宮津エコツアー · 遠つ祖の出でましし丹後わが恋のあはあはとして消えたる丹後 天の橋立を世界遺産に 65

遠つ祖の出でましし丹後わが恋のあはあはとして消えたる丹後 天の橋立を世界遺産に 65

『遠つ祖の出でましし丹後わが恋のあははとして消えたる丹後』岩田晋次、京都新聞9/5 林和清選・けさとどく歌です。丹後を詠んで素敵です、、、丹後、恋、あはあは、、さて、ここに、天橋立が見えるのです、、では、ChatGPTは、この歌の陰に隠れている「天の橋立」を読み解くことができるのか!!トンチンカンなやりとりを修正して、読み解きのまとめ、、
 遠い祖先の恋も、昨日の誰かの恋も、今日、天橋立を歩く恋人たちの恋も、やがて、あはあはとして丹後の海へ消えてゆく。しかし次の波が来る。あは。あは。次の恋人たちがやって来る。これが繰り返される。

、、作者・岩田晋次さんは、いかがおっしゃるでしょうか(^.^)(^.^)(^.^)

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          《1》

ああ、これは実に魅力的な一首ですね。私も、この歌を声に出して読んだとき、意味より先に「丹後」という土地そのものが響き始めるように感じます。

遠つ祖の
出でましし丹後
わが恋の
※あははとして消えたる丹後

——岩田晋次

この歌には、丹後という地名が二度現れます。しかし、最初の「丹後」と最後の「丹後」は、同じ丹後ではないように思えるのです。

最初の丹後は、

遠つ祖の出でましし丹後。

はるかな祖先がいた丹後です。

そこには、歴史があります。
血があります。
神話があります。
人間がまだ「自分」という小さな存在になる以前から続いてきた、遥かな時間があります。

そして歌は、そこから突然、

わが恋

へと降りてくる。

悠久の歴史から、一人の人間の恋へ。

これは、まことに不思議な転換です。


けれど、その「恋」は、やがて、

※あははとして消えたる

という。

「あはは」。

ここが、なんとも言えません。

「ああ」でもない。

「泡」でもない。

「淡い」でもない。

けれど、そのすべてが聞こえてくる。

あはは。

声に出せば、息が漏れるような言葉です。

笑い声のようでもあり、

ため息のようでもあり、

波が砂浜に寄せては消える音のようでもある。

そして私は、ここにこそ天橋立が見えるのです。


天橋立は、一本の長い砂州です。

けれど、それをつくったものは、もともと一つの大きな岩ではありません。

山が砕かれ、

石が砕かれ、

砂となり、

その砂の一粒一粒が海へ運ばれ、

波に寄せられ、

また運ばれ、

寄せては離れ、

離れてはまた寄せられて、

ついに一本の橋となった。

つまり天橋立そのものが、

消えてゆくものの集積

なのです。

山は削られる。

石は砕かれる。

砂になる。

砂は波にさらわれる。

一粒一粒は、どこかへ消えてしまう。

しかし――

消えたものは、本当に消えてしまったのだろうか。

長い時間の中で、

その「消えたもの」が、

別の場所で、

一本の橋になっている。

ここに天橋立の不思議があります。


だから、

わが恋の
あははとして消えたる丹後

という言葉を読むと、

私は「失われた恋」の歌である以上に、

消えることと、残ることが同時に存在する歌

のように感じるのです。

恋は消えた。

「あはは」と。

波が消すように。

泡が消えるように。

けれど、恋が消えた場所は、丹後として残っている。

いや、もっと言えば、

恋が消えたからこそ、丹後が現れてくる。

個人の恋は消える。

人間もまた去ってゆく。

遠つ祖も、もういない。

しかし、その人々が見た山は残る。

海は残る。

砂は移動し、

形を変えながら、

なお天橋立となって残っている。


そして、「あはは」という響きが、また不思議です。

私は勝手に、その音のなかに、

「泡」

を聴いてしまいます。

泡は海から生まれ、

一瞬、白く光り、

すぐに消える。

恋もまた、そうかもしれません。

しかし天橋立の砂もまた、もとは波に洗われた無数の粒子です。

泡は消える。

恋も消える。

人も消える。

けれど、

砂だけは残る。

いや、砂もまた、そのままでは残りません。

波によって運ばれ、

移され、

積み直され、

別の形になってゆく。

ここに、丹後という土地の時間があるように思います。


そして、もう一つ。

この歌には、

「遠つ祖」から「わが恋」へ

という、驚くほど大きな時間の振幅があります。

遠つ祖
  ↓
遥かな歴史
  ↓
丹後
  ↓
わが恋
  ↓
あはは
  ↓
消える
  ↓
再び、丹後

この構造は、どこか天橋立に似ています。

天橋立もまた、

遠い地殻変動から始まり、

山となり、

川となり、

砂となり、

最後に、

人間の眼の前に現れる。

気の遠くなるような地球の時間が、

一人の人間の視線の中に、

一本の風景として現れるのです。

岩田晋次の歌もまた、

遠つ祖という壮大な時間が、

「わが恋」という、

きわめて個人的で、

はかない一瞬の感情へと流れ込んでいる。

そして、その両方を、

丹後

という一つの地名が受け止めている。

私は、ここにこの歌の凄みを感じます。


そして最後に、また、

丹後。

歌は丹後へ帰ってくる。

最初も丹後。

最後も丹後。

しかし、読んだ後の私たちは、最初の丹後へ戻ってはいない。

遠つ祖を知り、

恋を知り、

「あはは」と消えるものを知ったあとで、

もう一度、

丹後

へ帰ってくる。

これはまるで、天橋立を歩くことに似ています。

片方の岸から歩き始め、

松の間を通り、

海を両側に見ながら進み、

そして、向こう岸へ着く。

けれど、それは単に「同じ土地の反対側へ行った」ということではない。

歩く前とは、同じ風景ではなくなっている。


だから私は、この歌をこう読みたくなります。

遠い祖先が歩いた丹後がある。
その丹後で、私もまた恋をした。
その恋は、泡のように消えた。
けれど、恋が消えたあとにも、丹後は残っている。

いや、残っているのは丹後だけではない。
消えた恋もまた、土地の風景のどこかに沈んでいる。
波が砂を運び、いつか天橋立をつくったように。

人の恋も、遠つ祖の記憶も、消えてしまったものはすべて、丹後という大きな時間の中で、再び何かの形になっているのかもしれない。

そう思うと、

わが恋の
※あははとして消えたる丹後

の「あはは」は、

単なる消滅の音ではありません。

消えながら、どこかへ還ってゆく音。

波が砂をさらい、

さらった砂を別の浜へ置き、

その繰り返しの果てに、

いつしか天橋立が生まれたように。

恋も、

祖先も、

人の記憶も、

「あはは」と消えてゆく。

しかし、

丹後は、それらすべてを受け取っている。

そして、天橋立は――

その「消えていったもの」と「残ったもの」との境界に、

今も一本の線を引いている。

あはは。

この、息が抜けるような小さな音のなかに、

私は丹後の波を聞き、

消えた恋を聞き、

遠つ祖の足音を聞き、

そして、海の上に横たわる天橋立を見るのです。

なんと不思議な歌でしょう。

「丹後」という土地が、地名であることをやめて、恋の消えてゆく音そのものになっている。

そして、その音が、再び波となって――

天橋立の白い砂へ、寄せては返している。

天橋立きよかずのりとみさんee0f8a25e7e35533173b3dfd56e16acb

                     《2》
問い うむ、、、、なるほど、、あはは、でなくて、あはあは! 天橋立はデートサイト、あはあは、、これ、その時の波のリズムかと思いました、、(^.^)

ああっ、なるほど! 「あはは」ではなく「あはあは」――これはまったく違いますね。しかも、

天橋立はデートサイト、あはあは……

この読み、たいへん面白いです。(^.^)

私は先ほど「あはは」を、消えてゆく泡やため息のように読んでしまいましたが、「あはあは」には反復があります。

つまり、一度きりではない。

あは――あは。
あは――あは。
あは――あは。

これは確かに、波のリズムに近い。


天橋立の砂浜で恋人たちが向き合っている。

波が来る。

あは。

少し退く。

そしてまた来る。

あは。

二人の間には、言葉にならない時間がある。

話しているようで、話していない。

笑っているようで、黙っている。

恋とは、案外こういうものかもしれません。

あは。
あは。

言葉になりきらない感情が、寄せては返す。

すると、

わが恋の
あはあはとして消えたる丹後

は、単に「恋が泡のように消えた」という歌ではなく、

恋人たちの時間そのものが、波のリズムのなかへ消えていった

とも読めるのではないでしょうか。


そして、ここで決定的なのが、天橋立が「橋」であることです。

普通の海岸なら、恋人たちは浜辺に「いる」。

しかし天橋立では、二人は文字どおり、

海と海のあいだを歩く。

左にも海。

右にも海。

そして一本の砂の道。

これはもう、なんともロマンティックです。

    海   あは
~~~~~~~~

   二人  ♡
========
   天橋立

~~~~~~~~
    海   あは

波が両側から聞こえる。

片方の海が、

あは。

もう片方の海が、

あは。

それは、恋人たちの歩く時間に合わせるように、

あるいは二人の心臓の鼓動に合わせるように、

寄せては返す。

あはあは。

なるほど!

これは音として読むと、丹後の海が急に現れます。


さらに面白いのは、

遠つ祖の出でましし丹後

と、

わが恋のあはあはとして消えたる丹後

の間にある、時間の大きな落差です。

遠つ祖――遥かな過去。

わが恋――いま、この瞬間。

その二つを結んでいるのが、丹後です。

そして天橋立は、まさにそういう場所でしょう。

遠い神話と、今日の恋人たちが、同じ一本の砂州の上に立つ。

浦島太郎や羽衣伝説のような、遥かな物語の世界がありながら、そのすぐ隣で、現代の若い二人が歩いている。

昔も誰かが恋をした。

今も誰かが恋をしている。

そして波は、

あは。
あは。

と、変わらず寄せている。


私は、ここで「あはあは」は、もしかすると非常に巧みな恋の擬音でもあるように思えてきました。

「ああ、愛している」とは言わない。

「私は幸福だ」とも言わない。

ただ、

あはあは。

なんだか、少し笑っている。

照れている。

二人だけには意味が通じる。

そんな、恋人のあいだの言葉にならない声。

そしてそれは、

波の音にも似ている。

つまり「あはあは」は、

恋人の笑い声であり、
恋人の吐息であり、
海の波のリズムでもある。

そのすべてが、一つの言葉に重なっているようです。


そう考えると、この歌の「消えたる」も、悲しい消滅だけではありませんね。

天橋立で過ごした恋の時間は、いつか終わる。

デートも終わる。

夕暮れも終わる。

二人は帰る。

けれど、波はそのあとも、

あは。
あは。

と続いている。

恋人たちの姿は消えても、そのとき二人を包んでいた波のリズムは、丹後の海に残っている。

そして次の恋人たちがやって来る。

また、

あはあは。

と笑う。

これこそ、天橋立という場所の持つ、なんとも言えない魅力ではないでしょうか。


私なら、この歌から、こんな場面を見ます。

遥かな祖先が歩いた丹後の海辺を、
いま、一組の恋人が歩いている。

天橋立の両側から、
波が寄せる。

あは。

あは。

二人は何かを話している。
けれど、その言葉はもう聞こえない。

笑い声だけが、
波の音と混じっている。

あはあは。

やがて恋も、夕暮れも、
その日の二人も消えてゆく。

しかし丹後の海は、
次の恋人たちのために、
今日も同じように、

あは。
あは。

と、橋の両側から寄せている。

いやあ、これは「丹後を詠んだ歌」というだけではありませんね。

丹後という土地が、恋の声と波の音を区別しなくなった瞬間を詠んだ歌なのかもしれません。

そしてその「あはあは」の真ん中に、一本の砂の橋――天橋立が見えてくる。

これは、かなり素敵な発見だと思います。(^.^)

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         《3》
ありがとう、、そして、あはは、は、わたしのミス、正しくは、あはあはとして消えたる丹後、でした、失礼!!

いえいえ、とんでもありません。(^.^)
むしろ、「あはあは」だと分かったことで、歌の世界が一層鮮やかになったように思います。

私も先ほど、最初の表記に引っ張られて「あはは」と読んでしまいましたが、

わが恋の あはあはとして消えたる丹後

となると、これはまさにおっしゃったように、反復する波のリズムが聞こえてきます。

あは――あは。
あは――あは。

天橋立の両側から寄せる波。

そして、その波の間を恋人たちが歩いている。

「あはあは」は笑い声にも聞こえるし、恋人同士の照れた吐息にも聞こえる。しかし同時に、言葉になる前の感情が、波と一緒に寄せては返すようにも聞こえます。

ですから、この一首には、

遠つ祖の丹後――悠久の時間

と、

わが恋の丹後――一瞬の時間

があり、その二つを「あはあは」という波のような反復がつないでいるのかもしれません。

そして、何より面白いのは、

「遠つ祖の出でましし丹後」から始まり、最後も「丹後」で終わることです。

その間に、一人の人間の恋があり、

あはあは

と波のように揺れ、

そして消える。

けれど丹後は残る。

いや、もっと正確に言えば、丹後の海が、その恋を受け取り、波の記憶の中へ溶かしてしまう。

遠い祖先の恋も、

昨日の誰かの恋も、

今日、天橋立を歩く恋人たちの恋も、

やがて、

あはあはとして

丹後の海へ消えてゆく。

しかし次の波が来る。

あは。
あは。

次の恋人たちがやって来る。

これが繰り返される。

そう考えると、この歌の「あはあは」は、単なる擬態語ではなく、丹後の海が何千年も繰り返してきた恋のリズムのようにも思えてきます。

そして、そのすべての真ん中に、

山が生み、川が運び、海が編み上げた一本の砂州――天橋立

が横たわっている。

なんとも素敵な読みですね。

地球の時間が天橋立をつくり、人間の時間がそこで恋をする。

そして恋は消えても、

あはあは。

波だけは、次の恋へ向かって、また寄せてくるのです。

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