宮津エコツアー · 未分類

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全国各地から届けられるアジサイ名所の花便り。

丹後でも梅雨の季節のうっとうしさを癒すように、先の見えないコロナ禍の不安を励ますように咲いています。

京丹後市大宮町出会いの踏切のアジサイ。

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天橋立、溝尻付近のアジサイ。

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大宮町五十河、小町公園のアジサイ。

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与謝野町岩滝の阿蘇海臨海公園のアジサイ。

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さて、これらの様子を見ながら、不思議に思うのは、いまどき、シカやイノシシ対策無しで里山は成り立たないのに狭苦しい電気柵やメッシュ柵で囲まれるのはご免だと言わんばかりに のびのびと咲いていること。

弥栄町野中の堂々としたアジサイ。

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スイス村では、アジサイはロードフラワーです。

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シカにしてみたら、葉も柔らかそうで、カラフルな花は美味しそうにみえるのではないですか。いかにもどうぞ食べてくださいとさらけだしているのに、シカが手を出した様子が見られないのです。

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なぜ?

ここは、シカに直撃取材です、

その秘密を尋ねてみたところ、確かに食わない、あれはあかん、毒があるといって、富山大学和漢医薬学総合研究所の数馬恒平先生紺野勝弘先生が、 厚生労働省のプロファイルに書いてらっしゃる「自然毒のリスクプロファイル:高等植物:アジサイ」という記事を読め!と教えてくれました。

それを見てみると、こんなことが書いてありました。「1920年にアメリカで馬および牛のアジサイ中毒の報告があります 。これによれば 、動物は下痢 、体温上昇 、呼吸数および心拍数の増加 、骨格筋の強い収縮などがみられ 、山羊のように足を突っ張って飛び上がったりしました」

なるほど、、、そういうことがあったのですね、

チョウやカエルが毒を持って身を守っている訳ですから、アジサイが毒をもって身を守っていることは納得できます。うすばしろチョウはもたもたと飛ぶチョウです。けれども鳥は襲いません。うすは白チョウはヶマン草などケシ科植物由来の毒を身に溜めているからです。アジサイは日本原産のエゾアジサイが元、改良されてジャイアンな姿になっていますが、原産のニホンアジサイは可憐なか弱い植物です、ライオンとネズミくらいの違いがあります。ネズミ時代のニホンアジサイが身につけた知恵なのかもしれません。

ところが、被害を受けている名所もある、近くの玄武洞などでもそうだといいますから、話は単純ではありません、

どうも、数ある鹿の中には、その「中毒感」がいいとかいう変なやつが生まれているのかもしれません。あるいは、シカ自身の本能が、外敵に襲われないように、「毒」を体にため込もうと試みているのかも、、、。

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(↑ 弥栄町舟木 那具神社のアジサイ)

自然の行うことは人知を越えていますので単純に納得することは出来ませんが、丹後に、アジサイ毒に中ってらりる感を楽しもうなどという変なシカの侵入していないことを願うばかりです。また、漢方では、アジサイそのものが八仙花(はちせんか)と呼ばれる生薬で、抗マラリア剤とされるそうですから、こんなコロナ禍ですので、新型コロナウィルスに効くかもしれないと、期待をしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校生たちの夢が奪われる、あり得ない、信じられない流行病禍の深刻さに打ち砕かれる思いです。電話や携帯で交わされるのは、連休には帰るよ、あかん、帰ってこんでもでもええよ、、、そんな言葉ばかり。

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旅人もあしどめ、旅立ちたいのに改札口は閉まっている、季節は旅のシーズン。しかし、けれど、動くな、交わるな、いまは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、一億総ステイホームの呼びかけに従うしかありません。

丸い卵も切りようで四角!石になれ、じっとしていろと言われてじっと石になっているのは苦痛です、しかし、意志で石に化するのはまたちがうもの。座禅!座禅!一億総ステイホームを一億総座禅運動!と読み替えることにしましょう。

いまは、眼をつむるとき。心の眼を開くときです。

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そして、眼をつぶれば、いつでも、そこに花、そこにふるさと、

この歌が 『旅立ち』の改札口を開けてくれますよ。

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♪雪解け間近の北の空に向い
過ぎ去りし日々の夢を叫ぶ時

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帰らぬ人達 熱い胸をよぎる
せめて今日から一人きり 旅に出る

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あゝ日本のどこかに
私を待って咲いてる花がある

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いい日 旅立ち 夕焼けをさがしに
母の背中で聞いた歌を道連れに・・・

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岬のはずれに少年は魚釣り
青いすすきの小径を帰るのか

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私は今から 想い出を創るため
砂に枯木で書くつもり“さよなら”と

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あゝ日本のどこかに
私を待って咲いてる花がある

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いい日 旅立ち その花をさがしに
父が教えてくれた歌を道連れに・・・

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あゝ日本のどこかに
私を待って咲いてる花がある

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いい日 旅立ち 幸福をさがしに

子供の頃に歌った歌を道連れに・・・

!!

♪ 眼閉じれば、閉まった改札もフリーパス!

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この歌も日本の歌100選、名歌です。

※谷村さん、ごめん、

歌詞を一部いらいましたよ!

「眠れる森の美女」といったらいいのでしょうか!

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ヤブに埋もれていた銘木を蘇らせたのは、オリーブ園再開発事業。一帯の植栽数800本。

その整備に伴って、この桜の周りもきれいにされたということです。

まさに「玉も磨かずんば、、」の例え通りに咲き誇っています。

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ともかく場所がいい、籠神社、真名井神社近く、古代から中世にかけての丹後の中心地だったところです。そこに蘇ったこの枝垂れ桜、現代の「木花咲耶姫」のご降臨と言った風情を感じさせる桜です。

花の瀑布のようなたたずまいに対して、花の株立ちには猛々しさも感じます。

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主幹が2㍍に満たないため、現在の処は巨樹にはなりませんが、近い将来の巨樹候補です。

宮津市府中運動公園付近、山手に生育しています。

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月は、宮津湾越しに登ってきます。なので、、、、

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平山郁夫さんの「万葉月華図」のようなチャンスも訪れるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

大きな花を咲かせてくれてありがとう!

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(↑ 丹後大宮駅)

ようこそ、一緒に頑張って大きな花をさかせましょう!

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(↑ ソメイヨシノ桜)

別れと出会いの交差する駅にふさわしいのはやはり桜花。

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廃線寸前のローカルで小さな駅ほど美しい花を咲かせています。

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さて、上の桜は、エドヒガンサクラ。ソメイヨシノの片方の親、子どものサクラが全盛を誇る前、花のお江戸を彩っていたので江戸、さらに少し早咲きで彼岸頃から咲くことを合わせて江戸彼岸桜。IMG_4556

見分けるポイントは、ヒガンサクラは、花の付け根が丸く膨らんでいるところ、樹皮の筋が縦にはいっていることでしょうか。

五十河・小町寺の枝垂れ桜。この桜の味の濃さも格別です。

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こんなときだからこそ、花としみじみ向き合い命の意味を考えられたら、次に生きていくのではないか、ともおもいます。しかし、やはり花見なんぞは、どんなものでも不要不急の最たる物。

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今年は辛抱頂いて、来年の春にぜひ訪ねてみてください。

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ローカル駅の古桜巡り、これも辛抱、辛抱!

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(↑ 丹後大宮駅 )

株立ち樹ですが、234+124(358cm)で巨樹認定。

その花。

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江戸彼岸でもソメイヨシノでもない!なんなのでしょうか?

 

 

 

 

いよいよ4月、野山に咲き誇る花の数が増えてきました。

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(↑ 野間川の堤防のスイセン)

しかし、猖獗を極めるコロナウィルス。お花見どころではなく、東南アジアからの観光客の姿もぱったりと消えてしまいました。そのウィルスとの戦い、人だけがしているようなのですが、実はそうじゃない、植物も。彼らの生育地にはウィルスだらけ、植物は、フィトンチッとという成分を放ってウィルスと戦っているのだそうですね。

さしあたりワサビなどは、最強のウィルスハンター。

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そんなことを思うと、花は、コロナごときにへこたれるな負けるなという人へのメッセージのように見えてきます。

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それはともかく、花はええねぇ!それは、万国共通のものでしょう。、日本語の「花」は他の国ではどういうのかチェックしてみました。コロナ禍が収まって行き来が戻ったときに使えるといいですね。

まず、中国語. ホワ

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(↑ 野間・洞養寺)

韓国語「꽃 コッ()」

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(↑ 黄けまん)

タイ語 ドークマーィดอกไม้

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(↑ エンレイソウ)

ベトナム語はHOA

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(↑ アズマイチゲ ?)

フランス語. フルール フレゥール fleur.

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(↑ ミヤマカタバミ)

スペイン語. フロル フロール flor

イタリア語. フィオーレ fiore.

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オランダ語. ブルーム

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さて、日本語の漢字で花、その訓読みの「はな」。花はなぜ「はな」なのでしょうか?!「鼻とが同じ音なのは偶然? 語源をたどって見えた … -www.mag2.com」さんのブログの説明に納得しました。アップさせて頂きます。

【大和言葉の世界観】

目と芽鼻と花歯と葉耳と実(み)頬と穂(ほ)。顔と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれているのは、偶然だろうか?万葉学者の中西進氏の説によれば、これらは語源が共通しているからだと言う。漢字にすれば、まったく別の言葉のように見えるが、古代の日本人は、顔のパーツも植物のパーツも「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで同じようなものと考えていたようだ。

たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、植物の枝先の先端に咲く。そして岬の端も「はな」と呼ぶ。薩摩半島の「長崎鼻」がその一例である、さらに「かわりばな」「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味も持つ。

古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んだ。「手」「足」と呼び分けるようになったのは、奈良時代あたりからである。

 

我々の先祖は、植物も人体も同じものだと見なしていた!

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目から鱗の気分になりました。

 

吹雪をついて快走する丹鉄ラッピングカー

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信号ランプの点滅しているこの踏切。

大宮町口大野の南端付近から大宮バイパスに通じる道を横切ります。

さて、この名を「くじら踏切」といいます。

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理由は、ここの小字が「鯨」なのです。

昔、このあたりは海でなぁ、鯨が泳ぎよったんだ!という説明をあほなぁとは思いつつ否定するのも大人げないとそのままにしておりました。

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そんなおり、nhk『人名探究バラエティー・日本人のおなまえっ!』11/9。

鯨さんという名字の方がいらっしゃると。

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栃木県鬼怒川流域の方なのだそうです。

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その支流、小貝川付近には、『鯨』という地名があり、その川はよく氾濫して土地がえぐられていたというのです。

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えぐるという意味の言葉に、くじるというのがあると、漢字の専門家がおっしゃっていると紹介していました。

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そういえば、ここも大宮町の『鯨』も竹野川の側にあります、

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大雨の際には堤防をえぐられることもしばしばでした。竹野川は暴れ川、そんな災害の記憶を忘れるな、と地名として伝えているのなら、昔海だったからというのをそのままにしておいたのはとんでもないことだったと思いました。

 

 

 

 

「皆々様がたは、つつがなく、健やかにお過ごしでござりましたかな!」と里に下りてこられた山の神様。

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(↑ 西国三つ葉ツツジ)

おかげさまで家族一同、、と感謝申し上げるのか゛ほんらいなのです。しかし、今年の春のお答えは、

「それがまあさっぱり、つつがありありダニおりおりで、春が来るのをたのしみにしとる矢先のことでさあよわっとるですわなぁ!」

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(↑ ワサビの花 芳香成分には殺菌作用をもつと言われます)

「それはいけません、そんなことでしたか、わたしがワサビやクロモジや、タムシバや、おとぎなどを差し向けて、コロナウィルスとやらを封じ込めてさしあげましょう、今しばらくご辛抱くだされ」に言い聞かせてやりましょうなんとか収めてやってください。」

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(↑ 籠神社祭礼 4月23,24日)

春の祭りが近づいておりますが、神様がそんにきばっとくれるなら、『自粛』なんていうとれんですぞ。

さて、人の歴史はこのような流行病との闘いの歴史。

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明智玉さんにもそれに関わるエピソード。玉さんが、隠棲中、里に流行病が広がったおり、歌が詠め字の書ける教養人の玉さんに歌を詠んでもらえんかと頼んだところ、こころよく書いておくれた、

♪いかでかは 御裳濯川の 流れくむ 人にたたらむ 疫れいの神 ♪

それを戸口に貼り出したところ、治まったもんで不思議な力をもった人だと言い伝えたということです。

しかし、ふつうのレベルの頭では消化不能です。

この歌の意味と解説については

『この歌の類歌として嵯峨天皇の御製があり、ガラシャはそれを借りたのかもしれません。「御裳濯川」は伊勢神宮内宮の境内を流れている川で、「御裳濯川の流れ」とは天照大神の子孫、皇孫を指す言葉であり、味土野とは直接の関係がないからです。「疫れいの神はどうして御裳濯川の流れを汲んでいる人にたたることがありましょうか、いやありません」といったような意味です』

関ヶ原の残党、石田世一(久富利行)の文学館


石田三成の実像141 「細川ガラシャ忠興と三成」9 ガラシャ夫人が幽閉されていた時期

を参考になさってください。

なんだか意味不明、しかしこの謎のエピソードのには興味深い中味を含んでいるかもしれません。

ちなみに、御裳濯川は五十鈴川のこと。

五十鈴川の画像

(↑ 五十鈴川 ネット画像)

うぃきぺでぃあは、「伊勢市南部に源を発し北流。伊勢市街を流れ、伊勢湾に注ぐ。倭姫命が御裳のすその汚れを濯いだという伝説があり、御裳濯川(みもすそがわ)の異名を持つ[1]。古くから清流とされ、和歌にも多く歌われた。神路山を源流とし、支流島路川と合流、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の西端を流れており、御手洗場(みたらしば)が作られている。この御手洗場では、かつては手洗いだけではなく、口濯ぎまで行われた。現在でも伊勢神宮の公式ウェブサイトで「神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮しましょう」「天気のいい日は五十鈴川「御手洗場」で、口と手を清めることをお勧めします[2]」と記載され、推奨されている。 」と、ご聖水の流れる川と紹介しています。

水戸というぐらいでその地を流れるのは野間川野源流の味土野川なのです。本来なら、「味土野川の流れくむ」にしなくちゃならないところです。それをなぜ「御裳濯川」としたのか?味土野衆が、伊勢の神につながる皇孫、と自らの出自を語ってらっしゃったかもしれないのです。その当時、村ぐるみ一族ぐるみの広域移動は日常茶飯。事実、近辺の下世屋の城主前野一族は、尾張からやってきた、一色氏もそっちから。なので丹後弁と名古屋弁は似ているといいます。忠興も、尾張岐阜伊勢のつながりで味土野衆と光秀とはつながっていることを知った上で、味土野を選んだという線が浮上するからです。味土野には、木下姓を名乗る家もありました。羽柴秀吉も、元は木下藤吉郎。同姓なのです!味土野衆の木下さんと羽柴の木下は、同郷の流れをくむものであった可能性がある、仮説は大胆なほどいいのです、なにか匂いませんか?

加えて、光秀は、本草学つまり漢方の医者をしていたとも伝わります。

本能寺サミットでも話題として取り上げられていました。

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信長に登用される以前、光秀は朝倉家の医者を務めていた可能性がある!

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その証拠を、学芸員の石川さんが、針薬方という古文書に見つけたというのです。

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娘の玉も父から多くのことを教わり、味土野の危機に際し、適切な指示や薬草も紹介したのではないでしょうか。

もちろん、励ましも大事です。

味土野衆の方々、あなた方は伊勢の御裳濯川のほとりからやってきたのです、「疫れいの神はどうして御裳濯川の流れを汲んでいる味土野の皆さんにたたることがありましょうか、いやありません」元気をだしてしっかりなおしましょう。

そう呼びかけられた村人たちの心は想像できます、

たまさんの歌は疫病神を退散させたのです、

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(↑ クロモジ くろもじエキスがウイルス対策に効果があるとする宣伝もあります。)

どうですか、お玉さん!

 

※ 光秀医者説は以下のサイトでも紹介されていますよ

明智光秀を知将に育てたのは福井県だった!~光秀が再起を誓っ …

www.kk-bestsellers.com/articles2020年1月14日-そこから分かったのは、光秀朝倉家の秘薬を知っていたということです。それは光秀朝倉家の直接的な接点を裏付けています」. 学芸員の石川美咲さんが説明してくださった。館内には『湯液本草(とうえきほんぞう)』という医学書が焼け残っ …

 

昭和41年の味土野の里の写真です。

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野間・洞養寺の本堂に掲示されているのを撮影させて頂きました。

村の活気を写し取った貴重な記録です。

お玉さんも一時、身を寄せたこの里については、

□「戸数はどれほどじゃ」「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります、。三浦綾子

■あちらに一棟こちらに三棟と山の中腹に立てられた茅葺き小屋を寄せ集めても十棟とはないこの山の部落 伊崎義明

□お玉が始めて味土野の地を眼にしたのは、だから、一夜明けてからだといっていい。奥丹後の中央と言うべき山の中で、幾つめかの峠を越えて、やや下り坂になったところに小川を巡らした小さな大地があり、そこにささやかな小屋がひとつ。それがお玉の棲家だった。荒れた山寺と、流れに身をのりだすようにしている貧しげな数軒の百姓家のほかは、天に梢をさしのべた樹々によって区切られた静かな空のひろがりがあるばかりである。 永井路子

、、、、、、などと書かれています。せいぜい、二十戸とかあちらに一棟こちらに三棟と山の中腹に立てられた茅葺き小屋を寄せ集めても十棟とはない、とか、実態に合ってはないのではないかと、写真を見ながら考えました。貧しげな数軒の百姓家と言うにあたっては、幽閉という状況の厳しさを表すために、と言うことでありましょうが、村の状況がゆがめられているような気がして、不本意だと写真は言っているようにも感じます。

まあ、それも想像と表現の自由の範囲ですけれど、それがほんとだと思われるのは迷惑だというのも理解できます。

さて、そのお玉さんを、2019,4.3放送NHK英雄たちの選択が取り上げていました。

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その中で、紹介されていたのが、永青文庫に保存されている露払いという織物。

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そのナレーション。

「夫忠興のために自ら織り、仕立てたと伝わる麻の服」そして、「防水効果のある柿渋でそめられ」と ナレーションでは語っていらっしゃいました。同館副館長の橋本さんは、「婚家での立場を確立するために」玉は頑張ったのだろうとコメントを添えていらっしゃいます。

そのナレーションを聞き、あれ!と思いました。

というのが、そのお玉さん制作の露払いにつては丹後では「藤」。藤のツルから取り出して糸で織る藤織りと理解されておるからです。。この出典は、梅本政幸氏『細川ガラシャの生涯と婦人をめぐる人々』です。「味土野で織られたと診られる藤布 手織りの手縫露払」と写真のキャプションにしるしていらっしゃいます。録画しておりましたので、再生し、生地をよく見ました、麻かなぁ、これは?と感じました。梅本氏は元中学校校長を務められた教育者でかつ緻密な調査で誠実な郷土史家として信頼の厚い方です。

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テレビ画像の露払の生地の荒さは、藤布に良くにておりました。そして、柿渋採取、これは丹後の山村の大切な副業でもありました。

玉が織物を織ることが出来る技を持っていたということは、三浦綾子さんの記述に、父光秀は、人生には困難な事がおきるであろうからとしっかりと生きる技は教えたとありますから、確かなことだとかんがえていいと思います。

はたして、玉が織ったとされる露払いは、いつどんな状況で織られたのでしょうか。

許されて、大名夫人に戻ってから織りあげられたものなのでありましょうか、

それとも、幽閉中の仕事であったのでしょうか。

丹後人としては、味土野での生活中の仕事で、味土野衆の女たちと一緒に糸を績み、織り上げた藤布であって欲しいところです。

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梅本氏は希望的に藤由来とお考えになったのでしょうか、あるいは、里の語り伝えのなかにそのような伝承を聞き取られたのでしょうか、実際に同館を訪れて手にとって確かめ、これは藤であると確信されたのでしょうか、定かではありません。

味土野での、玉さんと藤とのかかわりについては、中江忠宏氏も『丹後思い出散歩 あのころへ』のなかの、細川ガラシャの稿で取り上げてらっしゃいます。なんでも、熊本テレビの取材のさいのこととして、地元のかたとして中江氏は、「シデの大木に巻き付いている大きな蔓を指さし『この蔓は、ガラシャが女城にいた時、自ら植えたと伝わっている藤の蔓です。春にはきれいな薄紫の藤の花がシデの木いっぱいに咲きます』というようなことを話した」とおっしゃっています。

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玉さんはなぜ藤を植えたのでしょうか?花を見るために、ではなく、藤の蔓の皮から糸を取り出すためではなかったのでしょうか。

細川護貞氏は、「我が家の正史綿考輯録を繙いてみてももっとも知りたいガラシャの動静は一番わかりにくかった。結婚の前後の事情と最期の様子とし実にはっきりしているが、そのほかはまったく知ることができないことにキリシタン関係のことは霧の彼方である。キリシタン大名の影響、侍女の介在などは「稗史野乗」(民間で編纂された雑史)と!

洞養寺には、味土野の行者さんの像も預かっておられます。

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麻由来か藤由来か、真実をご存じなのは、このこの行者、えんのおづなさまかもしれませんね。

加悦町江山文庫でひらかれている企画展が、すてきですよ。

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字は「書く」もの、「打つ」ものと思っている私たちには、不思議な感じになることうけあいます。

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取り上げられている短歌や俳句は、それ自体厳選された作品で味わい深いのです。たとえば、

「たのしみは朝おきいでて 昨日まで無かりし花の咲ける見る時」橘曙覧の名歌です。

植田さんの手を経ると、色が見え、香りや音が蘇ってくるようなのです、言葉に籠もる魂を引き出していらっしゃると言うのでしょうか、字で「描いて」いらっしゃるといえばいいのでしょうか。

展覧会のタイトルは水茎春秋。「水茎」は知る人ぞ知るといった言葉。「みずくき」と読んで、筆、毛筆をさします。

□水茎(みずくき)の、岡の葛葉(くずは)を、吹きかへし、面(おも)知る子らが、見えぬころかも

〔語源〕「水茎」は、(1)「瑞茎(みずみずしい茎)」の意で、筆のたとえという。また、(2)古く手紙は梓(あずさ)の枝に玉をつけたものを持たせてやったことから、その使いを玉梓(たまずさ)の使いというが、その梓を「みずみずしい茎」としたことから手紙のことをいい、転じて、筆跡、また、筆の意になったものという。

□意味と用例(1)筆の跡。筆跡。「書道展で見た、かな文字の水茎の跡には、ただただうっとりといたしました」 (2)文字。また、手紙。「今は亡き祖母の水茎の跡を時折眺めては、優しかった人柄をしのんでおります」

この展覧会のほかの展示もおもしろいですよ。

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江山文庫、

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小さいけれど濃い中身の文学館です。ぜひ訪れてみてください。

 

 

 

 

 

 

加悦町作山古墳の埴輪の向こうに白い月。

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1500年、月の祭りが続いているのです。

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空は次第に青ずみ月は黄色みを増していく、、というのが月夜です。

しかし、、♪月がとっても「青い」から、、♪と作詞家の清水みのるさんは、描いてらっしゃいます。

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♪月がとっても 青いから遠廻りして 帰ろう♪

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青い月を見た、と。

月は黄色、青く見える月はあるとしたら、青色の光線がとどくからということ、それは、どんなときなのか、青く見えるのか、そんなことに関心を持って説明してくださる方を探してみたら、いかのものがありました。


月がとっても青いから1 – 亀田メディカルセンター|亀田総合病院 …

www.kameda.com/pr/teamspine/post

投稿日: 2017年9月19日 身体の反射の不思議学〜神経外科医の見た神経生理学〜

「月がとつても青いから、遠回りして帰ろう」かなり古いが菅原都々子のヒット曲である。この恋人達は寒さに凍えながら散歩したことだろう。月が季節によってその高さを変えることを御存知だろうか。月の高さと言ってもなかなか難しいが、いわゆる南中高度といって、最も南に来たときに地平線からどれくらいの仰角をとるかという多少難しい話になる。太陽は、御存知のように夏至の昼12時に最も高度が高い位置に有る。この太陽の高さが、日本の四季を彩るので、太陽の高さを理解するのは難しくない。ところが、月の高さは四季を作るわけでは無いので、その高度と言っても、ピンとこない。月は真冬に最も南中高度が高いそうである。つまり、真冬には、月の光は空気中を通過する距離が最も短く、したがって青く見える。菅原都々子の歌はじつは真冬の歌であった。」

わかるようで、なんだか難しい!!!

まあそれはおいておいて、こんな夜は、丹後の月の名所へ直行です。

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岩滝町、一字観公園です。

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月夜の天橋立は、神々の息づかいを聴けそうなほどですよ。

 

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