宮津エコツアー · 世屋・高山ガイド部会

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世屋・高山ガイド部会の活動ブログ

大山、御岳、愛宕山は信仰由来の山名、 三国山の山名は境界由来。天狗岳は伝承由来、駒ヶ岳は雪形由来 若草山は植生由来、赤石岳は色由来、槍ヶ岳は形状由来、牛臥山、熊ヶ峰は動物名由来、狼煙山は展望由来、、、、  名前はシンボルですから、多くの人を納得させるには特徴や物語をもっていなければなりません。山名の付け方も整理すると10項目に整理できると、「日本の山の名前の由来や原点を探る  – 自然を旅する 遊歩紀行」 ※rambling.jp/yamanona/

では、「丹後天橋立大江山国定公園」の大江山の山名の由来は!

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母校大宮中学校校歌にも詠われていましたので、かれこれ50年以上のつきあいになるのです。

145おおえやま

(上 江尻から)

大江山は、東から西へ赤岩山(669m)~杉山(697m)、鬼の岩屋(686m)~鍋塚(763.0m)、鳩ヶ峰(746.0m)~千丈ヶ嶽(832.5m)、そして西端の赤石山(736.2m)へと続くなだらかな起伏と山容をもつ一連の峰群をさすと、京都府レッドデータ2015。

IMG_3636おおえやま

(↑ 水戸谷から)
連峰を構成する七つの峰一つ一つの名前は、赤だの杉だの鍋だの千丈だのと色、植生、伝承、形状、高さなどに由来している、それで納得。

では、それをまとめている『大江』とはなにか、これについては、しかし、説明を聞いたことがなかったのです。
そんななか、最近であった説明。『「大江山」の名は、丹後国司・大江匡衡マサヒラ(953~1012:妻は赤染衛門)※にちなんだもの』と鬼塚史朗さん。  ※「歴史と伝説の里・丹後 丹後伝説の科学的考察」 あまのはしだて出版

mukashi[1]
つまり、平安時代のこと丹後の国司に任命されたかたに『大江さん」という方がいらしたそうです。そのかたが、その名字をあてられたということ。

、、、、ふむふむふむ、、、短い説明でしたけれど、そうだったのかあ、というおもいです。

018おおえやま

(上 丹後郷土資料館から 1/28)
時代は、平安時代初期、丹後は、渡来の部族が拓いた国、国情は不安定なものだったでしょう。心から従っているとは思えません。大江山鬼退治とされるのが990年。そんななかで統治を託された大江さん、権威発揚のパフォーマンスとして眼を付けたところが、山の名。「七つの有力諸将を従えるのはわしじゃあ!」もちろん、いくら国司といっても、個人の名をつけることが許されるはずはありません、鎮圧か平定かなにかしらの功績があり、朝廷に伺いをたて、認められた上での事でしょう、

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(上 海星公園から)

その後、異議か゛となえられることなく今日までひきつがれているわれですが、それは、「大江氏」の系図※がかたっているのかもしれません。

028大江山

(上 府中から)

「大江山」は、平安朝廷の権威が背景の山の名由来!

山に新たな名を冠した大江氏、海に改変を求めた形跡はありません。

阿蘇海は阿蘇海、与謝の海は与謝の海のまま。

天に続く山、天から続く山、;連峰をなす山を束ねる、そこに政治的な意味があったのでしょう。

積年の疑問のいったんが解けた気がしました。

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※大江匡衡 丹後国司・藤原保昌の弟

※大江氏 – Wikipedia
866年(貞観8年)には大枝音人が姓を改め、大江音人となる。大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門らが選出されている。大江匡衡の孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。 11世紀には、摂関家の藤原氏を頂点とした家柄の序列が固定されており、大江氏は五位で地方の国司、中級ないし下級貴族であった。その一方、家学の学者でもあったので、文人貴族を輩出する事になる。[2]
1184年(元暦元年)に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は大江匡房の孫であり、頼朝の覇業を内政面で支える。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得る。広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となる。
明治の元勲桂小五郎、ノーベル賞作家大江健三郎らもこの系図につながるとのこと。

また、老ノ坂の大江山(大枝山)と丹後の大江山とは「大江氏」につながる親戚関係だとして、

「老ノ坂の大江山(大枝山)は、日本書紀では大井山、万葉集では大江山となっており、大江の古名は老または淤伊で、どちらもオイと読みます。
これが現在では大枝(おおえ)。大日本史・姓氏録によると、天武七年(679年)大枝に丹波国の関所が設けられ、『大江(オイ)は今沓掛村ニシテ西北二在り即チ古き郷ナリ大江氏はコノ地で貫ナル』とあり、丹波丹後国司の大江氏の出生地であり、大江氏が丹波国司に赴任したとき、『ここが古代の老ノ本郷だ』とし、大江山としました。
長歴元年(1037年)に大江拳周が丹後国守として赴任し、丹後の大江山は、大江氏が丹後国司として赴任の時に、与謝の大山を大江山と称し、我が姓を当てた。
後世、丹波の大枝山は《老ノ坂》となり、丹後の与謝の大山は《大江山》となり、現在に至っています。」とする説明もあります。

丹後の歴史と伝説。 大江山の地名伝承zarameya.blog.fc2.com/blog-entry-161.html

「与謝の大山を大江山と称し、我が姓を当てた」とかんたんげーにかいてあります。

が、「大山」ならそれは神の山、それか゛大江氏の山へと私的な血縁仲間集団の名への改変か゛強行されたということです。そのいきさつ、目的、ねらい、経過には複雑でちなまぐさい匂いをかんじます。しかし、その後、時の支配者による山名の改名がくわだてられることなくげんざいにいたっているのは「大江氏」の信用と実績その重みなのかもしれません。

※「丹後の大江山は、大江氏が丹後国司として赴任の時に、与謝の大山を大江山と称し、我が姓を当てた」について

いらしたことのない娘小式部さんと実際にたんごにいらした母親和泉式部さんと。

母親しきぶさん、かずかずの丹後歌のこされましたけれど、「おおえやま」を詠った作品はじつはないのです。

それとおぼし歌はあります。

「待つひとは ゆきとまりつつ あぢきなく としのみこゆる よさの大山」

国司藤原保昌の妻た゛から、「おおえ」山などとはいえませんわ!というのかも。

いえ、大江拳周が赴任したのは長歴元年(1037年)。

藤原保昌が国司の任をおえたのが、治安3年(1023年)。ですから、大江さんは、藤原さんの後任なんです。

じっさいにおおえやまはなく、「よさの大山」だったとしたら、娘小式部の「大江山」もたんごの大江山ではなくなる、これは理屈です。

 

 

 

 

 

上流水源の山から、日置、若狭の海。

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(上 1/24 せや高原)
下流から水源の山!

024せや川

一本の川が、山・里・海・そしてまた山へ、命と暮らしをつなぎます。

003せやがわ
正面の山麓の白い部分は、松尾たんぼ。

眼を凝らしてみると、、

011さくら

雪の棚田の中央の木、一本桜。この桜が咲くのは4月中旬。このころ、いさざも海から川へ。
さて、30日のスノーシューウオーク、

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正面の山の尾根を右から左に上り、山頂(岳山634m)を越えて、木子へ降り、「自給自足」さんで、お昼。さらに大ふけ湿原をぬけて、しおぎり荘へ、のコースを予定しています。

20人近くの問い合わせがあるなか、暖冬傾向が強く気を揉みましたが、なんとか実施はできそうです(^.^)

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(せや観音堂 1/24)

雪乞いを、世屋のおかんのんさんがきいておくれたのでしょうか。

この寒波では、水道の断水などもおきてこまったことにもなっていますが、せっかくの雪、自然を侮ることなく、自然との対話を深めてきたいと考えています。

ただ、このあと温暖な空気が入ってきて、てんき予報には傘マーク。なんともきがもめることです。

秋起こしの畝の残雪模様。

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自然と人が協同して作った規則性がありながら伸びやかな自然に抱かれた里山景観のみずみずしさ、

094残雪模様
寒波で個体になった水も、寒さが緩むとともに再び液体へ、寒と暖の間のひとときのみの里山美です。

098残雪
さて、今回の雪、なにかへん、曲がらない、折れない、おちないのです!

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湿雪だったのに加えて、きつい寒気に包まれたため、板状に固まったのでしょう。

龍渓の龍ヶ壺断崖に出来た氷柱群。
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◇どの氷柱にも地を目ざす力あり  稲畑汀子  ホトトギス

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大中小無数のつらら、目には見えないけれどその一つ一つに重力が働いています。
それを、小さな水滴の落下力をぎっしりと詰めて、地を目指して思い切りよく旅立つ時をまっているとみた詩人の眼。

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めったにないという程の寒波はさながら、つかの間の氷河期の夢を見せてくれました。

冷え込みの朝の楽しみは、霜。

070しも
北海道並みに冷えるとの予報通り、

花に

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蕾に

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笹に

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木に

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びっしりと。

さて、空気中の水蒸気が材料ですから、霜を見るなら川筋、窪地など湿度の高いところ、

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ここらなどは、冬御前のお旅所といったところ。

068しもばしら
霜、なんていうのは味気ない言葉のレベルを超えています。

062しも
冬姫さんの吐息で枯れ草たちが霜衣、とでもいった風情でしたよ。

 

『冬茜 青い地球の見えしころ』(神通芙美代)

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朝日俳壇 1/25に紹介された句です。
アカネ色の「あかね」は漢字では、草冠に西。夕焼けの色。

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沖縄にも雪を降らせた寒波に包まれ、終日冬日で過ごした丹後の夕べ。

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(上 海星公園から)

空気は冷え冷えと澄んで、茜色も格別で、典型的な『冬茜』。

尾根に立つピラー(光柱)は、上空に気温-20度の寒気の存在をしめしています。

こんな夕べは冬の星座も素敵なはず。天照大神がやすまれたあとの月読命が守る夜空からも眼がはなせません。

 

 

 

この海の名は、ワカサ。

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漢字では「若狭」と標記します。そこで、考え込みます。はて、若くて狭い、とは?

ある人は、そらそうだ、もともとは、「わ・かさ」なのだ、「かさ」に意味がある、たとえば、むかしあった「かさ郡」(加佐郡)とか「カサ松」(傘松公園)という地名と同じ語源だとおっしゃいます。

062ワカサわん
なるほど、漢字を当てるときににたとえば、「倭重」などとしておいてくれればよかったのにと、おもいながら、で、そうならどういう意味かというなにかモヤモヤ感をもっておりましたが、、それは、朝鮮語でと、説明してくださっているのが、鬼塚史朗さん。
こうおっしゃいます。
「若狭の地名は朝鮮語のワッカサ(行ったり来たり)にあるといわれている」と。
※歴史と伝説の里・丹後 あまのはしだて出版
なるほど、大陸との交流の窓口の海なので、さもありなん、とは思いましたが、念のためネットで調べてみました。
korea_study_japaneseさんが、2008/5/26に「韓国語で韓国と日本を行き来するとの「行き来する」とは 何といいますか?教えて下さい!」という質問。
それに対する回答。『「行ったり来たり」の意味なら왕래하다(ワンレハダ)と言います。往来するという意味です。』왕래하다(ワンレハダ)、、、それが『ワカサ』、、、鬼塚さんこれはちょっと無理筋だなあ、といいかけたところ、回答2例め。
tsuyokityさん2008/5/26『「行ったり来たり」の意味なら왔다갔다(ワッタカッタ)でも良いと思うのですが…..どうでしょう?^^』と。
왔다갔다(ワッタカッタ)がワカサ、、、うむふむふむ、、「ワカッタ」で、「ワカサ」、、ふむふむ。ワとカサを分けないで一体として理解するわけです。
「若狭の地名は朝鮮語のワッカサ」説。俄然、息を吹き返しましたよ。

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(上 1/24 世屋高原松尾たんぼから  )

大陸と日本との間にある海や島の名を巡っては、民族主義を振りかざしてどちらの国の言葉だから、というきらいがあるようですが、豊かな歴史の発展をともに目指す立場を崩さないことが大切なのだと思ったことです。

寒冷さでは確かに今冬一番

054雪田
雪も軽く乾いています。

107雪木

枝にまといつかせた木々からも、おもーい、たすけてくれーなんていう悲鳴は聞こえません。
今回の寒波の印象をいえば、とっても女性的です。

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北の国からやってこられたのは、世間では寒波と申しております。けれど、こんな時は、科学の目をすこしとじて、心の眼をひらくのがいいかとおもいます。

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冬姫さまとお雪御前のふたりつづれ、歓迎するブナたちとの語らいが、雪になって山や里をそめると昔からいいます、よほど楽しかったのだろう、、、などと。

ブナたちの訴える悩みもうけとめられたに違いありません。

117ぶな
人間から、自然を美しいと思う心を失わせては、天地は滅びてしまいます、美しい春を届けてあげましょう、ブナは感激して、一番に美しい葉を開くのです、、
楽しむのは、想像力!

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純白の装いの下で大地自然が痛み、汚れを癒やされ力を取り戻して、贈ってくれる春、

そう思いながら、春を迎えたいものです。

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それを忘れたときには、冬将軍さまが、この矢を天からふりそそがれるんです、

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まもなく、節分

1月30日、やれます!

IMG_6664スノーシュー

(上 1/23)

さすがに雪の本場世屋高原。四国や九州にまでお裾分け付き寒波に感謝感謝!
スノーシューウオークは、雪があるだけでなく人との関係の濃さを伝える優良な森があることが条件、

IMG_6667す

岳山634m周回コースは、加えて大きな海山里の景観をもつのですから、間違いなくスノーシュー優秀コース!
スキーやスノボーはスイス村スキー場へ、スノーシューウオークは世屋高原。

IMG_6657ゆき

(上1/23五十河の里)

1/24朝、ふもとでも、路面は凍結。

IMG_6674ゆき

上世屋では積雪40cmとのこと、

IMG_6665しょうがゆ

京の雪国・丹後を楽しんでもらえる状況になってきましたよ。

だれでもセキレイという里の鳥。

IMG_5971せきれいいち

ですけれど、身近すぎてそこまで!

それがどうかしました?

どうもこうも、天地創造に関わる鳥、というのは忘れられています。
アイヌの人たちは  私たちはどこから来たのか、という疑問を解く鳥と考えたんですよ。

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アイヌの人たちは、  天地はこうして創造されたんだという神話を伝えています。
、、、、、
昔、世界は一面の泥しかない沼地でした。陸地となるべきものは虚しくその中を漂い、空を飛ぶ鳥もいなければ海を泳ぐ魚もいない、莫寂とした死の世界でした。やがて空の彼方から風が吹き始め、七重八重の雲が現れ、天上の神々が現われました。最も高い天に住む真の造化神は、この世で最初の鳥としてセキレイを創造しました。このセキレイこそが地上の創始者です。
セキレイは真の造化神の命を受け、光の尾を引いて地上に舞い降りました。泥海に降り立ち、勇ましく羽ばたきながら水をはね散らし、足で泥を踏み固め、その長い尾を上下させて地ならしをしました。そのうち乾いた陸地が現れ、水は海となってさざなみを起こしました。
セキレイの働きにより、海に浮かぶ島が出来上がり、列島を形作りました。ゆえに、アイヌは世界をモシリと呼びます。モシリとは「浮かぶ土」という意味なのです。
※アイヌ神話に於ける天地創造譚
www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/…/tenthisozotanco.ht…
その長い尾を上下させるのは、地ならしをするため、大地を作ったのはセキレイ、なんともスケールの大きなファンタジーでしょう。

IMG_5971せきれい
そんな神のとりですから、当然「セキレイ」とは呼んでいませんでした。
アイヌの人はこう名付けました。「なお、この世に最初に人間が生まれたとき、セキレイは尾を上下して、夫婦の交わる方法を教えたといいます。人間が地上に繁殖※繁栄?安田したのはセキレイのおかげなのです。アイヌはセキレイを恋望の鳥オチウ・チリと呼んでいます。」
素敵な名前じゃないですか。恋望の鳥オチウ・チリ!
セキレイが、人間に子どもの作り方を教えたというおはなしは、日本書紀も神代のこととして、こう伝えます。
『遂に合交せむとす。而もその術を知らず。時ににわくなぶり(※セキレイのこと)有りて、飛来りて其の首尾を揺す』と。

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セキレイが、「首尾を揺す」という特徴は、ヨーロッパでも。
、、、
セキレイはミソサザイからしっぽを借り、そのまま着用しているのでいつも後ろめたく、ちゃんとしっぽが着いているか確認したくて振るのだという。ミソサザイはしっぽが戻らないことを酷く嘆いたが、まっとうで優しく温かい家族の中でしっぽのことをやがて忘れ、幸せでいるのです、、、ルーマニアの民話(「りこうなおきさき」(岩波書店)モーゼス・ガスター文、光吉夏弥訳。)

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(上 ネット画像借用)

、、、、
まあ、どうしてあんなにぴんこぴんこしっぽをうごかすだえ
なんちゅうとりだえ
しらんなぁ
いしをたたいとるようだがなあ
そうだ、そうなら「いしたたき」鳥だ、
想像、は創造につながります。

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