3月9日現在の丹後縦貫林道です。
道を閉ざすこの雪、12日段階では消えていました。
路上には落石などがありますが、通行は可能です。春一番のだんこうばいを見ることが出来ます。
それにしても、雪解けぇぇえ♪という雰囲気の無い春だなあとブナ。
銚子の滝の落水にも、いささか元気がありません!
ありゃ!
トンビにしては、、、?!
(↑ ↓ ネット画像借用)
■大きく幅広い翼を生かして風を捕らえ旋回する(ソアリング)
としたら、ひょっとして!
■比較的険しい山地に生息し、森林内の急斜面にある大きな樹木に営巣する。
クマタカ、、、か!
クマタカとしたら、
■1月になるとディスプレイ行動と並行して巣づくりが開始される。産卵期は3~4月。一腹卵数は1卵。主にメスが約1か月半抱卵し、7~8月頃に巣立つ。
いまちょうど産卵期。
「クマタカ」のこのペアのソアリング、フクジュソウが花びらを全開する晴れた日の昼過ぎ、地上が温められ上昇気流が発生するころに見ることが出来ます。
■森の中に住む様々な中小型の動物を獲物として、森林内のけもの道や林縁で狩りを行う。主な餌はノウサギ、ヤマドリ、ヘビなどである。
ということですから、営巣のための巨樹と豊かな餌の存在あることを証明するが生き物です。
■絶滅危惧IB類 (EN)(環境省レッドリスト)■国内希少野生動植物種(種の保存法)
今年は、早くも春へ一直線。
と思っていたら、そうはさせじ、といわんばかりの雷鳴!
寒気が南下して暖かい空気とぶつかり大気が不安定になっている!こんな時は、橋立一字観です。
早くも今冬の雲の染まり納め、雷鳴の鳴り納め、早い春の訪れに道を譲る今年の冬将軍の義理堅さ、去り際の見事さに感心しながら多少微妙な気分で、赤い積乱雲を眺めていました。
ちなみに、土日には世屋の河津桜、見頃になりますよ、
数輪です、けど、フクジュソウとサクラの共演、これはそうそう見られるものではありませんよ。
ちなみに、その② この河津サクラは、京都市内の子ども芸術教室の皆さんが丹後を訪れ、シイタケ菌打ちなどの体験をされれたときの記念樹です!
伊根町菅野の上山神社の前を、奥に約二キロのところに、「福の内」はあります。
人のいなくなった里を守ってらっしゃるのが、六体のお地蔵様。
かぶり物が時代劇そのままで、いずれも男前で、知的で、品のいいお顔なのです。
背後にかいてある履歴がまた、すばらしい達筆です。
読むと、制作年代は、享保年間とあります。享保は1716年から1736年の間。
同八年とかいてありますから、1724年。享保といえば、時の将軍は徳川吉宗さん主導の改革と大飢饉、
倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して五公五民に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図る。治水や、越後紫雲寺潟新田や淀川河口の新田などの新田開発、助郷制度の整備を行う。米価の調整は不振に終わった。青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じ、朝鮮人参やなたね油などの商品作物を奨励、薬草の栽培も行った。日本絵図作製、人口調査。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策。サクラやモモなどの植林。
地蔵制作は、木津郷、今の網野町の石屋に制作を依頼、とあります。木津付近には、凝灰岩の山があります、tuff、タフとも呼ばれ火山灰が地上や水中に堆積したもので、細工のしやすい岩です。
完成時には、村中総出で一体一体を背に負うて連れかえったと伝えますから、村にとっては大事業です。そこには、どんな動機があったのでしょうか、、、、それに言及する記述は残念ながらありません!。
さて、ふくのうち・福の内、この地名も気になります。
「内」に着目して見れば解けるかもしれません。
内を含む代表格、ブナ林で有名な今の「内山」(京丹後市)はかっては「おちやま・落山」と標記していたといいます。「内」が「落ち」の変化したものなら、谷内(大宮町・丹後町)は谷落ち。大内峠(与謝野町)は、大落ち峠。
このように考えれば、「福の内」の「内」も、「落ち」。
では「落ちる、崩れる」ことがなぜ「福」なのか、そこが不思議、ですけれども、崩れるたびに逆にそれを利用して棚田をひろげ住み続け氷河の谷のような丸みを持った優しい里山景観、それが丹後半島特有の地滑り地形であることと関係しているかもしれません。
重機のない時代、地滑りは農地拡大のチャンスでもあったのです。
「福の内」の「福」と「内・落ち」との関係には、、「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」(戦国策)自然への畏れと共に新しい土地を作ってくれたことへの感謝すら感じられます。 お地蔵様たちを見ていると、「地滑りも福の内さ」とうそぶく声が聞こえるように感じました。。五公五民、半分は年貢に取られます、絞ればしぼるほど、という圧政を、としたたかに知恵を寄せ合い力を合わせて乗り越えるのに、このお地蔵たちがどんなにか力になったことを思いました
こんな百姓の気持ちを、二百年も三百年も伝えてくれ、そのためにはいい石でなければならない、石を選ぶ村人のきびしい眼がいま、私たちにお地蔵様を見せてくれているのでしょう。
ところで、享保の飢饉は 17 (1732) 年。暖冬に次ぐ冷夏で,虫害を伴い,米の大凶作が起ったと言バンク。「暖冬に次ぐ冷夏で虫害を伴い」というところが今年の冬に似て、今年の夏が気になるところです。
もう一つ、福の内のとんでもなさ!関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)のものとわかる資料があるといいます。
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孫太郎稲荷(桑飼神社)www.geocities.jp/k_saito_site/doc/sugano.
孫太郎稲荷
福之内の桑飼神社に、孫太郎稲荷社再建の棟札が残されている。関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)、細川忠興に係わるもので、四○○年の風雪に耐えたこの棟札は、右下の角の一部を欠いて虫喰いもひどいが、文字ははっきりと読み取ることができる。
上部は幅一八センチ、下部は幅一二センチ、長さ二七センチの剣先型の棟札で、表の中央に「大願主当国大守細川越中守殿」とあり、右側に「為当国安全怨敵敗亡」と記され、左側に「祭主三獄坊氏子惣代利右衛門」と書かれている。
裏面には「是慶長四己亥年五月日再建天神地祇八百万神孫太郎神国中安穏処、丹後国與佐郡菅野村孫太郎」と記されている。「孫太郎」は、太鼓ヶ岳山系の旧野間村と菅野村の境附近で、この地に八八の谷があるといわれ、その一部の谷が「孫太郎」である。土地の人々のいい伝えによると、平家の落武者一六人がこの地にのがれて住みついたといわれ、土地の名前も落人の姓をとって名付けられ、井上・昌蒲・牧・平家・藤の原・孫太郎・瀬戸などの名がある。福之内の住民はもと瀬戸に居住し、孫太郎稲荷が慶長四年(一五九九)五月、再建された当時に現在地に移住したと伝えられている。
この孫太郎稲荷社は、細川忠興が同年十一月に分神を宮津の大久保に勧請しているが、山間僻地の菅野から一国の太守細川忠興が、何の因縁によって大久保城の守護神とされたのか明らかでない。
戦国末期に菅野城主三冨将監通論の父山内伊勢守と、細川忠興の父藤孝は共に将軍足利家の家臣であり、常に京都御所に参会し、公私にわたって親しく交わり旧友の間柄であったことから、天正十年(一五八二)菅野城が落城したのち、二人の旧縁によるものかとも考えられる。
棟札にある「怨敵敗亡」の「怨敵」は何を意味しているのであろうか。豊臣秀吉は慶長二年(一五九七)再度朝鮮に出兵したが、同三年(一五九八)八月十八日に死亡し、同四年(一五九九)には大坂城をめぐって石田三成・徳川家康・前田利家など重臣の間に一触即発の不穏な状況があり、石田三成から徳川家康に、忠興が宮津で謀反の準備をしているという密使が飛び、父幽斉は家康の臣永井直勝に会って弁明したが疑いが晴れず、十月には細川幽斉・同興元・松井康之三名連一記の誓紙を家康に差出しやっと許されるなど、忠興にとっては波乱に満ちた年であった。「怨敵」の文字は朝鮮再征の直後であり、国内の紛争によるものではなく、やはり明・朝鮮の外敵を意味しているのであろうか。その後忠興は慶長五年(一六○○)正月二十五日に、三男忠利を人質として江戸に差し出し、二月七日宮津より豊後国六万石を与えられ、閏四月十五日九州に赴き、同年秋には天下分け目の関ヶ原の合戦に、東軍徳川家康の陣に加わり戦功を挙げている。丹後の諸史に現れている孫太郎稲荷と細川忠興について、その一部を拾ってみると次のような記事がある。…
この神社は文政の百姓一揆に関係した坂根氏が、代々神官を勤め明治まで続き、明治八年(一八七五)土地改革により京都府より発行された稲荷社の地券が、坂根家の縁者伊根町字亀島の奥家に残されている。…
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しかしかしかしか
しかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしか
「ほんまに多いいですでぇ!」
多鹿にそうです、
巨樹の調査で訪れる神社でも、巨樹はあっても、幼樹がありません。
社叢林の健康、老木、古木が倒れてギャップが出来、新しい後継樹が伸びていく、というシステムがあるのが健康な森とすれば、更新のシステムそれが壊れている、そこが問題なんだ、そこで困っているんだと訪れる先々の神様の悩みがきこえるようです。
なので、「鹿を食べよう!」さらに、「鹿で食べよう」となっても当然のことです。ところが、それはあかん、あかんですよ、というかたがいらっしゃったことが丹後には伝わっています。
それを寺院の縁起として伝えているのが、伊根・朝妻の里の日蓮宗のお寺妙国寺です。
この生き物愛、恐るべし!このとき、鹿に情けをかけ狩りを中止することがなかったら、今の鹿問題は起こっていなかったかも知れません。というのは、置いておいて、、、、!単なる生き物愛、なら、和泉式部さん、いらんこというっちゃあ!と批判されますよ。
かのたわらのとうたこと藤原保昌と和泉式部と、当時のスターが登場させ、600人、 丹後の国司です、丹後の国中から僧を集めて法要の目的はなんだったのでしょうか。なぜ、鹿でなければならないのか、聖獣なので鹿が用いられたので、別に鹿でなくても、イノシシでもスズメでもいい、カラスでもキジでもよかったのかもしれません。そう考えると、キーワードは、「山川草木悉皆成仏」 という仏語にあるのかもしれません。
「山川草木悉皆成仏」の思想を説き広めること、それが目的、意図だった、、、
検索してみると、
、、、、、、、、、
『涅槃経』で説かれる言葉。草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた。それが鎌倉時代になって,親鸞,道元,日蓮らによって主張され,やがて謡曲にこの言葉は多く出てくるようになった。
、、、、、、、、、、、
時は乱世戦国に移ります、よりたかい次元での新しい人間愛が求められる時代の出来事だったのではないかな、とおもいながら、このエピソードを読んだことです。
それにしても、しかしかしかしかしかしかしかしかし、
このままだと、生えているのはアセビばかりという「奈良公園」化する可能性すら否定できないのが、丹後の実情。
和泉式部さん、ええ知恵ありませんか、悩ましいところです。
それはそうとしておいてついでに、おまけ
その①
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ある修行僧が草も木も成仏するという話を聞いて、どうしても理解できず、尊敬する学僧に、自分で考えたり修行したりすることのない草や木がどうして成仏するのでしょうかと尋ねた。
そのとき、学僧は、あなたは草木成仏のことを尋ねられたが、それではあなた自身の成仏のことはもうおわかりかな、と逆に質問してきた。
修行僧は、はっと気づくところあって、「恐れ入りました。よくわかりました」と御礼を述べて引きさがったという。
学僧の言ったことが、どうして草木成仏の答えになっているかというと、何も草や木が功徳を積んで仏になるのではなく、草や木を見る人間が仏になるとき、草や木もいっしょに仏になるのであると教えたわけである。
わたしどもは自身が仏になったとき、天地も山も川も、草木もすべてがまた仏になると知るべきである。
維摩経いうお経に「心浄ケレバ土モ亦浄シ」とある。
そこに住む人達の心が美しいと、自然にその国土もきよらかになってゆく。
自分が仏になることと、妻を仏にすることとは別々ではない。
妻を仏にする道が自分が仏になる道であり、自分が仏になる道が、やがて妻を仏にする道なのである。
これを自他一如、内外一如という。
おまけ ② 柳田国男 子ども風土記
一昨年の九月、米国ミズリー大学のブリウスタアという未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはこういう子供の遊戯はありませんかという尋ねである。一人の子が目隠しをして立っていると、その後にいる別の子が、ある簡単な文句で拍子をとって背なかを叩きその手で何本かの指を出して、その数を目隠しの子に当てさせる。英語では問いの文句が、
ドイツのも全くこれと同じだが、国語のちがいで一言葉少なく、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉で、やはり意味は鹿の角の数を訊くことになっている。目隠しをする代りに壁にもたれ、また四つん這いになって、その背に跨って、指を立てて問う例もある。もう長いあいだかかって調べていると見えて、これ以外にスコットランド、アイルランド、米合衆国、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといっている。日本にももしかそれがあったら、面白いと思うがどうかという質問である。
古い文献では、ペトロニュウスの諷刺詩の一つにも出ているという話である。あったらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないようだ、と皆がいうので、一応そういう返事をして置いて、なお念のため『民間伝承』の会報にこの手紙を訳して載せておくと、ほどなく二ヵ所から、あるという報知がやって来た。ありませんなどという答えはめったにできるものでないということを、しみじみと我々は経験したのである。
滋賀県の今津近くの村では、少なくとも二十年ほど前まで、この遊びをしたということを、長浜女学校の三田村君がまず知らせてくれた。じゃんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまって身を曲げていると、勝った方の子がそれに馬乗りになって、指を出して、その数を下の子にいい当てさせ、それが当るまではこの問答をくりかえし、あたれば今度は上の子が答える番にまわるのだそうである。馬乗りになるだけで、もう背なかは打たなかったらしいが、やはりその文句は、
と、くぎって唱えていたという。
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鹿の角なら二本にきまっているようなものだが、これは角の叉がいくつに岐れているかということらしい。御存じの通り牡鹿の角は、成長するにつれて枝の数が多くなり、五本ぐらいがまず大鹿である。単に子どもの指の遊びに似つかわしかったというだけでなく、山の猟師にとっても重大な問題で、毎度おそらくは声を立てずに、こうして指を出して相手に知らせ、または噂をしていたことがあったろうかと思う。それを子どもが遠い遠い昔に学んで忘れずに持ち伝えていたものらしい。今日の語でいうと、この遊戯は生活に即している。
これがもし琵琶湖岸の片隅に、たった一ヵ所しかない例だったら、或いは近年米国の宣教師が来て、教えて行ったろうなどと、ありもせぬことを想像してすます人が多かったろうが、幸いなことには九州に一つ、飛び離れて同じ「鹿なんぼ」の遊びがあった。久留米中学校の峰元君は、近ごろ市中でこの遊戯を子どもがしているのを見かけたと報ぜられた。それから附近の村里を問合せてみたが、三井郡にはたしかにあって、他の郡にはまだあるという人を知らぬという。私も強い断定は差控えるが、これは近江から、または近江へ、ちかごろ輸入したものでないということはまあ言えそうである。
ただし詳しい方式はもう一度見なおす必要がある。熱心なブリウスタア氏に知らせてやりたいのは、久留米の方でも背なかを叩かないかどうか。「鹿なんぼ」という文句があまり簡単だから、あるいはこれも馬乗りの方かも知れぬが、文句が残っている以上は元は拍子をとって、叩いていたのではないかと思う。
これによって、ふと心づくことは、今でも東京の小学校の子どもが、別れるときなどにちょいと立ちもどって、
という類の、どうしても意味のとれない文句を唱えて、友だちの背なかを打つことである。流行といってしまえばそれでも説明はつくが、あまりにも無意味だから何か別の形があり、それが鹿・鹿・角・何本でないまでも、少しはこれに近いような「あてもの遊び」が、行なわれていた名残りではないかと考えている。人の背なかを打つということは、そう軽々しい戯れではない。それでも喧嘩にはならぬだけの約束が、かつてはこれを許していたもの、といっても理由が一つあるのである。