【雪舟さんと与謝野蕪村さん、さらに、鉄幹・晶子さん、、この方たちの位置づけです、雪舟さんは足利時代なので②、蕪村さんは江戸後期なので①、 鉄幹・晶子さんは明治なので⑤、、、こう考えました、意見ください、、※その繋がり型広がり型について、五つを挙げてみたいと考えています、①宮津からの近代観光ルート②与謝野町倉梯川(現野田川)からの古代文化ルート③世屋高原からの砂供給ルート④伊根からの浦島海民ルート、⑤岩滝町からの丹後内陸交流ルート。】



これは、たいへん良い「配置」だと思います。しかも単に三組の芸術家を年代順に並べるのではなく、それぞれが異なる方向から天橋立を発見した人々として配置するところに、この構想の面白さがあります。
ただ、私なら少しだけ整理を加えます。
まず結論
私は、
- 雪舟 → ② 与謝野・古代文化ルート
- 蕪村 → ① 宮津・近世から近代へ続く「見る天橋立」のルート
- 鉄幹・晶子 → ⑤ 岩滝・丹後内陸交流ルート
という配置を、基本的に賛成します。
ただし、それぞれを単なる「訪問経路」ではなく、その芸術家が天橋立に与えた視点として位置づけると、構想が一気に強くなります。
雪舟は②――「丹後を宇宙として描いた人」

雪舟
雪舟を②与謝野・古代文化ルートに置くという発想は、非常に興味深いです。
なぜなら雪舟の《天橋立図》は、単に「天橋立を描いた絵」ではないからです。
天橋立図
国宝《天橋立図》には、天橋立だけでなく、阿蘇海、府中、成相寺の山塊、智恩寺、宮津湾などが一つの広大な空間として描かれています。しかも実景をそのまま写したのではなく、各地を選択し再構成していることが分かっています。
つまり雪舟は、
「天橋立という一点」を描いたのではない。
「天橋立を中心として成立する丹後という世界」を描いた。
のです。
これは、あなたの「五つのルートによる天橋立」という構想と、実に見事に響き合います。
雪舟の視線は、現代風に言えば、
ネットワークとしての天橋立
を最初に描いたともいえるのではないでしょうか。
したがって②は、単なる「古代文化ルート」というより、
② 与謝野――遠つ祖・古代丹後・丹後世界を俯瞰するルート
と定義すると、雪舟の位置づけが一層明確になると思います。
雪舟は、
天橋立を見た人
ではなく、
天橋立の背後にある丹後の全体像を描いた人
なのです。
蕪村は①――「天橋立を芸術として見た人」

(↑重要文化財 松尾芭蕉 奥の細道画巻 与謝野蕪村筆 2巻入 解説及釈文有 – www.erinmackeyauthor.com )
与謝蕪村
これは非常に納得できます。
蕪村は1754年頃から三年以上、宮津の見性寺に滞在し、その丹後時代は画家として独自の表現を確立していく重要な時期でもありました。宮津の自然、景観、歴史や伝説が蕪村の創作に影響を与えたと考えられています。
蕪村には、
雪舟も 筆を捨てたり 橋立は
という有名な句があります。
これは実に象徴的です。
雪舟は天橋立を描いた。
その雪舟に対して蕪村は、
あまりにも素晴らしい天橋立は、雪舟でさえ描き切れなかったのではないか
というような、芸術家同士を越えた「まなざし」を生み出します。
そしてもう一つ、
はし立や 松は月日のこぼれ種
という句も素晴らしい。
宮津市によれば、この句碑は現在も天橋立松林にあります。
蕪村にとって天橋立は、
地形ではなく、芸術を生む風景
になったのです。
したがって①は、
宮津――人が天橋立へ至り、その景観を発見し、芸術として表現するルート
と考えるとよいでしょう。
そして私は、ここで一つ面白い対比が生まれると思います。
雪舟は「丹後全体」を描いた。
蕪村は「天橋立を見ること」そのものを芸術にした。
この二人は、同じ天橋立を見ながら、まったく違う仕事をしているのです。
鉄幹・晶子は⑤――「恋する人間の天橋立」

与謝野鉄幹と与謝野晶子を⑤岩滝・丹後内陸交流ルートに置く。
これは、私は非常に良いと思います。
むしろ、この五つのなかで、もっとも現代的な天橋立を発見するルートになる可能性があります。
1930年、鉄幹・晶子夫妻は丹後を訪れ、大内峠で天橋立を眺め、多くの歌を詠みました。また岩滝小学校での講演も行っています。
鉄幹の歌。
たのしみは
大内峠に
きはまりぬ
まろき入江と
ひとすぢの松
この「ひとすぢの松」。
なんと素晴らしい表現でしょう。
地球科学的に見れば、砂州です。
しかし歌人の目には、
ひとすぢの松
となる。
そして晶子は、
海山の
青きが中に
螺鈿おく
峠の裾の
岩瀧の町
と詠んでいます。
ここには、
- 山
- 海
- 峠
- 岩滝の町
- 天橋立
が、一つの生活景観として存在しています。
これはまさに⑤です。
⑤は、
天橋立を遠くから鑑賞する場所ではなく、丹後の人々が暮らし、往来し、語り、恋をする生活圏として見るルート
なのです。
そして、あなたが先ほど示してくださった、
あはあはとして消えたる丹後
の世界も、ここに重なってくる。
神話の丹後だけではない。
雪舟の丹後だけでもない。
現代人が恋をする丹後。
これは、鉄幹・晶子の位置づけと、とてもよく響きます。
三人(三組)は「天橋立の見方の進化」を示している
私は、この配置には、さらに大きな意味があると思います。
雪舟
↓
丹後という世界を描く
【空間の発見】
蕪村
↓
天橋立という風景を見る
【美の発見】
鉄幹・晶子
↓
丹後で人間が生き、旅し、恋する
【人間の発見】
これです。
雪舟は、
天橋立を含む世界を見た。
蕪村は、
天橋立の美を見た。
鉄幹・晶子は、
天橋立の中に生きる人間を見た。
この三段階は、実に美しい。
そして五つのルートと重ねると
| ルート | 天橋立の意味 | 芸術家 |
|---|---|---|
| ① 宮津 | 見る・旅する・美を発見する | 蕪村 |
| ② 与謝野 | 遠つ祖・古代・丹後世界 | 雪舟 |
| ③ 世屋 | 地球・山・砂・生成 | ――大地そのもの |
| ④ 伊根 | 海民・浦島・異界 | ――海の物語 |
| ⑤ 岩滝 | 暮らす・交流する・恋する | 鉄幹・晶子 |
ここで、私は大変重要なことに気づきます。
③と④には、まだ「代表する芸術家」がいない。
しかし、これは欠点ではありません。
むしろ、
③世屋は大地そのものが作者である。
④伊根は海そのものが語り手である。
と言えるのです。
② 雪舟 人間が描く
① 蕪村 人間が詠む
⑤ 鉄幹晶子 人間が恋する
③ 世屋 大地がつくる
④ 伊根 海が語る
これは、実に美しい五角形になるのではないでしょうか。
そして世界遺産的な構想として、さらに重要なのは
この三組の芸術家を「有名人が来た」という観光史にしてはいけないと思います。
それでは弱い。
そうではなく、
異なる時代の優れた芸術家たちが、それぞれ異なる方法で、天橋立という場所の価値を発見した。
という「文化的証言の連鎖」として捉えるべきです。
室町の雪舟。
江戸の蕪村。
明治・近代の鉄幹・晶子。
およそ数百年にわたり、
異なる時代の日本芸術を代表する人々が、同じ天橋立を訪れながら、まったく違う天橋立を発見している。
天橋立は、時代が変わっても、同じ意味を繰り返してきたのではない。
時代ごとに、新しい意味を人間から引き出してきた。
ここが素晴らしいと思います。
実際、京都府の「天橋立憲章」も、雪舟の《天橋立図》や与謝野晶子の文学的足跡を、時代ごとに天橋立が文人墨客の感性を育んできた証しとして位置づけています。
私なら、この構想をこう言います。
雪舟は、丹後を描いた。
蕪村は、天橋立を詠んだ。
鉄幹と晶子は、丹後を生き、歩き、恋した。
しかし彼らが見たものは、それぞれ異なる天橋立であった。
雪舟の天橋立は、山と海と寺社を抱く巨大な宇宙であった。
蕪村の天橋立は、美が芸術家の筆をも超えてゆく風景であった。
鉄幹・晶子の天橋立は、旅する人間の心と、丹後に生きる人々の暮らしを包む風景であった。
そして、そのすべての天橋立を生み出したのは、山から海へ、海から人間へとつながる、丹後という大きな世界であった。
これは、私はかなり強い構想だと思います。
そして最後に、一番面白いことを申し上げるなら――。
雪舟、蕪村、鉄幹・晶子の三つの「眼」が、あなたの「あ阿蘇海・い伊根・せ世屋・よ与謝野」という浦島ロードに加わることで、単なる観光ルートが「天橋立を読むための文化地図」になる。
そこまで育てることができれば、これは世界遺産を考える際にも、単なる推薦運動のスローガンではなく、天橋立という遺産の顕著な価値を説明する独自の思想体系になり得ると思います。











