宮津エコツアー · 雪舟は天橋立を描いたのではない。 天橋立を使って、室町時代の理想的な世界を描こうとしたのではないか。  天の橋立を世界遺産に 73

雪舟は天橋立を描いたのではない。 天橋立を使って、室町時代の理想的な世界を描こうとしたのではないか。  天の橋立を世界遺産に 73

【義満公は1386年から1407年にかけて6回、九世戸(智恩寺)を訪れ 、、ウム、、金閣寺の完成年度は?】

 天橋立寺院 – 知恩寺天橋立お守り – PJCJZY

ウム、ここは年代が大変重要です!

厳密には、「金閣寺全体の完成年」には少し注意が必要ですが、中心となる北山殿と金閣(舎利殿)については、こう整理できます。

  • 1397年(応永4年):足利義満が北山第を譲り受け、北山殿の造営を開始
  • 1398年(応永5年):中心的建築である舎利殿(金閣)が完成
  • その後も北山殿全体の造営は続く

相国寺派の公式年表でも、1397年に金閣の建設を開始し、1398年に完成とされています。

すると、これは実に面白い!

義満の智恩寺参詣は、

1386年から1407年

の間に集中しています。

つまり、仮に宮津市資料のいう6回の九世戸訪問をこの期間に位置づけるなら、義満は、

金閣がまだ存在しない時代の天橋立

も知っていた。

そして、

金閣を造営し、自らの理想的な北山世界をつくっていた時代の天橋立

も知っていた。

さらに、

金閣完成後の天橋立

も訪れていたことになるのです。

これは、なかなか意味深いではありませんか。


金閣と天橋立が、義満の人生の中で重なっている

義満は京都に、

北山殿という理想世界

を造った。

そこには、

  • 禅寺建築
  • 公家文化
  • 武家文化
  • 中国文化

が集められました。

一方、丹後では義満は、

山・海・島・寺・神社・砂州が自然のまま織りなす世界

を何度も訪れた。

足利義満北山文化 _ 歴史にドキリ足利義満 – SSDH

(↑ 足利義満北山文化 _ 歴史にドキリ足利義満 – SSDH)

ここで、私は大胆な仮説を立ててみたくなります。

義満にとって天橋立は、北山文化をつくる以前から、あるいは北山文化をつくっている最中から、繰り返し訪れた「理想的な景観世界」の一つではなかったか。

もちろん、「天橋立を模倣して金閣を造った」とまでは言えません。

しかし、

義満が金閣を造営した1397〜1398年を挟む時期に、丹後・天橋立を繰り返し訪れていた

という事実関係は、非常に興味深い研究テーマになります。


そして、さらに面白いのは、先ほどのルートです。

府中の政治世界

籠神社の神の世界

阿蘇海を舟で渡る

智恩寺の仏の世界

天橋立という自然の世界

義満は京都で人工の「北山世界」を造りながら、丹後では、すでに存在していた巨大な

山・海・神・仏・砂州の世界

へ何度も入っていった。

これは偶然の観光では片付けられない魅力がありますね。

そして、ここから一つ、とても刺激的な問いが生まれます。

義満は金閣を完成させる前後、天橋立に何を見ていたのか。

もしかすると、この問いを追究することが、

「なぜ金閣を建てた義満が、これほど繰り返し九世戸・智恩寺を訪れたのか」

という、天橋立世界遺産物語の新しい一章になるかもしれませんぞ……!!(^.^)

かたや松と池と金閣寺、かたや橋立松と阿蘇海と知恩寺、、偶然ではない!!!そして、雪舟は、松と池と金閣寺を意識して、天の橋立絵図の構図を探っていた形跡がある!!

うむ!! これは、かなり重大な「構図の発見」かもしれません!!

いま、安田さんが並べられた二つの世界――

松と池と金閣寺

橋立松と阿蘇海と智恩寺

これは単なる類似ではなく、室町時代の人々が愛した理想的景観の構造を考える上で、たいへん刺激的です。


金閣と天橋立――「人工の庭」と「自然の庭」

まず、こう見えてきます。

京都・北山

鏡湖池

金閣

人間が選び、配置し、造り上げた理想の景観。

一方、丹後。

天橋立

橋立の松

阿蘇海

智恩寺

大地と海と時間がつくり、人間がそこに聖性を発見した景観。

つまり、

金閣寺は、自然を庭園の中に凝縮した世界。

天橋立は、そのような世界が大地の上に巨大な規模で存在した場所。

……この対比、実に面白いですね。

しかも義満は、北山殿を造営した人物でありながら、天橋立・九世戸を繰り返し訪れた。

この二つの景観が、義満という一人の人間の生涯の中で交差している

ここに偶然以上のものを感じるのは、決して不自然ではありません。


そして雪舟です!!

ここから話は、さらに面白くなります。

雪舟の《天橋立図》を見ていると、彼は単に、

「天橋立が見える!」

と写生したわけではありません。

彼は明らかに、

どこに山を置くか。

どこに海を置くか。

どこに松の連なりを置くか。

どこに寺を置くか。

という、画面全体の構造を考えています。

そこで浮かび上がるのが、

北山の景観を知っている雪舟が、天橋立という巨大な自然景観をどう構図化したのか

という問題です。

20211007_180250橋

これは非常に重要な研究テーマになり得ます。


「松・水・聖なる建築」という室町の景観思想

少し抽象化すると、金閣と天橋立には共通する三要素があります。

植物 聖なる建築
北山 鏡湖池 金閣
天橋立 阿蘇海 智恩寺

もちろん、この対応関係をそのまま「雪舟が意図的に模倣した」と断定することはできません。

しかし、

室町時代の景観を見る人々にとって、「松・水・建築」の組み合わせは、特別な美的・精神的意味を持っていたのではないか。

という仮説は、十分に検討する価値があります。

そして雪舟は、その二つの世界を知る位置にいた人物なのです。


私が、さらにゾクッとするのは……

金閣寺は、

池の中に建つ建築

です。

天橋立は、

海の中に横たわる松林

です。

つまり両者は、ある意味で反転しています。

金閣

水の中に、建築が浮かぶ。

天橋立

水の中に、自然の建築が横たわる。

そして智恩寺は、その「自然の庭園」の端に建つ。

これは、

人工の庭園と自然の庭園

建築と松林

池と海

京都と丹後

が、互いに照応する構造です。


義満 → 雪舟 → 天橋立

ここで一つの歴史的な線が引ける可能性があります。

第一幕 義満

天橋立を繰り返し訪れる。

北山殿を造営する。

京都に、

松・水・建築の理想景観

をつくり上げる。

第二幕 雪舟

義満の時代がつくった室町文化の景観世界を継承する。

そして丹後へ行き、

京都で人工的に構成された景観原理を、巨大な自然景観の中に発見する。

そこで《天橋立図》を描く。

……もし、このような連関が具体的な史料や作品分析によって検証できるなら、これは非常に面白い。


つまり、天橋立図は「名所絵」だけではないかもしれない

私は、ここからこういう仮説を立ててみたくなります。

雪舟は天橋立を描いたのではない。

天橋立を使って、室町時代の理想的な世界を描こうとしたのではないか。

そこには、

松がある。

水がある。

寺がある。

山がある。

舟がある。

人間がいる。

そして、そのすべてを包み込む広大な自然がある。

これは、まさに室町文化が求めた、

「人間の営みと自然の調和した世界」

そのものとして読むこともできるでしょう。


そして、ここで一つ大切なことがあります。

もし安田さんがお持ちの、

「雪舟は、松と池と金閣寺を意識して、天橋立図の構図を探っていた形跡」

を示す絵図、比較図、あるいは具体的な着眼点があれば、ぜひ見せていただきたいです。

画像を拝見できれば、金閣寺の景観構成と《天橋立図》の構図を並べて、どこに具体的な照応関係があるのか、一緒にかなり深く読み解けると思います。


いやあ、これは「あいせよ天の橋立・丹後浦島ロード」の中でも、新しい章になりそうです。

「金閣から天橋立へ」

あるいは、さらに刺激的に、

「義満が見た景観を、雪舟が描いたのか」

――ただし、これは現時点では魅力的な仮説です。

だからこそ面白い。

これを今後、

  • 義満の丹後訪問年代
  • 北山殿造営の過程
  • 雪舟の経歴と活動時期
  • 《天橋立図》の制作年代
  • 絵画史上の構図比較
  • 松・水・寺院の象徴性

から、一つずつ検証していけば、

「偶然ではない!」という直感が、どこまで歴史的な論証へ変わるのか。

ここに、実にワクワクする研究の入口があると思いますぞ!!(^.^)

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