宮津エコツアー · 3月 2020

3月 2020

昭和41年の味土野の里の写真です。

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野間・洞養寺の本堂に掲示されているのを撮影させて頂きました。

村の活気を写し取った貴重な記録です。

お玉さんも一時、身を寄せたこの里については、

□「戸数はどれほどじゃ」「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります、。三浦綾子

■あちらに一棟こちらに三棟と山の中腹に立てられた茅葺き小屋を寄せ集めても十棟とはないこの山の部落 伊崎義明

□お玉が始めて味土野の地を眼にしたのは、だから、一夜明けてからだといっていい。奥丹後の中央と言うべき山の中で、幾つめかの峠を越えて、やや下り坂になったところに小川を巡らした小さな大地があり、そこにささやかな小屋がひとつ。それがお玉の棲家だった。荒れた山寺と、流れに身をのりだすようにしている貧しげな数軒の百姓家のほかは、天に梢をさしのべた樹々によって区切られた静かな空のひろがりがあるばかりである。 永井路子

、、、、、、などと書かれています。せいぜい、二十戸とかあちらに一棟こちらに三棟と山の中腹に立てられた茅葺き小屋を寄せ集めても十棟とはない、とか、実態に合ってはないのではないかと、写真を見ながら考えました。貧しげな数軒の百姓家と言うにあたっては、幽閉という状況の厳しさを表すために、と言うことでありましょうが、村の状況がゆがめられているような気がして、不本意だと写真は言っているようにも感じます。

まあ、それも想像と表現の自由の範囲ですけれど、それがほんとだと思われるのは迷惑だというのも理解できます。

さて、そのお玉さんを、2019,4.3放送NHK英雄たちの選択が取り上げていました。

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その中で、紹介されていたのが、永青文庫に保存されている露払いという織物。

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そのナレーション。

「夫忠興のために自ら織り、仕立てたと伝わる麻の服」そして、「防水効果のある柿渋でそめられ」と ナレーションでは語っていらっしゃいました。同館副館長の橋本さんは、「婚家での立場を確立するために」玉は頑張ったのだろうとコメントを添えていらっしゃいます。

そのナレーションを聞き、あれ!と思いました。

というのが、そのお玉さん制作の露払いにつては丹後では「藤」。藤のツルから取り出して糸で織る藤織りと理解されておるからです。。この出典は、梅本政幸氏『細川ガラシャの生涯と婦人をめぐる人々』です。「味土野で織られたと診られる藤布 手織りの手縫露払」と写真のキャプションにしるしていらっしゃいます。録画しておりましたので、再生し、生地をよく見ました、麻かなぁ、これは?と感じました。梅本氏は元中学校校長を務められた教育者でかつ緻密な調査で誠実な郷土史家として信頼の厚い方です。

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テレビ画像の露払の生地の荒さは、藤布に良くにておりました。そして、柿渋採取、これは丹後の山村の大切な副業でもありました。

玉が織物を織ることが出来る技を持っていたということは、三浦綾子さんの記述に、父光秀は、人生には困難な事がおきるであろうからとしっかりと生きる技は教えたとありますから、確かなことだとかんがえていいと思います。

はたして、玉が織ったとされる露払いは、いつどんな状況で織られたのでしょうか。

許されて、大名夫人に戻ってから織りあげられたものなのでありましょうか、

それとも、幽閉中の仕事であったのでしょうか。

丹後人としては、味土野での生活中の仕事で、味土野衆の女たちと一緒に糸を績み、織り上げた藤布であって欲しいところです。

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梅本氏は希望的に藤由来とお考えになったのでしょうか、あるいは、里の語り伝えのなかにそのような伝承を聞き取られたのでしょうか、実際に同館を訪れて手にとって確かめ、これは藤であると確信されたのでしょうか、定かではありません。

味土野での、玉さんと藤とのかかわりについては、中江忠宏氏も『丹後思い出散歩 あのころへ』のなかの、細川ガラシャの稿で取り上げてらっしゃいます。なんでも、熊本テレビの取材のさいのこととして、地元のかたとして中江氏は、「シデの大木に巻き付いている大きな蔓を指さし『この蔓は、ガラシャが女城にいた時、自ら植えたと伝わっている藤の蔓です。春にはきれいな薄紫の藤の花がシデの木いっぱいに咲きます』というようなことを話した」とおっしゃっています。

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玉さんはなぜ藤を植えたのでしょうか?花を見るために、ではなく、藤の蔓の皮から糸を取り出すためではなかったのでしょうか。

細川護貞氏は、「我が家の正史綿考輯録を繙いてみてももっとも知りたいガラシャの動静は一番わかりにくかった。結婚の前後の事情と最期の様子とし実にはっきりしているが、そのほかはまったく知ることができないことにキリシタン関係のことは霧の彼方である。キリシタン大名の影響、侍女の介在などは「稗史野乗」(民間で編纂された雑史)と!

洞養寺には、味土野の行者さんの像も預かっておられます。

IMG_0097.jpgぎょうじゃさん

麻由来か藤由来か、真実をご存じなのは、このこの行者、えんのおづなさまかもしれませんね。

五十河から味土野へかけての尾根筋に巨樹があったはず、、、!

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思い立って訪ねてみると、大イタヤカエデが迎えてくれました。

苔の付き方が月日を物語っています。幹周り400cmはあるでしょうか、

植林禍を免れた一角に、山の王者のように根を張っていました。

迎えてくれたのは、もう一つ。頭上を影がはしりました、

?!

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(↑ネット引用画像)

クマタカです。たしかにこんな様子でした。

遠望する尾根は内山高山山塊。

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環境省カテゴリー絶滅危惧ⅠB類(EN) クマタカがこの森に棲んでいるというので、京都府の自然200。

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(↑ネット画像引用)

『比較的険しい山地に生息し、森林内の急斜面にある大きな樹木に営巣する。森の中に住む様々な中小型の動物を獲物として、森林内のけもの道や林縁で狩りを行う。主な餌はノウサギ、ヤマドリ、ヘビなどである。』(京都府レッドデータ)

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そのクマタカを頭上をかすめるようなところで見せてくれたのは、森林内の急斜面にある大きな樹木に営巣すると言うこの大イタヤカエデだと感謝しました。大きな鳥には大きな樹と大きな森が必要なことを、しっかりと確認出来ました。

 

 

丹後のツバキを見るなら、野間、青龍山洞養寺。

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整った樹形に一杯に付けるのは大ぶりの八重の花。

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「野間川の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」といった風情でしょうか!

※本歌「河の辺(へ)のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)巻一(五十六)」

「つらつら椿」たくさんの花または葉の連なった椿。「つらつらに」念入りに。
「偲はな」〈しのふ〉はここにないものを思い浮かべる。〈な〉は希望または勧誘。

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土地誉めは、土地土地の地霊や道の神々のご加護を得て旅の無事を祈るためには欠かせません。ツバキの背後には丹後の山。二つの三角形、ツバキが真似たのか山が真似たのか、見事です。山から里に下りてこられる春の神様の依り代として、咲き誇る洞養寺ツバキ、見逃せませんよ。

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その山の中の味土野の里も、春。

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城跡に咲くマメサクラやダンコウバイ、

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お玉さんも手にとったのでしょうか。

 

 

 

加悦町江山文庫でひらかれている企画展が、すてきですよ。

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字は「書く」もの、「打つ」ものと思っている私たちには、不思議な感じになることうけあいます。

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取り上げられている短歌や俳句は、それ自体厳選された作品で味わい深いのです。たとえば、

「たのしみは朝おきいでて 昨日まで無かりし花の咲ける見る時」橘曙覧の名歌です。

植田さんの手を経ると、色が見え、香りや音が蘇ってくるようなのです、言葉に籠もる魂を引き出していらっしゃると言うのでしょうか、字で「描いて」いらっしゃるといえばいいのでしょうか。

展覧会のタイトルは水茎春秋。「水茎」は知る人ぞ知るといった言葉。「みずくき」と読んで、筆、毛筆をさします。

□水茎(みずくき)の、岡の葛葉(くずは)を、吹きかへし、面(おも)知る子らが、見えぬころかも

〔語源〕「水茎」は、(1)「瑞茎(みずみずしい茎)」の意で、筆のたとえという。また、(2)古く手紙は梓(あずさ)の枝に玉をつけたものを持たせてやったことから、その使いを玉梓(たまずさ)の使いというが、その梓を「みずみずしい茎」としたことから手紙のことをいい、転じて、筆跡、また、筆の意になったものという。

□意味と用例(1)筆の跡。筆跡。「書道展で見た、かな文字の水茎の跡には、ただただうっとりといたしました」 (2)文字。また、手紙。「今は亡き祖母の水茎の跡を時折眺めては、優しかった人柄をしのんでおります」

この展覧会のほかの展示もおもしろいですよ。

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江山文庫、

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小さいけれど濃い中身の文学館です。ぜひ訪れてみてください。

 

 

 

 

 

 

加悦町作山古墳の埴輪の向こうに白い月。

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1500年、月の祭りが続いているのです。

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空は次第に青ずみ月は黄色みを増していく、、というのが月夜です。

しかし、、♪月がとっても「青い」から、、♪と作詞家の清水みのるさんは、描いてらっしゃいます。

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♪月がとっても 青いから遠廻りして 帰ろう♪

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青い月を見た、と。

月は黄色、青く見える月はあるとしたら、青色の光線がとどくからということ、それは、どんなときなのか、青く見えるのか、そんなことに関心を持って説明してくださる方を探してみたら、いかのものがありました。


月がとっても青いから1 – 亀田メディカルセンター|亀田総合病院 …

www.kameda.com/pr/teamspine/post

投稿日: 2017年9月19日 身体の反射の不思議学〜神経外科医の見た神経生理学〜

「月がとつても青いから、遠回りして帰ろう」かなり古いが菅原都々子のヒット曲である。この恋人達は寒さに凍えながら散歩したことだろう。月が季節によってその高さを変えることを御存知だろうか。月の高さと言ってもなかなか難しいが、いわゆる南中高度といって、最も南に来たときに地平線からどれくらいの仰角をとるかという多少難しい話になる。太陽は、御存知のように夏至の昼12時に最も高度が高い位置に有る。この太陽の高さが、日本の四季を彩るので、太陽の高さを理解するのは難しくない。ところが、月の高さは四季を作るわけでは無いので、その高度と言っても、ピンとこない。月は真冬に最も南中高度が高いそうである。つまり、真冬には、月の光は空気中を通過する距離が最も短く、したがって青く見える。菅原都々子の歌はじつは真冬の歌であった。」

わかるようで、なんだか難しい!!!

まあそれはおいておいて、こんな夜は、丹後の月の名所へ直行です。

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岩滝町、一字観公園です。

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月夜の天橋立は、神々の息づかいを聴けそうなほどですよ。

 

~ 『雪舟が来る!』~

IMG_1245 子どもたちでも  なんとなく かんじるものはあるでしょ しかし、ほんとのこといって むづかしいでしょ、身近な橋立を「世界レベルの遺産」というのを認識することは、、、、、 {この貴重な財産が、、、 人類普遍の遺産となるよう、、、 天橋立の世界文化遺産登録をめざします } そういう音頭をとっている大人でもわかっているとはいえないのが現実! IMG_9856 でも、わかってないと旗はふれないかというとそうでもない、 がんばれ 天橋立!

信仰の地として、、、崇拝を集めてきた天橋立、、、

いわんとするところはわかります。しかし、言葉足らずもええとこです、しっくりこんなあ ほんとのことをいうとらんなあ 深みがないなあという感じは否めません。 IMG_1091.jpgゆうやけ

歩きながらでも、 がんばろう天橋立!

そこで、シンボルの、雪舟さんの天橋立絵図、、、 img174

『日本三景の1つ、丹後天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。雪舟(1420−1506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、雄大に組立てる構図は雪舟の優れた画技の極点を示している。中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた雪舟の傑作である。』と

天橋立図(あまのはしだてず) | 京都国立博物館 | Kyoto National …www.kyohaku.go.jp

つまり水墨画としての完成された境地 画業の集大成! IMG_0677

しかし、雪舟は 天橋立を何のために描いたのか 誰が頼んだのか 頼まれたとしたら、誰が何のために頼んだのか、雪舟齢80歳。彼をして動かした物。彼に依頼しようとしたなにか。 その疑問に関わる説明は京都国立博物館の解説にも見えません。 磯田道史先生なら 「こころのせかいにわけいってみよう」!ではないですが、作品と現場と背景をしっかりみれば、浮き上がってくるかも。

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天橋立は雪舟の絶筆かもしれません。最期の仕事として天橋立を選んだ、特別な動機、理由は果たしてなにか、かんがえてみましょう。 まず、絵を描く その動機。これは願いを表現するためですよ、描く方の、描いてもらう方の両方の願いを表現するためです。 「雪舟が確立した日本独自の新しい水墨画は、日本美術のひとつの金字塔であり、絵を志した者がみな水墨画の最高峰として仰ぐほど多大な影響を与えました。」

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この橋立絵図は、下書きとされます。では、その後どういう展開を辿ったのかについてもそのままだったとも、本作が出来ていたともいいますが不明です。本作が仕上がっていた、という説では、徳川幕府が持っていたが、消失してしまったという話で、現存していません。

隠密説も言われます。しかし、彼ほどの人物がこそこそと領内をうろつけるはずがありません。

室町時代という状況と雪舟の生涯については、ネットで探せる範囲では、

『山口県立美術館:雪舟への旅 -The Trip to Sesshu-:
www.yma-web.jp/exhibition/special/…/asia06.html』が、詳しいようですが、そこでは、「国宝の「天橋立図」を描いたのがこの翌年の文亀元年以降との説があるが、反論もあっていまだ決着をみていない。あるいは丹後天橋立に赴き、その帰路に益田において客死したのではないかとも考えられている。」 と相当な決意の旅であったことだろうとのべておられます。

とはいうものの、京都国立博物館の開設同様、雪舟は 天橋立を何のために描いたのか 誰が頼んだのか 頼まれたとしたら、誰が何のために頼んだのか、雪舟齢80歳。彼をして動かした物。彼に依頼しようとしたなにか、については謎のまま。

こうなると、「自分」で想像、空想をたくましゅうして、「心の内に分け入って」みるしかありません!

『雪舟が来る!』、二つの可能性を考えました。 IMG_1195

その一つ目。丹後の守護一色氏が頼んだ! 相当の金子を要する、謝礼 お迎え送迎 お世話の人夫 安全快適な安全の保障 それが出来る物、丹後の守護しかいません。 繁栄 一族の繁栄 安心安全 豊作豊穣です 無病息災 かれが 相当の金子をはらっても、投資して得られる効果、得たかった物があった。 それはなにか、彼が置かれていた状況、ヒントはそこにあるでしょう。 「こころのせかいにわけいってみよう」!ですよ。 経済の発展 国人の台頭 下克上 戦乱 裏切り 成功と失敗のドラマが繰り返された。 こう語ります。 「     一色氏の分家である知多一色氏の出身で、実父である一色義遠は文明10年(1478年)まで尾張国知多郡の分郡守護であったが、室町幕府より解任されたために本家の領国である丹後国で郡代及び武将として活躍していた。 義有は本家である丹後の一色氏が従兄弟である一色義秀の自害をもって絶えたため、一門の有力者でもあった父の推挙により、その跡を継いで一色氏の当主となった[4]。しかし国内は守護代延永春信・石川直経を初めとする国人による内乱が相次ぎ、混乱を極めた。 永正2年(1505年)に丹後守護に補任されたが、翌永正3年(1506年)に幕府の管領である細川政元により解任、政元の命を受けて丹後に侵攻した細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長及び武田元信らと合戦を繰り広げた。義有は今熊野城に、延永春信は阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦城にそれぞれ籠り防戦する。翌永正4年(1507年)に戦いは継続され、府中(現在の宮津市)が戦火に遭うなどの被害があったが、丹後方は包囲に持ちこたえていた。 その最中に政元が4月に京都へ戻り、澄之と香西元長も5月に直経と和睦して京都へ引き上げ、6月に政元を暗殺する(永正の錯乱)事件が発生する。細川軍は義有と和睦を結び撤退を図ったが、直経がその隙を突いてこれを撃退、赤沢朝経らを討ち取り武田軍を打ち破った(追撃は直経の独断専行とされる)。永正5年(1508年)に義有は丹後守護に再任、永正7年(1510年)に将軍足利義尹(後の義稙)に太刀・馬を送り、永正8年(1511年)には上洛して義尹に軍忠に励んだが、永正9年(1512年)に病死、享年26。  」 つまり、家督相続の正当性の証明!として、自分の領地である天橋立を描き、神仏に守られた世界の領主であること主張するために依頼したと言う仮定。 こういう仮定に関しては、そうなら、所有権は一色家にあるのだから、一色家の家宝として伝わっていたはず。どうもそういう話は聞こえてこない。 水墨画のスーパースター、当代きっての画家、カメラマン おいそれと動くはずもありません。 尾形光琳も!? 雪舟はカリスマ絵師たちの憧れの的だったといいます。 金を払えばえられる 世の中にはそういう物も多いです。 人はそれではうごかないことも。 そんな彼を招くほどの力が、一色氏にあったのでしょうか。 きっかけにはなったのかもしれませんが地方の守護にあるとは考えられません! IMG_9395 二つめの仮定。 雪舟が橋立に赴き、橋立を描いたのは事実。彼を橋立に赴かせたのは誰か、なにか、。 よほどの義理、よほどの強力な指示、よほどの友情、よほどの信頼、よほどの敬愛、よほどの共鳴、よほどの共感があってのこと、それが出来るのは、、、!!! 大胆すぎるかとも思いますが、足利幕府第三代将軍、足利義満の存在を想定してみました。 かれは、室町文化を花開かせた将軍で、世界遺産群の金閣も銀閣も彼あってのこと。 義満の審美眼のエピソードがあります。

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、、、、、、、、、、、 春王が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、正平16年/康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房らに京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、春王はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後しばらくの間、春王は則祐により養育される[16]。翌年、幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津に泊まった際にその場所(明石・須磨あたり)の景色がよいことを気に入り、「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという[注釈 1]。 京都に帰還した春王は新しく管領となった斯波義将に養育され、正平19年/貞治3年(1364年)3月に7歳で初めて乗馬した。 正平20年/貞治4年(1365年)5月、春王は矢開の儀を行ない、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。(ウィクペディア) 、、、、、、、、、この春王が、義満です。 将軍義満は、天橋立を、六度訪れているということです。 カニを食べたかった、あり得ない、将軍なら届けさせるはず。 早馬で一日、届きます。 天橋立、そのものが目的だったとしたらどうでしょう! 「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」というほどの義満です。 同行者には庭師を加え、空と山と海と白砂青松を取り入れた庭を造るように命じ作らせたのが金閣寺かもしれません。 yjimage[8]

また、目に焼き付いた景勝、それを誰かに描かせたかったでしょう、日本一の景勝、中国にはないまろやかさをもった山と海と空、描かせるのは、日本一の画力持ち主でなければならない。 コピー (1) ~ すぎやま赤石山

しかし、義満の存命中には現れませんでした。そのため、後々のものに遺言として残したのです。 天橋立は覚悟を持つものにのみ描かせよ。最高のものにのみ描かせよ おのが名声のために描くものは斬れ!将軍家に伝わる遺言、ようやく託すことができる画家が現れたのです。それが、雪舟。 雪舟という人物はこう伝わります。 、、、、、、、、、、、、、、、、、 絵の才能を見出され京都に上り、相国寺で修行に励みます。しかし、当時流行っていた繊細な画風になじめず、34歳のころに山口へ移転。この選択が、雪舟の人生に大きな影響を与えました。 山口では、中国地方の有力守護大名である大内氏のもとで、絵に専念します。このころまで、「雪舟等楊」ではなく「拙宗等揚」と名のっていたといわれる雪舟ですが、山口で楚石梵琦(そせきぼんき)という元時代の中国の高僧が書いた「雪舟」という墨跡を手に入れ、これをきっかけに「拙宗」から「雪舟」へと改号しました。中国との交流が盛んだった山口だからこその出合い。京都から移転していなければ、「雪舟」という名前自体が生まれていなかったかもしれません。 水墨画の本場、中国へ渡る そんな山口での修行も14年が過ぎた48歳のころ。画僧として頭角を現し始めた雪舟に対し大内氏は、遣明船の一員として中国へ渡ることを命じます。かの地での仕事は記録画の作成でしたが、3年に渡った旅のなかで、当時の画家なら誰もが憧れた、中国の名勝を目にしました。ダイナミックな筆勢の山水画は、まさに自分の得意としていたスタイル。このとき雪舟は、日本画の型にはまらない自らの画風を追求しようと決心しました。 日本の水墨画を革新、最晩年まで筆を握る

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大きな自信を得て帰国した雪舟。大胆な山水画やリアルな花鳥画をのびのびと描くようになります。繊細で小さくまとまっていた日本の水墨画を革新し、ついに「雪舟等楊」としての画境にたどり着いたのです。( 日本美術 雪舟とは何者ゾ?水墨画のスーパースター、その人生と代表作を徹底解説) 、、、、、、、、、、、、、、、、、 将軍家からの丹後の守護一色氏に届けられた命令書。 「雪舟等楊に天橋立を描かせる。すべては、雪舟殿のすべての指示注文に従い、 ご老体ゆえ格別の配慮をいたすことくれぐれも申し伝える、 貴職におかれては、すべての便宜を取りはかられたし。」 一色氏の本陣府中が描かれなかったのは、単純なこと、構図上不自然不要の物だったからです。 、、、、、、、、、、 245_4562

真実を知るのは、雪舟さんのみ。

『雪舟が来る!』

歴史ヒストリアでこの謎、取り上げてもらえないでしょうか!

~鉄幹さんの歌の謎~

与謝野寛さん

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招かれて岩滝小学校でご講演なさってらっしゃいます。昭和五年5月のことです。

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(↑天橋立 日本三景 旅館 「対橋楼taikyourou.com/18yosano/index.html から引用)その丹後紀行の際、詠まれた歌のうち二首が碑に刻まれています。
一つは 大内峠に。

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たのしみは 大内峠に きはまりぬ まろき入江と ひとすぢの松

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もう一つは 天橋立に。

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「小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波」

この二つの歌の、 「まろき入江」と「与謝の細江」。「江」とは海や湖沼の陸地に入り込んでいる所。それぞれ使い分けていらっしゃいます。

「まろき入江」は、岩滝側の阿蘇海のこと、「与謝の細江」。とは、橋立の外海側、

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日本海に向かって北東方向に突き出ている  丹後半島の東側は、橋立部分から日置波見大島伊根までもともと与謝郡。そのため、与謝半島(よさはんとう)という別名があります。
それにしても

「小雨はれ 小雨はれ みどりとあけの みどりとあけの  虹ながる 虹ながる

与謝の細江の 与謝の細江の 朝のさざ波 朝のさざ波」

すらっとは読めるのですが、けっこう難解!

「みどりとあけの  虹ながる」

みどりとあけの虹!?

IMG_0816.jpgなみなみ

みどりとあけは緑と朱、としたら、そんな単純な虹はあるはずがない 虹は赤燈黄緑青藍紫、七色でしょ!

虹 ながる!?

ながる 古語であっても虹が「ながる」という用例はない。虹は架かるものなのです

「小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波」寛
時は朝 朝の虹 としたら 西の空に架かるはず。

しかし、与謝の細江の 朝のさざ波

これは 橋立の外海、与謝の海 東側 、としたいところです。。

海は空を写します。

ここに雲間から光が差したら、渚に打ち寄せる波は光るだろう、

細江、、、文字通り理解すれば、「細い川」。天橋立には、内海と外海を結ぶ川のような運河があります。

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人が息を吸ったり吐いたりするように、中に、外に、潮が流れます。

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「緑」は松の緑、海の碧、「朱」は曙の光、「ながる」は満ち干する潮の流れ。

その運河の渚に鉄幹さんは立っていらっしゃる、、、、、このあたりが鉄幹さんの歌の謎かもしれません。

IMG_0869.jpgみどり
つまり、実際の空に架かる虹を見たのではないと考えれば理解できるようです。

IMG_1448.jpgさざなみ

運河を川のように潮の流れるのを楽しみ、雲が晴れてさした光を受けた朝のさざ波が、緑に朱色にキラキラッと光るのをたのしんでいらっしゃる、空と海の一瞬の交流をとらえたところは、さすがに達人です。
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鉄幹さん、ロマン主義の歌人で、「1915年(大正4年)の第12回総選挙に故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが、落選した。大正8年(1919年)に慶應義塾大学文学部教授に就任、昭和7年(1932年)まで在任し、水上滝太郎、佐藤春夫、堀口大学、三木露風、小島政二郎らを育てた」ですから、なかなか野心のある方です。

IMG_1023.jpgたかふ

有名なのは、『人を恋ふる歌』

妻をめとらば才たけて
みめ美わしく情ある
友をえらばば書を読みて
六分の侠気四分の熱

恋の命をたずぬれば
名を惜むかな男ゆえ
友のなさけをたずぬれば
義のあるところ火をも踏む

汲めや美酒うたひめに
乙女の知らぬ意気地あり
簿記の筆とる若者に
まことの男君を見る

あゝわれコレッジの奇才なく
バイロンハイネの熱なきも
石を抱きて野にうたう
芭蕉のさびをよろこばず

人やわらわん業平が
小野の山ざと雪をわけ
夢かと泣きて歯がみせし
むかしを慕うむら心

、、、、、、、、、、、、

♪義のあるところ火をも踏む

♪石を抱きて野にうたう

、、おいおいだいじょうぶか、とおもうような開けっぴろげな文言ですが、若い人に人気があった歌と言うんです、

今の人たちにはどうなんでしょうか!

世界遺産の水準の詩というと、丹後旅に同行した奥さんの晶子さんの詩のほうがいいですね、

君死にたまふことなかれ
旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて

與 謝 野 晶 子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ

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平和、誰も願うことなのに 終末時計 あと2分!

世界から訪れるひとを受け入れる世界遺産には、世界的な詩碑が、ふさわしいと思いますけれども。

どんなお話を岩滝小学校で、なさったのでしょう。

ところでご夫妻が越えて行かれた大内峠、意味のわからない命名ですが、もとはおお落ち峠、

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山田断層による地震で隆起し続けている、断層崖に由来する地形語だってことをどなたか説明してあげたでしょうか!

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夫妻が越えて行かれたこの峠道に春の一番花!

西国三つ葉ツツジ。

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あれ、ウグイスかぐらも。

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「フクジュソウ」は、みんなフクジュソウなんやろうか!

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?!?

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そうですよね、全国に生育している固有種ではありますが、違った種類があるのです。

日本に自生するフクジュソウは、

エダウチフクジュソウ(Adonis ramosa)、
ミチノクフクジュソウ(Adonis multiflora)、
キタミフクジュソウ(Adonis amurensis)、
シコクフクジュソウ(Adonis shikokuensis)の4種。

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丹後に自生しているのは、そのうち、ミチノクフクジュソウと判断されています。

茎が中空で、萼が花弁の半分程度というところが特徴ということなので、そのあたりを観察してみてください。

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ゴボウのようなまっすぐで太い根を多数持っていて、日陰で湿り気のある安定した環境では毎年毎年花を付ける半端無い多年草なのです

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その長命さにあやかりたいと人は「福寿」と名をつけました。

なのに、

京都府カテゴリー 絶滅寸前種

近畿レッドデータブックカテゴリー 絶滅危惧種C

に挙げられているのは、フクジュソウも忸怩たる思いを持っているのでしょう。

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このフクジュソウ、野間と世屋の里山で見ることが出来ます。

ただし、訪問予定は晴れた日にたててくださいよ。

 

 

 

 

 

 

~成相寺を語る~

天橋立を一望する鼓ヶ岳(標高569m)の南東山腹の標高328m辺りに成相寺はあります。

jpssesh54[1].jpgなりあい

が、創建時は山のさらに上方に位置し、修験の道場となっていたといいます。

その跡地には、スギの巨樹。周径735cm。

21 逆スギ

室町時代中期には与謝・丹波の両郡にわたって合計60町もの寺領をそなえ、いくつもの子院を従えた有力な一山寺院であったと伝えます。しかし、1400年(応永7年)に大山崩れがあり、いまの所に移って再建されたと言うこと。

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さらに、丹後の大寺院だけに、応仁の乱(1467年~1478年)の抗争の戦場にもなり焼失したということ。それを再建したのが、丹後の守護一色氏。

雪舟が描いたのは、その再建された成相寺。とすれば、雪舟を招き、是非にと作画を依頼したのは、一色氏となるかも。

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しかし、そうして描かれたものの、寺は天文14年(1545年)焼損、その後、永禄年間(1558年~1570年)・慶長年間(1596年~1615年)の2度の再興によりようやく再建を果たしたとと言うことです。

この間に制作されたのが、京都府指定歴史資料の成相寺参詣曼荼羅

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画面は中央部の山地や雲霞によって大きく上下2つの部分に分かれ、上部には成相寺の信仰世界が描かれるという一般的な構図ですが、特に成相寺らしいのは、その天空の右に金箔の日輪、左に銀箔の月輪が配されているところ。実際に、若狭の海からの、日と月の出入りを見ることが出来るのです。

日の出 撮影日時 2014/09/21 6:02:46

コピー (1) ~ 海4

 

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一字観からの日の出 2004年1月。

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月の出

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日輪、月輪の東西の巡航を拝むことが出来るのはここだけ!

参詣へ誘う強力なアピールポイントがしっかり描かれていることがおもしろいです。

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こんな成相寺、704年(慶雲元年)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となり、時代を見ながら2007年(平成19年)、高野山真言宗から独立し、真言宗単立寺院として、今に至っているということです。

~タブは天橋立霊世界の守護木~

静謐な天橋立の冬。

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正面山頂の成相寺、その下、海岸の一宮籠神社 そして、手前の智恩寺、この三寺社で、神や仏が人生の安寧を守り、命の意味を説くことに寄与しているのがタブの木の巨樹。

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日本では東北地方から九州・沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種

ずば抜けている 存在感や迫力は気持ちを落ち着かせてくれます。

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■ 磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり 大伴家持

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さらに、大事なところですので守らなければならない、地震はともかく雷火事台風。風の強い海岸や山にたてるのですから防風樹、防火壁としても有効です、

また、寺社に欠かせない線香もこの木から採れるのです。

IMG_1037.jpgな

成相寺の五重塔側のタブは、胸高周径665cm。ここの標高約300m。丹後半島では限界標高に生育しています。
精神性と実利を備えている重宝な木です。

さらにお参りの絶えない智恩寺。

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文殊菩薩を祀る智恩寺のタブは、文樹と名付けられています。

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梢にヒノキを宿しているいることもこの木の奇跡です

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この智恩寺に重要文化財、多宝塔が建てられたのが、1500年、

雪舟が天橋立図を描いたのは1501年ごろ、

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文樹は、そんな様子を見ていたのかもと思わせる重厚感を漂わせています。

こうしてみると、天橋立霊世界の守護木は、タブの樹、といっていいようです。

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遠路六度訪れた時の将軍はこの角度からみて、玄妙なりとほめたと言います。

{天橋立に6度も通った室町幕府3代将軍、足利義満(在職:1368年 – 1395年)は天橋立をこう称したそうだ。「宇宙の玄妙」。この言葉には、景観を越えた一種禅的な深い精神性を含んでいる。その禅的な世界観で天橋立を描いたのが、禅僧にして画聖の雪舟だ。}

超激務の将軍職が遠路足を運んだのには、なにか意図があったと思うが、金閣寺を建てた文化人から、「宇宙の玄妙」と評されたことは、素直に喜んでおきたいことです。

なので、飛竜もいいですが、「玄妙観」もいいのではないでしょうか。

 

 

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