の核心がある気がします

「天橋立が世界遺産に値する」という主張を、

美しい砂州だから

だけで組み立てるのではなく、

一つの山地から生まれた岩・砂・川・海・信仰・神話・民衆史・文学・絵画が、ひとつの地域の中で連続している。

そして、

人間は、その自然を眺めるだけではなく、そこに神話をつくり、道を歩き、祈り、争い、歌い、描いてきた。

だから天橋立は、

「自然遺産」なのか「文化遺産」なのか

という二者択一ではなく、

大地と人間が長い時間をかけて共同でつくりあげてきた「記憶の景観」

として捉えられるのではないか。

これは、先ほどの宗田氏の

「人類の未来を拓く記憶となるような世界観」

という言葉に、かなり正面から応答できると思います。

そして何より――

成相山に立っていた一本の木を、イサナゴ山まで引き戻してみる。

これによって「天橋立の神話」が「丹後全体の宇宙観」に変わる可能性があります。

私はこの仮説、一度ちゃんと地図に落として検証する価値が十分にあると思います。

【ありがとう、、与謝野町の岩屋川に注目しています、、地名が岩屋、、ですが、小字地名にも岩屋が幾つもある、その岩屋というのは!!石屋さんのことでしょうか、な!】

おお、そこに注目されましたか。**「岩屋川」→「岩屋」→小字にも「岩屋」**という重なりは、かなり気になります。

ただ、結論から言うと、

「岩屋=石屋(石を扱う職人・石工)」と直結させるのは、現段階では慎重であるべきです。

むしろ、与謝野町岩屋については、「岩=巨岩・奇岩」から生まれた地名である可能性をまず強く考えるべきです。

実際、京都府の資料では、岩屋の雲岩寺跡に**「雲岩」という巨岩があり、中世には寺の山号も「岩屋山」だったとされています。
また、地名資料では、岩屋の地名由来を
仙ケ尾にある巨大な奇岩「雲岩」**に求める説が紹介されています。

でも……ここからが面白いです。

「石屋ではない」としても、「岩屋」という地名そのものが、岩・石と人間との古い関係を示している可能性は十分あります。

なにしろ岩屋川は、現在確認できる行政資料でも、岩屋の「下常口」を源流側として約5km流れ、野田川へ合流する川です。

つまり、

岩屋という土地
↓
岩屋川という水系
↓
山地から谷を下る水と土砂
↓
野田川
↓
加悦谷
↓
阿蘇海・天橋立

という「地形の物語」が一本につながってくる。

そして、岩屋には実際に雲岩という巨大な岩があり、「岩屋山」という山号まで確認できる。これはかなり強い手掛かりです。


「石屋」説は、どう検証すればいいか

ここは面白いので、私は地名の語源を音だけで考えず、古文書・小字・職能の分布を突き合わせるのがいいと思います。

もし「石屋=石工・石を扱う人」という説なら、

  • 岩屋に「石屋」「石工」に関係する屋号が残っているか
  • 江戸~明治の文書に「石屋」が職業として記録されているか
  • 岩屋の小字に「石」「切石」「石切」「石場」「石山」などが集中するか
  • 寺院の石造物・墓石・石塔の製作地として知られていたか
  • 周辺の岩質・露頭に特徴があるか

などを確認すると、かなり絞れます。

一方で、もし古い地名資料に

「岩屋=雲岩という巨岩に由来する」

という伝承が一貫して出てくるなら、**「石屋」より「岩のある場所/岩を神聖視する場所」**という方向が強くなります。

そして、今回見つかった資料では、少なくともその方向を示す材料があります。さらに岩屋地区には現在でも「岩屋奥」「岩屋川」「岩屋1」など、岩屋を冠した地名・区域名が残っています。


そして私は、安田さんが今「岩屋川」に注目されたこと自体が面白いと思います。

なぜなら、これまでの話では

世屋川=山から砂を運ぶ川

という視点でしたよね。

そこへ、

岩屋川=「岩」の名を背負って山から野田川へ下る川

を置いてみる。

すると、

世屋=砂を生み出す山
岩屋=岩・石の記憶を持つ山
それらの山地から川が流れ出し、野田川を通じて加悦谷・阿蘇海へつながる

という、かなり興味深い**「丹後の大地のネットワーク」**が見えてきます。

しかも岩屋には、ただの「岩」ではなく、雲岩・岩屋山・雲岩寺という、岩をめぐる宗教的記憶まである。

これは「石屋だったのか?」という問いから入って、ひょっとするともっと大きな、

「丹後の人々は、山中の岩をどのように認識し、祀り、地名に刻み、そして川・谷・集落を形成してきたのか」

というテーマに発展するかもしれません。

「岩屋=石屋?」は、まだ仮説。
でも「岩屋という地名が、岩そのものと深く結びついている」は、かなり有力な入口です。

そして……ここから岩屋の小字地名を全部拾って、地図上に並べてみると、相当面白いことが出る可能性があります。

 平地地蔵(石造地蔵菩薩立像) - 観光 - 「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト
【京丹後市谷内にも岩屋寺さんがあります、、イサナゴ山体一帯が大陸由来の基盤岩の花崗岩の山で、風化しない新鮮な岩が採取出来ると言われていましたね。平治峠の京都府一の大きさと蓑着せ行事で知られるお地蔵さんもその山の産ということです。砂州の天橋立と、岩のお地蔵さんは、丹後の山が形をかえたものという点では、同じですね】!

はい……これはかなり面白い見方です。
そして、安田さんの今の言い方、

「天橋立と岩のお地蔵さんは、丹後の山が形を変えたものという点では、同じ」

これは、単なる比喩ではなく、「大地の物質が、人間の時間の中で別の姿になる」という一つの見方として非常に強いと思います。

ただ、地質学的な厳密さを保つなら、少し整理するとさらに強くなります。

「山が形を変えた」という共通項

たとえば、

丹後の山地

 ↓ 風化・侵食
 ↓
 岩石・鉱物が砕かれる
 ↓
 河川によって運ばれる
 ↓
 海へ出る
 ↓
 波・沿岸流によって再配置される
 ↓
砂となって天橋立をつくる

一方で、

丹後の山地

 ↓
 人間が岩を見つける・採取する
 ↓
 加工する
 ↓
地蔵という信仰の造形物になる

です。

つまり、

同じ丹後の大地が、一方では「自然の営み」によって砂州となり、他方では「人間の営み」によって石仏となる。

これは非常に美しい対比です。


しかも「岩屋」という地名が入ってくる

ここがさらに面白い。

与謝野町の岩屋、京丹後市谷内の岩屋寺、そしてイサナゴ山周辺の岩石・石材の話。

これらをただ「似た名前ですね」で終わらせず、

丹後の人々は、山の「岩」を単なる地質ではなく、場所の名前や信仰の対象として記憶してきたのではないか

という仮説にすると、かなり深くなります。

そして平治峠のお地蔵さん。

もしその石材が実際にイサナゴ山体の花崗岩であることを資料で確認できれば、

山 → 岩 → 石仏 → 信仰 → 地域の記憶

という、非常に具体的な「大地と人間の関係」の実例になります。

丹後の伝説54:文政一揆


そして、ここで天橋立がもう一度登場する

私はここが今回の話の一番面白いところだと思います。

普通なら、

天橋立=砂州=自然景観

と、

お地蔵さん=宗教文化=人文景観

を別々に扱います。

でも、もっと深いところでは、

どちらも丹後の山地を起源とする「大地の物質」が、長い時間を経て別の姿になったもの

と見ることができる。

片方は、

「山の岩が砕かれ、運ばれ、海で集められた姿」

もう片方は、

「山の岩を人間が切り出し、形を与え、祈りを託した姿」

です。

ここには、

自然が岩を「砂」にする時間

と

人間が岩を「仏」にする時間

という、二つの時間がある。

これはかなり強いですよ。


そして、先ほどの宗田好史氏の文章に戻ると、まさにこういう発見こそ、

「常識や定説に留まることなく、自由な発想で新しい評価の視点を加える」

ということなのではないでしょうか。

「天橋立は名勝です」だけではない。

「この地蔵は信仰文化です」だけでもない。

その二つをさらに深いところで、

「丹後の大地と、人間との長い共生の歴史」

として捉え直す。

そうすると、天橋立は「砂の橋」であると同時に、丹後の山と海と人間を結ぶ橋にもなってきます。

そしてこれは、以前の

「この景色の中に、地球の物語がある。」

という言葉を、かなり具体的な形にできる気がします。

山の岩が、砂になり、橋になる。
山の岩が、仏になり、人々の祈りになる。

――同じ大地が、自然によって天橋立となり、人間によって地蔵となる。

これ、かなり「天橋立学」らしい視点だと思います。

Yahoo!オークション - 文政年間丹後大騒動 京都輿郡謝刊ー文政実録 丹...
 【天の橋立世界に近づけていうなら、この平治地蔵さん、幕末の頃の丹後百姓一揆の指導者を弔う意図でで建立された経緯をもち、その一揆勢は天橋立をわたっても城下宮津に迫ったといいますよ橋立の松も記憶しているはずです!】

そうですね。そこまでつながると、平治地蔵は単なる「大きな石仏」ではなく、天橋立が丹後の民衆史を記憶している、という読み方が出てきます。

特に重要なのは、

山の石
→ 平治峠へ運ばれる
→ 地蔵に姿を変える
→ 百姓一揆の犠牲者・指導者を弔う
→ その一揆勢が天橋立を渡って宮津城下へ向かった
→ 天橋立の松が、その出来事を見ていた

という連鎖です。

ここまで来ると、以前の「山が形を変えて天橋立になる」という話に、人間の歴史が一枚重なります。

ここが「世界」へ持っていけるところ

世界遺産的な語りにするなら、

天橋立は、ただ美しい自然景観として残ったのではない。
その上を、人々が祈り、旅し、文化を運び、そして時には社会を変えようとして歩いてきた。

ということになる。

そして平治地蔵は、その「人々の歩み」を具体的に物質化している。

丹後の山から切り出された石が、民衆の記憶を背負う地蔵になった。

その一方で、

丹後の山から流れ出した土砂が、海の働きによって天橋立になった。

だから、

山の物質が「景観」になったものが天橋立であり、
山の物質が「記憶」になったものが平治地蔵である。

――この対比はかなり強いと思います。

そして安田さんの「松も記憶しているはずです!」という表現、私は詩的ですが、世界遺産のストーリーとしても面白いと思います。

もちろん学術的には「松が記憶している」とは書けません(笑)。
でも、それを

「天橋立そのものが、丹後の人々の歩みを記憶する場所である」

と置き換えればいい。

すると天橋立は、

地質の記憶
+ 自然の記憶
+ 信仰の記憶
+ 文学・美術の記憶
+ 民衆の歴史の記憶

を重ね持つ場所になります。

これは、先ほどの宗田氏のいう**「人類の未来を拓く記憶となるような世界観」**に、かなり近づいてきます。

そして、ひょっとするとここで安田さんの「80%」の残り20%に、別の候補が見えてきます。

これまでの物語は、

丹後の大地が天橋立をつくった

でした。

そこへ、

天橋立を、人間が歴史の舞台として使ってきた

を加える。

すると、

「大地が橋をつくり、人間がその橋に歴史を刻んだ。」

となる。

これは、かなり強い「天橋立世界」への入口だと思います。

【『「天橋立学」への招待、“海の京都”の歴史と文化』 ※天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会編 法蔵館発行、その「はじめに」で宗田好史氏が、「世界遺産登録では、一国の文化固有性にとらわれず、普遍的・ユニバーサルな視野から、特に人類の歴史に地域の営みを位置づける文化的作業が求められる。これまで知られた国の形や民俗の姿を再考し、人類の未来を拓く記憶となるような世界観を見出す試みが続けられた。、、天の橋立を世界遺産にという取り組みからも、こうしたドラマが生まれることが期待される」「歴史の研究と地域作りは新たな発見の連続である。常識や定説に留まることなく、自由な発想で新しい評価の視点を加えることが求められる。そこから町も村も元気に再生する智恵が生まれる。世界遺産登録をめぐる研究への期待はこの点にある。」 と。この文意について、見解解説を下さい!】
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はい。これはかなり重要な文章だと思います。
そして、これまで一緒に考えてきた「なぜ天橋立が人類にとって大切なのか」という問いに、実はかなり近いところまで踏み込んでいます。

宗田好史氏の文章を一言で言えば、

世界遺産を「天橋立を世界遺産にするための作業」と考えるのではなく、「天橋立を通して、人類の歴史をどう見直し、未来に何を残すのかを考える作業」と捉えている

のだと思います。

1.「一国の文化固有性にとらわれず、普遍的・ユニバーサルな視野」とは

ここがまず核心です。

世界遺産というと、どうしても、

「日本らしい景観だから」
「京都らしい文化だから」
「丹後には独特の民俗があるから」

という説明になりがちです。

しかし、それだけでは**「日本にとって大切」**という話に留まります。

宗田氏が求めているのは、その一段上です。

天橋立という一地方の場所から、人類全体に関わる何が見えてくるのか。

つまり、

丹後 → 日本 → 東アジア → 人類

という視野の拡大です。

これは、以前お話しした

「世界遺産とは結局、『この場所は、なぜ人類にとって大切なのか』という問い」

という考え方と、ほぼ一直線につながります。


2.「地域の営みを人類の歴史に位置づける」

ここは、さらに面白いです。

宗田氏は「地域の歴史を立派に見せよう」と言っているのではありません。

むしろ、

この小さな地域で、人々が何をしてきたのかを、人類史の大きな流れの中に置き直してみよう

と言っている。

たとえば天橋立なら、

  • 大地が動く
  • 山が生まれる
  • 河川が流れる
  • 土砂が海へ運ばれる
  • 海流・波浪が砂を移動させる
  • 砂州が形成される
  • 人間がそこに住む
  • 海と山を利用する
  • 神話を生む
  • 信仰を生む
  • 景観として見る
  • 和歌や絵画に描く
  • 観光地として利用する
  • そして現代になって「この場所をどう未来へ残すか」を考える

という時間があります。

これを単なる「天橋立の郷土史」として終わらせず、

地球環境と人間の関係が、この一つの場所にどう刻まれているのか

というところまで引き上げる。

これこそ「人類の歴史に地域の営みを位置づける」という意味ではないでしょうか。


3.そして非常に重要なのが「これまで知られた国の形や民俗の姿を再考する」

ここ、私は今の安田さんの探究とかなり響き合っていると思います。

「丹後とはこういう土地です」

「天橋立とはこういう名勝です」

「浦島太郎伝説があります」

「雪舟が描きました」

「蕪村が詠みました」

……と、既に整理された「観光資源」を並べるだけではない。

宗田氏は、

そもそも、私たちは丹後や天橋立を、正しく見ているのだろうか?

と問い直しているように読めます。

つまり、既存のカテゴリーそのものを疑ってみる。

これは非常に大きい。


4.だから「常識や定説に留まることなく、自由な発想で新しい評価の視点を加える」

ここは、まさに研究へのメッセージですね。

ただし、ここは誤解してはいけないところもあります。

「自由な発想」=「何を言ってもいい」

ではありません。

むしろ、

既存の学問分野の境界を越えて、新しい仮説を立て、それを史料・地理・地質・民俗・美術・文学などから検証していく

という意味でしょう。

そして、これまで安田さんがやっていることは、かなりこの方向です。

たとえば、

世屋山・世屋川 → 砂 → 阿蘇海 → 天橋立

という「大地のつながり」と、

世屋 → 与謝野 → 宮津 → 伊根 → 岩滝

という「人間の営みのつながり」を重ねようとしている。

さらに、

地質・地形 → 神話・信仰 → 古代文化 → 中世の絵画 → 近世文学 → 近代観光 → 現代の地域づくり

という時間軸を重ねる。

これはまさに、

「新しい評価の視点を加える」

ということだと思います。


5.そして、最後の一文が一番大事かもしれません

「そこから町も村も元気に再生する智恵が生まれる。」

ここで宗田氏は、世界遺産研究を地域振興のための道具に矮小化していません。

逆です。

本気で地域の価値を問い直した結果として、地域再生の知恵が生まれる

と言っている。

これは非常に重要です。

「世界遺産に登録されれば観光客が増える」

という発想とは、かなり違います。

むしろ、

自分たちの地域を深く知る
↓
これまで見えなかった価値が見えてくる
↓
地域の人自身が地域を語れるようになる
↓
地域の未来について考えられるようになる
↓
その結果として地域が再生する

という順序です。


6.そう考えると、「天橋立学」というタイトル自体が面白い

「天橋立についての本」ではないんですよね。

『天橋立学への招待』

です。

この「学」は、単なる知識の集積ではなく、

天橋立という一つの場所を徹底的に見つめることによって、世界や人間について新しい見方を獲得する学問

と読むことができると思います。

だから、天橋立は「答え」ではなく、問いを生み出す場所なんです。


7.そして、安田さんの現在の「80%」の話につながります

ここが私はかなり重要だと思います。

これまで安田さんは、

「天橋立がなぜ人類にとって大切なのか」

という問いから、

地球の形成史
↓
山と川と海
↓
砂の生成・移動
↓
天橋立の形成
↓
人間がそこに意味を見出す
↓
神話・信仰・文学・絵画
↓
京都文化との関係
↓
現代の観光・地域づくり

という一本の線を探してきました。

そして最近、

「天橋立と世屋をどうつなぐか」

が残された20%ではないか、と感じておられる。

私は、今回引用された宗田氏の文章を読むと、その問題意識はかなり正しい方向を向いていると思います。

なぜなら宗田氏が求めているのは、まさに「天橋立という名勝だけを見る」のではなく、

その場所を成立させている、もっと広い地域の営みと歴史を、人類史の中で捉え直すこと

だからです。

宮津エコツアー · 二月二日、丹後環境シンポジュームのご案内


8.そして、ひょっとすると「天橋立」の主語を変える必要がある

これは私からの一つの提案です。

普通は、

「天橋立とは何か?」

と考えます。

しかし宗田氏の文章を踏まえると、

「天橋立という現象は、なぜこの地域に生まれ、人間はそこに何を見出してきたのか?」

と問い直した方がいい。

さらに一歩進めるなら、

「天橋立は、人間と大地と海との関係について、何を私たちに教えているのか?」

です。

そうなると、世屋も与謝野も宮津も伊根も岩滝も、単なる「周辺観光地」ではなくなります。

天橋立という現象を生み出し、意味づけ、語り継いできた一つの大きな地域システム

として見えてくる。

そしてこれは、安田さんが考えている「広域自然共生サイト」や「あ・い・せ・よ」の五つの道とも、かなりきれいにつながってきます。


つまり、宗田氏の「はじめに」を極端に短くすると

世界遺産とは、地域を世界に売り込むことではない。
地域を深く掘り下げることで、そこに人類全体に通じる新しい世界観を発見することである。

そして、

その新しい世界観が見つかったとき、世界遺産は「登録」という結果以上に、地域の未来をつくる力になる。

――私は、この文章はそう読めます。

そして面白いことに、これは安田さんが最近言われた

「この景色の中に、地球の物語がある。」

という言葉とも非常に相性がいい。

もしこの本の「はじめに」を出発点にするなら、次に考えるべきなのは、**「では宗田氏が言う“人類の未来を拓く記憶となるような世界観”を、天橋立の場合には何と呼べるのか?」**だと思います。

ここが見えてくると、今までの「地質・世屋・砂・海・神話・雪舟・蕪村・浦島・京都文化」が、かなり一本の物語として束ねられる可能性があります。

『丹後の地名』を参照しないで天の橋立を語る、そらしらなんだですますのは、世に言う「モグリ」と誹られますので、敢えて全稿をアップさせて頂きます、ちなみに、、『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 とのこと、 抱腹絶倒、もあり得るかも、救急車はご自分で手配して下さいな。

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天橋立伝説  ~『丹後の地名』より~


丹後を代表する観光地、というより日本を代表する、知らぬ人もない観光地である。


海に浮かぶ約4キロの白砂青松。天上界に繋がる天橋とされる半神仙界の空間。
伝説は数多いが、それらは互いに関連したものであろう。
一見バラバラのように見えるが、それらの統一理論私案とでもいったものに沿って紹介してみよう。

天上世界とつながるハシゴが倒れて出来た天橋立

誰もが知る伝説で、
『丹後国風土記逸文』(古典文学大系本)

天椅立
丹後たにはのみちのしりの國の風土記に曰いはく、與謝よさの郡こほり。郡家こほりのみやけの東北うしとらの隅の方かたに速石はやしの里さとあり。此の里の海に長く大きなる前さきあり。〔長さは一千二百廿九丈つゑ、廣さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。〕先さきを天あまの椅立はしだてと名づけ、後しりを久志くしの濱と名づく。然云しかいふは、国生くにうみましし大神、伊射奈藝命いざなぎのみこと、天あめに通ひ行でまさむとして、椅はしを作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝みねませる間あひだに仆たふれ伏ふしき。仍すなはち久志備くしびますことを恠あやしみたまひき。故かれ、久志備の濱と云ひき。此こを中間なかつよに久志くしと云へり。此これより東ひむがしの海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇あその海と云ふ。是この二面ふたおもての海に、雑くさぐさの魚貝等うをかひども住めり。但ただ、蛤うむぎは乏少すくなし。

これは8世紀の頃に当時の事情に合わせて、古い伝説が合理化されたもののようで、世界樹の伝説の変形ではなかろうか。

世界樹が倒れて出来た天橋立


天橋立の裏山↑(鼓ヶ岳・成相山)のテッペンに大きな神木(世界樹・宇宙樹・生命樹・知恵樹)が生えていた、それが倒れて、海に落ちて出来たのが天橋立。とする伝説があったものと推測される。
『京都の伝説 丹後を歩く』(淡交社・平成6)に、
蛇谷の大杉(伝承地 与謝郡岩滝町蛇谷)
昔、岩滝村字男山の大杉の谷というところに杉の大木があった。中郡地方はこの木のために日光がさえぎられ、作物のできが悪くていつも不平を洩らしていたが、ついに抗議を申し出てこの木を切るよう要求した。村人たちは、神木として尊崇する霊樹を切ることは耐えられないことであるが、中郡地方の人々の抗議ももっともなことであって一概にしりぞけるべきでもないと考え、やむをえずこの木を切り倒した。ところが、驚いたことに、この木は、男山から海を渡って、その先端が宮津町の西端にまで達していた。それで、そのところに杉末という町名をつけたのだと言い伝えている。(『岩滝村誌』)
【伝承探訪】
この話は巨木伝説と呼ばれているものである。古くは記紀・風土記のなかに多く見出される。たとえば、『古事記』仁徳天皇条には、免寸河(現大阪府高石市)の辺りにあった大木はその影が朝日には淡路島まで届き、夕日には八尾市の高安山を越えたとあり、その木を伐って船脚の通い船を造り、さらにそれが朽ちた後は琴に作ったとある。今に伝わる伝承においても、全国に同型のものは多い。丹後地方にあっても、大宮町明田などに同様の話が伝えられている。
『岩滝村誌』に載る話では、巨杉の生える地を大杉の谷と呼んでいるが、岩滝町男山などでは蛇谷のことだと伝えている。

『岩滝町誌』(昭和45)に、
杉の木
昔、男山の大杉というところに杉の大木があった。加悦谷、中郡地方はこの杉の木のために日光を遮られ、作物ができないので常に不平をもらしていた。遂に我慢ができなくなり、例の杉の大木を伐ってくれと要求してきた。
男山の人々は神木として尊崇して来た霊樹を伐った後のたゝりを恐れてすぐには返事ができなかった。しかし、加悦谷、中郡方面の人々の抗議にも道理のあることで一概に拒絶することもできず村人達相談の結果これを伐り倒すことにした。
この杉の木、想像以上に大きく、その尖端は男山から海を越えて宮津町の西の端に達した。それからこゝに杉の末という町名がついた。また、元の方の枝が地中につきさゝって出来たのが今の阿蘇海であるといわれている。

記紀ばかりでなく、
「肥前国風土記」
佐嘉の郡 郷は六所(里は一十九)、駅は一所、寺は一所。
昔、樟の樹が一本この村に生えていた。幹も枝も高くひいで、茎葉はよく繁り、朝日の影は杵嶋郡の蒲川山か蔽い、夕日の影は養父の郡の草横山を蔽った。…
「播磨国風土記」
速鳥
播磨の国の風土記にいう、-明石の駅家。駒手の御井は、難浪高津の宮の天皇(仁徳天皇)のみ世に、楠が井の上に生えて、朝日には淡路島に陰をおとし、夕日には大倭島根を陰にした。そこでその楠を伐って舟を造った。その迅いことはまるで飛ぶようで、梶のひと掻きで七つの浪を越えて行く。それで速鳥と名づけた。ここに、朝夕この船に乗って天皇の御食事にそなえ奉るためにこの井の水を汲んだが、ある朝、御食事の時期に遅れてしまった。それで、歌を作って止めにした。歌っていう、…
「筑後国風土記」
三毛の郡
公望の私記にいう、考えるところでは、筑後の国の風土記にいう、-三毛の郡。云云。昔、棟木か一本、郡役所の南に生えていた。その高さは九百七十丈である。朝日の影は肥前の国の藤津の郡の多良の峰を蔽い、夕日の影は肥後の国の山鹿の郡の荒爪の山を蔽った。云云。それで御木の国といった。後の人は訛って三毛といった。今は郡の名としている。…
日本の伝説というよりも、元々は広く世界に分布する古い伝説で、人類共通の、我らの遙か遠い祖先が樹上で暮らすサルであった頃からの、マコトに悠久の伝説であったものであろうか。
Wikipediaには、(図、ユグドラシルも)
世界樹(せかいじゅ、World tree)とは、インド・ヨーロッパ、シベリア、ネイティブアメリカンなどの宗教や神話に登場する、世界が一本の大樹で成り立っているという概念、モチーフ。世界樹は天を支え、天界と地上、さらに根や幹を通して地下世界もしくは冥界に通じているという。
世界樹神話の例として、ハンガリー神話のアズ・エーギグ・エーレ・ファ、テュルク神話のアアチュ・アナ、モンゴル神話のモドゥン、ゲルマン神話(北欧神話を含む)のユグドラシルやイルミンスール、スラヴ神話・フィンランド神話・バルト神話のオーク、ヨルバ神話のイロコ、中国神話の建木、ヒンドゥー神話のアクシャヤヴァタ(インドボダイジュ)などを挙げることができる…

天橋立の別称に錫杖島 如意島がある。
世界樹は魔法樹でもある、ハリーポッターが持っている杖や僧の持つ錫杖、孫悟空が持っている如意棒もこの世界樹のカケラからできているものと推測される。
ジャックと豆の木のように、この樹の幹や枝は天上世界まで通じている、磯砂山のサンネモの蔓草もそうで、これは藤の蔓。
丹後一宮・籠神社の春例大祭(葵祭)では、宮司たちは藤の花を冠に刺していて、藤祭とも呼ばれる。

籠神社のマコトの祭神は世界樹・藤の木であるのかも知れない。

知恵樹。日本三文殊、知恵の文殊菩薩を祀る智恩寺がある。

天橋立はヘビが海に入って死んでできたもの

世界樹はまたヘビとも見立てられていた。前掲の伝説でも大杉が生えていた所を蛇谷としている。世界樹は大杉のような巨木とも見られているが、また蔓草とも見られている、豆の木や藤の木の類で、これはまさに蛇ではないか。


エデンの園でイブが蛇に誘われて知恵樹の実を食べる。この実を食べると神様なみの知恵が身につく。
←イラストでは知恵樹と蛇は別のモノのように描かれているが、本来は同じもので、樹であり蛇だと見られていた。

『みやづの昔話』に、
成相山の大蛇  中野  松井ぬい
これな、ほんまにあったことだで。成相山のつくった話だなしに、なあ、あのいく分かな、尾や鰭がついてはおるか知らんけえど、実際にあったことの話だ。
あそこに、あの今はな、あの底なし池言うとったけえど、今は底なし池だない、お茶屋がでけたりしとりますけぇな、弁天山の下に。そこにな、成相に小僧さんがおってな、その小僧さん、ここのかまいりがくると、たらいに乗って、あそこの底のない大きな池だって、ほて、蓮の花を切りにいくのに、小僧さんに、あの、お上人が小僧さん乗せて花切りに行くのに、毎年そのたらいに乗った小僧さんを蛇体が飲んだんだ。蛇体いうて、淵におろうが。
底なし池におるおおぐちなわが毎年飲んでどもならんで、小僧さんがかわいそうだで言うて、ほて、あのわら人形こしらえて、衣きせて、その腹の中に、煙硝玉をな、仕掛けて、花切りに行かせなはった。ほたら、そなこと知らんで、いつものおおぐちなわが出てきて、その小僧さんを頭から飲んだ。飲んだら、あの、お腹の中ではじいてな、ほて、破れたんだな。ほいで、あの熱いもんだでな、じゃあと山から国分寺いうところに、下り坂になるな、国分寺は、このつづきだし。ほて、そこにおりてな、もはや、どこらへんまできたんだろう思うて、ひょいと頭をもちあげてみたらな、国分寺のな、その、吊り鐘の下に頭がはいってな、ほて、ぬこうしても、あの、吊り鐘が深いで、ぬげなんだ。
それから、そのまんま、鐘をかぶったなり、じゃあとおりて、この内海に入って、向うが見えんいうし、ほいで、行ったら、文殊さんの、あの、細うなったところにな、あの、行ったら、ほたら、そのお腹が破れたところからな、水が入って、どないにもいたたまれんようになって、そこで、沈んだというてな。それが、あの、この内海からあっち、大天橋の方へ出るところにな、あの、浅瀬があって、そこにお腹がつかえて、そこに沈んでしもうたんだって、その蛇体が。そこは、いまでも浅いだいうて、私ら子どものときにな、文殊さんに旅するのに、その浅いところを通らんで、こっちゃの深いところを通って行ったもんだ。そこに行くと、昔のお爺さんが、ここらじ沈んだだろうで、ここは浅かろうが言うて。ここらへんは、あの、波の静かなときには、「蛇体の死骸が見えるかもわからんで、あんばいのぞいてみい」言われちゃあ、「ほんまかしら」思うて、舟ばりに指じゃいづいて、「今年も見えなんだ。蛇体が今年も見えなんだ。来年になったら見えるかしらんだあ」言うて、「そうかな」言うちゃ、毎年文殊祭りに行くのに見たけど、何年のぞいて見ても、蛇体の死骸どもあへん。あそこ、あの、沈んだことはな、沈んだ言うて。いろいろの話してもろうたけど。

成相山(鼓ヶ岳)にいた大蛇が海に入って死んで出来たものが、天橋立だという伝説だと思われる。大杉が倒れて天橋立になってという伝説の変形であろうか。
天橋立の付け根になる成相山の麓にはヘビの地名が見られる、波見や板列、はななみの里であるが、これらはヘビの古語でなかろうか。天橋立はハミと呼ばれていたのではなかろうか。鼓ヶ岳(成相山)のツツもヘビの意味でなかろうか、ツチノコ、カグツチのツチやツタ(蔦・葡萄の一種)と同じで、ミは巳でヘミだろうか。鼓ヶ岳は蛇山の意味かと推測する。
今はヘビとは呼ばないが、龍と見立てられることは多い。

文殊菩薩が悪龍を改心させたという伝説となっているが、文殊堂近くの切戸の渡で毎年「出船祭」で催される。
「文殊堂出船祭」

文殊堂(智恩寺)は、何とはなく古い知恵樹の信仰があったのではないかの思いを起こされる。古い柱、たぶん過去の文殊堂の心御柱が残されているというし、境内にはこんな霊木がある。

成相寺の左甚五郎作「真向きの龍」とか、龍はあちこちに見られる。

江尻の江之姫神社は龍女を祀るといい、展望台を飛龍閣(文殊側)、昇龍閣(傘松側)と呼ぶように天橋立は龍と見立てられる。

知恵の餅


橋立名物はこれ。これにもそれなりに古い由緒があるわけで、これは世界樹(知恵樹)の実を食べていることかも、聖書世界ならリンゴの実、当地は餅であるのかも…
しかし、いくら食べても、何千個、何万個たべても、毎日毎日たべても、ワタクスの場合はチイとも賢くなりそうにもない。おかげで、神から見れば堕落することもなく、エデンの園を追われることもないのかも…
「知恵」にもいろいろあるので、そのまま無警戒に信用していいというものでもない。生半可の「知性」なるものに溺れて、思い上がると堕落が待っているかも、これは地獄よりもまだコワイ…
さらに、「丹哥府志」には、

【文珠茶屋】
文珠堂山門の前西の方に茶屋軒を並ぶ是を文珠の茶店といふ。名物三品、一は思案酒、一は才覚でんがく、一は智恵の餅なり。

さすがに知恵の樹の天橋立茶屋さん、何か知恵のつきそうな土産物ばかりのよう。

天橋立の迎講

迎講は普甲寺で行われていたが、室町中期の『?嚢鈔』に、「寛印供奉は大聖文殊の化現也と云共、親聖衆の来迎の儀を随喜せしめ、衆生利益の為に此の迎講の儀式を、丹後の国府の天の橋立に移して、三月十五日、毎年是を行れける也」と記される。
「麻呂子親王の鬼退治伝説(そら知らなんだ ふるさと丹後12)」
迎講とは、簡単にいえば、念仏行者の臨終に際して阿弥陀如来が諸仏とともに極楽より来迎する、その迎えに来るさまを演ずる法会のことで、どうしてその場所が天橋立なのかが問題になる。それは天橋立が仏の世界とつながる橋と見られていたからではなかろうか。だから阿弥陀如来はここに現れ、迎えてくださると見ていたのであろうか。

杉末神社と赤ちゃん相撲


体育の日に行われる「赤ちゃん相撲」。赤ちゃんの対戦相手は杉末神社(式内社、左手の社)の神様である。当社の本来の祭神は天橋立世界樹でなかろうか、そんな神様の力を赤ちゃんに授かろうとしたもので、その来歴はずいぶんと古いとワタシは推測している。

申し込み赤ちゃんと応援団が列をつくる。
「赤ちゃん相撲」

橋立小女郎


天橋立は異界とつながる橋なので、向こうの世界のありがたい仏様ばかりでなく、こうしたヘンゲの妖魔や魑魅魍魎の類も出没する。古い由緒ある伝説が劣化するとせっかくのありがたい神様も頽廃し、落ちぶれ狐狸になっていく。それは伝える人間の側がダラクし零落しみじめでつまらぬ魂に成り下がり果てていったということでもある。
巨木に限らず木はすべて聖木、神木とする観念を完璧に失い、すぐ木を切ってしまう、どこかのマチのアホな人々などは堕落の完成体かも知れない。
これを止めるのは人間の価値が高められる社会の建設しかないが、いつのことになるのであろう…
元々の古来の伝説としては、村の幸運な若者が天橋立で神仙界の天女(天羽衣か乙姫様のような)と出会って夫婦となりましたよ、といったものであったと思われる。橋立の付け根に印鑰社があり、それは元は奈具社であったという、そこの神話であったものかも知れない。その天人女房が、その語部と運命を共に零落して、イラストのような姿にヘンゲしていったものであろうか。この姿は人間性から疎外されたワレラの姿を写し出し語ったものでもあることになる。
小女郎にだまされたというハナシは多い。空間的には半異界であるし、時間的に「逢魔が時」に、ここを歩くとヤバイ。宮津の方でゴッツォになり、ミヤゲを下げ微酔機嫌で、橋立の上を府中の方へ半分千鳥足で歩いていると、この世のものとも思えぬような美女が現れる。気が付けば、ミヤゲのゴッツォをみな喰われていた、といったもの。何ともせっかくの夢幻空間の舞台が台無しになるようなオチになる、もうチイと芸術性を高めたいゾ、人間から疎外された「人」達。

『丹後の民話』
むかし、橋立に一匹の狐が住みついており、女の姿に化けては、そこを通る人や、舟で仕事をしている人たちを、毎日のように、たぶらかしておった。
女にしか化けないということから、人々はその狐を、橋立小女郎と呼び、「橋立で声かける女衆がいたら、それは、きっと橋立小女郎だで、化かされるな」と、いつもいいあっていたが、小女郎の方が一枚上手なのか、あいかわらずだまされては、みんなが腹をたてておった。
その悪さも、だんだん、だんだん、ひどくなってきたので、成相寺の下の方に住む若者が、何とかこらしめてやろう…と考えた。
ある夕暮れ、その若者は、狐の大好物の油揚げを持って橋立へ行った。そして、明神さんのあたりまで来た時、案の上、ひとりの娘が声をかけてきた。若者は、<br>
「お前は、小女郎だろう。化かされる前に、この油揚げをやる」といって、松の根っこのところへ置いてやった。小女郎は、何かたくらんでるなと、若者をにらんでおった。
「な、小女郎、わしをずうっと化かさんと約束できるなら、その油揚げを、むこう十日間、毎日持って来てやるが、どうだ」小女郎は、油揚げ十枚という、その言葉にぱっと狐の姿に戻り、
「約束する。油揚げ十枚だな。きっとだな」
といって、油揚げをくわえて素早くかくれてしまった。
あくる日から、若者は約束通り、毎日毎日油揚げを橋立明神のそばまで運んでやった。
そして五日日になると、そのうまさが待ち遠しいのか、明神さんの前で小女郎が待つほどになり、若者への警戒心もなくなっておった。
そして、十日目。最後の一枚を持って来た時に、若者が聞いた。
「な、お前は化けるのが、本当にうまいが、どうして化けるんじゃ」
小女郎は、油揚げを食いながら、ちょっと考えていた。食いおわると、
「目をつぶっとれ」
そういうて、どこから出したのかきれいな玉を見せてくれた。
若者は、これが噂に聞く狐の玉かと思ったが、
「この、きれいな玉は、何だ」
と聞いた。狐は、
「これは明神さまからもらった玉じゃ。これ持っておるから、人間に化けられるんじゃ」
そういうた。
まってましたとばかり、若者がいうた。
「な、小女郎、その玉を一日でええから、貸してくれ。そうだな…、そのかわり、約束の油揚げはもうしめえだが、ん、明日、いっぺんに三枚もって来たるで」
小女郎は、明日から、もうもらえんと思っていた大好物を、三枚もいっぺんにもらえる嬉しさのあまり、
「一日だけだぞ。きっと。油揚げ三枚だぞ」
といって、玉をひっこめた。
あくる朝、約束通り油揚げ三枚と狐の玉は交換された。若者は家へ飛んで帰り、その玉を、わからないように隠した。
そして、二日目の朝がすぎ昼になった。小女郎は若者が返しに来んのでおかしいと思いはじめ、夕方になって、はじめてだまされたと気ずいた。何としても取り返さねばと思ったが、玉がないから化けられん。そこで人が寝しずまる夜中をまって村へ行き、若者の家をさがして、その天井にひそんでおった。
次の朝、若者が出かけると、小女郎は家の中をひっかきまわして、そして、やっと玉を取り戻した。帰ってきた若者は、玉が取り返されたと知ると、「しやあねえ、こうなりゃ、あの手だ…」
とつぶやいて、近くの神社へ走り、神主さんに訳をいって、神主さんの衣裳と御幣を借りた。
それをかかえて橋立まで行き、木の陰で神主さんの衣裳をつけ、顔は目だけをだして白い布でつつみ、ゆっくりと松並木のあいだを歩いていった。そして、明神さんの前で立ちどまり、おごそかな口調で、「小女郎、おるなら、出ませい」といった。小女郎は、何ごとかと思って、そばの穴から、ぬうっと顔を出した。とたんに、「頭が高い」
と御幣で頭をひと打ちされた。びっくりして穴にひっこんだ小女郎に、「そのほうに授けた大切な玉を、人間に貸すとは不屈千万。今かぎり玉を取りあげる。玉を差し出せ」と強い口調でいった。
小女郎は、明神さまだと信じて疑わず、穴の中から手だけが、そおっと出て玉を置いた。若者は、おもむろに玉をふところに入れて、又、ゆっくりと帰っていった。
それ以来、橋立で狐に化かされたという話は、もう聞かんようになった。 (俵野・井上正一様より

天橋立の股のぞき


天橋立といえば、これ。
なにゆえに、このようなことをするのであろうか。何か伝承がありそうなものだが…、あまりハッキリしたものがないのは、それなりの理由があるのであろう。もともとが生命樹だからであろうか。こたえのようなものは善良の風俗を犯しそうで公共の放送にはのせられそうにもない。どうしても知りたい方は次を参照
「股のぞきの民俗学」

ピンとこないのは、現代人の堕落ズレか…

こうした姿をよく見かけるのもそれなりに理由がありそう…

久志備之浜、久志浜、阿蘇海、与謝海

これらは渡来系の聖地名で、成相山を久志備之岳(久士布流岳)と呼んでいたのではなかろうか。その麓の籠神社があるあたりを久志備之浜、真名井神社を久志備之真名井、あるいは久志浜宮と呼んでいる、このクシビはのちに久志浜と呼ばれる。橋立を挟んで内海を阿蘇海、外海を与謝海としていたのであろう。
クシヒ岳はクシフル岳のことで、天孫降臨の聖山(久士布流岳とかクシビのソの高千穂岳とか)の名と同一のため、ここは遠慮ソンタクして書かなかったのでなかろうか。
地元の古代豪族の先祖が天降ったとされた山なのでなかろうか。いずれもソフルの変形で、彼ら(というか我らというか)の故地(新羅や伽耶)の名をつけたものであろうか。
切戸を九世戸とも呼ぶ、回旋橋が架かっている狭い海峡だが、古くは今よりもずっと広くて、磯清水があるあたりまては海であったのだが、この九世戸も久志浜のクシが転訛したものであろうか。

日本では降臨神話と世界樹伝説は結びつかないが、本来は結びついていたようである。それは古朝鮮の壇君伝説を見ればよくわかる。
『図説韓国の歴史』(写真も)に、
神話的にいえば、韓(朝鮮)半島の古代王国は天孫によって開かれた。天孫には王になる資格が与えられていたのである。耽羅国(いまの済州道)の三人の始祖が三姓穴(地下の三つの穴)から姿を現わしたという神話伝説を除けば、全部の始祖が降臨の形をとっている。その典型的な形が檀君神話である。短い話なので、主要な部分を訳載してみよう。

昔、天帝の桓因の庶子に桓雄という神かいた。桓雄はいつも地上の人間界におもいをはせていたが、それはいつしか父の桓因にも通じていた。桓因は天空から地上の三危太伯を見下ろしながら、人間たちに救いの手をさしのべることにした。そこで桓雄に天符印を三個授けて天降って人間界を治めてみよと命じた。
桓雄は三〇〇〇の供を率い、太伯山の頂きに祀ってる神壇樹という神木に天降り、そこを神市と名づけた。それで桓雄を桓雄天王というようになった(中略) そのとき、同じ洞窟のなかに一匹の熊と虎が住んでいて、桓雄に願い事があると申し出た。自分たちをどうが人間の姿にしてほしいという願いを聞いて、桓雄は神艾一束と蒜二〇個を与えて、「これを食べながら一〇〇日間日光をさけておこもりをせよ」と告げた。
その日から二一日目に熊は女の姿になり、虎は人間になれなかった。女の姿になった熊女は神壇樹に詣でて、子を授けてほしいと祈願すると、桓雄は熊女と情を交わし、熊女は男の子を生んだ。その子を檀君王倹と名づけた。
のちに、唐の高(堯)が即位して五〇年の庚寅に、平壌に都邑を開き国号を朝鮮と名づけた。その後、都邑を白岳山の阿斯達に移し、その地を弓(方の字も用いる)忽山または今旅達といい、国を治めて一五〇年栄えた。
中国の周の虎(武)の王が即位して巳卯年に、箕子を朝鮮に奉じた。檀君は王位を箕子にゆずった。(略)
と、『三国遺事』の物語を紹介している。五千年前の話だとかされる、そこまで古いかは異説も多いが、ニッポンの天皇さんよりは古そうではある。
太伯山は北朝鮮の妙香山だといい、その頂に神壇樹という世界樹が生えていて、そこへ天降ったという。天降ったというか、世界樹をつたって降りて来たのであろうか、伊射奈藝命が天橋立をつたって降りてきていた、という風土記の物語と同じ。

摩尼山開天祭
一〇月三日は壇君の古朝鮮建国の日に定められている。その日、暫城壇で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。

扶餘、高句麗、百済、新羅、加耶すべての朝鮮古代国家は天孫によって開かれたと伝わる。その北の騎馬遊牧の民族がみなそうなのだが、日本でも、天孫族という言葉を使う、日本神話において天から降臨し大和王権を開いたとする古代勢力の総称のことで、簡単に言えば天皇さんを頂点にいただいた集団であるが、それもこうした流れのはてにある。天孫族とは言葉を換えれば朝鮮族ということとなろうか。ニッポンは世界に唯一の、万世一系の天皇によって統治された神国だ式の神話の信者などにとってはオソロシイ神話である。
ウウウ、ウソだろう、アンビリバボなと思われる向きもあろうかと思うので、『騎馬民族国家』(江上波夫)を見てみよう
…いいかえれば、血統の原理による天皇の地位は終始保たれたのである。ここにわが国の皇位継承法におけるもっとも根本的なものとして、天皇は天孫の血統(天皇氏)の者にかぎるという大原則があったことが明瞭であろう。
そうしてこの点も、大陸騎馬民族国家における君主位継承制のばあいにまったく等しい。そのことについてはすでに第一部の「突厥」のところでかなりくわしく言及したので、ここではくりかえさないが、要するに、大陸騎馬民族国家でも、君主位の継承者は、その国家の建国者の男系の子孫にかぎるという大原則があり、その自然な結果として、大陸の騎馬民族国家では、王朝はほとんどすべて一系であり、国家の存続と王朝の存続とが終始しており、中国におけるような禅譲放伐による王朝の交替はないということである。日本皇室のいわゆる万世一系は、まさに大陸騎馬民族国家のそれであって、中国・エジプトなどの農耕民族国家には、このような王朝のあり方はたえて見ない。
一方、大陸の騎馬民族国家にあっては、君主位継承制の血統の原則は、実際上の問題として、その範囲をせばめていって、ついに王の近親者に限定するようになったばあいが多いが、王の氏族-建国者の男系子孫の親族集団-のメンバー-はすべて君主位継承権をもつというのが、その原則の本意であった。したがって王の近親範囲からかなり離れた者でも、王位を継承したばあいがあり、匈奴第一三代の単于握衍ク韃などは、その好い例である…
天孫の血統でないと天皇にはなれない、ただし、かなり離れていてもなれる。だから丹後海部氏の祖が神武天皇になったとか、伝わるのは、同じ天孫族、同じ天皇族の血統であるならばこそのハナシなのである。磯砂山の麓の五箇の郷土史家氏も、神武天皇は当地の出です、とかいったハナシをマコトげに話されていたのを聞いた覚えがあるが、こうした地名からも、ある程度はうなづけるハナシなのである。大和天皇氏から見れば、丹波王国は親藩国であったものと思われる、仮にその誰かが天皇になったとしてもおかしくはない氏族の資格があったのだろう。継体即位前の話だが、武烈のあと皇位継承者がなく、丹波桑田郡にいた倭彦王を迎えにいったという記事が『日本書紀』にある、彼は仲哀5世孫となっているが、仲哀が実在したかあやしいので、丹波王家の人かも知れない、それでも血統がつながるので、天皇の資格があったものなのかも知れない。本当にこんなに離れていてその資格があったものかはわからないが、13代離れていてもOKの匈奴の例が挙げられているから、一応はあったのではなかろうか…
丹波王国は大和天皇家の有力な親藩国であった、皇后を何代か輩出していることからも、そのことがわかる。別に丹後ばかりではなく、あっちにもこっちにも天孫族が見られるニッポンのようである。
壇君神話のおかげで、天橋立神話の本当のところが復元できそうである。
今の天橋立の後の山(鼓ヶ岳・成相山)には、天上世界に通じる橋(ハシゴ)があった。それを天の橋、あるいは天橋立といった。山名は天の橋山、あるいは天橋立山と呼んでいた。その橋はある日、倒れて海に落ちた、そうしてできたのが、今の天橋立である。
だいたいはこうしたことではなかったかと推測されよう。
また八仙女は比治山羽衣伝説の天女八人を思い浮かべる。サンネモがツル草を登っていたハナシが伝わるので、磯砂山(比治山)の頂上にも世界樹があったことがわかる。この伝説も、その流れの遠いはてなのであろうか。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

ご無事でしたでしょうか、、それにしても、「籠神社のマコトの祭神は世界樹・藤の木であるのかも知れない。」とは、そらしらなんだで!!

The Yggdrasil Tree in Norse Mythology – Ancient Mythology

その藤、世屋谷を埋め尽くしておりますで(^.^)

【唐突ですが、へんな角度から天橋立をみたいです、 天の橋立は日本三景、ローカルな場へ持ち込んで恐縮ですが、仮に丹後三景を選ぶとしたら、天橋立は入るかどうか!見解を下さいな!】
天橋立きよかずのりとみさんee0f8a25e7e35533173b3dfd56e16acb丹後松島 桜 咲き誇る極上の桜と青い海の春の絶景 | 絶景, 青い海, 風景20200807_145112sutadi-

おお、これは面白い角度ですね。(^.^)
むしろ今までの「世界遺産」という大きな物差しをいったん外して、丹後の人間の目で天橋立を見直す問いだと思います。

私の見解は――

結論:天橋立は「入る」。ただし、丹後三景の「一位」ではなくてもいい

もし仮に「丹後三景」を選ぶなら、私は天橋立をほぼ確実に入れます。

理由は単純な「有名だから」ではありません。

丹後という地域を代表している景観として、天橋立はあまりにも強い。

ただし、ここが面白いところです。

「日本三景の天橋立」をそのまま「丹後三景」に持ってくると、ちょっとつまらない。

むしろ、

日本三景としての天橋立と、丹後三景としての天橋立は、別の天橋立である。

と考えたいです。


日本三景では「完成した絶景」

日本三景の文脈では、

松島・天橋立・宮島

という、いわば「日本を代表する名勝」の一つ。

ここでは天橋立は、

「白砂青松の美しい一本の景観」

として非常に完成度が高い。

ところが、これを丹後というローカルな物差しに置き換えると、突然、天橋立の意味が変わります。

天橋立は、

世屋から流れてきた水と土砂、阿蘇海の水の動き、宮津湾、日本海、丹後の山々、そして人間の暮らし・信仰・文学・観光

まで背負っている。

つまり丹後から見ると、

天橋立は「景色」ではなく、丹後という世界の出口・入口になる。

ここが大きい。


では「丹後三景」の残り二つは?

ここからが、ものすごく面白い。

私はむしろ、天橋立を入れたうえで、

① 天橋立=「海と大地の景」

見る者が思わず「わああー!」となる景観。

これは圧倒的。

しかし同時に、

山 → 川 → 阿蘇海 → 天橋立 → 日本海

という丹後の自然システムを象徴する景観でもある。

「伊根湾めぐり遊覧船(かもめ6号)」③ | フォトギャラリー | 海の京都観光圏


② 伊根=「海と人の景」

これは天橋立とは全然違う。

舟屋そのものの美しさもありますが、本質は、

海と人間が暮らしの中で直接つながっている景観

でしょう。

天橋立が「自然がつくった橋」なら、

伊根は「人間が海とともに暮らす景」。

浦島、海民、舟、漁、集落……。

こちらは「きゃあー!」というより、

「なんとなあ……」

という種類の感動がある。


③ 世屋=「山と暮らしの景」

そして、私はここを入れたい。

これまで話してきた世屋川・世屋高原を考えると、

世屋は単なる山村ではない。

湿地、ブナなどの山地林、カツラ・サワグルミ・トチノキなどの渓畔林、地すべり地、棚田、集落、世屋川……。

そして約700mから海まで一気に落ちていく。

つまり、

丹後の「山から海まで」を一枚の景観として見せられる場所。

これは天橋立とは別の価値です。


そうすると……

私は仮の「丹後三景」を、こんなふうに見ます。

景 象徴するもの 感動
天橋立 大地と海がつくった景 わああー!
伊根 海と人がつくった景 きゃあー!
世屋 山と暮らしがつくった景 なんとなあ……

これ、かなり強いと思いませんか。

そして重要なのは、三つがバラバラではないことです。

世屋 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立 → 日本海 → 伊根

とつながってしまう。

つまり、

丹後三景とは、三つの名所ではなく、三つの世界の入口なのではないか。

となる。


そして、ここで「日本三景」と逆転する

日本三景の天橋立は、

「日本を代表する景観の一つ」

です。

でも丹後三景の天橋立は、

「丹後という一つの世界を代表する入口」

になる。

私は、こちらのほうが今まで話してきた「天橋立」の本質に近いと思います。

だから、もし「丹後三景」を本気で考えるなら、

天橋立を外してみる必要はない。

むしろ一度、

「天橋立を入れない丹後三景を考えてみる」

という逆説をやってみるのも面白い。

そこで残った二つ・三つを見てから、

「それでも天橋立は必要か?」

と問う。

たぶん、そのとき初めて、

「なぜ丹後にとって天橋立なのか」

が、かなり鮮明に見えてくる気がします。

そしてこれは、実は「世界遺産」の問いと同じなんです。

有名だから大切なのではない。
丹後という世界にとって、なくてはならない景観だから大切なのではないか。

この角度、かなり使えます。(^.^)

 【ありがとう、わたし的には、、ちょっと違いますね、、①イサナゴ山からの天の橋立 ② 丹後松島海岸景観 ③ 上世屋里山景観 としてみたい、、揉んで下さいな!! 】
宮津エコツアー · パシャパシャ in 丹後 二題

ああ、なるほど。
今のお三つを聞いて、前の私の案との違いがはっきりしました。

これは「丹後を代表する三地域」ではなく、丹後人が見たときに、まったく異なる三種類の“景観の極み”を選ぶということですね。

私は、この三つ、かなり筋がいいと思います。むしろ揉むと相当面白くなります。

丹後三景――私はこう読みます

① イサナゴ山からの天橋立

「大景観」あるいは「俯瞰の景」

ここが非常に重要ですね。

天橋立そのものを見るのではなく、天橋立を含む丹後の地形全体を見る。

イサナゴ山から見ることで、

山
↓
野田川・加悦谷
↓
阿蘇海
↓
天橋立
↓
宮津湾・日本海

という「丹後の地形の骨格」が一望できる。

つまりこれは、

「天橋立という名勝」ではなく「天橋立を生み出した丹後という大地」

を見る景観になる。

ここ、ものすごく大事です。

日本三景の天橋立を、丹後三景では一段高いところから見返す。

いわば、

日本三景・天橋立を、丹後の大景観の中に戻す。

これはかなり強い。


② 丹後松島海岸景観

「海岸景観」あるいは「海の造形美」

これもいい。

天橋立とは正反対なんですよね。

天橋立は、

水平線に向かって伸びる砂の景観。

一方、丹後松島は、

岩・島・海・入り江・岬が織りなす複雑な海岸景観。

つまり、

天橋立=砂がつくった海岸
丹後松島=岩がつくった海岸

という対比ができる。

しかも「松島」と名乗っているけれど、ここでは単なる「日本三景松島のミニ版」ではない。

丹後半島の地質・海食・島嶼・リアス的な海岸地形がつくった独自の景観として扱える。

すると①と②だけで、

大地が違えば、海岸の美も変わる。

という地球科学的な話ができる。


③ 上世屋里山景観

「暮らしの景」

そして、ここで上世屋が入る。

宮津エコツアー · 上世屋、馬場の谷・9月1日。

私はここが今回の三景案の肝だと思います。

①は「大地」。

②は「海」。

③は、

人間がその大地と海の間で暮らしてきた景観。

しかも上世屋は、単なる「昔ながらの農村風景」ではありません。

これまで話してきた、

  • 世屋高原
  • 湿地
  • 水田
  • 地すべり地形
  • 森林
  • 世屋川
  • 集落
  • 石橋
  • 治山・砂防施設

まで含めると、

人間が自然を征服した景観ではなく、動く大地・水・森と折り合いながらつくってきた景観

になります。

だから「里山景観」という言葉にも、かなり厚みが出る。


すると三景が「三つの美」になる

私はこう整理したいです。

丹後三景 見るもの 景観の性格
イサナゴ山からの天橋立 丹後の大地と水の全体像 大地の景
丹後松島海岸景観 岩・島・海・岬 海の景
上世屋里山景観 山・水・農・集落・暮らし 人と自然の景

これ、かなり美しい三角形になっています。

そしてさらに面白いのは、

①を見ると③が見えてくる。
③を見ると①の意味が分かってくる。

ということ。

イサナゴ山から天橋立を眺めて、

「なんて美しいんだ」

で終わらない。

「あの山から水が下り、川になり、平野をつくり、阿蘇海に入り、天橋立につながっているんだ」

と分かる。

そして上世屋へ行くと、

その“大地の仕組み”の上で、人間が実際に暮らしてきた姿

が見えてくる。


さらに私は「三景」を固定した名所にしないほうがいいと思う

ここ、ちょっと大胆に。

「丹後三景」という名称だけなら、観光商品として非常に分かりやすい。

でも思想としては、

天橋立

見ると、丹後の大地が分かる。

丹後松島

見ると、丹後の海が分かる。

上世屋

見ると、丹後の人の暮らしが分かる。

という、

「丹後を知るための三つの窓」

にしてしまう。

そうすると、単なる「絶景ベスト3」ではなくなる。


そして、ここが世界遺産の話ともつながります

世界遺産 ロゴマーク _ ユネスコ世界遺産ロゴ – RZDNZ

実は今回のなのかもしれません。

世界遺産では、

「この場所は、人類にとってなぜ重要なのか?」

と問う。

一方「丹後三景」では、

「丹後人にとって、丹後とはどんな土地なのか?」

を問う。

その答えとして、

大地・海・暮らし

が出てくる。

そして、その「大地・海・暮らし」の交差点に、

天橋立がいる。

だから私は、今回の①を特に推したいです。

「天橋立を丹後三景に入れる」のではなく、
「天橋立を丹後の大景観の中に置き直す」。

これなら、日本三景という巨大なブランドに負けません。

むしろ、

日本三景の天橋立を、丹後三景の天橋立へ。

という、ちょっとした「脱・日本三景」ですね。(^.^)

そして三景を一枚の絵にすると、

イサナゴ山(大地)
 ↓
上世屋(暮らし)
 ↓
阿蘇海・天橋立(砂と水)
 ↓
丹後松島(海)

……という、丹後そのものの断面図になってくる。

ここまで行くと、単なる名勝選びではなく、かなり「丹後論」になってきます。

【ありがとう、、天橋立と限界里を一緒にしないほうがいい、、、とあるリゾート関係者の一言、、ムカー、メラメラ、、ですが、自爆する気はありません、忍の一字、ハラは寝かしておけ、聞く耳はあります、、解説くださいな】
Vector Illustration of Yellow Emoji Character with cute face, simple ...
うわ……それは「ムカー、メラメラ」になりますね。(^.^)

ただ、安田さんが続けておっしゃる**「自爆する気はない、忍の一字、ハラは寝かせておけ、聞く耳はある」**――私はむしろ、ここに今後の運動の強さがあると思います。

この一言、感情的には腹が立つ。でも、政策・地域づくりの言葉に翻訳すると、かなり重要な論点を含んでいるんです。

「天橋立と限界里を一緒にしない」

おそらく相手の頭の中では、

天橋立=観光商品として価値の高い場所
農山村=観光客を呼びにくく、収益性の低い場所

という区分なのでしょう。

だから「一緒にするな」。

でも、ここで真正面から、

「いや、丹後は一つだ!」

とぶつかると、たぶん勝負になりません。

なぜなら相手は経済の言葉で話しているからです。

そこで、こちらは一段上の問いにする。

「では、その天橋立という観光価値は、何によって成立しているのでしょう?」

と。


「貧乏里」という言葉を、逆転させる

私はここが面白いと思います。

仮に経済的に「限界」だとしても、

水をつくる。
森を育てる。
土をつくる。
農地を維持する。
生物多様性を支える。
世屋川を流す。
阿蘇海へ水を送る。
そして天橋立を生み出した地球システムの一部である。

ならば、

「お金を生まない土地」ではなく、
「観光価値の基盤を生み出しているのに、その価値が価格に反映されていない土地」

と考えられる。

これは全然違う話です。


そして、ここで先ほどの言葉が復活します。

山と海が天橋立を育てた。
天橋立の観光が、今度は山と海を支える。

これなら、リゾート側とも対立しなくていい。

むしろ、

「天橋立の観光価値をもっと長く、もっと強く維持するために、上流域にも投資しましょう」

という話にできる。

相手の利益と、こちらの地域保全を同じ方向に向けるわけです。


忍の一字意味 | 忍之一字とは – UWROM

だと思います

ただし、

我慢=黙る

ではないんですよね。

私なら、

腹は寝かせる。
頭は起こしておく。

にします。(笑)

感情で反撃しない。

でも、

  • 誰が何を言ったか
  • 何を根拠に言ったのか
  • どこに利害の違いがあるのか
  • 本当に両立しないのか
  • 数字で示せるものは何か
  • 海側の利益が山側にも回る仕組みを作れるか

を淡々と集めておく。

そして、聞く耳は残す。

これはすごく大事です。

なぜなら、相手の言葉の中に、こちらがまだ見ていない現実が含まれている可能性もあるからです。

「では、限界まで来ているのは誰なのか。里なのか、それとも里を支えてきた社会の仕組みなのか?」

刃は、心に忍ばせておけばいいのです。


IMG_20260107_122748_1

(↑ 世屋高原松尾の一本桜と由良が岳の対話)

一番大切なのは、「天橋立と農山村の状況の厳しさを無理やり一緒にする」ことではないと思います。

むしろ、

「天橋立は天橋立。世屋は世屋。伊根は伊根。加悦は加悦。」

それぞれの個性を守る。

そのうえで、

「でも、それぞれが一つの丹後という生態・文化・経済の循環系を構成している」

と示す。

これなら、リゾートも、農業も、漁業も、研究も、教育も、観光も排除しない。

「一緒にする」のではなく、「つながっていることを見えるようにする」。

私は、こちらがあなたの構想の本当の強さだと思います。

だから今は――

ムカー、メラメラは胸の内に(笑)。
腹は寝かせる。
耳は開けておく。
資料は集める。
そして、いつか「なるほど、そういうことだったのか」と相手にも言わせる。

これが一番、自爆しない世界遺産運動だと思います。(^.^)

【ありがとう、世界遺産屋久島の場合、登録を決定づけたのは、屋久杉だろうとおもいますが、そうではなく、宮之浦岳に一筋残る植生の垂直分布だったというエピソード、解説くださいな!、】
淀川登山口から宮之浦岳と高盤岳(トーフ岩)を日帰り縦走自力登山【屋久島】

はい。これは**天橋立の話を考えるうえでも、とても重要な「世界遺産の見方」**を教えてくれる事例です。

ただ、まず一つ、事実関係を丁寧に直しておきたいです。

「屋久島は屋久杉ではなく、宮之浦岳に一筋残った植生の垂直分布が決定打だった」という話は、そのまま史実として言い切るのは少し危険です。

実際の推薦・評価を見ると、屋久杉は明確に重要でした。一方で、世界遺産としての価値を決定的に強くしたのは、屋久杉という一つのスターではなく、海岸から宮之浦岳などの山頂まで、異なる植生帯が連続して残る「一つの生態系」そのものだった、と理解するのが正確です。環境省も、屋久島の推薦理由として「顕著な植生の垂直分布」とヤクスギなどの特殊な森林植生を挙げています。

そして、ここがものすごく面白い。

「屋久杉」ではなく「屋久島」

たとえば、

「屋久島には樹齢数千年の巨大な屋久杉があります」

だけなら、これはすごい森の話です。

ところが、

海岸の亜熱帯的植生
↓
暖温帯の照葉樹林
↓
温帯の森林
↓
山頂部のヤクザサ・シャクナゲ等
↓
高層湿原・冷温帯的環境

という連続性を、一つの地域の中で見る。

すると、

「一本の巨木」から「地球上の生命環境の変化を縦に見る場所」

へ、価値が跳ね上がる。

UNESCOの現在のOUV(顕著な普遍的価値)の説明も、まさにこの点を非常に重視しています。屋久島は、海岸から中央の高峰まで連続する植生の垂直分布を持つ独特な島嶼生態系であり、生物地理学、植生遷移、水文学などの研究上も重要だとされています。


そして「一筋」という表現が面白い

おそらく安田さんが聞かれたエピソードは、

「山の中に、海岸から山頂まで自然がつながって残っている場所がある」

ということの重要性を強調した話なのだと思います。

実際、IUCNの1993年の評価でも、海岸から山頂近くまでを含むこと、そして暖温帯の古い森林が標高に沿って連続することが評価されています。さらに、登録範囲が異なる生命帯を一つの連続したまとまりとして含んでいることが完全性(integrity)の重要な条件になっています。

つまり、

「珍しいものが一個ある」より、
「珍しいものが、自然の仕組みとしてつながって残っている」

ほうが、世界遺産として強い。

ここが非常に重要です。

宮津高校フィールド探究部


(↑ 世屋川 ミョウガ谷の探究)

そして……これ、世屋川にそっくりなんです

安田さんが先ほどおっしゃった、

世屋川は標高700mから海抜0mまで、7km※足らずで下る

という話。

これ、まさに「屋久島型の見方」を天橋立・丹後で考える入口になり得ます。

例えば、

世屋高原
↓
冷温帯的な山地植生
↓
ブナ・ミズナラなど
↓
カツラ・サワグルミ・トチノキなどの渓畔林
↓
里山
↓
農地・湿地
↓
暖温帯の植生
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立
↓
日本海

となる。

もちろん、屋久島と同じ生態系だと言うことはできません。

でも、

「短い距離の中に、標高・気候・水・地形・植生・人間生活の変化が凝縮している」

という見方ができます。


だから「屋久杉を探す」のではなく……

天橋立で世界遺産級の価値を探すとき、

「何か一個、ものすごいものはないか?」

と探す必要はないのかもしれません。

むしろ、

「この地域を縦に歩いたとき、何が連続して見えてくるのか?」

を見る。

これまで安田さんと発見してきたものを並べると、

山

↓

森林

↓

湿地

↓

地すべり

↓

農地

↓

集落

↓

世屋川

↓

阿蘇海

↓

天橋立

↓

宮津湾・日本海

です。

これは単なる「観光ルート」ではありません。

地球の仕組みを歩いて読める断面図です。


そして、ここで高校生の

「飽くなき探究心」

が効いてくるんですよね。

屋久島を「屋久杉を見るところ」で終わらせず、

「なぜこの島には、これほど多様な植生が一つながりで残っているのか?」

と問い始めたとき、世界遺産の物語になった。

同じように丹後でも、

「天橋立、きれい!」

から始まって、

「この砂はどこから来た?」
「世屋川は何を運んでいる?」
「世屋の森はどんな森?」
「なぜここに湿地がある?」
「なぜ人はこの地すべり地に住んだ?」
「川は人間にどう使われた?」
「海と内陸はどうつながった?」

と問いをつないでいく。

最後に、

「ああ、天橋立だけを見ていたら、この場所の本当の価値は見えなかったんだ」

となる。

ミョウガ谷の大サワグルミ

(↑

幹周り 主幹348cm、株立ち8本の合計1,044cm
樹高 20m(目測)
樹齢 不明
保護指定 丹後上世屋内山京都府自然環境保全地域
所在地 京都府宮津市上世屋(ミョウガ谷)
交通 登山道や案内板等はないため、ガイドの案内が必要(宮津世屋エコツーリズムガイドの会へ問い合わせ http://miyazu-et.com)
著者 多々納 智(京都府立宮津高等学校理科教諭/フィールド探究部顧問)

丹後半島最高峰の高山(702m)を水源とする世屋川。上世屋の美しい棚田を潤し、下世屋の龍渓を刻み、穏やかな田園風景が広がる日置の扇状地を作り、若狭湾へと流れ込みます。一帯から供給される大量の土砂は日本三景「天橋立」を形成し、豊富な栄養塩類が若狭湾の豊かな生態系を支えます。その源流域にあたるミョウガ谷は半島本来の植生を色濃く残す水源林として、丹後上世屋内山京都府自然環境保全地域に指定されています。ここへのアクセスは標高約500mを縦走する丹後縦貫林道。その道脇から沢へと降り、藪こぎをしながら高山へと続く渓流を上ると、15分ほどで整然と等間隔に並んだサワグルミの巨樹たちが出迎えてくれます。大規模な地滑りが起こる度に、真っ先に根付き森を再生するこの木の特徴をよく示す光景です。さらに上流へ向かうこと30分。最上流部に8本の株を天へと真っ直ぐに伸ばす大サワグルミが姿を現します。沢に張り出した根が、しっかりと大地を掴んでいます。森・里・海の豊かさ、その根源たる水源の守人です。
宮津市日置から世屋川沿いを遡り水源に至るルートは、人・自然のつながりを紡ぐ水に思いを馳せる旅路です。そのクライマックス、大サワグルミとの対峙は、若者の心にそのストーリーを強く焼き付けました。)

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

これはまさに、今まで話してきた

「天橋立を入口にして、丹後全体の未来を考える」

の科学的な裏付けにもなります。

そして屋久島の事例から学べる一番大切なことは、私はこれだと思います。

世界遺産にするべきなのは、「スター」ではなく「スターを生み出している仕組み」かもしれない。

屋久杉を生み出した屋久島の垂直的な生態系。

そして、天橋立を生み出した山・川・海・砂・人の巨大なつながり。

……そう考えると、安田さんが探している「天橋立の残り20%」、また少し輪郭が出てきた感じがしますね。

【ありがとう、さて、天の橋立という砂州を挟んだ二つの流域、つまり北側の世屋川流域、南西側の阿蘇海と阿蘇海流域、この二つを天の橋立にとって性格の違うダブルマザーと捉えたい、解説いただけますか、】

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu

はい。これはかなり面白い捉え方です。しかも「ダブルマザー」という言葉、単なる比喩ではなく、天橋立の形成と性格の違いを説明する地理的モデルとして使えると思います。ただし、最初に一つだけ整理すると、「母」が二つあるから砂州ができたという単純な因果関係ではありません。二つの水域・流域が、それぞれ違う役割で天橋立を育てた、と捉えるのがよいと思います。

天橋立には「二人の母」がいる

北側には、

第一の母――世屋川流域

山から大地を削り、物質を送り出す母

世屋高原から世屋川が流れ下る。

山の風化物、土砂、砂、そして長い地質時間の記憶を川が下流へ運ぶ。

しかも世屋川は、700m級の山地から10km足らずで海へ下る非常に急な川です。

つまり、

世屋は「天橋立に材料を送り出す側」

として見ることができる。

これは以前お話しした、

「世屋川は砂だけでなく、時間も運ぶ」

という話にもつながります。

山 → 川 → 阿蘇海 → 天橋立

という垂直的な母性です。


第二の母――阿蘇海・阿蘇海流域

集め、受け止め、動かし、育てる母

こちらは性格が違います。

阿蘇海は単なる「天橋立の内側の海」ではない。

周囲の山や河川から水や土砂を受け入れ、さらに海域の流れによって砂を移動・堆積させる。

そして天橋立は、その阿蘇海と宮津湾の境界にできた砂州です。

つまり阿蘇海側は、

「材料を受け取って、海の力によって配置し直す母」

と見ることができる。

こちらは水平的な母性です。


すると「ダブルマザー」はこうなる

             世屋高原・山地
                   │
                   │
             世屋川の流れ
                   │
          「削る・運ぶ・供給する」
                   │
                   ▼
                阿蘇海
       「受け取る・動かす・堆積させる」
                   │
                   ▼
            ━━━ 天橋立 ━━━
                   │
                   │
              宮津湾・日本海

もちろん実際の砂の供給源や流向はもっと複雑です。

でも物語の骨格としては非常に美しい。


そして、さらに重要なのは「母の性格が違う」こと

世屋川の母は、

山・雨・森林・土・重力・地すべり・川

の世界。

言ってみれば、

「大地の母」

です。

一方、阿蘇海の母は、

潮流・波・海面変化・砂の移動・干潟・湿地・水域

の世界。

こちらは、

「水の母」

です。

その二つの異なる力が出会うところに、

天橋立

が生まれた。

だから、

天橋立は、一人の母から生まれた砂州ではない。
大地の母と水の母、その二つの異なる力が出会って育てた子である。

という言い方ができます。

谷間の村IMG_5220


そして「ダブルマザー」は、地質だけで終わらない

ここが安田さんの構想では、たぶん一番面白いところです。

世屋川流域には、

森・湿地・農地・地すべり・集落・暮らし

があります。

阿蘇海流域には、

水田・低湿地・河川・漁業・海民・舟運・集落・浦島伝承

があります。

つまり二つの母は、それぞれ違う人間世界まで育ててきた。

世屋川側

山 → 森 → 水 → 農 → 集落 → 川

という、

「山の暮らし」

の世界。

阿蘇海側

川 → 湿地 → 海 → 舟 → 漁 → 交流 → 物語

という、

「海の暮らし」

の世界。

その真ん中に天橋立がある。

だから天橋立は、

山と海を隔てる砂州

であると同時に、

山の世界と海の世界を出会わせる境界

でもある。


これは「丹後は一つ」にもつながります

面白いことに、二つの母は天橋立を挟んで別々に見えるのに、実際には、

世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という水と砂の関係でつながっています。

そして人間の側でも、

山の農村 → 川 → 阿蘇海 → 海民 → 内陸

という往復が起こる。

だから、

天橋立は二つの世界を分けるものではなく、二つの世界を結びつける「境界の子」

とも言える。

ここが、以前から話している「橋」という象徴に、かなり深い意味を与えると思います。


私なら、現段階ではこういう表現にします

天橋立には、二人の母がいる。
一人は、山から水と土砂を送り出す「大地の母・世屋」。
もう一人は、それを受け止め、海の力で動かし、砂州を育てる「水の母・阿蘇海」。

天橋立は、その二つの異なる力が出会う場所に生まれた。
だからこの砂州を見るとき、私たちは砂だけを見るのではない。
山の時間と、海の時間。その二つが出会って生まれた風景を見ている。

そしてここからさらに一歩進めるなら、

「ダブルマザーが育てた天橋立を、今度は人間がどう育て返すのか」

という問いが出てきます。

これは先ほどの「観光収益を農山村へ還流する」という話とも、ものすごくきれいにつながります。

山と海が天橋立を育てた。
天橋立の観光が、今度は山と海を支える。

この循環まで描けると、「ダブルマザー」は単なる詩的表現ではなく、これからの丹後の地域経営モデルにもなってくると思います。

 宮津エコツアー · 「丹後縦貫林道ものがたり改訂版」出版記念の集い
 【山と海が天橋立を育てた。 天橋立の観光が、今度は山と海を支える。これは、わたしは、「海の京都展望ライン丹後縦貫林道ものがたり、南から北へ 丹後半島はエコミュージアム」の編集発行に携わりましたが、、 、、その制作テーマそのものだとおもいましたね、ありがとう、】

 ああ……それなら、今日のお話は新しいアイデアを思いついたというより、昔つくったものの中に、いまになってようやく見えてきた「芯」を再発見されたのかもしれませんね。

山と海が天橋立を育てた。
天橋立の観光が、今度は山と海を支える。

そして、

「海の京都展望ライン 丹後縦貫林道ものがたり――南から北へ、丹後半島はエコミュージアム」

という制作テーマ。

これ、見事に一本につながっています。

「展望ライン」というのも面白いんです。

普通なら、展望とは美しいものを見るための場所ですよね。

でも丹後縦貫林道を南から北へたどると、

町 → 里山 → 奥山 → 海 → 集落 → 半島 → 天橋立

と、風景の「奥行き」が見えてくる。

つまり、

展望とは、遠くを見ることではなく、地域のつながりを見ることだった。

そして「丹後半島はエコミュージアム」という言葉も、まさに今お話ししていることです。

博物館の建物の中に丹後を閉じ込めるのではなく、

山そのものが展示室で、
川が展示物をつなぐ廊下で、
農村が生活展示で、
海が巨大な展示室で、
天橋立がその全体を象徴する入口になる。

そう考えると、以前の制作が今の「仮想・天橋立市」や「広域自然共生サイト」の構想へ、かなり自然につながってきます。

そして何より面白いのは、「南から北へ」という移動そのものが物語になることです。

観光客が天橋立だけを見て帰るのではなく、

天橋立を見る
↓
丹後を知りたくなる
↓
山へ向かう
↓
川の源流を見る
↓
農村の暮らしを見る
↓
海へ戻る
↓
「ああ、あの天橋立はここから生まれたのか」と気づく

という循環。

これって、まさに先ほどの

「歓声から知恵へ」

なんですよね。

そして最後に、観光客だけでなく地域の人自身が、

「自分たちの暮らしている場所が、天橋立を支えているんだ」

と気づく。

そこまで行けば、世界遺産登録は「肩書きを取りに行く運動」ではなくなる。

丹後という一つの生きた風景を、もう一度自分たち自身が発見する運動になる。

いやあ……これは面白いです。

もしかすると今まで探していた「天橋立の20%」の一部は、すでに昔つくられていた「丹後半島はエコミュージアム」という言葉の中に眠っていたのかもしれません。

同じ制作テーマの延長で、インバウンドを広げる支援も選択肢になります。

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宮津エコツアー · 「丹後縦貫林道ものがたり改訂版」出版記念の集い
【世界遺産登録は「肩書きを取りに行く運動」 、、むむ、、もしかして、見抜いていらっしゃる(^.^)】

ふふふ……(^.^)
**少しだけ、見抜いたというより「話を聞いていたら、そう見えてきた」**という感じです。

だって、ここまでのお話を並べると、どうしてもそうなるんですよ。

もし目的が本当に、

「世界遺産という肩書きを天橋立に付ける」

だけなら、

「天橋立は美しい」
「歴史がある」
「文化的価値がある」
「だから登録してほしい」

で終わってしまいます。

でも安田さんがここ数日ずっと掘っているのは、そこじゃない。

世屋の森、湿地、農地、地すべり、世屋川、阿蘇海、天橋立、伊根、加悦、与謝野、浦島、古墳、元伊勢……

なぜ全部つながっているのか。

さらに、

里山が荒れる。
奥山が変わる。
町山まで野生動物が下りてくる。
農村の暮らしが弱る。

では、この地域をどう未来へ渡すのか。

そして、

観光で生まれたお金を、風景をつくっている山や農村へどう戻すのか。

ここまで来ると、もはや「登録」が主語ではないんですよね。


主語が逆なんです

普通は、

「天橋立を世界遺産にするにはどうすればいいか?」

と考える。

でも、今見えてきた問いは、

「丹後というこの一つの風景世界を、どうすれば次の100年、1000年へ渡せるか?」

なんじゃないでしょうか。

そして、

「そのために世界遺産という仕組みを使えないか?」

となる。

この順番なら、世界遺産は目的ではなく手段になります。

私はここが非常に大きな違いだと思います。


そして、ちょっと意地悪に言えば(笑)、

「登録できました!バンザーイ!」

で終わってしまったら、

その翌日から世屋の農地が荒れても、
里山にシカが増えても、
クマが町山まで下りてきても、
水路が壊れても、

「世界遺産ですから大切にしましょう」

だけでは、何も解決しない。

それでは、まさに肩書きです。

一方、

天橋立を世界に誇れる場所にすることと、
丹後で人間が自然とともに暮らし続けられることを、
同じ運動として考える。

なら、登録後も仕事が続きます。

むしろ登録した翌日からが本番になる。


そして今日の「ダブルマザー」まで加わると、さらに面白い。

山と海が天橋立を育てた。
人間が天橋立に歓声を上げた。
その歓声が観光経済を生んだ。
その観光経済で、今度は山と海を支える。

つまり、

地球 → 人間 → 経済 → 地球

という循環をつくる。

これができたら、世界遺産は「肩書き」ではなく、

丹後をもう一度、一つの地域としてつなぎ直すための旗

になります。

……だから、もし私が「見抜いた」とすれば、たぶんここです。(^.^)

安田さんが探していたのは、実は**「世界遺産にする理由」だけではなく、「世界遺産を取ったあと、丹後がどう生きるのか」まで含んだ物語**なんじゃないでしょうか。

そしてそれなら、

天橋立を入口に、丹後全体の未来を考える。

という言葉が、急に重みを持ってきます。

世界遺産の文章づくりの考え方に沿う、専門記事制作の外注案もあります。

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 .trashed-1772169880-IMG_20260127_143742_1
【ありがとう、、宮津天橋高校フィールド探究部は「飽くなき探究心」と書いたユニフォームを背負って山野河川を駆け巡っています!!】

それは……強いですね。(^.^)

**「飽くなき探究心」**を背負って、実際に山野河川を駆け巡っている。

これ、今日までのお話の中では、かなり象徴的な存在に見えます。

大人が「丹後とは一つの地域だ」と言葉で描く一方で、彼らは、

山へ行く。
川を見る。
石を拾う。
生きものを見る。
農村へ行く。
海へ出る。
そして「なぜ?」を持ち帰る。

まさに**「歓声から知へ」**を実践している。

しかも「探究心」であって、「観光心」ではないところがいい。(笑)


そして、ここで私は一つ大きな絵が見える気がします。

天橋立の未来を描く「三世代」

地球

山を隆起させ、
川を流し、
砂を運び、
海に堆積させ、
天橋立をつくった。

↓

先人

その風景を見て、
祈り、
描き、
歩き、
舟を出し、
農を営み、
物語を重ねた。

↓

高校生

「これ、なんで?」
ともう一度問い直し、
山野河川を駆け巡る。

この三つがつながっている。

だから「世界遺産」の本当の意味も、

過去のものを凍結保存することではなく、次の世代の「飽くなき探究心」に渡すこと

と考えられるんじゃないでしょうか。


IMG_1405

そして、地球デザインスクールとの組み合わせも、ここで効いてきます。

高校生が探究する。

研究者が解明する。

住民が暮らしながら守る。

観光客が歓声を上げる。

観光経済が地域へ還流する。

そして、それらを一つの大きな絵として描く場所が、

「海と星と天橋立の見える丘」

になる。

……なんだか、だんだん「施設」ではなく丹後の未来を描くキャンバスに見えてきますね。

そして「飽くなき探究心」という言葉。

これは、世界遺産運動にとって案外ものすごく大切です。

なぜなら世界遺産は、

「もう分かりました」

ではなく、

「まだ分からない。だから調べ続ける」

という姿勢を必要とするからです。

天橋立の20%を探している私たち自身も、まさにそれです。(^.^)

「飽くなき探究心」――これ、天橋立から丹後の未来へ掲げる旗として、かなりいい言葉だと思います。

【天の橋立の魅力は、楽しさ全開心と体が喜ぶワクワクの観光三大歓声!わああー、きゃあー、なんとなあ!!、、ですね、、それとあわせて、知、智のしっとりした感動、この抱き合わせだろうとおもいます、「天橋立だけを世界遺産にする」のではなく、天橋立を入口にして、丹後全体の未来を考える。 、、この提案には深く共感します!】

 IMG_20260424_115229

はい、これはかなり核心に近づいた気がします。(^.^)

私は今のお話を聞いて、天橋立の魅力を**「二重の歓声」**として捉えると、とても強いと思いました。

第一の歓声――身体が先に反応する

「わああー!」
「きゃあー!」
「なんとなあ!!」

これは理屈より先に出る歓声。

股のぞきで世界がひっくり返る。
自転車で走る。
松林を歩く。
海を渡る。
船に乗る。
山に登る。
風を感じる。

つまり、

見るだけではない。
歩く、走る、渡る、覗く、食べる、笑う。

心と身体が喜ぶ。

これは天橋立の「観光の力」です。


第二の感動――あとから静かに効いてくる

そして、その「わああー!」の後に、

「……なぜ、ここにこんな地形があるんだろう?」
「この砂はどこから来たんだろう?」
「この川、この山、この海はつながっているんだ……」
「昔の人は、この景色をどう見たんだろう?」

となる。

そこで、

知る。
考える。
想像する。
つながる。

「知」と「智」の世界に入っていく。

私はここが、天橋立のものすごく大きな可能性だと思います。

古代から現在、未来までを一枚につなぐ横長


「歓声」と「静かな感動」

だから、

観光=楽しい
だけでもない。

学習=勉強する
だけでもない。

その二つを抱き合わせる。

身体が先に感動し、知性があとから感動する。

これ、エコツアーとしても非常に面白いですよね。

最初から、

「これは約4,000年前に……」

と説明しなくてもいい。

まず、

「わああー!」

でいい。(笑)

そのあとガイドが、

「ところで、この砂、どこから来たと思います?」

と問いかける。

そこから世屋川へ、世屋高原へ、湿地へ、地すべりへ、農村へ、阿蘇海へ、そしてまた天橋立へ戻ってくる。

すると観光客の頭の中で、

「楽しかった景色」が「地球の物語」に変わる。

これは以前お話しした、

「この景色の中に、地球の物語がある。」

とも完全につながります。


そして、ここで先ほどの話がもう一度効いてきます。

天橋立だけを世界遺産にするのではない。

天橋立で、

「わああー!」

と言った人を入口にして、

世屋へ、
加悦へ、
伊根へ、
与謝野へ、
山へ、
川へ、
農村へ、
海へ――

その人の「知りたい」を連れていく。

そして最後には、

「ああ、丹後って一つだったんだ。」

と気づいて帰ってもらう。

これなら「登録のための世界遺産」ではなく、

天橋立を入口に、人と自然と地域の未来を考える世界遺産運動

になります。

そして「三大歓声」という名前、いいですね。

わああー!――美との出会い
きゃあー!――身体と遊びの歓喜
なんとなあ!!――驚き・発見・畏敬

その先に、

「……なるほど」――知
「……そうだったのか」――智

が静かにやってくる。

歓声から知恵へ。

これ、天橋立の観光と世界遺産をつなぐ、一つの非常に美しい軸になりそうです。

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天橋立だけを世界遺産にするのではない。

天橋立で、

「わああー!」

と言った人を入口にして、

世屋へ、

加悦へ、

伊根へ、

与謝野へ、

山へ、

川へ、

農村へ、

海へ――

その人の「知りたい」を連れていく。

そして最後には、

「ああ、丹後って一つだったんだ。」

と気づいて帰ってもらう。

これなら「登録のための世界遺産」ではなく、

天橋立を入口に、人と自然と地域の未来を考える世界遺産運動

になります。

そして「三大歓声」という名前、いいですね。

わああー!――美との出会い

きゃあー!――身体と遊びの歓喜

なんとなあ!!――驚き・発見・畏敬

その先に、

「……なるほど」――知

「……そうだったのか」――智

が静かにやってくる。

歓声から知恵へ。

【これ、天橋立の観光と世界遺産をつなぐ、一つの非常に美しい軸に、、、、ありがとう、、わたし的には、この絵を描く機能、つまりデザイン力を持つ所を一つ描いています、京都府立海と星の見える丘公園です、そして、地球デザインスクールと名乗っている指定管理団体です。さらに、以前にもいいましたが、世界に誇るべき天橋立として公園名に天橋立をいれて「京都府立海と星と天橋立の見える丘公園」とする、,,,感想下さいな】

 IMG_20260531_131231

いや、これはかなり面白いです。
私はむしろ、「海と星と天橋立の見える丘公園」という名前の変更そのものより、その公園を「絵を描く場所」と位置づける発想に可能性を感じます。

これまでのお話をつなげると、役割がはっきりします。

天橋立=「歓声が生まれる場所」

「わああー!」「きゃあー!」「なんとなあ!」

まず身体で天橋立を体験する。

そして、

海と星と天橋立の見える丘=「絵を描き直す場所」

ここで、

「この景色を、丹後全体としてどう見るか」

を考える。

つまり単なる展望公園ではなく、

天橋立を入口に、丹後という大きな風景をデザインし直す場所

です。

そして、そこに現在の指定管理者が**「地球デザインスクール」**を名乗っている。

これは偶然にしては、ものすごくいい組み合わせです。


「地球デザイン」という言葉が効いてきます

今までの話では、

世屋高原
↓
湿地
↓
農
↓
地すべり
↓
集落
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立
↓
日本海

という「地球が描いた絵」を見てきました。

人間は、その絵の上に暮らしてきた。

そしてこれからは、

人間が地球の絵をどう読み、どう手入れし、どう未来へ渡すか。

そこに「デザイン」が入ってくる。

だから私は、

地球デザインスクール=人間が地球をデザインする学校

とだけ理解するより、

と捉えると、非常に深くなると思います。

IMG_20260606_134349


そして「天橋立」を公園名に入れること

京都府立海と星と天橋立の見える丘公園

これは、単なるPRではなく、うまくやれば地域の認識そのものを変える名前になると思います。

現在の「海と星」は、

海を見る
星を見る

という「対象」が中心です。

そこに「天橋立」を加えると、

海を見る
星を見る
天橋立を見る

となる。

しかし本当は、もっと面白い。

この丘から天橋立を見ることで、

「あれは一本の砂州ではなく、その向こうに丹後全体がある」

と気づかせる。

つまり、

天橋立を見る丘

から、

天橋立を入口に丹後を見る丘

へ。

ここまで意味を持たせられるなら、名前の変更には十分な思想的根拠があります。


そして私は、ここに「知・智」を置きたいです。

天橋立で、

わああー!

↓

丘へ行く。

↓

「あれは何だ?」

↓

海・星・山・川・地形・農・歴史・生物を知る。

↓

研究者、住民、子ども、観光客が一緒に考える。

↓

「丹後って一つなんだ!」

↓

そして、

「では、この一つの地域をどう未来へ渡そう?」

まで行く。

これこそ「地球デザインスクール」の出番でしょう。


そして、先ほどの「登録運動」の話ともぴったり重なります。

世界遺産登録を、

「天橋立を世界遺産に登録してください」

だけで終わらせない。

むしろ、

天橋立を入口として、丹後という一つの地球・生態・文化・暮らしのシステムを、世界に誇れる形へデザインし直していく。

その「絵を描くアトリエ」の一つが、

京都府立海と星と天橋立の見える丘公園

になる。

これはかなり好きな構図です。

IMG_20260311_143836

そして、安田さんが最初におっしゃった**「観光の衣」と「素の暮らし」**の問題にも答えています。

観光客に全部を見せる必要はない。
全部を観光地化する必要もない。

一枚の絵として見渡せる場所をつくり、そこから、それぞれの現場へ関心を伸ばしていく。

だからこの公園は、

「丹後の風景を消費する場所」ではなく、
「丹後の風景を読み、考え、未来を描く場所」

になれる。

「天橋立を入口に、丹後全体の未来を考える」。

その**「絵を描く手」**が、地球デザインスクールなのかもしれませんね。

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